酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(46)一難去って、また一難

 珍しく早く上がれた日。沙織は退社する人波の中に友人の姿を認め、駆け寄りながら声をかけた。


「由良、お疲れ。これから予定がないなら、何か食べて帰らない?」
「ああ、沙織。それじゃあ煉瓦亭で食べて行こうか。それにしても今日は、随分早く上がれたわね」
「今日は珍しく、さくさく仕事が進んでね。木曽さんの結婚祝いについて、ちょっと話したかったから」
 そう言いながら並んで歩き出すと、由良が思い出したように言い出す。


「あ、私も話したい事があったの。例の、松原課長のストーカー女の事なんだけど」
「また押しかけて来たの? こっちには、話が伝わってきていないけど」
「確かにあの騒ぎの後、一度だけ受付で押し問答になって警備員に追い出されたそうだけど、最近はここに入る前後に、阻止されているみたいなの」
「阻止って、誰に? 警備員さんにじゃないの?」
 曖昧な表現に沙織が不思議そうに問い返すと、由良も首を傾げながら、自分が知っている範囲の内容を口にした。


「警備員さんじゃないの。目撃した受付担当者の話だと、身元不明のスーツ姿の男性だそうよ。この会社の付近に例の女が現れた途端どこからともなく現れて、押し問答をしながら彼女を引きずって行くらしいわ」
 そんな微妙に物騒な話を聞かされた沙織は、無意識に顔を引き攣らせた。


「……何、それ?」
「本当に意味不明よね。それが何回か続いてから、その女がぱったりと現れなくなったらしいわ」
 由良が難しい顔で考え込んでいる横で、沙織は密かに推測した。


(それってひょっとして、柏木さんあたりが例の女に尾行を張り付かせておいて、会社や課長の自宅の付近に現れた途端、取り立てが厳しい業者に通報しているとか?)
 そんな想像をした沙織は、清人の容赦のなさに戦慄すると同時に、寧子の行動に呆れてしまった。


(だけど今時待ち伏せとか、即行で身柄を確保しに来るなんて、どんな所からお金を借りたのよ? 普通の銀行とかだったら、さすがに立ち寄りそうな場所に張り込むとかまではしないわよね?)
 しかし由良に余計な不審を抱かせないように、沙織はここでさり気なく当初の話題に戻した。


「だけど貴島さんと木曽さんの結婚、トントン拍子に決まったわね」
 それに由良が、即座に応じる。
「本当にびっくりよ。二人が付き合い始めたきっかけがきっかけだから、《愛でる会》の皆は知っていたけど」
「これに関しては良い仕事をしたって、誉められて良いよね?」
 笑顔で沙織が意見を求めたが、由良は若干冷たく見返してきた。


「はいはい、文句なく沙織の手柄よね。相変わらずゲン担ぎ希望女子社員の、松原課長への玉砕告白が続いているけど。もう何人目になっているのか、カウントもしてないわよ。そのたびに晒し者になっている課長が、気の毒で仕方がないわ」
 本気で同情しているらしいその声音に、沙織は薮蛇だったと肩を竦めた。


「その……、消耗品に関しては時々、課長にハンカチを差し入れしてるから……」
「当たり前よ! この不埒者が!」
 呆れ顔の由良に小突かれながら、沙織は目的の店に向かって歩き続けた。


(取り敢えず、これで課長の復讐は終わったのかしら? あの人が、あっさり引っ込むとも思えないけど……)
 二人で世間話をしながら足を進めた沙織だったが、一連の騒ぎについて完全に終わりなのかどうかを、密かに考えていた。




「友之、最近の様子はどうだ? 職場も家も、あの女がうろついたりはしていないよな?」
 清人が、確実に帰宅している時間を見計らって友之に電話してみると、落ち着き払った声が返ってきた。


「ええ。決裂した後も、しつこく接触しようとしていた形跡がありますが、いつの間にか会社にも家にも、姿を見せなくなりましたね。清人さんの方で、何かしましたか?」
「大した事はしていない。いまだに尾行を張り付かせて、松原工業やお前の家周辺に姿を見せた段階で、たちの悪い貸し出し先に、匿名で通報させているだけだ」
「どんな業者に、金を借りたって言うんですか……」
 うんざりしながら応じた友之に、清人が冷笑しながら告げる。


