酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(73)インフルエンザ騒動:前編

 控え目なアラーム音を響かせた体温計を、沙織が服の中から取り出して目の前に持ってくると、二時間程前から感じ始めた身体の異常をしっかり裏付けする数値を示していた。その事実に、沙織はトイレの個室でがっくりと項垂れる。


「うわ……、やっぱりこれは駄目だわ。不覚。咳や鼻水が全然出ていなかったから油断した……」
 しかしそのままダラダラと過ごすわけにはいかず、沙織はトイレを出て職場に戻り、机の引き出しに体温計をしまってから、課長席に向かう。


「課長、申し訳ありません」
「どうした?」
 いきなり謝罪から始まった呼び掛けに、友之が怪訝な顔で応じると、沙織は淡々と話を続けた。


「朝、家を出た時は何とも無かったのですが、出社してから少々寒気が。それが徐々に悪化してきたので、先程体温を測ってみましたら38℃を越えていますので、早退させて下さい」
 そんな事を言われた友之は、さすがに顔色を変えた。


「え? そこまで急に熱が上がるのは、普通では無いだろう。巷で流行っているし、インフルエンザかもしれんぞ。すぐに退社して受診しろ」
「申し訳ありません。そうさせて貰います」
 深々と一礼し、同僚達からの「大丈夫か?」とか「無理するなよ」などの声に軽く頭を下げながら沙織が席に戻ると、佐々木が心配そうに声をかけてくる。


「先輩、大丈夫ですか?」
「佐々木君、ごめんなさい。本気でつらくなってきたから……。悪いけど、明日の北野製造との契約締結を」
「任せて下さい! 必要な書類は揃っていますし、内容は全て頭の中に入っています。先輩は安心して休んで下さい」
 満面の笑みで自分の胸を叩いた佐々木を、沙織は頼もしく思いながら軽く頭を下げた。


「宜しくね。インフルエンザだったりしたら、佐々木君に感染させていないと良いんだけど」
「先輩は、まだ咳込んだりしていませんから大丈夫だと思いますし、体調管理には気をつけます」
「それじゃあ、後はお願いね」
「はい。気をつけて帰宅して下さい」
 そうして沙織は同僚達に見送られて退社し、その足で受診してから帰宅すると、密かに友之から連絡を受けていた真由美が待ち構えており、軽い食事と水分を取らされてからベッドに直行させられた。


「うぅ……、寝込むなんて何年ぶりだろう……。殆ど記憶にないし、予防接種もしていたのに……」
 これまで体調管理には自信があった沙織が、本気で自己嫌悪に陥りながら潜り込んだ布団の中で呻くと、掛け布団を直しながら真由美が苦笑交じりに応じる。


「やっぱり最近色々あったし、意識はしていなくても疲れが溜まっていたんじゃない?」
「そうかもしれません……。すみません、お義母さん」
「あら、気にしないで。誰だって、体調を崩す時はあるわよ。困った時はお互い様。今度私が具合が悪くなった時は、沙織さんに看病して貰うから。その時はお願いね?」
「はい、そうします」
「それじゃあ、あまり仕事の事は気にしないで、とにかくきちんと休んでね。少ししたら、また様子を見に来るわ」
 そこで真由美は沙織の眠りを邪魔しないように、薬と飲み物をベッドサイドに置いて、静かに部屋を出て行った。


 沙織が無事に帰宅した旨の報告はあったものの、その後真由美から連絡はなく、沙織の体調を心配しながら友之は仕事をこなしていった。そして終業時間になっても相変わらず二人からの音沙汰は無く、彼は諦めて溜め息を吐き、家路についた。そして帰宅した友之は、沙織の部屋の前で当惑する事となった。


「……何だこれは?」
 それは、真由美が以前用意した『立入禁止』のプレートの上部に、『男性限定』の紙が追加して貼られていたからであったが、友之が一瞬困惑してからドアノブに手をかけた所で、沙織用の夕飯を運んできた真由美が息子に声をかけてきた。


