悪役令嬢の怠惰な溜め息

篠原皐月

(16)変化と停滞

 剣術大会の準備運営が軌道に乗り出してから、クレランス学園内では、はっきりとした変化が現れていた。


「本当にイリアの刺繍の腕は凄いわね。私、あんなに早くは刺せないわ」
 休み時間に、教室の片隅に集まっていた女生徒達の会話にエセリアが耳を傾けると、それは予想通り相当打ち解けた内容だった。


「いえ、私は実用的な縫い物で慣れているだけで……。ノーチェ様のような繊細な刺繍は、とても無理です。ラグレー刺しの手法などは、昨日初めて教えて頂きましたし」
「それでも、すぐに覚えてしまったじゃない。やっぱり筋が良いのよね。羨ましいわ」
 最初は二人の会話だったのだが、それを聞きつけた周囲が、次々に会話に加わってくる。


「それから記章の素材として、ワーレス商会から提供された物が一級品ばかりで、本当に驚きましたわ」
「それは私も同感です。手にした事の無い上質な物で、体験した事のない触り心地で、針を刺す手が震えましたもの」
「さすがは王都でも一・二を争う、羽振りの良い商会ね」
「ええ、実家の者にも本当に良い物を買う時は、ワーレス商会が良いと手紙で伝えましたわ」
 そんな風に、彼女達が如何にも楽しげに笑い合っている一方で、他の一角では男子生徒達が苦笑しながら、しみじみと語り合っていた。


「しかしあんな風に、釘を打つのが難しいなんて知らなかったな」
「でもカルーダは、一度も指を打ったりしなかっただろう? 大抵の人間は、一度はやるものなのに」
「それは予め、ジュールが声をかけてくれたおかげだよ」
「だって貴族の若様に、怪我でもさせたら大変じゃないか」
「いや、どうせ俺は三男だし、怪我なんかしたって親も騒がないさ。目立った才能も無いし、何の係にしようか迷ったけど、皆が助けてくれて助かったよ」
「誰だって何かをする時に、初めての時はあるだろう?」
「そうだな。これからも宜しく頼むよ」
 そんな和やかな雰囲気の会話を聞いて、エセリアは無意識に表情を緩めた。


(クラス内の雰囲気が、各係ごとに活動を始めてから、はっきりと目に見えて変わってきたのよね。……まあ、相変わらずの人もいるけれど、私的にはその方が良いのよね)
 そして相変わらず取り巻きに囲まれ、孤高を保つ事が自分の権威を高めるとでも思っているらしいグラディクトを、エセリアは密かに呆れ気味に見やった。
 そのグラディクトは日々ストレスを溜め込んで、休日に王宮へと戻ったが、出迎えた母親に更に神経を逆撫でされる事となった。


「グラディクト、お帰りなさい。剣術大会の準備は進んでいるのかしら?」
 顔を合わせるなり、ディオーネに愛想良くそんな事を尋ねられたグラディクトの顔が、盛大に歪んだ。


「……どうして母上が、その事をご存知なのですか?」
「エセリア様から、『今度の剣術大会には、是非来賓としてご臨席下さい』との丁重な招待状を頂いたのよ。『グラディクト殿下が名誉会長として、開会と閉会の宣言、及び優勝者の表彰を致しますので、その晴れがましいお姿をご覧下さい』と仰って頂いて。本当にエセリア様は、他人の心の機微が分かる方ね」
 心底感心したようにエセリアを褒め称える母親に、彼は思わず不機嫌そうに言い返した。


「……あれのどこがです?」
「まあ、グラディクト。どうしてそんな事を言うの?」
 てっきり賛同すると思っていた息子が、面白く無さそうに否定した為、ディオーネは驚いて問い返した。それでグラディクトが、自分の思うところを真剣に訴える。
「あいつは貴族と平民を、同一視しているんですよ? 剣術大会などの係も、身分など構わずに割り振って、最近平民が増長して馴れ馴れしい口調で周囲に話しかけていて、我慢できません!」
 それを聞いた彼女は、不思議そうに首を傾げた。


「あら……。あなたに対しても、平民がそんな口調で物を言うの?」
「いえ、さすがに他の貴族の子弟達に対してだけですが……」
「そうでしょう? エセリア様も『王太子たるグラディクト様と、他の貴族の生徒達とはきちんと一線を画し、煩わしい事前の準備などは、その方達にさせていますので』と書いておられましたし。そこで普通の貴族が平民と馴れ合おうが、構わないではありませんか。何をムキになっているの?」
 そこでおかしそうにディオーネが笑った為、グラディクトはなおも食い下がった。


「ですが剣術大会など、通常の行事ではない物の為に、騎士科の者達が稽古などで、煩わしい思いをしているんです!」
「それも、エセリア様からの手紙に『騎士団幹部の方々やディオーネ様の御前で無様な姿を晒せないと、騎士科の皆様は日々自主練習に励んでおられますので、ご期待下さい』と書かれてあったわ。熱心な事で、感心ですこと。さぞかし素晴らしい試合を、見せてくれるのでしょうね」
「いえ、そういう事では無くてですね」 なおも言い募ろうとしたグラディクトだったが、手紙の中で自分を重要人物扱いしてくれたエセリアに対する好感度が急上昇していたディオーネは、殆ど息子の話を聞いていなかった。


「ふふっ、公式の場に呼ばれるのは王妃様だから、側妃の私が招待される機会なんてそうそう無いもの。楽しみだわ」
「それはそうですが、何事も」
「ああ、グラディクト。剣術大会を華々しく盛り上げる為の挨拶を、しっかり考えて頂戴ね? あなたの晴れ姿が、今から楽しみだわ」
「……っ!」
 国王からの寄付を取り消すように、さり気なく母から働きかけて貰えれば、剣術大会の開催そのものを撤回させる事も可能だと、浅はかな考えを持っていたグラディクトだったが、母親の浮かれっぷりを目の当たりにして、それを完全に諦めた。


(あの女……、王妃だけでは無く、母上まで丸め込んで……。いい気になるなよ?)
 そして彼は不平不満を更に溜め込んで、学園寮へと戻る事になった。





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