酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(68)瓢箪から駒

「さて……、何とかしてやるにしても、どこでどう話を進めれば良いものか……」
 息子夫婦のやり取りを聞いてから義則は密かに考え込んでいたが、特に妙案が浮かばないまま土日が過ぎてしまった。
 そして迎えた月曜日。出社してから社長室で一人考え込んでいると、ノックに続いて男女二人が入室してくる。


「社長、失礼します」
「ああ。どうかしたのか?」
 秘書課長の南波と共に、これまで何度か自分に付いた事がある新見聖乃が姿を見せた為、義則は怪訝な顔になった。すると南波が彼の前で軽く一礼してから、事情を説明する。


「社長、申し訳ありません。倉橋がインフルエンザに罹患しまして、出勤できなくなりました。その間この新見が、社長の担当となります」
「倉橋先輩と比べましたら至らない点が多々あるかと思いますが、精一杯努めさせていただきます」
 それを聞いた義則は、普段は自分付きの秘書が姿を見せていない事について、納得して深く頷いた。


「そうか、了解した。どのみち年内の勤務は今日と明日だけだし、倉橋さんにはきちんと養生するように伝えてくれ」
「お伝えします。それでは新見君、後は頼んだ」
「はい。それでは社長。本日のスケジュールを確認しても宜しいですか?」
「ああ、頼む」
「それではまず、十時からの役員定例会議ですが」
 時間を無駄にせず、聖乃は早速ファイルを開いてスケジュールの確認を始め、それを確認した南波は無言で一礼し、社長室を出て行った。そして義則は聖乃の顔を眺めながら、つい先程まで考えていた事を思い返す。


(新見さんは倉橋さんよりかなり若いし、沙織さんとも年が近いな。結婚云々の話は聞かないが、さり気なく意見を聞くにはちょうど良い相手かもしれん)
 彼女の顔をぼんやりと眺めながらそんな事を考えていると、報告を終えた聖乃が訝しげに声をかけてくる。


「あの……、社長? スケジュールの確認が終わりましたが、宜しかったでしょうか?」
 それで我に返った義則は、慌てて言葉を返しつつ話を切り出した。


「あ、ああ。特に変更も無かったな。大丈夫だ。ところで新見さんに聞きたい事があるのだが、少し時間を貰っても良いかな?」
「はい。何でしょうか?」
「例えば新見さんが、南波課長と恋愛関係になった場合を考えて貰いたいのだが」
「……はい? 課長は既婚者ですが?」
 忽ち不審そうな顔になった聖乃を見て、義則は相手に誤解されかねない表現だったと悟り、即座に謝罪した。


「すまない。私の言い方が悪かった。別に君と課長が不倫関係だと疑っているわけでは無いし、本当に例え話なのだが……。自分の上司と恋愛関係になった場合、女性側は色々と考える事が多くないかな? 特に現在の職場で、勤務が続けられるかどうかとか……」
 最後は曖昧に誤魔化しながら尋ねてみると、聖乃は一瞬強ばらせた表情を緩めながら考え込んだ。


「はぁ……、そうですね。配属先は異なりますが、確かに直属の上司と結婚をした同期の女性がいて、彼女は今でも勤務を続けていますが、婚約が明らかになった時点で配置転換になりました。他にもちらほら、先輩達から話に聞いた事があります。就業規則に明記されてはおりませんが、やはり暗黙の了解みたいなものですね」
「やはりそうだろうな……」
「それがどうかしましたか?」
 難しい顔になって溜め息を吐いた義則に、聖乃が再度不思議そうに尋ねる。それを受けて、義則は尤もらしい事を口にした。


「その……、やはり結婚する事を理由に、有能な人材を配置転換するのはどうかと思うんだ。各個人が最大限に能力を発揮できる職場環境を整えるのが、経営者としての使命だと考えているからね。しかし役員会でどう話を進めていけば良いか、考えあぐねていて」
「まあ……、そうでしたか……」
「先程君が述べたように、就業規則に禁止事項として明記されているわけでもない。それで」
「社長。意見を申し上げてもよろしいでしょうか?」
「それは構わないが、どうかしたかな?」
 急に自分の台詞を遮ってお伺いを立ててきた聖乃に、義則は(彼女らしくないな)と思いつつも了承した。すると彼女は、予想外の事を言い出す。


