酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(120)沙織の密かな憂鬱

 思いがけず披露宴での不安要素が増しても、日常生活に変わりがある筈はなく、沙織は毎日仕事に明け暮れていた。

「先輩。M35のファイルに入れてありますので、御剣製作所に提出するデータのチェックをお願いします」
「了解。すぐに確認するから……、っと、ちょっと待って」
 佐々木からの声がけに、沙織は即座に頷いて該当するデータを開こうとした。しかしここでジャケットのポケットに入れておいたスマホが、嫌がらせのように震えて自分の存在をアピールしてくる。それで沙織は、佐々木に断りを入れてからそれを取り出し、連絡事項にざっと目を通した。

「はぁあ……、本当に全く、次から次へと……」
 愚痴っぽく呟いたのは一瞬だけで、沙織は素早く指を滑らせて必要な対応を終わらせる。そしてPCのディスプレイに向き直り、真剣な眼差しでチェックを入れ始めた。対する佐々木は邪魔をしては悪いと思いつつ、沙織が半分くらい見終わったところで、控え目に話しかけてみる。

「先輩。なんだか最近、忙しそうですね。仕事が忙しいのは勿論ですが、披露宴の準備が結構大変なんですか? この前も、会場のホテルの担当者から電話が入っていたみたいですし」
「そうなのよ。今のも、そっち系の連絡。煩わしくてごめんなさいね」
 視線はデータに合わせたまま、沙織が淡々と答える。佐々木はそれに気分を害したりはせず、寧ろ同情する顔つきで言葉を継いだ。

「仕事に支障を来していないですし、先輩が謝ることはありませんよ。でもさすがに大企業の社長令息の結婚披露宴ともなると、やっぱり色々と大変なんですね。本番前に疲れを溜めないように、気をつけてください。仕事で俺ができる事であれば、どんどん任せて貰って構いませんから」
「ありがとう。本当に切羽詰まってきたら、お願いするかも。その時はよろしくね?」
「はい、お任せください!」
(松原工業関係で面倒が生じているのではなくて、私の実家関係で友之さんやお義父さんまで巻き込んで、きりきり舞いをしているんだけどね)
  満面の笑みで頷いた佐々木に、沙織は曖昧に笑ってみせた。すると佐々木が上機嫌に話を続ける。

「先輩の披露宴、凄く楽しみにしているんです。先輩のお父さんであるCSCの社長さんには例の愛人疑惑騒動の時にお会いしていますけど、CSCの役員をしているお兄さんと、弁護士のお母さんと弟さんも出席されるじゃないですか。きっと先輩と同じで、三人ともクールで格好いい人ばかりなんですよね?」
 その期待に満ちた口調に、沙織は一瞬手の動きを止めた。そして微妙に釈然としないところがあるものの、パソコンの画面を眺めながら彼の言葉を肯定する。

「クール……。まあ……、確かに客観的に見れば、三人ともヘラヘラしているタイプではないのは確かね」
「そうですよね? 凄く残念です。お兄さんが既婚者でなかったら、先輩に姉ちゃんを紹介して貰いたかった……。先輩のお兄さんだったら、間違いなくクールで有能で誠実で文句なしのイケメンだったのに」
 心底悔しそうにそんな事を告げられたため、沙織は反射的に佐々木に視線を向けた。

「佐々木君……。まだお姉さんの結婚相手に、色々と思う所があるようね」
「これくらいの愚痴、言わせてくださいよ。先輩にしか言いませんから」
「はいはい。ところ構わず愚痴を垂れ流して、周囲の業務妨害をしていないことは褒めてあげるわ」
(夏休みに帰省した時、なんとか挨拶はできたみたいだけど。未だにこんな事を口にしているなんて、佐々木君のお姉さんが心配するのも無理はないわね)
 これ以上、彼に何を言っても無駄だと察した沙織は、データチェックに集中した。そして2、3分してから佐々木に指示を出す。

「はい、チェック終了。マーカーを引いておいた三箇所、訂正と不足しているデータを入れて再提出。一時間以内ね」
「それではTMB精機の契約書も、その時に一緒に提出します」
「そうして頂戴。14時から外回りに出るわよ」
「了解しました」
(普通だったら結婚披露宴のイメージって、当日が近づくにつれて、特に新婦側ではウキウキワクワク感が高まっていくものではないのかしら? 私の場合、世間一般の範疇からはかなりずれているとの自覚はあるけど、不安感しか増大しないのは勘弁してほしい。本当に無事に終わるのかしら……)
 テキパキと段取りを進めながらも、沙織はどうにも理不尽な思いを抱えつつ目の前の仕事に没頭していった。


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