酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(38)沙織の裏工作

 柏木夫妻と遭遇した翌朝。沙織が予想していた通り、友之が出勤してくるなり物言いたげな声をかけてきた。
「おはよう、関本」
 背後からかけられた声に、座っていた沙織が椅子ごと振り返り、見上げながら挨拶を返す。


「おはようございます、課長」
「昨日の件だが……」
「柏木さんから、聞いていませんか?」
「一応、説明は受けた」
「それでは、そういう事ですので」
「……少々、納得しかねる所があるんだが」
 素っ気なく話を打ち切った沙織だったが、友之は疑わしげに彼女を見下ろした。するとそのやり取りを聞いていた佐々木が、隣の席から不思議そうに尋ねてくる。


「先輩。柏木さんって、誰の事ですか? 取引先にそんな名前の人がいましたか?」
 その問いかけに、沙織は笑って手を振った。


「違うの。昨日ここを出て帰ろうとしたら、近くに威圧感があるベントレーが停まっていたから、どんな人が乗ってるんだろうな~って眺めながら歩いていたら、反対側から歩いて来た人とまともにぶつかって、派手に転んじゃったのよ」
「転んだって、大丈夫だったんですか?」
 驚いた顔になった彼に、沙織が苦笑しながら話を続ける。


「何とかね。それが偶然にも、課長の従姉にあたる、柏木産業の社長令嬢だったわけ。『そちらの怪我が後から酷くなった場合に備えて、名刺を交換して欲しい』と言われて確認したら、それが分かったのよ」
「そうだったんですか。凄い偶然ですね」


「ええ。柏木さんはこの近くに商談で来ていて、終了後は直帰だったそうで、わざわざご主人が車で迎えに来ていたの。それで柏木さんも、車の方に目を向けていて、お互いに前方不注意だったわけ。さすが柏木産業創業家。車も気合い入っているわよね」
 それを聞いた佐々木は、心底感心した風情で頷いた。


「確かに凄いですし、ご夫婦仲も良好なんですね」
「そうなの。その後『お詫びに是非夕食をご一緒に』と夫婦揃って誘われて、お相伴に預かったんだけど、ご主人がまめまめしくお世話していたわね」
「そうなんですか」
「…………」
 素直に佐々木は頷いていたが、友之は微妙な顔付きで無言を貫いていた。


「それで色々話をしながら食べ進めていたら、なんだか妙に気に入られてしまったみたいで、『決まった人が居ないなら、私の弟はどうかしら? あなたみたいな人が義妹だったら嬉しいわ』とかまで言われちゃって、困ったわ~」
「えぇ!? 何も困る必要なんか無いじゃありませんか! 身元がはっきりしているし、身内に気に入られているし、ちゃんと真っ当に働いている人なんですよね?」
「ええ、美容師さんなの。年も私とそう変わらないし」
 沙織はいつも通り淡々と話を続けたが、佐々木は嬉々としてそれに食い付いた。


「手に職を付けているなら、益々結構ですよね! これはチャンスですよ、先輩!」
「別に佐々木君が、そこまで興奮する事は無いでしょう?」
「本当に先輩は、淡々とし過ぎですよね! これは絶対お勧めですよ? もっと前向きに検討しましょう!」
「はぁ……、そんなものかしらね。取り敢えず今度の日曜、花見に呼ばれたけど」
「花見?」
 唐突に出て来た単語に佐々木が不思議そうな顔になった為、沙織が説明を加える。


「柏木さんのお宅の敷地内に、立派な桜の木があって、毎年親しい人を招いてお花見をするそうなの」
「そんな内輪の会に呼ばれるなんて、本物ですよね! 先輩、頑張って下さい!」
「何をどう頑張るのよ?」
「ですから、普段商談成立に向けている時と同等のエネルギーを、もう少し縁談に向けましょう!」
「……まあ、頑張ってみるわ」
「先輩! もっと本気出しましょうよ!!」
 素っ気なく話を終わらせた沙織に向かって、佐々木がじれったそうに訴えたが、ここで一連の話を聞くともなしに聞いていた周囲が、笑って宥めてきた。


「佐々木、気持ちは分かるが落ち着け」
「そうそう。関本はこれが通常運転だからな」
「今更、不必要に愛想を振りまくなんて無理だろう」
「だが確かに良縁だよな、柏木家と縁続きになれるなら」
「確かにな。ヘマをしない程度に頑張れ」
「皆さん、他人事だと思って……」
 完全に面白がって口を挟んできた周囲を軽く睨み付けた沙織は、ふと背後に目を向けて友之がいなくなっている事に気が付いた。


(あれ? いつの間にか居なくなってる)
 そして彼が自分の席に着いている事を確認してから、沙織は自問自答した。


(取り敢えず今の話で、筋は通っているわよね。披露宴の時のヘアセットの時に、玲二さんとは顔を合わせているから、花見の席では改めて紹介するって話になってるし。そっちの事情を聞いていないふりをしてあげているんだから、これ位の嫌がらせは甘んじて受けなさいよね!)
 そんな八つ当たりじみた事を考えつつ、沙織はその日の仕事に取りかかろうとしたが、ここでポケットの中で震えたスマホに気が付いた。


