悪役令嬢の怠惰な溜め息

篠原皐月

(9)絵画展に向けて

 絵画展に対する秘密兵器クーレ・ユオンを得たエセリアは、自室に戻るなり猛然と絵を描き始めたが、予想外の所で躓いてしまった。


「これを使えば、嫌でも人目を引くとは言ったものの……。ある程度は絵心が無いと、やっぱり駄目みたいね……」
 暫くして描きかけの自分の絵を冷静に見下ろし、下手さ加減でも変に人目を引きそうだと、エセリアは軽く落ち込んだ。さて、どうしたものかと、彼女が真剣に悩み始めたその時、ドアをノックする音に続いて、聞き慣れた声が呼びかけてくる。


「エセリアお姉様、マリーリカです。入っても宜しいでしょうか?」
「ええ、大丈夫よ、マリーリカ。どうしたの?」
 慌ててドアに駆け寄り、内鍵を外しながら声をかけると、開けたドアの隙間から姿を見せたマリーリカが、若干自信なさげにエセリアに尋ねてきた。


「あの……、お姉様。今日の夕食は、ご一緒にする予定では無かったでしょうか?」
「……え?」
 かなり控え目に問いかけられ、エセリアは一瞬困惑してから、すぐに自分がその約束を忘れてしまっていた事実に気が付いた。
「あ、ああぁっ! ごめんなさい! すっかり忘れてしまっていて!」
 エセリアは顔色を変えて即座に謝ったが、それを見たマリーリカは、如何にも安堵したように微笑んだ。


「いえ、お姉様がお元気なら宜しいのです。待ち合わせの時間になってもお姿が見えないので、部屋で急に体調を崩されたのではないかと心配になって、様子を見に来たものですから」
「マリーリカ、本当にごめんなさいね」
(やっぱりマリーリカは良い子だわ。アーロン殿下がゲームの設定通り、気難しくて屈折しまくったヤンデレキャラじゃなくて良かった)
 従妹の性格の良さを再確認したエセリアが、心底安堵して顔を緩めた時、何気なく室内に目を向けたマリーリカが不思議そうに尋ねてきた。


「お姉様は、絵を描いていらしたのですか?」
「え? ……ええ。ちょっと珍しい画材が手に入ったので、試しに描いていたら時が経つのを忘れてしまって」
 背後を振り返りながらエセリアが答えると、彼女が興味津々の顔付きで続ける。


「あの色がついた棒で、描いているのですよね? あんな物は初めて見ました」
「少し描いてみる? 好きに使って良いわよ?」
「宜しいのですか? それなら少しお借りします」
 勧めてみると思った通りマリーリカが嬉しそうに頷いた為、エセリアは笑って彼女を部屋の奥に導いた。


「商品化する時はこの周りに薄い紙を巻いて、手を汚れにくくするつもりだけど、今はこの薄い手袋を填めて描いていたの。描くのはこの紙よ」
 エセリアが説明しながら差し出した手袋を手に填めながら、マリーリカはしげしげと机の上の物を見下ろした。


「この紙も初めてです……。少しザラザラしていますけど厚みがありますから、簡単に折れたりしわになったりしないのですね」
 そしてクーレ・ユオンを一本取り上げ、慎重にそれの上を滑らせてみたマリーリカは、驚きに目を見張った。
「凄い……、簡単に色が付くわ……。それにこれだと、筆を変えるのではなく、紙に接する面積を変える事で、線の太さを自由に変える事ができるのね……」
 そして彼女は線を引くだけではなく、クーレ・ユオンの紙に接する面を変えながら、その違いを確認する。


「それに……、薄く重ねる事で、違う色合いに見せる事もできるし、上から擦ったり削ったりすれば、また違う質感になるのではないかしら?」
「…………」
 他の場所で軽く擦ったり、色を変えて重ねてみたりと、思い付くまま夢中で試しているマリーリカを、エセリアは無言のまま見やった。


「それに、これは主な原料が何かの油? いえ、蝋? 顔料の他に色々混ぜてあるようだけど、そうなると」
「マリーリカ、お願いがあるのだけど」
「はい、お姉様。何でしょうか?」
 突然声をかけられた為、自問自答していたマリーリカが顔を上げると、エセリアが真剣な面持ちで頼んできた。
「これを使って、絵を描いて貰えないかしら。それで、描き上げたそれを、絵画展に出品して欲しいの」
 それを聞いたマリーリカは、不思議そうに尋ね返した。


