酸いも甘いも噛み分けて
(34)バレンタインの別れ話
寒くなってからも、どこで寒さをしのいでいるのか未だに分からないジョニーは、時折フラッと沙織のマンションを訪れていた。
「ジョニー様! いらっしゃいませ! 寒いですので、どうぞお早く中に」
「なぁ~ご」
ベランダから聞こえた鳴き声に、沙織が掃き出し窓に駆け寄ってカーテンと窓を開けると、まるで「邪魔するぞ」とでも言わんばかりに一声鳴いた彼は、悠々と室内に足を踏み入れた。
「さあ、どうぞ。しかし本当にジョニー様は、ミステリアスな猫ですよね」
がっつく事無く、艶やかな毛並みのまま優雅に食べている彼を見下ろしながら、沙織は何気なく今ここには居ない、自分の事を大型犬呼ばわりした人物の事を思い出した。
「そう言えば最近、ジョニー様に負けず劣らず育ちが良い大型犬も、偶にここに顔を出すようになったんですよ? でも初対面の時以降、二人が鉢合わせした事は無いんですよね」
「にゅあ~ん?」
そう言ってクスクス笑った沙織を、ジョニーが食べるのを止めて不思議そうに見上げる。しかし彼はすぐに食べるのを再開し、沙織はその様子を眺めながら真顔で考え込んだ。
「よくよく考えてみたら、年が明けてからはここに二回しか来てないかな? 今月に入ってからは、なんだか忙しそうにしていて、一緒にご飯も食べていないんだけど……」
そして頭の中で日付を確認してから、沙織は真顔でジョニーに問いかける。
「ジョニー様。私、早くも飽きられたんでしょうか?」
「にゃ~う?」
そこでタイミング良く顔を上げたジョニーが、更に首を傾げてみせた為、沙織は思わず笑ってしまった。
「こんな事を言っても、分かりませんよね? 失礼しました。でもこの状況でチョコを用意して良いものかどうか、正直迷っているんですよ……」
「な~ぅ」
そんな事を苦笑しながら口にした沙織をジョニーは再度不思議そうに見上げ、出されたキャットフードを綺麗に平らげてから、アドバイスなど当然する事も無く、悠然とマンションを後にした。
「おはよう、沙織!」
「おはよう、由良」
出社途中で前方に沙織を発見した由良が、足早に追いかけて挨拶した直後、彼女がいつもの鞄の他に紙袋を提げているのを認めて、小さく苦笑いした。
「今年も早々と預かったのね」
中身は見えなかったものの、半ば断定するように告げると、沙織が真顔で頷く。
「そうなのよ。改札を抜けてから、すぐに呼び止められて。今日一日は社内移動時も、紙袋は必須よね」
「毎年ご苦労様。それじゃあ、私のも宜しく」
毎年バレンタインデーに、友之へのチョコの受付係となっている沙織は、それを慣れた手付きで受け取って紙袋に入れた。
「確かに預かったわ。だけど本当に、課長に直接ぶち当たる人っていないわよね」
「松原課長の業務の妨げにならないように、愛でる会の通達が社内隅々にまで徹底されて、慣例化しているもの。これは何と言っても、初代会長の衣川さんの功績だと思うけど」
そこで既に結婚退職して久しい女性の事を思い出した沙織は、しみじみと感想を述べた。
「……うん、威圧感バリバリの人だったよね。並の重役より迫力有ったわ」
「沙織にそこまで言われる位、本当に凄かったわね。じゃあ職場で義理チョコを配る準備があるから、先に行くわ」
「うん、それじゃあね」
そして笑顔で手を振って由良と別れた沙織だったが、すぐに小さく溜め息を吐いた。
「例年、窓口になっている上に、お裾分けまで貰っている私が、今更どんな顔をして渡せと……」
鞄の中に入れてきた物の事を考えて、再度溜め息を吐いた沙織だったが、ここで「関本さん、おはようございます!」と声をかけられた為、笑顔で声のした方に向き直った。
結局、出社するまでに五個のチョコを預かった沙織は、かなり微妙な心境で職場に足を踏み入れた。
「おはようございます」
そんな沙織が、いつもの鞄の他に紙袋を持参している事に目ざとく気付いた者達が、おかしそうに声をかけてくる。
「おう、おはよう」
「関本、今年も早速、出勤途中で貰って来たのか?」
「はい。もう恒例行事ですから」
そのまままっすぐ課長席に向かった沙織は、既に席に着いていた友之に挨拶した。
「課長、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「今年も複数の方から、バレンタインのチョコをお預かりして来ました。例年通り、きちんと所属先と名前を記入したカードを付けてあるのを確認してあります」
そう言って沙織が差し出した紙袋を、友之は僅かに動揺した様子を見せながらも、素直に受け取った。
「……分かった。確認してから、皆に食べて貰う」
それ以上余計な事は言わずに席に戻った沙織だったが、仕事の準備をしながら友之の顔を盗み見して考え込んだ。
(貰った人全員を把握した上で、ホワイトデーにきちんとお返ししてるんだから、本当にまめだよね。変な物が入らないように手作り厳禁とか、課長がお返しの時に困らないようにカード添付とか、衣川さん主導で進めたらしいけど)
そして、他の人間からのチョコと一緒に渡して良いものかと悩んだ挙げ句、まだ鞄に入れっぱなしになっている自分のチョコを思い出した沙織は、無意識に困った顔になった。
(一応付き合ってる身としては、他の女性からチョコを貰うのは、控えて貰うように言うべきかしら? でも付き合い自体、秘密にしているわけだしね……。あれ?)
