酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(47)甘くて冷たい物と者

 数日ぶりの訪問になるジョニーに、沙織がいそいそとキャットフードを出して勧めていると、スマホがメールの着信を知らせた。反射的にそれを取り上げて確認してみた彼女が、途端に不機嫌そうな顔になる。


「はぁ? 何よ、このメールは?」
「にゅあ~?」
 無意識に吐いた悪態に、黙々と食べていたジョニーが反応して顔を上げた為、沙織は再び彼の前に膝を付きながら、大真面目に説明した。


「あ、ジョニー様には、関係ありませんから。以前ここに来ていた大型犬を、ここ暫く出入り禁止にしていたんですが、出向いて良いかと神妙にお伺いを立ててきました」
「なぅ~」
 軽く首を傾げたジョニーに構わず、沙織は一人で考え込む。


「さて、変な方法を取らず、真っ当に連絡をしてきたところは、及第点だけど。どうしたものかしらね」
 すると何故かジョニーが皿を回り込み、難しい顔になっている沙織の目の前にやって来た。


「え? ジョニー様、どうかしました?」
「にゃっ!」
 不思議そうに尋ねた彼女に、しっかり視線を合わせて一声高く鳴いたジョニーを見て、沙織は仏頂面で応じる。


「それは……、『大人になれ』と言っているんですか? 十分、大人なんですけど」
「…………」
 そのまま一人と一匹で数秒睨み合ってから、沙織は溜め息を吐いて表情を緩めた。


「分かりました。取り敢えず大型犬に関しては、大人の対応をする事にします」
「うにゃっ!」
 元気良く叫んだジョニーは、すぐに踵を返して皿に戻り、再び何事も無かったように食べ始めた。


「そうは言ったものの……、どうしたものかしらね?」
 そんなジョニーを見ながら、沙織は暫くの間、無言で考えを巡らせていた。




 ※※※




 予告時間きっかりに、マンションのインターフォンを押した友之を、沙織は落ち着き払って出迎えた。
「どうも。夜分、手土産も無しで押しかけてすまない」
 玄関口で神妙に頭を下げた友之に対して、沙織が冷静に言葉を返す。


「いえ。『こいつには、酒を飲ませておけば良いだろう』と言わんばかりに、一升瓶でも持参したなら、それで頭をかち割ってやろうと考えていましたので、お気遣いなく」
「…………」
「上がらないんですか? 真面目な話があるかと思っていましたが」
「失礼する」
 思わず口を閉ざした友之だが、沙織に促されて部屋に上がり込んだ。


(一瞬、酒を手土産にする事を考えていたが、回避しておいて良かったな)
(少しは酒を持って来る事を、考えていたっぽいわね)
 リビングのソファーに収まりながら、密かに冷や汗を流す友之と、そんな彼を冷静に観察する沙織。室内に少し気まずい沈黙が続いてから、沙織が静かに話を促した。


「それで? 電話でも良いところを、わざわざ直にお話ししたい内容と言うのは、どういった事でしょうか?」
 そこで友之は、漸く重い口を開いた。


「その……、2月に付き合うのを止めて欲しいと言った理由だが、色々と事が片付いたので、説明させて欲しい」
「そんな事には、微塵も興味がないと言ったらどうします?」
「他の話に移る」
「……それでは取り敢えず、お好きなだけ話してみてください」
「分かった」 
 それから友之は、真顔で一連の暴露話を語り出したが、既に清人達から聞いていた沙織は、無表情で耳を傾けていた。


(真面目に教授との再会から、洗いざらい話してるけど、柏木さんから全部聞いているし。少しは、驚いた顔をした方が良いのかしら? でも加減が分からないし、何を聞いても動じないスタンスでいれば良いか)
 そんな事を考えながら全く表情を変えずに話を聞いていた沙織だったが、徐々にその内容に呆れてきた。


(だけど聞けば聞くほど、亡くなった教授って根に持つタイプでえげつないし、嵌められた未亡人って迂闊な尻軽だし、課長ってやる時はやる人だけど抜けてるわよね)
 そして話し終えた友之が口を閉じると、沙織が皮肉っぽく問いかける。