「あら、友之。お帰りなさい」
 その声に反射的にドアノブから手を離しながら振り返った友之は、真由美に少々恨みがましく詳細について尋ねた。


「母さん、沙織の具合は? まだ熱が上がっているのか?」
「あ、ごめんなさい。連絡するのをすっかり忘れていたわね。やっぱりインフルエンザの判定が出たそうよ。でも処方されたお薬をすぐに飲んだから、悪化してはいないみたい。ちょっとぐったりしてるけど、午後に少し眠ってさっきは起きていたし」
「そうか。じゃあ様子を見て来る」
「待ちなさい、友之。これが見えないの?」
 安堵しながら再びドアノブに手をかけた友之だったが、真由美は素早く低い声で叱責した。そして指摘されたプレートを見て困惑顔になった彼が、眉根を寄せながら問い返す。


「これって……、さっきも不思議に思ったが、このプレートは一体何なんだ?」
 その問いかけに、真由美は堂々と言い返した。


「この室内は、沙織さんが回復してインフルエンザの隔離期間が終了するまで、男性は立ち入り禁止よ。感染したら、社長と課長の業務に差し支えるでしょうが」
「いやしかし、ちょっと様子を見る位は」
「沙織さんには、しっかり言い含めておいたわ。彼女は真面目だから、『そうですね。まかり間違っても、管理職である友之さんやお義父さんに感染させるわけにはいきません』と納得してくれたから、こっそり様子を見に行っても、すぐ私に通報してくれますからね」
 確信に満ちたその宣言に、友之はがっくりと項垂れた。


「通報って……、俺は不審者か?」
「立派な不法侵入者よ。この家の法律は、私が作り出しているんですからね。さあさあ、分かったのなら早く着替えて下に行って。ご飯を出すから」
「とにかく、沙織は大丈夫だな?」
「当たり前よ。心配しないで」
 そして、如何にも邪魔だと言う風に手振りで追い払われた友之は、真由美が上機嫌にドアをノックしてから「沙織さん、少し食べられるなら口に入れてみて」などと言いながら部屋に入るのを見て、深い溜め息を吐いてからおとなしく自室へと向かった。


「父さん、ただいま」
 既に帰宅し、食卓で食べていた父親に、着替えを済ませた友之が挨拶すると、義則は手を止めて尋ねてきた。


「お帰り。ところで友之、沙織さんの部屋の“あれ”を見たか?」
「母さんが沙織の夕飯を持ってきたところに出くわして、釘を刺された。一体、何なんだ?」
母娘おやこの相互看病イベントらしい」
「はぁ?」
「沙織さんが治ったら、真由美が看病して貰うそうだ。『同じウイルスに感染するなんて、如何にも家族って感じがするわよね!』と上機嫌でな」
 何とも言い難い微妙な顔での説明に、友之は本気で頭を抱えた。


「止めてくれ……。他人に聞かれたら、母さんがもの凄く頭が悪い人間に思われそうだ」
「そういう訳だから、沙織さんがちゃんと回復するまで、お前は彼女の部屋には立ち入るなよ? 万が一、真由美より先にお前が感染したりしたら、確実に拗ねて怒る。下手すると罹患している間ずっと、超絶に不味い物を食べさせられかねない。体力だけでは無く、気力まで根こそぎ無くなるぞ?」
「そういうろくでもない事を、真顔で言わないでくれ……」
 真剣な顔付きで忠告してくる父親に、友之が心底うんざりして呻いているうちに真由美が戻り、彼女が準備してくれた夕食をおとなしく食べ始めた。そして夕食後、(やはり後でこっそり見つからないように、沙織の様子を見に行くか)などと目論みながら、友之がリビングで両親と珈琲を飲んでいると、インターフォンの呼び出し音が鳴った。


「あら……。こんな時間に誰かしら?」
 既に事前の約束無しに他家を訪問するには遅い時間帯であり、義則と友之が顔に警戒の表情を浮かべる中、真由美はいつも通り壁に設置してある操作パネルに歩みより、ボタンを押しながら門の向こうに居る人物に応答した。


