酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(44)終幕の始まり

「ただいま戻りました」
「おう、関本、佐々木、お疲れ!」
「随分遅かったな。首尾はどうだった?」
「ばっちりです。先輩が新規契約を二件、もぎ取ってきました」
「私だけで取ったわけじゃないわよ。取り敢えず課長に報告しましょう」
 職場に戻って、普段と同じように同僚達に挨拶した沙織達は、そのまま課長席に向かった。


「課長、戻りました。今日の外回りの報告をする前に、帰社した直後に遭遇したトラブルについてご報告したいのですが」
「社内でトラブル? 構わない。何があった?」
 その台詞に、友之が真顔になって見返してくる中、沙織は淡々と報告した。


「受付で寺崎寧子と名乗る、四十代後半とおぼしき女性が、自分は松原課長の恋人だから取り次げと喚いておりまして、受付担当者にはねつけられておりました。当然ですね。課長は今までお付き合いしていた方々を、職場に呼びつけた事などありませんし」
「だいたい、本当に付き合っているなら、個人的に電話やメールで連絡を取れば良いだけの話じゃないですか。それなのに電話が通じないからここに来たって、おかしいですよ」
「……それで?」
 沙織と、呆れ顔で付け足してきた佐々木の台詞を耳にした周囲の者達は、一斉に課長席に視線を向けた。そして友之は無表情になって、話の続きを促す。


「受付の方が対応に困っておりましたので、私がその方に『うちの課長は老け専じゃない、勘違い女はお呼びじゃない』的な事を言いましたら、その方が激高されました」
「…………」
 それを聞いた友之は無言で顔を引き攣らせたが、周囲の者達も同様だった。


「おい、佐々木。関本の奴、本当にそんな事を、その女性に面と向かって言ったのか?」
「要約すればそうです」
「『そうです』じゃなくて、黙って見てないで止めろよ」
「止める暇なんかありませんでした」
 こそこそと囁いてきた先輩達に、佐々木も小声で弁解する中、沙織の報告が続く。


「あげくの果て、課長から贈られた指輪があると主張して、それを誇らしげに見せびらかしたのですか、指の太さと合って無いのが一目瞭然でしたので」
「先輩、そこだけは突っ込ませてください。普通の人は、パッと見ただけでは分かりません」
「それで一応、有無を言わせず両手の全ての指に填めてみても、やはり全く合わなかったので、大方そこら辺の質流れ品でも購入して、それを課長からのプレゼントだと妄想しているうちに、それが真実だと思い込んだと推察しました」
 佐々木の台詞を半ば無視して話を続けた沙織は、ここで改めて友之に確認を入れた。


「因みに課長。お付き合いしている方は今現在おられないと少し前に伺いましたが、自称寺崎寧子さんと、お付き合いはしておりますか?」
「していない」
「そうですよね。それでは、また件の女性が来訪したらすぐに追い払って貰えるように、警備室の方に情報を流しておきます。佐々木君、お願いね」
「はい、お任せください! 即刻データを送っておきますので」
 力強く佐々木が頷いたところで、友之は座ったまま二人に頭を下げた。


「二人とも面倒をかけたな。すまない」
「いえ、課長には以前個人的にお世話になりましたので構いません。それでは、今日の報告に移ります。無事に新規契約を締結してきた、二件に関してですが……」
 そしてすぐに話を切り替えて、その日の首尾を説明し始めた沙織の背後で、同僚達が顔を見合わせて囁き合っていた。


「ここのエントランスでの話だろ? 退社時間と重なって、凄い噂になっているだろうな」
「明日以降、興味本位の奴らから、こぞって問い詰められるぞ」
「関本の手が空いたら、もう少し詳細を聞いておくか?」
 それから数分で簡単な報告を終わらせた沙織は、佐々木と共に自分の席に戻って、鞄の中から必要な書類を出して整理しつつ考え込んだ。


(だけど分からないわね。あの女性、指輪を自分の指に填めてみたわけじゃないのかしら? おそらく以前はピッタリだったのに、関節が太くなって合わなくなったのよね)
 妙に気になったサイズが異なる指輪を思い返し、沙織はすっきりしない気分のまま、後処理に取りかかる。


(それともサイズが合わないのは分かっていて、持ち歩いていたとか? その理由って、何かしら?)
 自分だったら絶対にしない行為に関して、沙織は眉根を寄せて考え込んだ。


(課長を呼び出して会う気だったみたいだし、これから一緒に飲みながら指輪を大事にしてるとか、貰って嬉しいとかアピールしたかったとか? それとも、せっかく再会の記念に貰ったから、サイズを変えるのは気が引けるし、新しい物が欲しいとかアピールする為に持参したとか?)
 色々それらしい事を考えてはみたものの、どうにも納得できなかった為、苛立たし気に無意識に呟く。


「どんな心境なのか、全然分からないわね。分かりたくもないけど」
「……分からないのはお前だ、関本」
 そこで唐突に背後から声が聞こえてきた為、沙織は我に返って椅子に座ったまま振り返った。


