酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(129)大いなる誤解

「それではお入りください」
 衣装を変えて再び会場内に戻った沙織と友之は、スタッフに促されて解放されたドアから足を踏み出した途端、揃って違和感に襲われた。

(会場内の雰囲気が、微妙におかしくないか? 満面の笑みの人と沈鬱な表情になっている人と、大きく二分されているような気が……。どういう事だ?)
(お母さんの表情が、ここを出る前より険悪になっているんだけど! 私達が中座している間に、一体何があったのよ!?)
 どうにも統一感のない招待客の表情に友之は首を傾げ、佳代子の顔つきが最悪レベルになりつつあるのを目の当たりにした沙織は、内心で戦慄する。しかしそれらを面には出さずに二人は会場内を進み、元のように着席した。

「それでは新郎新婦が戻られましたので、お二人の同僚の皆様を代表して、杉田様から祝福の言葉をいただきたいと思います。杉田様、宜しくお願いいたします」
 司会に促され、杉野が席を立って前方に移動してくる。そしてマイクの前に立ち、手にした用紙を広げて徐に語り出した。

「ただいまご紹介いただきました、松原工業営業部二課係長の杉野雄二です。松原課長、関本さん。この度はまことに……、おめで、とぅ、うぅぅっ、ふうぅぅっ!」
「杉野さん!?」
「どうかしたんですか!?」
 軽く一礼して順調に話し出したかと思ったら、杉野はいきなり声を詰まらせ、立ったままむせび泣き始めた。すぐ近くに控えている司会は勿論、沙織達も驚いて思わず腰を浮かせたが、ここで佐々木が素早く駆け寄ってくる。

「大丈夫です。ここは俺に任せてください」
「え? あ、佐々木?」
「杉野さんは大丈夫なの?」
「はい。係長は、ちょっと色々考えてしまっただけですから」
 冷静に声をかけられ、沙織達は取り敢えず元通り腰を下ろした。そして佐々木は杉野に声をかけつつ、彼から挨拶の原稿を受け取る。

「係長、挨拶文はこれですね? あとは俺に任せて、席に戻って休んでいてください」
「……頼む。すまない、佐々木」
 ハンカチで目元を押さえながら、杉野はゆっくりとした足取りで席に戻った。それを見送ってから、佐々木がマイクスタンドの前で一礼し、預かった原稿を読み上げ始める。

「皆様。課長の杉野は少々感極まってしまったため、僭越ながら同じ営業二課所属の私、佐々木が代読させていただきます。ご了承ください。……松原課長、関本さん。この度は誠に、おめでとうございます。二人と共に仕事をするようになって、早幾年。仕事上で良き同僚であった二人が、人生におけるパートナーとなるのを目の当たりにして、感無量であります」
 落ち着き払った声音での代読に不安な所はなく、沙織と友之はひとまず安堵した。そして、先程の杉野の様子について囁き合う。

「杉野さんはどうしたんだろうな」
「さあ……。披露宴の最初の方は全く普通だったし、私達の披露宴で、そんなに感極まる要素もないと思うけど……」
「そうだよな……。しかし佐々木がすぐにフォローしてくれて良かった。急な事なのに堂々としているし」
「本当に。もう間違っても新人なんて言えないわ。配属されたばかりで右も左も分かっていなかった、あの頃が懐かしい」
「あの頃と比べると、本当に頼もしくなったよな……。沙織の指導の賜物だ」
「こんな所でおだてても、何も出ないわよ?」
 そんな軽口も叩ける程度には余裕を取り戻したところで、沙織の隣に座っている田宮夫人が囁いてきた。

「沙織さん、ちょっと良いかしら」
「あ、はい、奥様。どうかされましたか?」
 披露宴が始まってから無言のまま笑顔を絶やさなかった彼女から声をかけられ、沙織は何事だろうと不思議に思いながら振り返った。すると彼女は、瞳を輝かせながら述べる。

「あのね? 私、さっきの係長さんと同様に、すっかり感動してしまったわ。今どきの人は、やっぱり違うわね」
「え? あの、何が違うのでしょうか」
「営業の第一線で働いている方は、さすがに他とは一線を画しているのね」
「いえ、ですから、一体何の事でしょうか?」
 少々イラっとしながら沙織が問いを重ねると、田宮夫人は満面の笑みのまま予想外の言葉を口にした。

「勿論、《プリンセス・レジェンド》の事に決まっているわよ。沙織さん、ダンスとかバレエとか習っていらしたの?」
「はいぃ!?」
(ちょっと待って!? まさか私達が中座している間に、《《あれ》》が流されたわけ!?)
(会場の雰囲気が、微妙に分断されている理由が分かった。あまり分かりたくはなかったが……)
 驚愕のあまり声を張り上げかけた沙織は、慌てて自らの口を手で塞いだ。沙織を挟んでそれを聞いた友之も、先程からの違和感の理由に見当がつき、がっくりと項垂れる。