そこでスマホが静かに震えてメールが届いた事を伝えて来た為、それをポケットから出して確認した彼女は、反射的に友之に顔を向けた。
(随分、急な話……。それに面白がってわざと関係無い書類に挟み込んできたり、即刻削除必須の暗号じみた社内メールとかじゃなくて、勤務時間中にまともなスマホへの連絡って珍しい……)
いつもとは違う連絡方法に、一瞬何事かと思ったものの、沙織はすぐに気持ちを切り替えた。
(うん、まあいいか。それならチョコは、夜に渡せば良いしね)
そう自分を納得させた彼女は、何となく落ち着かない気分のまま、その日の仕事に取りかかった。
その日、連絡があった通り、友之は九時過ぎに沙織のマンションを訪れた。
「やあ、遅くにすまない」
「まだそれほど遅くはありませんが……。夕飯は要らないという話でしたけど、ちゃんと食べて来ましたか?」
「……ああ、一応」
「そうですか。取り敢えず上がって下さい」
明らかにいつもとは異なる、微妙に重苦しい空気を纏わせている友之に声をかけながら、沙織は密かに考え込んだ。
(何だろう? 妙にテンションが低い……。何となく想像は付くけど)
そう思いつつ余計な事は言わずに沙織は珈琲を淹れ、彼用のマグカップにそれを注ぎ、ついでに用意していたチョコを小皿に乗せて彼の所に持って行った。
「どうぞ」
「……ありがとう」
友之は礼を言って、すぐにマグカップを手にして珈琲を一口飲んだものの、チョコには見向きもせずに俯いたまま黙り込んだ。そのまま一分程経過してから、沙織が声をかけてみる。
「それで? 今日は何のお話ですか?」
「その……」
「はい」
「…………」
しかし顔を上げて自分と真正面から向かい合った友之が、何やら後ろめたそうに視線を逸らして再び黙り込んだ為、沙織は少々苛つきながら話を進めた。
「あのですね……、友之さんは別れ話とかは、それなりに場数を踏んでいるんじゃ無いんですか? 別に短期間で別れるとか、私は別に気にしていませんけど?」
「いや、別れ話とかじゃ無い」
「それなら何ですか?」
てっきりその類かと思っていた沙織は、当惑しながら尚も尋ねると、友之がは益々意味不明な事を言い出した。
「その……、かなり勝手な物言いに聞こえるだろうが、暫くの間、付き合いを保留にして貰いたいんだ」
「……はぁ? 何ですか、保留って?」
「…………」
眉間に皺を寄せて問い返した彼女に、友之が再び黙り込む。しかしこのままでは話が進まないと判断した沙織は、何とか怒鳴り付けたい気持ちを押さえ込みながら確認を入れた。
「ええと……。要するに、一定期間付き合うのは止めるけど、それが過ぎたらよりを戻したいとか、そういう事を言っているわけですか?」
「ああ……、かなり勝手な事を言っている自覚は」
「それ以前に、全く意味が分かりません」
「…………」
相手の弁解がましい台詞を、容赦なくぶった切った沙織は、本気で呆れ果てた。
(本当にらしくない……。何なの、この煮え切らなさ)
ずるずると男女関係を引きずるようなタイプじゃ無かったのにと、沙織が友之に対して軽い怒りと幻滅を覚えながら睨み付けると、それを感じ取ったらしい彼は、再び居心地悪そうに視線を逸らした。しかし多少しょぼくれた姿を目にした位でほだされる様な沙織ではなく、毅然として言い返す。
「はっきり言わせて貰いますが、どう考えてもフェアじゃありませんよね? そっちが好き勝手してる間、こっちはおとなしく待ってろって事ですか? 冗談じゃありません」
「それはそうなんだが……」
「取り敢えず付き合いを止めるのは構いませんが、それ以降は私には構わないで下さい。友之さん以上に魅力的な人が出てきた時、私がその人と付き合っても、そっちからグダグダガタガタ言われる筋合いはありません」
はっきりとそう断言されて、友之は神妙に頷いた。
「……分かった。尤もだ」
「それで? 他に何かお話があるんですか?」
「いや、他には無い。帰る。邪魔して悪かった」
硬い表情で立ち上がった友之は、それでも律儀に頭を下げて玄関に向かった。そんな彼の後に無言で付いて行った沙織は、靴を履き終えた彼に向かって、冷静に確認を入れる。