(あれ、由良から? 随分急だけど、何か話でもあるのかしら?)
 それは、その日の昼食をできれば一緒に取りたいとのメールだったが、普段なら当日に行ってくる事などまずない為、沙織は首を捻りつつ自身の休憩予定時間を相手に送った。




「由良、お待たせ。遅れちゃってごめん」
 手がけていた仕事に微妙にキリが付かず、約束の時間に十分程遅れて待ち合わせ場所の定食屋に到着した沙織は、二人掛けの席に座りながら開口一番謝った。しかし由良は、却って申し訳なさそうな顔になる。


「うん、良いのよ。休憩の時間が合って良かったわ」
「何か急に、顔を合わせて話したい事でも有ったの? メールじゃ駄目なわけ?」
「うん……。何というか、メールで問い質しても良かったんだけど……」
(何だろう? 由良らしくない、この煮え切らない感じ)
 口ごもっている由良を不思議に思いつつ、沙織が手早く日替わり定食を注文すると、店員がいなくなったタイミングで、由良が重い口を開いた。


「あのね、沙織。今、松原課長って、付き合ってる人はいるの?」
 真剣な顔でいきなりそう問われた沙織は、少々動揺しながら答えた。


「え? い、居ないけど?」
「前に、風間電装のOLと別れた事を教えて貰ってから、結構時間が経ってるよね?」
「そっ、それはそうだけど、誰とも付き合っていない時期だってあるんじゃない?」
 つい最近まで密かに付き合っていた身としては、後ろめたい事がありありだった為、沙織の態度が微妙に怪しい物になる。当然、入社以来の付き合いである由良は、それはそれは疑わしそうに彼女を凝視してきた。


「……本当に? 沙織が知らないだけとか? それとも何か、心当たりがあるんじゃないの?」
「それは……」
(え? 何? ひょっとして、課長と付き合っていた事がバレたの? カマかけられてるとか? でも今現在は付き合って無いし、何も疚しい事は無いわよ!?)
 ダラダラと冷や汗を流しながら沙織は固まったが、ここで由良は声を潜めて言い出した。


「実は昨夜、見ちゃったのよ」
「見たって、何を?」
「松原課長が、女と腕を組んで歩いてるところ」
 真剣極まりない表情でそんな事を言われてしまった沙織は、自分が疑われているわけでは無い事が分かって安堵した半面、予想外の事態に辛うじて叫び出したいのを堪えた。


(げ!? 課長ったら残業後に、例の女と会ってたの? しかも顔見知りに目撃されてるって、馬鹿ですか! 迂闊過ぎる!)
 そして色々言いたい文句を飲み込みながら、沙織は慎重に相手について尋ねてみた。


「因みに、その女性ってどんな人だったの?」
 沙織がそう尋ねた瞬間、由良の顔が渋面になる。


「それがさぁ……。上手く言えないんだけど、一応美人の範疇には入ると思うのよ? 入るとは思うんだけどさ……、松原課長と釣り合わないって言うか、見た感じペラペラって言うか、ベタベタって言うか、ネトネトって言うか……。簡単に言うと、年増で下品?」
「…………」
「ごめん、語彙力が無くて」
 咄嗟に言葉が出ずに無表情で黙り込んだ沙織を見て、由良は呆れたと思ったのか、軽く頭を下げた。それに沙織が、軽く首を振って応じる。


「何となく、言いたい事は伝わったから……。それで由良は、これまでの傾向から外れた不似合いな女性と、課長が一緒に居るのを目撃したから、私に事情を知っているのかどうか、直に問いただしたかったわけだ」
「そうなのよ。で、どうなの? 本当に沙織は知らないわけ? 職場でも秘密にしているとなると本命っぽいけど、本当にそうなのかしら? もしそうだとしたら、凄いショックなんだけど!?」
「ええと……、それは……」
 心配そうにそんな事を訴えられて、沙織は頭を抱えたくなった。


(課長ったら、偶然遭遇したとはいえ、由良に何を見られてるのよ!? 『腕を組んであるいてた』だぁ? 今までの女性経験を駆使して、適当にあしらっておきなさいよ!! とはいえ、これを放置しておいたら、社内で変な噂が広がるかもしれないし。全く! どうして私がこんなフォローをしなくちゃいけないの!)
 友之に対して完璧に腹を立てつつも、とてもこのまま傍観できないと判断した沙織は、必死に考えを巡らせてから、真顔で由良に申し出た。


「由良、それなんだけど……。ここだけの、もしくは《愛でる会》内だけの話にしてくれるかな?」
「あんたがそうしてくれって言うなら、そうするけど。どういう事?」
 お互いに軽く身を乗り出しつつ頷き合ってから、沙織は幾分声を潜めて作り話を口にした。