「あの……、奥様。私達が中座している間に、《プリンセス・レジェンド》が上映されたのですよね?」
 沙織が一応確認を入れてみると、田宮夫人は笑顔のまま素直に頷いた。

「ええ。皆様、大盛り上がりだったわよ? 本当に凄かったわ。私が若い頃なんて、間違ってもあんなVTRは作れなかったもの」
「……今でも、ああいうのを作ろうとする酔狂な人は、ごく少数だと思います」
「沙織さん? 今、何か言ったかしら?」
「いえ、なんでもありません」
 沙織は思わず愚痴っぽく呟き、その内容を問われても曖昧に笑って誤魔化した。するとここで田宮夫人が笑いを消し、真顔で言い聞かせてくる。

「やっぱりね、何事も最初が肝心だと思うのよ。でも最初からガツンとこれくらいやってのける沙織さんだったら、夫婦間の主導権争いなんて全く問題ないわね」
「いえ、主導権争いも何も、あれは私が主導したわけでは」
「頑張ってね、沙織さん。応援しているわ。これからの松原工業を支えていくのは、間違いなく沙織さんのような輝いている女性社員ですもの。真由美さんがあなたをべた褒めしていた理由が、凄く納得できたわ」
「ありがとう、ございます……」
(奥様の中では、あれは私の趣味ってことになっているわけよね……。というか、会場中のかなりの人数が、そう思い込んでいる可能性が大っぽいわ。面倒くさいから、一々否定する気もないけど)
 色々面倒くさくなってしまった沙織は、この場で弁解するのを完全に諦め、言われるまま素直に頷いておいた。 
 そんな会話を友之は冷や汗を流しながら聞いていたが、ここで田宮が静かに声をかけてくる。

「友之君……」
「あ、はい。田宮さん。この度は、色々な意味でお目汚しなものをお見せして、誠に申し訳なく」
「いや、もう何も言わなくて良い。言わなくても分かっている」
「え? あの、それはどういう意味でしょうか?」
 自分の台詞を遮ってきた田宮に、友之は怪訝な顔で問い返した。すると田宮が、強張った顔つきのまま告げてくる。

「関本家側から、『あの方々に楽しんでいただけるよう、何か笑える余興を準備して欲しい』と無茶振りされたのだろう? それで主役の君が、あそこまで身体を張るとは……。立派だ、友之君。君は真に、これからの松原工業を背負って立つ男だ」
「……田宮さん、それは少々考え」
「安心したまえ。例のお二人は、あれをご覧になって爆笑しておられた。最後は満面の笑みで盛大に拍手されていたのが、私にもはっきりと確認できた。恥も外聞もかなぐり捨てて挑んだ君の努力は、正当に報われたんだよ。君の奮闘ぶりを見ていて、私は思わず涙が零れた」
「その……、ありがとうございます……」
 夫人同様、自分の思いを切々と訴えてくる田宮に、友之はなんとなく反論を封じられてしまった。

「いや。礼を言わなければいけないのは、私達の方だ。君の捨て身の努力を目の当たりにして、事情を知っている者は全員、涙を禁じえなかっただろう。君は間違いなく人の上に立てる力量と、気構えを持つ男だ。君が松原工業を引き継いで、背負って立つその日まで、私はその土台を揺るがせずに繁栄させていく事を誓う。これからも、今まで以上に頑張ってくれたまえ」
「精進いたします。今後とも、宜しくお願いします……」
(年配者の来賓の方々が微妙に俺から視線を逸らしたり、涙ぐんで目にハンカチを当てているように見受けられるのはそのせいか……。誤解だが、まさか母さんの趣味でごり押しされたとは言えない雰囲気だ……。しかし沙織の趣味と思い込んでいる人達も、一定数存在するみたいだが……)
 会場内の年配者達に変な誤解をされているのが判明した上、隣に座る沙織の笑顔が微妙に引き攣っているのを認めた友之は、頭痛を覚えた。そうこうしているうちに、佐々木が代読を終える。

「……以上で、お二人への祝福の言葉といたします。今後とも宜しくお願いいたします」
「佐々木様、ありがとうございました。続きまして新郎の大学時代からのご友人である高垣様から、お言葉をいただきます」
 拍手と共に佐々木が一礼して席へと戻り、司会が何事もなかったかのように、滞りなく披露宴を進行していく。

「その……、沙織?」
 友人が述べる祝いの言葉を聞き流しながら、友之は恐る恐る沙織に声をかけた。すると押し殺した、低い声が返ってくる。

「もう、済んでしまった事は良いけど……。由良、絶対後で一言文句を言わないと気が済まない……」
「その……、すまないな。絶対母さんが、裏で糸を引いている筈だし……」
「謝るくらいなら、母が最期まで暴発しないように祈っていて」
「…………」
 チラリと関本家の親族席を見やった友之は、完全に姑の怒りを買ってしまったのを再認識し、新郎らしくなく再び無言で項垂れたのだった。




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