「ところで課長、職場では今まで通りに接して頂けるんでしょうか?」
「勿論だ。公私混同をするつもりは無い」
背中を向けたまま即答した友之は、それ以上余計な事は言わずに外に出て扉を閉めた。それを見送った沙織は、玄関に下りて施錠してからひとりごちる。
「……ちょっと苛めすぎたかな? でも説明も何も無しで一方的に保留って、どう考えても有り得ないわよ」
ぶつぶつ呟きながらリビングに戻った沙織は、テーブルの上を片付けようとして、再び愚痴めいた呟きを漏らした。
「しかも全然気が付いて無かったのか、今から別れようって話をするのに洒落にならないからわざと手を付けなかったのか、一個も食べなかったし。結構高かったのに……。あ、そう言えば、これをどうしよう?」
手つかずのチョコに続いて友之用に買ったマグカップに目を向けた沙織は、一瞬困った顔になったが、すぐに結論を出す。
「取り敢えず、洗ってしまっておこう。使いたかったら言って貰えれば、会社で渡せば良いしね。毎日顔を合わせているんだし」
そして彼女はテーブル上の物を纏めて、キッチンへと運んで行った。
同じ頃、マンションを出て歩道を歩き出した友之だったが、普段殆ど使っていないスマホが着信を知らせた為、それを取り出しながら憤怒の形相で吐き捨てた。
「よりにもよってこんな時に! つくづく人の神経を逆撫でする女だな!!」
とてもまともに話のできる心境では無かった為、無視してやろうかと思った友之だったが、そこで予想外の声がかけられた。
「にゅあっ!」
「え? ……ジョニー?」
自分の進行方向に、見覚えのある猫が後ろ足を道路に付けて座り込んでいるのを認めた友之は、思わず彼を凝視した。そして無言で自分を見上げてくる彼と、何秒か見つめ合った友之は、苦笑して相手に声をかける。
「……分かった。沙織に不快な思いをさせたから、きちんとする事をしてから、仕切り直しさせて貰う。それまで、彼女の事をよろしく」
「にゃっ!」
すると言われた内容が分かったように、ジョニーは腰を上げて彼の横をすり抜け、マンションの敷地内の大木に駆け寄り、するするとその幹を上って行った。それを目撃した友之は、そこから一番手近なベランダに飛び移り、手摺を伝って沙織の部屋まで到達しているらしいと分かり、笑顔で呟く。
「猫にしてはなかなか骨があるし、物も分かっているらしい。彼女が惚れ込むのも分かるな」
そこで深呼吸した彼は、一度切れた後に再度しつこく鳴り響き始めた問題のスマホを操作して、通話を始めた。
「はい、もしもし? 寧子さん、お待たせしてすみません。こんな時間にどうかしましたか?」
その声はいつも通りの穏やかな物であったが、表情はそれとは対照的に、実に冷ややかな物だった。
「あ、お帰りなさい、友之。沙織さんは元気? チョコを貰って来たんでしょう?」
友之が帰宅すると、夫婦揃ってリビングでお茶を飲んでいた真由美が、明るく声をかけてきた。友之はそれに若干苛つきながら、仏頂面で答える。
「ああ……、そう言えば、チョコが出ていたな。気にも留めなかったから、食べ損ねた」
「え? あなた何をしに、彼女のマンションまで行って来たの?」
真由美が怪訝な顔で問い返し、義則も意外そうに顔を向けてきた為、友之はわざと素っ気なく言い放った。
「母さん。言っておくけど、今後は彼女と、あまり馴れ馴れしく連絡を取ったりしないで貰えるかな?」
「何それ? どうして?」
「だから……、彼女とは以前のように、仕事上だけでの付き合いになるから。向こうだって迷惑だろう」
「はぁ?」
それを聞いた真由美は困惑顔になったが、すぐに顔を怒りで染めながらソファーから立ち上がり、息子を糾弾し始めた。
「……何? あなたまさか、沙織さんと別れたとか言わないわよね!?」
「そう思ってくれて良い」
「何を考えているの! 見損なったわよ、友之!」
「いくら母親でも、三十過ぎの息子の色恋沙汰にまで、一々口を挟まないで貰えるかな。正直ウザい」