「はい。どちら様でしょうか?」
「夜分、恐れ入ります。沙織の父の、一之瀬和洋と申します」
 恐縮気味にモニター越しに頭を下げた和洋を見て、真由美は驚いた声を上げ、義則と友之は無言で顔を見合わせる。


「まあ! 沙織さんのお父様ですか? 今開けますので、どうぞお入りください」
「ありがとうございます。お邪魔します」
「……あなた。友之」
 不審者がわざわざ沙織の父親の名前を名乗るはずもないと、咄嗟に門を解錠した真由美だったが、一応腰を上げて側にやって来た二人に、メモリーに残っている男性の画像を確認して貰った。それを見た二人は、真顔で頷く。


「確かに一之瀬氏だ。私達は彼の顔を知っているから、一緒に出迎えるぞ」
「だが、いきなり夜に押し掛けるなんて、どういう事だ?」
「いらしても沙織さんは寝込んでいるし、どうしましょう」
 三人とも困惑しながら玄関に向かい、玄関の鍵を開けて和洋を招き入れた。


「松原さん。お約束も無しに夜分に押し掛けまして、誠に申し訳ありません」
 玄関に入るなり、自分に向かって深々と頭を下げた和洋を見て、義則は困惑を深めながら事情を説明しようとした。
「一之瀬さん、私どもは構いませんが……。どうかなさいましたか? 沙織さんに、何か急用でしょうか。実は彼女は、今日」
「体調不良で早退して、インフルエンザが陽性反応だったのですよね? それで見舞いに来てみたのです」
 それを聞いた松原家の面々は、驚いて目を見張った。


「既に、ご存知でしたか……」
「それではお茶を差し上げようと思いましたが、沙織さんがご心配でしょうから、まずはお部屋にご案内いたしましょうか?」
「そうしていただければ、ありがたいです。こちらは取り急ぎ持参しました果物です。食べられそうなら、食べさせてやってください」
 立派な果物の盛り合わせ籠を差し出された真由美は、それを笑顔で受け取り、すぐに背後に立っている息子に言い付けた。


「分かりました。友之、あなたは台所にこれを持って行って。それでは一之瀬さん、どうぞお上がりください」
「失礼します」
 そして真由美に先導されて和洋が進み、何となく義則と友之もそれに続いた。


「それでは、沙織さんの部屋はこちらです」
「はぁ……。しかし、あの、これは……」
 さすがに『男性限定立入禁止』のプレートを見た和洋が戸惑った表情になったが、真由美が笑顔で解説する。


「沙織さんは真面目な性格ですから、社長と管理職である夫と息子に自分の病気を感染させないように、完全に回復するまでの入室を拒んでおりまして。それに私も賛同したものですから」
「なるほど。そういう事ですか」
「ですが沙織さんを心配して、わざわざ足を運んでくださったお父様を、夫や息子と一括りにするわけには参りませんわ。だってお父様は“特別”ですもの」
「特別……」
 にこやかに告げられた言葉に、和洋がピクリと反応する。それを見た真由美は、満足げに言葉を重ねた。


「ええ。父親の深い愛情故、わざわざお見舞いに来られたのですもの。ですからお父様だけはお入りになっても、一向に構いませんのよ?」
「重ね重ね、ありがとうございます」
「まあまあ、そんなに畏まらなくても。人として当然の事ですし、沙織さんのお父様なら私達の身内も同然ですわ」
「本当に、貴女のような物の道理を弁えておられる方が、沙織の姑で安堵致しました。これからも娘の事を、宜しくお願いします」
「勿論ですわ。さあ、沙織さんのお顔を見ていってください」
 感激した風情で深々と頭を下げた和洋を真由美は促し、二人はドアを開けて中に入って行った。