「金を浪費して、返済が覚束無いと思われた貸出先にせっつかれたから、取り敢えず他から借りて、そこに返済したんじゃないのか? ブラックリストに載る上に、借りる先も段々たちが悪くなっていく一方なのにな」
「しかし、まだ私や妹さん達に、金を払わせるつもりでしょうか?」
 訝しげなその声音を聞いた清人は、呆れ顔で吐き捨てた。


「はっ、冗談だろう? お前達がそんな事をする、義理も理由も無いからな。裁判に持ち込んでも、勝てる見込みがない。訴訟を引き受ける弁護士がいたら、そいつはハナから勝つ気なんか無い、手付け金目当てじゃないのか?」
「そうかもしれませんね」
 そこで清人は真顔になって、念を押した。


「念の為、あと半年は、あの女の素行調査を続けさせるからな」
「はい、費用は全額お支払いします」
「ああ、金を惜しむなよ? あの女が逆恨みして、妙な気を起こさないとも限らないからな」
「分かりました」
 そこまで神妙なやり取りをしてから、清人は口調を変えて尋ねた。


「ところでお前、あの女とはどうするんだ?」
「……沙織の事でしょうか?」
 何気なく尋ねたものの、友之が答えるまでに妙な間が空いた為、清人は忽ち渋面になる。


「聞き捨てならんな。他にも女がいるとか言うなよ?」
「いませんよ。分かっているくせに、虐めないでください」
「話を誤魔化すな。あいつと本気で、よりを戻す気はあるのか?」
「勿論、ありますよ。ありますが……」
「何だ?」
 どうにも煮え切らない口調に、徐々に不機嫌になりながら清人が話の先を促すと、友之がぼそぼそと、思うところを告げてくる。


「この間沙織は、職場で俺に普通に接していまして、全く動じて見えなかったんです」
「何よりじゃないのか? お前だって、下手に気を使わなくて良かったじゃないか」
「それはそうなんですが……、寧ろ絶好調だったんです。営業成績も鰻登りで」
「益々結構じゃないか」
「それで沙織にとって俺は、別れても微塵も動揺する事が無い程度の存在なのかと、考え込んでしまいまして」
「……だから? 結局お前は、何が言いたい」
 苛々するのを堪えながら聞いているうちに、相手が言いたいことが分かってしまったものの、清人は一応冷静に話の続きを促した。すると友之が、予想に違わない事を告げてくる。


「今更どの面を下げて、また付き合ってくれと言えば良いのかと」
「このどアホ!! そんな事位、自力で考えろ! あとはもう知らん、切るぞ!!」
 黙って聞くのもここまでだとばかりに怒鳴りつけ、清人は通話を終わらせて、使っていたスマホをソファーに放り投げて悪態を吐いた。


「全く、ろくでもない」
 その一部始終をすぐ側で眺めていた真澄が、恐る恐る声をかける。
「ええと……、その、清人?」
「アホらしい。風呂に入って来る」
「あ、ちょっと待って!」
 憤然として部屋を出て行った清人を見送った真澄は、放置されたスマホに視線を移して溜め息を吐いたが、男二人のやり取りを聞いていた為、一応フォローをしておこうと自身のスマホを取り上げた。


「……そういうわけで、近々改めて友之から交際の申し込みがあるかと思うのだけど、できれば沙織さんには穏便な物言いと対応をしてくれたら、こちらとしてはもの凄く嬉しいし、助かるのだけど……」
 恐る恐る沙織に電話して、控え目に要請してみた真澄に、彼女はすこぶる冷静に言葉を返した。


「お話は良く分かりました。その上で一つお尋ねしますが、私が課長を含めた真澄さん達に対して、特に配慮しなくてはいけない理由が、存在しているのでしょうか?」
「……いえ、存在していません」
「それから男女問わず、三十過ぎの大人を甘やかすのは、止めた方が宜しいかと思います」
「ごもっともです」
「取り敢えず、私は真澄さん達から聞いている裏事情については、このまま何も知らない方向で押し通しますから。課長が何をどう言ってくるかは不明ですが、今後の事は本人次第ですね」
「そうですね。宜しくお願いします」
 ひたすら神妙に真澄が頭を下げている気配が、電話越しにも伝わったのか、沙織は最後だけは口調を和らげて挨拶してきた。


「それでは、お話がお済みのようですので、失礼します」
「はい、夜分お電話して、申し訳ありませんでした」
 その通話を終わらせてから、真澄はしみじみと独り言を呟く。


「やっぱり手強いわ。友之、頑張ってね」
 沙織の口調から、あまり酷いことにはならないとは思うものの、真澄は不安を拭い去る事ができなかった。





コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品