「『絵画展』? そんな催し物がございましたか?」
「今までは無かったのだけど、これから新たに企画される可能性があるの……」
 エセリアがそう口にした途端、マリーリカの眉が僅かに上がった。


「まさかまた、グラディクト殿下が発案されるのですか? あのアリステアと言う生徒は、ピアノと同様、実際の技量はどうあれ、絵にも自信がおありですの?」
「さあ……、それは分からないけど……。殿下の側仕えの方に絵が得意な方がいらっしゃるみたいだから、指導を仰ぐ事はあるかもしれないわね」
 それを聞いたマリーリカは、いつもの彼女らしくない侮蔑的な表情を見せながら、シレイアが語った内容と同じ事を口にした。


「『ご指導』ですか? 代作などでは無く?」
「あの、マリーリカ? 私は別に、絵の腕前の優劣を競うつもりは無いの。でもせっかくだからこの機会に、新しい画材のこれを、少しでも多くの人にアピールできればと思ったのだけど……。どうやら私には、絵の才能がそれほど無かったらしくて。それで」
 徐々に不穏な気配を醸し出し始めた彼女を、エセリアは宥めようとしたが、全てを言い終えるまでにマリーリカが力強く宣言した。


「お任せ下さい、お姉様! お姉様の名誉は、私が守ります! あの生徒が恥知らずにも、誰の手による作品を出品しようとも霞んでしまう作品を、必ず生み出してみせますわ! こちらの画材と紙を使わせて頂いても、宜しいでしょうか?」
「え、ええ……。構わないわ。気に入ったのなら、全部貰って頂戴。不足するならワーレス商会のミランに頼めば、すぐに取り寄せて貰えるから」
「分かりました。取り敢えず食事にいたしましょう。食べながらどんな絵を描けば効果的か、作戦を練りませんと」
「作戦って……、あの、マリーリカ?」
「さあ、急いで食堂に参りましょう!」
 そして戦闘意欲満々のマリーリカに引きずられるようにして、エセリアは夕食を取るために食堂へと向かった。




 それから少しして、絵画展の開催が公表された日。
 放課後に側付きの一人を呼び出したグラディクトは、彼に向かって仰々しく言い出した。


「エドガー。今度、絵画展を開催する事になったのは知っているな?」
「はい。美術担当の教授から、お話がありました。私が授業中に描いたこれまでの絵の中からも出品する予定ですが、それがどうかしましたか?」
「それにアリステアも出品する予定だ」
 それを聞いた途端、エドガーは無表情になりながらも、傍目には平然と言葉を返した。


「……そうですか。ですが彼女は今年入学したばかりで、授業で描いた作品も少ないでしょう。入学前、家にいる間に描いていた作品があるのですか?」
「いや、彼女はここに入学するまで、絵など描いた事は無い」
「……はい?」
 さらりと信じられない事を言われて、エドガーは自分の耳を疑ったが、グラディクトは何でもない事のように話を続けた。


「だから、あと一ヶ月の間に彼女に絵の描き方を指導して、鑑賞に耐えうる作品を仕上げるようにしろ。明日から毎日放課後に、美術室を使う許可は教授から取り付けている。分かったな」
 言うだけ言って、踵を返して歩き出した彼を、エドガーは慌てて呼び止めた。


「殿下、お待ち下さい!」
「何だ?」
「話を聞く限りでは、その女生徒は絵に関しては初心者ですよね? それなのに一ヶ月で鑑賞に耐えうる絵を描かせるなど、無理に決まっています!」
 エドガーにしてみれば当然の訴えだったのだが、振り返ったグラディクトは不快そうに顔を歪めた。


「お前は、王太子の側付きではないのか? それ位の事ができなくてどうする」
「それ位と、簡単に仰いますが!」
「簡単な事だろう? 普段自分の画才を誇っているくせに、つまらない文句を言うな」
 一方的に話を終わらせ、気分を害したようにグラディクトが立ち去ったが、唖然としたままその場に取り残されたエドガーは、彼の姿が完全に見えなくなってから、盛大に床を蹴りつけつつ悪態を吐いた。


「『簡単な事』だと? それなら自分でやれよ! 大体、仮にも貴族なら、上手下手は別として、子供の頃のうちに一度は絵を描いた事がある筈なのに、どうして入学する年まで描いた事が無いんだよ? そんな平民並みの素人に、どんな絵を描かせろって言うんだ!」
 アリステアの境遇であれば無理も無かったが、エドガーはそんな事は知らない上、普通では考えられない無茶ぶりをされて、本気でグラディクトに対する怒りをたぎらせる事となった。



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