「実は課長、少し前から、面倒な女性に付きまとわれているのよ」
「何それ!? ストーカーって事?」
「ストーカーとはちょっと違うかな? 堂々とつきまとっているし」
「意味が分からないんだけど。もっと詳しく教えて」
 真剣極まりない表情になった由良に、沙織も負けず劣らずの表情で話を続けた。


「私も課長から、詳しく聞いたわけじゃないのよ。偶々愚痴混じりに、職場で話を聞いただけで。ほら、課長は基本フェミニストじゃない? 目の前で女性が何か落とし物をしたり、道に迷って困っていたりしたら、無条件に助けるだろうし」
「うん、それはそうでしょうね。それで?」
「課長としては何気なく、当然の事をしただけらしいんだけど、相手の女性は自分に好意を持っているから、課長が声をかけてきたと勘違いしたらしいの」
「……うわ、頭悪そう」
 そこで心底嫌そうに、由良が呟く。沙織はそれに小さく頷いてから話を続けた。


「しかも初対面の時、課長が気が付かないうちに、スマホとか手帳とか盗られていたらしくて、『あの時お忘れでしたからお渡しします』とか、強引にまた会う約束を取り付けられた挙げ句に、個人情報を何か盗られたらしいの」
 沙織がそこまで言った途端、由良は血相を変えて声を荒げた。


「ちょっと待って! それって明らかにストーカーでしょ! 危険人物確定じゃないの! 警察に通報していないの!?」
「うぅ~ん、それどうなんだろう? どんな情報を盗られたか、はっきり分かっていないっぽいし、現実的に被害を受けたわけじゃないし……」
「十分、被害は受けてるでしょ!? まとわりつかれているんだから!!」
「それでも警察からしてみれば、単なる男女間の痴情のもつれ位の認識で、実際に被害が出ないと動いてくれないよね? だから課長は適当に相手の要求に応じつつ、穏便に事を済ませるように交渉している真っ最中みたいなのよ。ごめん、私も詳しく聞いたわけじゃなくて、漠然とした事しか知らないけど……」
 動揺した由良とは裏腹に、沙織は冷静に正論を述べた。それで幾分落ち着いた由良が、いつもの口調で確認を入れる。


「取り敢えず、事情は分かったわ。課長とその女は付き合っていない事で、間違いはないのね? そんな女にまとわりつかれているから、今現在、他の女性と付き合えないって事もあるんじゃないの?」
「それはあるかもね」
「許せないわ……」
 本気で怒り出した由良を見た沙織が、ここで慎重に頼み込む。


「それでひょっとしたら、今後、その女が会社の近辺に現れる可能性もあるから、偶々課長と一緒のところを知り合いに見られて変な噂が立つかもしれないけど、万が一そんな噂を耳にしたら、付き合ってる云々の内容は潰して貰いたいの」
 それを聞いた由良は、鋭い視線で確認を入れた。


「その場合、相手の女のタチの悪さは、言っても良いわよね?」
「詳細ははっきりしていないけど、課長の本意じゃ無いんだから、それは構わないと思う」
「分かった。耳にしたら、即刻潰しておくわ。それから受付業務に入る人達の間には、それとなく伝えておいても良い? 万が一、その人が松原課長の所に押し掛けてきた場合、すぐに通したり課長に連絡したら拙いと思うから」
 そう指摘されて、沙織は素直に頷く。


「ああ……、うん。そうかもね。基本的にアポイントメントが無い人間は社内に入れない事になってるけど、変な人間は通さないように、さりげなく徹底して貰えたら助かる。課長がのこのこ一階まで出向いたら、それを目撃した社員からまた変な噂が広がるかもしれないから、まず私に連絡がくるようにできたら、私が何とかするわ」
「沙織に?」
「うん。女の私が会っていても、別に噂にはならないでしょ? 課長の手を煩わせずに、適当に言いくるめて追い払う位はするから」
「なるほど、それもそうね。愛でる会の皆に、周知徹底しておくわ。特に受付業務に入る人たちの間には、しっかり話を通しておくから」
「お願い」
 力強く頷いてくれた由良に、沙織が安堵していると、丁度ここで頼んでいた定食が届いた。それから早速二人で食べながら世間話に花を咲かせたが、やはり話題の中心は友之の事だった。


「だけど本当に、松原課長は災難ね。とんでもない女に見込まれたものだわ」
「課長だって本当は、もっとはっきり突き放したいと思っているわよ。だけどうちの社長令息だし、対応を誤れば会社の名前にも傷がつきかねないと、苦慮しているみたいなの。だから色々宜しくね?」
「任せて。松原課長を煩わせる女の、好き勝手にはさせないわ」
 やる気満々で食べ進める由良を見ながら、沙織は密かに胸を撫で下ろした。


(これで取り敢えず、今後社内で変な噂が広がる事は、阻止できたかな? 本当に会社に押し掛けて来るかどうかは五分五分だけど、課長が相手を騙す事前提なら怒鳴り込んで来る可能性が高いし、臨機応変に対応しないとね。全く、どうして私が陰でこそこそこんな苦労を)
 心の中で愚痴を零しながらも、沙織は傍目には何事も無かったように定食を食べ終え、職場へと戻った。







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