「それで? 無事、恩師からの依頼通り、復讐は完了というわけですか? 仕組んだのは恩師でしょうけどとっくにお亡くなりですし、表立って動いた課長が、彼女に逆恨みされる可能性は無いんですか?」
「取り敢えず、あと半年程は、行動を監視する事にしている。まともに借金返済する気なら、こちらに関わり合っている暇は無いだろうが、まだよからぬ事を考えるなら、改めて手を打つ」
「そうですか」
 そこで一度話の区切りがついて沈黙が漂いかけたが、友之が再び口を開いた。


「それで、この間付き合いを止めていた理由だが」
「要するに復讐に集中したいのと、同時進行で私と付き合っていたら、連絡用のスマホを全く別にするとか小細工していても、何かの拍子に私の存在が彼女にバレて追及されたり、私が敵視されかねないと思ったからですか?」
「そんな所だ」
 自分の台詞を遮って、沙織が淡々と推論を述べた為、友之は素直に認めて頷いた。すると沙織が、友之にとって予想外の事を言い出す。


「それでは、この間の状況を説明していただきましたので、今度は課長の感想をお伺いしたいのですが」
「俺の感想?」
「はい。それはやはり若気の至りとは言え、一度はお付き合いした相手ですから、色々とおありだったのではないかと推察しますが」
 沙織がそう口にした途端、友之は表情を険しくしながら語気強く訴えた。


「誓って言うが、誉められない事をした自覚はあるが、やましい事は何一つしていない」
「……何とも微妙な言い回しですね。しかもそういう事を、真顔で言いますか」
 沙織が半ば呆れながら応じると、友之は彼女から若干視線を外しながら、控え目に話を続ける。


「俺はこれまで……、ホストとかヒモとか、女にたかって金を巻き上げる類の人間の事を、心底軽蔑していたんだが……」
「今回の事で、何か人生観でも変わりましたか?」
「ああ。全く好意なんか持たない相手に対して、愛想を振り撒いて巧言麗句を駆使する事ができるなんて、心から尊敬する。ある意味プロ意識の塊でないと、やっていられないだろう。今だったら弟子入りするのに、何の抵抗も無いかもしれない」
 俯き加減で呟かれたそれを聞いて、沙織は少々うんざりしてきた。


「もういっそそのまま、松原工業に辞表を出して、ホストクラブに再就職したらどうですか?」
「さっきのは幾らなんでも、半分冗談だったんだが」
「奇遇ですね、私も半分冗談のつもりで言いました。全く笑えなくてすみません」
「…………」
 そこで若干気まずい沈黙が漂ってから、友之が気合いを振り絞って話を続けた。


「それで、取り敢えずこの件については片がついたので、また俺と付き合って欲しいんだが」
「そっちはフリーで宜しいでしょうが、こちらは今現在、柏木さんとお付き合い中なんですが。彼と別れろと仰る?」
「本当にすまないが」
「頭を下げる相手が違います。ちょっと待っていてください」
 神妙に頭を下げた友之だったが、沙織はそれを制止しながら立ち上がった。そしてキッチンに消えて少ししてから、トレーに乗せて持って来た物を、友之の前に出す。


「取り敢えず、何も出さないのはどうかと思いますので、どうぞ」
「あ、ああ……、ご馳走になるよ」
 以前、友之専用にしていたマグカップに入れられた珈琲と、チョコが盛られた皿を見て、友之は若干表情を緩めながら手を伸ばしかけたが、そこで沙織が付け加えた。


「取り敢えず、課長が制限時間内に食べ終わったら、柏木さんと別れて、再度お付き合いしましょうか」
「制限時間?」
「現在時刻は21時55分です。あと十分で食べ終わって出て行ってください。就寝時間をずらしたくありません」
「分かった」
「因みに、そのチョコは四ヶ月物なので、少々硬くなっていますから気をつけてください」
「ああ」
 バレンタインの時、手付かずで残した物だと既に予想していた友之は、納得してそれを手に取った。


(確かに、随分冷えているな。バレンタインの時から、冷蔵庫に保管していたみたいだが)
 指先から伝わる冷感に、友之が少々不思議に思っていると、沙織が更に説明を付け加える。