「え? 瀬尾さん、中井さん、どうかしましたか?」
「戻るなり、何をぶつぶつ言ってる。さっき言ってた変な女の事を、もう少し詳しく説明しろ」
「あ、それは俺から説明します。先輩は取り敢えず、報告書の作成に取りかかってください」
「分かったわ。佐々木君、宜しく」
 渋面で説明を求めて来た先輩たちの相手を佐々木に任せ、それから沙織はさっさと退社するべく、仕事に集中した。


「清人さん、友之です」
 その日の夜、自宅に戻ってから友之が自室で電話をかけると、相手は何か言う前におかしそうに言い返してきた。


「ああ。今日は会社で、随分と面白い事があったらしいな」
「もう把握済みですか」
「あの女に変な人間が繋がっていたら面倒だから、興信所の人間を張り付かせておくと言っただろう? 今日無事に裁判所での手続きが済んで、銀行口座の名義も夫から自分に変えて早速現金を手にして、お前と祝杯を上げようと思ったんじゃないのか?」
 それを聞いた友之は、納得して一人頷いた。


「ああ、そういう事でしたか。今日は会議が立て続けにあったので、どちらのスマホもマナーモードにしていたのですが、あの女用は面倒くさくて会議後も直していませんでした。そういう気分でもなかったですし」
「お前も随分、やさぐれてきたな」
 思わず茶化すように清人が口を挟むと、友之が面白く無さそうに説明を加える。


「それで連絡が付かないから驚かせてやろうとばかりに、堂々と会社に乗り込んで来たわけですね。挙句に沙織に馬鹿にされて追い返されましたから、どうせ文句を言ってくるだろうと思ったので、スマホはあれから電源そのものを落としておきました」
「それで正解だな。小娘にあっさり撃退された上にお前からの連絡もフォローも無くて、あの女はすっかり臍をまげて、今現在憂さ晴らしに、ホストクラブに乗り込んで豪遊中だ。どこまでも都合良く、手のひらの上で踊ってくれる女だな」
 それを聞いた友之は、それまでの不機嫌さを忘れて笑ってしまった。


「それはそれは……。もう少しおとなしくしているかと思いましたが、手間が省けましたね」
「全くだ。動画も写真もしっかり撮れているから、安心しろ。これまでにあの女がどこからどれだけ借りたのかも、全て把握しているしな。ところで、社内で変な騒ぎにはなっていないか?」
「ちょっとした騒ぎにはなるでしょうが、ちょっと頭のおかしい女が妄想をこじらせて、俺に付きまとっていると言う内容で沙織が吹聴しましたから。あまり気にする事は無いでしょうし、その対処位は自分でします」
「そうだな。それじゃあいよいよ本当の資産状況が露見するだろうから、あの女との連絡用に渡したスマホは、さっさとデータを全て消去した上で廃棄しろ」
 そこでがらりと口調を変えて厳命してきた相手に、友之も神妙に応じる。


「それは構いませんが、向こうには記録が残っていますよね?」
「明日にでもバッグごと引ったくりにあって、盗難届けを出してデータ保持を願い出る前に、全てのデータを破棄して、新しい機種に変えても履歴を引き継げないようにする手筈になっている。お前からの連絡は、家の固定電話に連絡を入れていた事にしろ」
「ええ、後で捜査当局から回線記録の開示を求められても不審に思われないように、何回かはそうしています。ところで、あれは誰の名義のスマホですか? その人に迷惑がかかるのでは……」
「知らん。俺もある筋から買っただけだ」
 淡々と述べた清人に、友之は半ば呆れながら今更の感想を口にした。


「そうですか……。本当に清人さんは色々分からない上に、無駄に広い人脈の持ち主ですよね」
「誉め言葉と受け取っておこう。それじゃあ最後まで気を抜くなよ?」
「はい、分かっています。失礼します」
 そうして通話を終わらせた友之は、傍らに置いてあった寧子専用のスマホを見下ろしながら、悪態を吐いた。
「はっ、男を侍らせて祝杯か。せいぜい気持ち良く酔っておくんだな。散財できるのも今のうちだ」
 するとここで、ノックに続いて義則が部屋に入って来た。


「友之」
「父さん、どうかしたのか?」
「今、家の電話に寺崎と名乗る女からかかってきて、お前を出してくれと言われたが、息子にはそんな名前の知り合いはいないと断って切った。その上で、着信番号を拒否設定にしておいた」
 それを聞いた友之は、神妙に頭を下げた。


「手間をかけさせて悪いね」
「それは構わないが、退社前に秘書の新見さんから聞いた話から察するに、いよいよ終盤なのか? それならその女が、ここに押しかけてくる可能性もあるな?」
「その危険性はあるな。だけど新見さんと言えば確か……」
「以前に関本さんから聞いたが、《愛でる会》現会長だな。恐るべし、愛でる会のネットワークと伝達スピード、という事か」
「そうらしいね」
 そこで思わず男二人で笑い合ってから、再び真顔になった。


「母さんには今から、真相は誤魔化しながら説明しておく」
「それなら警備会社にも、早速話を通しておこう。当直担当者には繋がるだろうから、明日以降巡回回数を増やして貰わないとな」
 手短に情報共有を済ませた親子は、早速行動に移った。



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