酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(82)制裁的茶番

「……おはようございます」
「おはよう、沙織さん。すぐにご飯を出すわね」
 松原工業社内で、沙織の愛人疑惑が勃発した二日後の朝。沙織のテンションは、誰が見ても低かった。


「お義父さんも友之さんも、今日は随分早いですね」
「今日は午前中に外出する用があってね」
「ちょっと決済書類が溜まっているからな」
「そうですか……」
 何故かいつもは自分より遅く食堂に来る二人が、揃って席に着いていた事に沙織が言及すると、彼らは微妙に弁解じみた台詞を口にして、沙織の様子を窺う。そこで沙織の分の朝食を持ってきた真由美が、満面の笑みで彼女に声をかけた。


「さあ、沙織さん! しっかり食べて、今日はお芝居頑張ってね!」
「……ええ、頑張ります」
「真由美」
「母さん」
 その能天気に聞こえる声に、男二人は沙織が怒り出すかと一瞬肝を冷やしたが、沙織はおとなしく箸を取り上げた。しかし幾らも食べ進めないうちに、この間の事を思い返しながら独り言のように悪態を吐き出す。


「全く……。あのろくでなし野郎のせいで、昨日一日社内を歩いていると、暇人どもが人を指差しながらヒソヒソコソコソ……。赤の他人の噂話に花を咲かせる暇があるなら、とっとと仕事をしやがれ」
「それは確かに、誉められた事では無いな」
 義則が宥めるように同意したが、沙織の呟きはそのまま続いた。


「挙げ句の果て……。私だけの事じゃなくて、友之さんの管理責任がどうたらこうたらネチネチボソボソ……。管理職は部下全員のプライベートでの不祥事まで、一々責任持たなきゃいけないわけ? ふざけんな」
「沙織、俺は気にしていないし、すぐに事情は明らかになるから」
 今度は友之が彼女を宥めたが、沙織は彼と目を合わせないまま自問自答するように続ける。


「そうなのよね。今日、明らかにするのよね……。本当に豊の奴、ろくでもないシナリオを書いてくれやがって……」
「その、沙織? 豊さんは彼なりに、沙織の事を心配して」
「友之さんは良いわよね。部下の秘密を厳守して庇う、理想の上司って役回りなんだから」
「………………」
 心底面白くないように言い返され、友之は勿論、義則達も押し黙った。そんな重苦しい空気の中、沙織は黙々と朝食を食べ終え、一足先に席を立って出かける支度を済ませてから、再度食堂に顔を覗かせる。


「行ってきます。帰りは早いと思います」
「分かったわ。行ってらっしゃい」
 真由美に声をかけ、義則と友之に軽く頭を下げてから、沙織は出勤した。それを見送ってから、三人が顔を見合わせる。


「沙織さん、昨日帰ってきた時から機嫌が悪かったけど、悪化しているみたいね。会社で大丈夫なのかしら?」
「昨日も社内では、いつも通りだったから。その分、家で不平不満を漏らしているわけだし」
「それなら昨日もそうだが、今日帰宅した時には、もっと機嫌が悪くなっているんじゃないか?」
「…………」
 そこで三人は何とも言い難い顔を見合わせてから、対応策を口にした。


「お夕飯は、沙織さんが好きな物を準備しておくわ。あと、何か甘い物も」
「今度の土日は二人で、どこかに泊まってゆっくりしてきたらどうだ? 日がないが良い宿で、融通してくれる所を探しておくから」
「そうだな……。よろしく頼むよ。俺もできるだけフォローするつもりだが、絶対に気分を害して帰って来る筈だし」
 松原家の面々は、そんな風に意思統一して動き出した。