「それは役員会で提案するより、寧ろ、まず労働組合で議論すべき内容だと思います」
「組合?」
「はい。一昔前前まで世間では、産休育休復帰後に従来通りの勤務ができないからと、配置転換を求められる例が多々ありました。それに対する労働争議が生じた事もあります」
「ああ、覚えている。妊娠出産を理由に配置転換を強いるのは違法だと、他社の裁判で判決が出た事もあったな」
 その指摘に義則が頷くと、聖乃もすこぶる真顔のまま話を続ける。


「はい。現在では基本的に以前の職場への復帰が認められていて、本人と協議して了承した場合にだけ配置転換となっています。今後労働人口が縮小する中、活躍している有能な社員に如何に能力を発揮し続けて貰うかを考える事は、経営面でも重要事項であると思われます」
「全くその通りだ」
「たかが結婚で活躍の機会を奪われるなんて、重大な人権侵害です。改めて問題提起すれば、きちんと組合が経営側と協議して、同部署所属者同士の結婚でも片方を配置転換などさせないように、明文化させる事は可能かと思います」
「なるほど。いや、その方面からの視点は欠けていたな」
 すっかり感心して何度も頷いている義則に、聖乃は重ねて提案した。


「社長。差し支えなければ、私から組合の方に話を通してみますか?」
「新見さんから?」
「はい。経営陣トップの社長からの問題提起となると、何か裏があるのではないかと勘ぐる頭の固い方が、組合上層部にいないとも限りません。幸い私の知人に組合執行部に顔が利く人がいますので、その人に私個人の考えとして伝える事にしたいのですが」
 そんな渡りに船の提案に、義則は安堵しながら頷く。


「確かに、頭の固い連中はいるな。新見さんさえ良ければ、それでお願いしたいのだが」
「分かりました。もう年末ですし、年明けには春闘が始まりますから、今からですとそこで議題を出すのは無理があるかと。ですが来年の秋闘の時期までには組合内で意見集約をして、きちんと素案を固めた上で要求として出せると思います」
「確かにそうだな。君の知人にも手間暇をかけさせる事になるかもしれないが、宜しく頼む」
「いえ、大した事はありませんし、今日社長からお話を伺って、とても感動しました」
「え? どうしてかな?」
 ここまで冷静に理路整然と述べていた聖乃が、急に嬉しそうな笑顔で言い出した為、義則は不思議に思って問い返した。すると彼女は更に笑みを深めながら、感極まったようにその理由を告げる。


「我が社のトップである社長が、こんなにも社員一人一人の職場環境に対して心を砕いて下さっていたなんて……。その事実を知って、感動しない社員なんておりませんわ!」
「そ、そうかな……」
「そうですとも! 松原社長の下で働く事ができて、私は本当に幸せです。社長は我が社が誇る、経営者の鏡です!」
「それは多少、大げさだとは思うが……」
「謙虚でいらっしゃるのも、社長の美徳の一つですね。それでは他にお話が無ければ、下がって宜しいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「書類を作成しておりますので、ご用がある時はお呼び下さい。それでは失礼します」
「ああ、その時は宜しく」
 満面の笑みで頭を下げた聖乃を見送った義則は、一人取り残された室内で深い溜め息を吐いた。


「あそこまで持ち上げられると、さすがにちょっと気恥ずかしいし、申し訳ないな」
 義則は聖乃の反応に後ろめたさを覚えながらも、予想外に上手くいきそうな可能性が出てきた事で、気分良くその日の仕事に取りかかった。


 その日帰宅した義則は、まずダイニングキッチンに顔を出し、食事中だった息子夫婦に声をかけた。


「ただいま。ああ、友之も沙織さんも帰って来ていたか。食事が終わったら、二人にちょっと話があるんだが」
「分かった。食べ終わったらリビングで待っているよ」
 それを聞いて頷いた義則は、着替える為に自室に向かい、沙織と友之が顔を見合わせる。
「何かしら?」
「さあ?」
 既に殆ど夕食を食べ終えていた二人が、食後はリビングに移動して時間を潰していると、少しして食べ終えた義則がやって来た。


