その華の名は

篠原皐月

第6章 広がる困惑:(1)トラブルの予兆

 近衛騎士団勤務が二年目に突入し、仕事にも完全に慣れた頃。休暇に合わせてガロア侯爵邸に戻ったカテリーナは、玄関ホールで出迎えてくれた母が小さな姪を従えているのを見て、笑顔を深めた。 
「お母様、戻りました」
「カテリーナ、お帰りなさい」
「リーナ!」
 嬉しそうに一声叫んでから、もう一歳半を過ぎて足取りに不安が無いどころか、駆け寄って両腕で自分の脚にしがみついてきた姪に、カテリーナは優しく声をかけた。


「ミリアーナ、出迎えてくれたの? ありがとう、嬉しいわ」
「あしょぶ~」
「ええ、一緒に遊びましょうね」
(やっぱりミリアーナは可愛いわ。この前ティナレアに話したら『叔母の欲目っぽいわね』とか何とか呆れ気味に言われたけど、本当に可愛いんだから仕方がないじゃない)
 カテリーナが屈んで彼女を抱き上げながら叔母馬鹿的な事を考えていると、いつもならミリアーナ以上に自分の帰宅を手ぐすね引いて待っている二人がこの場に居ない事に、遅ればせながら気がついた。


「お母様。ジェスラン兄様とエリーゼお義姉様は、お出掛け中ですか?」
 するとイーリスが、僅かに顔をしかめながら答える。
「二人は、アイリーンと一緒に部屋に居るわ」
「そうですか? それならまず、帰宅の挨拶をしてきます。ミリアーナ、ちょっとだけ待っていてね?」
「うん!」
 不思議に思いながらミリアーナを床に下ろして断りを入れていると、そんなカテリーナにイーリスが背後から声をかけてくる。


「カテリーナ。二人とも、特にエリーゼの機嫌が悪いから、そのつもりでね」
「……最近、何かありましたか?」
 何やら面倒事の気配を察したカテリーナが慎重に尋ねると、イーリスが困惑顔で話し出す。


「昨日、ダトラール侯爵夫妻がアイリーンの顔を見にいらしてね。立派な出産祝いを頂いたのだけれど……」
「え? 昨日、ですか? アイリーンが生まれてもうふた月は経過しているのに、少々遅いのでは……。何かそれほど、ご多忙な事情がおありだったのでしょうか?」
 疑問に思ったものの義姉の両親を一方的に非難できず、カテリーナは控え目に確認を入れてみたが、イーリスは益々難しい顔になりながら首を振った。


「特にそういうお話は聞いていないし、ちゃんと生まれた直後にお知らせしたのだけどね……。昨日ダトラール侯爵夫妻がお帰りになってからジェスラン達の機嫌が悪くて、本当に困ったものだわ。ご夫妻が訪問のついでに、明日のお茶会であなたに引き合わせる予定だったクシュガー伯爵家のダルテス殿に、他家との縁談が持ち上がったと伝えたのが原因でしょうけど」
 溜め息交じりにイーリスが説明すると、カテリーナは半ば感心し半ば呆れた。


(それは助かったけれど、ナジェークは相変わらずどういう裏工作をしているのかしら? 一度問い詰めてみたいけど……、無理ね。あの彼が、あっさり白状する筈がないわ)
 しかしカテリーナはそんな事は微塵も面には出さず、少々残念そうな表情を装いながら歩き出す。


「あら……、そうだったのですか。ダルテス様とは、ご縁が無かったのですね。事情は分かりました。とにかく二人に挨拶だけしてきます」
「行ってらっしゃい。ミリアーナは少しだけ、私と待っていましょうね」
「うん!」
「ミリアーナは良い子ね」
(さて、気が重いけど、義理を果たしに行ってきますか)
 そして祖母に頭を撫でられて嬉しそうにしているミリアーナから前方に視線を移したカテリーナは、憂鬱な表情で足を進めた。


「失礼します、カテリーナです。今、戻りました」
「カテリーナ様、どうぞお入りください」
「ありがとう」
 二階へ上がって兄夫婦の私室をノックすると、エリーゼ付きのメイドが内側からドアを開け、カテリーナはそのまま奥に進んだ。すると室内のソファーには向かい合って兄夫婦が座っており、イーリスから聞いた通り不機嫌な顔を向けてくる。


「……戻ったか。お前は相変わらず気楽そうで良いな」
 挨拶もそこそこに投げ掛けられた兄の軽い嫌みを、カテリーナは(一々相手にしていられないわ)とばかりにあっさり聞き流した。
「ジェスラン兄様、エリーゼお義姉様、ただいま戻りました」
「ええ。お帰りなさい」
「下で聞きましたが、昨日はダトラール侯爵がアイリーンの出産祝いをお持ちくださったとか。お義姉様も久し振りにご両親に会えて、さぞかし」
 そこで楽しく過ごされたのではと続けようとしたカテリーナの台詞を、エリーゼの金切り声が遮る。


「五月蝿いわよ!! ここに誰が来ようと、あんたには関係ないでしょう!?」
「え? きゃっ!」
 いきなり憤怒の形相のエリーゼからソファーに置いてあったクッションを投げ付けられたカテリーナは、咄嗟に腕で顔を庇い、全くダメージなど与える事無くクッションが床に落ちた。義姉が激昂した理由が全く分からなかったカテリーナは唖然としたが、ジェスランが慌てて小さなテーブルを回り込んでエリーゼを押さえにかかり、メイド達も口々に彼女を宥めにかかる。


「エリーゼ、ちょっと落ち着け!」
「エリーゼ様! カテリーナ様はご挨拶をしただけですわ!」
「冗談じゃないわ! 私は役立たずだとでも言うの!?」
「カテリーナ、お前も余計な事は言うな!」
「はい? 余計な事とは……」
「いいから! さっさとここから出ていけ!」
「カテリーナ様、申し訳ございません! お引き取りを!」
「……はい、失礼します」
 何やら意味不明な事を喚き散らす義姉と、叱りつけてくる兄の剣幕に押され、カテリーナはおとなしく引き下がった。しかし廊下に出た途端、隣室に繋がるドアから微かに泣き声が伝わってきていた事を思い返す。


「一体、何なのかしら? あ、アイリーンの顔を見るのを忘れていたわ。そう言えば泣いていたような……。大丈夫かしら?」
 もう一人の姪の事が気になったものの、再度部屋に入ろうとする気持ちは起きなかった彼女は、浮かない顔つきで下の階へと戻って行った。



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