 その日の午後、義則は田宮と共に社内の会議室の一つで、和洋と相対していた。
 CSCとは近日中にセキュリティ契約の更新をする事になっていたが、前日に先方から契約日を前倒しして欲しいとの申し入れがあり、急遽義則と担当役員の田宮のスケジュールを調整して、夕方にその場を設けたのである。そして担当者が来たと秘書から連絡を貰って席に着けば、通常の担当者ではなく社長の和洋自ら出向いて来た事に、田宮は少なからず驚いていた。


(一之瀬さんとは直接打ち合わせはしていないが、大丈夫だろうか? 今のところはこれまで顔を合わせた時と、全く変わった様子は見られないが)
 事情を知っている義則は素知らぬ顔で受け答えしつつ、確実に激怒しているであろう和洋の様子を、顔を合わせてから注意深く観察していた。


「これで無事、契約更新ができました。松原社長、田宮常務、本日はこちらの都合で急に日程を前倒ししていただき、誠にありがとうございました」
 一通り仕事の話が終わり、契約書の確認を終えた和洋が、それを閉じて座ったまま深々と頭を下げる。それに田宮と義則は笑顔で応じた。


「いえ、私も社長も偶々時間が空いておりましたので、お気遣いなく」
「田宮さんの言う通りです。一之瀬さんも色々と業務がお忙しいみたいで、経営者としては結構な事ですね」
「確かに昨今方々からお声がかかって業績は右肩上がりを続けておりますが、今回こちらに自ら足を運んだのには、些か個人的な事情が絡んでおりまして」
 ここでさり気無く水を向けられたのが分からない義則ではなく、笑顔のまま言葉を返した。


「『個人的な事情』ですか? あ、いや、そうであれば、お尋ねするのは失礼ですな」
「いえ、社長にも多少は関係がありますのでお話ししますが、実は私の娘が御社に勤務しております」
「それは存じ上げませんでした。一体どちらに?」
「営業二課に、関本沙織の名前で在籍しております。お恥ずかしながら、妻とは娘が幼少時に離婚しておりまして」
「え!?」
 傍目にはにこやかな笑顔を向けながら、和洋の目が若干細まる。そして自分の隣に座っている田宮が明らかに動揺しているのを意識的に無視しながら、義則は平然と会話を続けた。


「そうすると娘さんは、奥様の姓を名乗っておられるのですか?」
「はい。ですが心の中では今でも家族のつもりですので、プロフィールの家族欄には妻と二男一女としております」
「それでは……、再婚されておられない?」
「はい、女々しいと笑われそうですが」
「いえいえ、そんな事は。別れたと言えどもそれだけ情が深く、皆様を大切に思われていると言うことでしょう。笑う者などいる筈がありません」
「恐縮です」
「…………」
 和洋と笑顔で語り合いながら、義則は徐々に顔色が悪くなっている田宮の様子を横目で窺いつつ、内心で舌を巻いていた。 


(一之瀬さんは想像以上の役者だな。さすがに一代で、CSCをあそこまで発展させただけの事はある。田宮さんも、今回は相手が悪かったな )
 田宮に同情すらし始めていた義則だったが、和洋は容赦なく話を続けた。


「親馬鹿と思われるかも知れませんが、娘は気立てが良い上に努力家で大学の成績も優秀で、就職先も親のコネなど当てにする事も無く、自力でこちらに就職しました。今までは遠くから見守るだけに留めていたのですが、今回こちらの社内で看過できない事態が勃発しまして」
「何かありましたか?」
「これだけの大企業の社長が、一社員の噂まで一々お耳に入れている筈がありませんな……。よりにもよって、娘が私の愛人だと言う誹謗中傷が、こちらの社内報に堂々と掲載されたのです」
「何ですって!? どうしてそんな事に!! 即刻広報部に命じてそれを削除した上で、担当者に一之瀬さんと娘さんに対して謝罪させます! 少々お待ちください!」
「…………」
 淡々と和洋が告げたのとは対照的に、ここで義則は怒気を露わにして勢い良く立ち上がり、壁に設置してあるインターフォンに駆け寄った。