「待たせたな」
「それは構わないけど、俺達に話って何かな?」
 その問いかけに義則は、自分に続いて現れた真由美が全員にお茶を配って座るまで待ってから、徐に口を開いた。


「それだがな……。もしかしたら来年中に、お前達が結婚している事実を社内に公表できるかもしれない」
「あなた?」
「父さん?」
「どういう事ですか?」
 他の三人が驚いて目を見開く中、義則は朝の聖乃とのやり取りを語って聞かせた。それを聞き終えた友之と沙織が、唸るように言い出す。


「組合側から、労働環境の面からの申し入れと明文化か……。その方向からは、考えていなかったな」
「しかも、新見さん経由……。それならほぼ確実に、話が通りますよね……」
「沙織さん。どうして新見さん経由だと、確実に話が通るんだ?」
 妙にしみじみとした沙織の口調に、どうしてそこまで確信できるのかと訝しんだ義則が尋ねると、彼女は大真面目にその理由を説明した。


「新見さんが《愛でる会》の現会長である関係で知っていますが、彼女の婚約者が経理部の本宮課長なんです」
 それを聞いた途端、男二人が動揺した声を上げる。


「え!? あの本宮課長だって?」
「げっ、あの『経費精算の鉄壁最終防壁』が? 本当か!?」
「本当です。……あ、真由美さんに分かるように補足説明しますと、松原工業労働組合の各支部を束ねる中央執行委員会。そこの中央執行委員長、同副委員長、同書記長に次ぐ、ナンバー4である同書記次長の座に三十そこそこで就任した、凄腕と名高い堅物社員です」
 一人、キョトンとした顔になっている真由美にも分かるように沙織が簡潔に説明すると、真由美は瞬きしながらおっとりとした様子で応じた。


「あらまあ……、良く分からないけど、何だか凄そうな人ね」
「色々な意味で、ただ者では無い人です」
「沙織さん。本宮課長とは、何度か団体交渉で対峙した事があるが、その……、何というか、人当たりが良くて如才が無い新見さんとは、全くイメージが違うと言うか何と言うか……」
 言葉を濁しながら控え目に口を挟んできた義則に、沙織は真顔で頷く。


「ええ。原則主義の、孤高の変人ですよね。新見さんから『本宮さんと付き合い始めた』と聞いた時には愛でる会の皆が耳を疑いましたけど、プロポーズの経緯を新見さんから聞いた時、その場に居合わせた全員揃って、彼女から目を逸らしました」
「何だそれは……。一体どんな経緯だったんだ?」
 今度は友之が思わずといった感じで口を挟むと、沙織は溜め息を吐いてから説明を続けた。


「本宮さんは経済観念がしっかりし過ぎていて、仕事上に限らずプライベートでもコスパ追及が凄いそうですが、唯一ガラス細工に大金を注ぎ込んでいるそうです」
「ガラス細工?」
「どうしてそんな物に?」
「脆く儚い物だからこそ、内包している美とそれに費やされた時間と労力が素晴らしいとか」
「まあ……、個人の価値観だしな」
「そのガラス細工がどうした?」
 男二人が怪訝な顔で話の先を促した為、沙織は冷静に話を続けた。


「先月たまたま新見さんが、本宮さんのマンションを訪ねていた時、結構大きな地震があったそうです」
「ああ、あれか」
「そう言えばあったわね」
「それで? その時に本宮課長が、新見さんを庇ったのか?」
「いいえ。真っ先にガラス細工を収納しているキャビネットに走り寄り、それを押さえながら新見さんに『何をボケッとしてる! さっさと逃げろ! 君は自力で逃げられるが、こいつらは逃げられないんだぞ! 俺はこいつらを死守する!』と叫んだそうです」
「…………」
「まあ、随分勇ましいのね。それで新見さんは納得して一人で逃げたのね?」
 そこまで聞いた男二人は思わず顔を見合わせて黙り込み、真由美は半ば感心したように口にしたが、沙織はそれに首を振った。


「いいえ。新見さんは『自分の事は構わず一人で逃げろだなんて、何て男気溢れる人なの!?』と感動して、そのキャビネットに駆け寄りながら『私も一緒にこの子達を守って死ぬわ! だから私と結婚して!』と叫び、本宮さんが『酔狂な女だな! 仕方がないから結婚してやる!』と話が纏まったそうです」
 そこで友之が、反射的に突っ込みを入れた。