「言い忘れましたが、実はそれ、冷蔵庫にしまうところ、うっかり冷凍庫に入れてしまい込んでいました」
「…………」
 事も無げに告げられた内容に、友之は無言で手にしたチョコを見下ろす。


(これは、嫌がらせなのか? でもこれ位、歯が欠ける事は無いだろうし、最悪珈琲で飲み下せば)
 そんな決意をしながら、友之がカチカチのチョコを口の中に放り込んだ瞬間、沙織から容赦のない台詞が浴びせられた。


「そういえば、今出したのは水出しアイスコーヒーです。そろそろ暑くなってきて、飲みたくなったものですから。冷えてますか?」
「ああ……、良く冷えている」
「それは良かったです」
 なかなかの硬度のチョコを口に含みながら、アイスコーヒーが入ったカップに口を付けた友之は、にこやかに微笑んだ沙織を見て、彼女の怒りの程を悟った。


(うん、嫌がらせ確定だ。今までの能面顔との対比が眩しい笑顔が、余計に寒気を覚える。これを本当に時間内に食べきらなかったら、本当に叩き出されるな)
 そう推測した友之は、必死になってチョコを砕いて飲み下し、何とか制限時間以内に平らげる事ができた。


「それではお疲れ様でした。次に来る時は、手土産持参でお願いします」
「……分かった。失礼する」
「はい、おやすみなさい」
 引き続き笑顔でさっさと追い出しにかかった沙織に、友之は抵抗せず、おとなしく玄関から出て行った。それを見送って鍵をかけてから、沙織がひとりごちる。


「普通だったら手土産の催促なんて言語道断だけど、あれ位で済ませるなんて、私は本当に甘いわよね」
 そこで溜め息を一つ吐いた沙織は、軽く首を振ってから室内へと戻って行った。
 そんな事のあった日の週末、沙織のマンションを再び友之が訪問したが、持参した荷物に彼女は目を丸くした。


「いらっしゃい……。何なんですか? その大荷物は」
「沙織が『今度来る時は手土産持参』って言っただろう? それで従兄弟達に相談したら、こぞってこれが良いって推薦してきたから、全部持って来た」
「とにかく、上がってください」
 うんざり顔の沙織に促された友之は、靴を脱いで上がり込むと、頑丈な素材の大きな紙袋を二つ手に提げたまま奥に進んだ。そしてリビングに入ると、彼がそこのテーブルに中身を一つずつ取り出して、並べ始める。


「それで、これが玲二の分、これが清人さんの分、これが正彦の分、これが修の分、これが明良の分」
「…………」
 見事に化粧箱入りの日本酒ばかり並べられ、沙織のこめかみに青筋が浮かんだ。それに気が付かないまま、友之が説明を続ける。


「それでこれは、真澄さんが『日本酒ばかりだと飽きるかもしれないから、これを持って行きなさい』と持たせてくれたワインで、これは清香ちゃんが『お酒ばかりだと身体を壊すかもしれないから、偶にはこういう物も良いですよ』と持たせてくれたハーブティーだ」
 そこまで聞いた沙織の顔が、僅かに引き攣った。


「清香ちゃんって確か……、あのお花見の時にはいなかった、話だけはお伺いしたゆるふわ系お姫様の、従妹さんの事ですよね?」
「ああ。彼女はあの時、海外支社に飛ばされた恋人に会いに行っていてね。ただ『人によって好みがあるので、あまり好きじゃない香りだったらすみません』と断りを入れていたが」
「いえ……、面識の無い年下の方にまで、気を遣っていただいて恐縮です。確かにハーブティーとかも飲みますし、特に好き嫌いはありませんから」
「そうか。それは良かった」
 そこで安堵した表情になった友之だったが、沙織は一気に顔を強ばらせて叱りつけた。


「全っ然、良くありません!! あんた自分の従兄弟達に、私がどれだけうわばみだって、吹聴してるんですか!? ふざけんなぁぁぁっ!!」
 憤怒の形相で叫んだ沙織を宥めるのに、友之はかなりの努力と時間を要する事になり、それから暫く沙織は、酒には不自由しない生活を送る事となった。



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