(私も思っていたより、結構演技派なのかもしれないな)
 早速広報部に内線をかけるふりをしながら、義則が密かに自画自賛していると、チラッと田宮と視線を合わせてから和洋が呼びかけてくる。


「松原社長、それには及びません。実はこれが発覚したのは一昨日で、当日のうちにご子息が広報部に申し入れて、該当記事は削除されています」
「友之が? ああ……、営業二課所属なら、息子がお嬢さんの直属の上司に当たるのですね。しかし友之の奴、家ではそんな事を一言も言っていなかったが……」
 受話器を戻してから義則が再び席に着くと、和洋が苦笑いしながら告げる。


「あまりにも馬鹿馬鹿しい話なので、社長のお耳に入れる程の事では無いとご子息は判断されたのでしょう。しかし私にはとても看過できない内容でしたので内々に調べましたら、広報部の管理下にあるシステムにアクセス権限がある社員が、不正にそれらの内容を社内報に載せたのを突き止めたのです。他にその社員と組んでいた者も判明しまして。二人纏めて名誉毀損で訴えて、損害賠償を請求するつもりでおります」
「…………」
 先程に引き続き、ここで一瞬和洋と目があった事で、田宮は自分のやった事が全て目の前の相手に分かっていると察し、益々青くなった。しかし義則はそれに全く気付かないふりをしたまま、気遣うように尋ねる。


「内々で調べたと言うのは……。失礼ですが、犯罪行為に該当する手段で得た情報と言うのは、裁判で証拠として採用されないのではありませんか?」
 それを聞いた田宮の顔色が一瞬良くなったが、その懸念を和洋は一蹴した。


「ご心配無く。わが社は業務上、クライアントの内部情報に接する機会が多く、トラブルを避ける為に法務部を設置しております。そちらに確認させたところ『グレーですが十分に証拠として採用対象』との判断が出ました。それを受けて、既に弁護団を選定中です」
「それはまた、手際の良い……」
「それで今日無理に日程を前倒しさせて貰ったのは、実際に訴訟を起こす前に、松原社長に一言お断りしてしこうと思いまして。こちらの社員を訴えますが、松原工業自体には何の悪感情もございません。今後とも仕事上のお付き合いを続けていきたいとおもっておりますので、よろしくお願いいたします」
 そこで和洋が立ち上がり、二人に向かって深々と頭を下げた為、義則と田宮も慌てて立ち上がって頭を下げた。


「なるほど、それはご丁寧にありがとうございます。我が社の社員がそんな騒動を引き起こしましたのに、却って恐縮です。こちらこそよろしくお願いいたします」
「それでは失礼いたします。他に宣戦布告をしておく社員がおりますので、そちらに寄ってから帰社しますから」
「そうでしたか。今回は誠に失礼いたしました」
「……本日はご足労いただき、ありがとうございました」
 再度頭を下げて会議室を出て行く和洋を見送った義則は、隣で半ば茫然としている田宮に少々わざとらしい笑顔で声をかけた。


「いやぁ、しかし一之瀬社長は、なかなか義理堅い人だな。社員を訴えるが会社自体を訴える気は無いと、わざわざ断りを入れにきてくれるとは。田宮さん、そうは思わないか?」
「……え? え、ええ、そうですね。すみません、社長。私も失礼します」
「ああ、ご苦労様」
 社長には分からないように自分に宣戦布告しに来たと思い込んだ田宮は激しく動揺しつつも、義則がまだ何も知らないと思っており、余計な事は言わずに慌ててその場を後にした。その様子を見送りながら、義則は一人苦笑する。


「少し気の毒だったかな? 一之瀬さんのはったりを、まともに信じ込んだみたいだし。しかしこれで暫くは、馬鹿な事をしないでおとなしくしてくれるかな?」
 そう呟いた義則は、苦笑いのまま社長室に戻って行った。 



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