「沙織、ちょっと待て。『男気』の意味が、どう考えてもおかしくないか?」
「そう感じたのは新見さんなので。彼女の感性では、男気が溢れていたんですよ。私に文句を言わないで下さい」
「その……、沙織さん。色々な意味で、流れがおかしいと思うのだが……。若い人から見ると、私の考え方がおかしいのだろうか?」
 今度は義則が幾分自信なさげに尋ねてきた為、沙織は力強く否定した。


「大丈夫です。別にお義父さんの感性が、おかしいわけではありません。話を聞いた全員が、照れながらのろけているつもりの新見さんを見ながら、『この二人、本当に大丈夫なの?』と、頭を抱えましたから」
 そこでどこかのんびりとした口調で、真由美が感想を述べる。


「本当に『破れ鍋に綴じ蓋』って、その二人のような事を言うのね」
「……今までの話を、サクッと綺麗に纏めてくださってありがとうございます。お義母さん」
 軽く疲労感を覚えた沙織だったが、すぐに気を取り直して説明を続けた。


「更に付け加えますと、その本宮課長は社内のあらゆる資金の流れを把握しているうちに、某役員や某部長の裏金作りの証拠を掴み、そのネタを使ってどんな圧力を受けても規定から外れた経費申請は断固拒否しているという噂が、まことしやかに流れている人なんです」
「それ以前に若いに似合わず、相対する時の彼の理論武装は完璧だからな」
「団体交渉に持ち込んだら、あらゆる根回しと下準備を済ませた上で、何が何でも認めさせるだろうな……。目に見えるようだ……」
 彼を知っている三人が遠い目をしていると、その様子を見た真由美が、嬉々として確認を入れてくる。


「そうなると本当に、来年中か再来年には、あなた達の結婚を公表しても大丈夫なのね?」
「ああ、そうなるな」
「そうですね。目処がついて、気が楽になりました」
 友之と沙織が苦笑まじりに応じたのを見て、真由美は満面の笑みで夫に向き直った。


「ありがとう、あなた」
「私は何もしていないさ。無事に解決したら、改めて新見さんにお礼を言うよ」
「本当にそうね」
 それからは一気に空気が和み、全員で談笑する中、友之は密かに考えを巡らせた。


(確かに公にできる目処がついたのは、助かったな。秘密にしたままだと子供も作れないし。暫くは作らないと沙織と話し合ってはいたが、仕事の状況を見ながら改めて相談するか)
 楽しげに両親と話している沙織を見ながら、友之は無意識に表情を緩めた。


(できれば子供が生まれた時、清人さんに預かって貰っている物を使えば、母さんも喜ぶだろうし)
 そんな事を考えていると、視線を感じたらしい沙織が友之に向き直り、訝しげに尋ねてくる。


「友之さん? 一人で何を笑っているんですか?」
「思い出し笑いだ。大した事じゃない」
 軽く否定した友之だったが、何か感じるところがあったらしい沙織は、軽く眉根を寄せながら追及してくる。


「何か怪しい……。私に何か、隠している事がありますよね?」
「あるわけ無いだろう? それに、仮に隠し事をしていたとしても、沙織だって俺に隠している事があるんだから、おあいこじゃないのか?」
 一昨日、結局白状しなかった事を持ち出して、友之は沙織を軽くあしらおうとしたが、それで引き下がる彼女では無かった。


「男の隠し事と女の隠し事は、質が違うんです。お義母さん、そうは思いませんか?」
「沙織さんの言う通りね」
 全面的に沙織の味方をするつもりの真由美に、友之は閉口しながら父親に助けを求めた。


「それは男女差別だろう。父さん、何とか言ってくれ」
「まあ、母さんの言うとおりかな?」
「……聞いた俺が馬鹿だった」
 完全に妻の味方である義則に、あっさり突き放された友之は肩を落とし、その様子を見た三人は堪えきれずに笑い出した。そうなると友之も笑うしかなく、それから暫くの間松原家のリビングには、楽しげな笑い声が響き渡っていた。



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