「沙織さん、起きている? お父様が心配して、わざわざお見舞いに来てくださったわよ?」
「……え? えぇぇっ!? まだ誰にも連絡していないのに、何でここに居るの!?」
「だって沙織ちゃん! 昔から滅多に寝込む事は無かったし、就職してからも体調不良で早退なんかした事は無かったのに、よほど具合が悪いのかとお父さん心配で心配で!」
 そこでドアが閉められ、中の会話の詳細を聞き取れなくなったが、義則と友之は僅かに顔をしかめながら確認し合った。


「沙織さんは『まだ誰にも連絡していない』と言っていたが、お前は一之瀬氏に連絡したのか?」
「まさか。事故とか入院したと言うならともかく、インフルエンザで一々連絡なんかしないぞ?」
「そうだろうな……。しかも『早退なんかした事無かったのに』とまで言っていると言うことは……」
「明らかに営業部内、最悪うちの課内に一之瀬氏と繋がっている人間がいて、沙織の入社以来、彼女に関する情報を流していたという事だよな?」
 その結論に達した二人は、憂鬱な表情で溜め息を吐いた。


「よほど娘が可愛くて大事らしい……。沙織さんは知っているのか?」
「知っていたら、確実に激怒すると思うぞ?」
「それなら、憶測で物は言わない方が良いだろうな」
「そうするよ」
「しかし万が一、お前が沙織さんを泣かせたりしたら、彼に刺されかねないな」
「縁起でもない冗談は止めてくれ」
「本気で言っているが」
「…………」
 父親から、真顔でろくでもない事を言われてしまった友之は、憮然とした表情でリビングに戻った。
 それから少しして沙織を見舞って満足した和洋は、玄関先で見送りをしようとした三人に、満面の笑みで礼を述べた。


「今回はいきなり押し掛けましたのに、快く招き入れていただき、誠にありがとうございます」
「いえ、沙織さんのお父上なら、当然の事ですから」
 そんな父親同士の会話を、友之は半ば聞き流していたが、ここでいきなり和洋が自分の手を取り、迫力のある笑顔を向けてきた事で一気に警戒度を高めた。


「友之君。君には色々と言いたい事があるし、君も同様だと思ってはいるが、そんな些細な事には拘らず、沙織の事をわざわざ知らせてくれて嬉しいよ」
「え? 俺は別に」
今後・・も沙織に何かあったら、どんな些細な事でも今回・・同様・・に知らせてくれるとありがたい」
「……はぁ」
(これはあれか? 俺達と同様に不審に思った沙織に対して、この人は俺が知らせてきたと嘘八百をついたから、その話に合わせろと言う事か?)
 笑顔のままギリギリと自分の手を締め上げてくる和洋の意図を悟った友之は、半ば呆れながら舅の話に乗った。


「ご心配なく。今後も何か変わった事がありましたら、すぐにそちらにお知らせしますので」
「それを聞いて安心したよ。それでは失礼する」
「お気をつけて」
 そして友之に口止めをさせた和洋が足取り軽く帰って行き、玄関を施錠した真由美が振り返りながら息子に苦言を呈する。


「友之、あなた都内のお父さんだけじゃなくて、名古屋のお母さんにまで沙織さんがインフルエンザで早退したと連絡したわけではないでしょうね? 大袈裟だし、過剰に心配をかけるのはどうかと思うわ。沙織さんのお母様はきちんとお仕事をしている方だし、名古屋から出てくるとなったら、一日潰れるでしょうし」
「……いや、さすがにお義母さんの方には、まだ連絡していないから」
「それなら良かったけど……。とにかく友之。今回、『お父さんだけ特別』という事にして、一之瀬さんのご機嫌を取ったんだから、回復するまでこっそり沙織さんの様子を見に行ったりしたら駄目よ? 隠し事は、いつかは必ず露見しますからね。お義父さんの心証を、悪くしたくは無いでしょう?」
「分かった……。言う通りにするよ」
 真顔で言い聞かせてきた母親に、友之は完全に諦めながら頷き、義則は部下のスパイ疑惑まで発生してしまった息子に、憐れみの視線を送った。



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