「これだから息子なんて、生意気なだけでつまらないわよね!」
そんな真由美の怒声がリビングに響き渡り、友之は怒り出しはしなかったものの、面白く無さそうに応じた。
「……悪かったな。娘じゃなくて」
「全くだわ!」
「おい、真由美!」
盛大に怒鳴り散らした妻が、足音荒くリビングから出て行くのを見送ってから、義則は溜め息を一つ吐いて呆れ気味に息子に声をかけた。
「それで? わざわざ真由美を追い払った上で、俺に何か話したい事でもあるのか?」
その推察に小さく頷きながら、友之は父親の正面に腰を下ろした。
「一応、父さんには全部話しておく。もしかしたら今後、迷惑をかける事になるかもしれないから」
「穏やかな話では無さそうだな」
「例の、十年前の事に関わる事なんだが……」
「さっさと言え、友之。例の女がどうかしたのか?」
過去に全て事が終わってから、一部始終を友之から聞かされていた義則は、どう考えても穏便に済むはずもない内容だろうと察し、一気に表情を険しくしながら息子の話を聞く態勢になった。
「おはよう、母さん」
「…………」
翌朝、いつも通りの時間に友之がダイニングキッチンに顔を出して挨拶したが、完全に腹を立てた真由美からは何も返ってこなかった。
「今日だけど、少し仕事が溜まっていて、帰りが遅くなりそうだから、夕飯は要らないから」
「…………」
無言のままであるが、友之の前に朝食を揃えていく母親を見て、自業自得だと分かり切っていた友之は、文句など口にせずおとなしく食べ始めた。
(完全に怒らせたな。彼女の事を随分気に入ってたし、無理もないか。それでもきちんと朝食を出して貰えるから、ありがたいと思わないとな)
そう自分に言い聞かせながら食べ進めていると、義則が顔を出していつも通り挨拶してくる。
「二人とも、おはよう。今日も良い天気だな」
「おはよう、父さん」
「…………」
しかし彼女の怒りの余波は義則にも向けられているらしく、息子と同様に無言のまま食事が並べられた。そして彼女が少し離れた所でご飯をよそっている間に、義則が友之に囁く。
「かなり機嫌が悪いな。真由美の気持ちは分かるが……。お前も暫くは諦めろよ?」
「分かってる」
そんな居心地の悪さを甘んじて受けつつ、友之は朝食を食べて出社した。
「おはようございます、課長」
「おはよう」
その日も殆どの課員にとってはいつも通りの朝であり、友之は笑顔で挨拶を返していた。
「課長、おはようございます。住吉精機との契約書を提出しておきましたので、確認を宜しくお願いします」
「……分かった。目を通しておく」
そして昨夜の宣言通り、全くこれまで通りの態度で業務連絡をしてきた沙織に、友之は密かに溜め息を吐いた。しかしそれ位で仕事に支障をきたす筈も無く、黙々と仕事をこなしていた彼は、昼近くになってある人物からスマホに連絡が入っていた事に気が付き、部屋を抜け出して廊下の人気の無い場所に移動して、電話をかけ始めた。
「清人さんですか? 連絡、ありがとうございます」
この間、後ろ暗い上に面倒な事を頼んでいた相手に、友之が神妙な口調で声をかけると、相手は淡々と言葉を返してきた。
「仕事中に悪いな。希望の物が全て揃ったと、連絡があったんだ。ところで、例の教授の方はどうだ?」
「かなり衰弱されていますが、まだ意識はあります」
「そうか……」
そこで一度話を区切った清人は、思い出したように確認を入れてきた。
「例の女、もう入籍はしているんだよな? その事は、お前も知っていると」
「ええ。教授が俺と彼女を病室で鉢合わせするように仕組んで、その場で直々に教えて貰いました。今のところ、特に彼女に怪しまれてはいない筈です」
それを確認した彼は、納得した口調で話を続けた。
「それなら例の物はそちらに送る。好きに使って構わないが、下手に指紋を付けるなよ? それと必要が無くなったら、さっさと廃棄しろ。証拠は一切残すな。万が一お前が捕まったりしたら、松原工業の名前に傷が付く。真由美さんにも顔向けできん」
「十分気を付けます。それではまた進行状況について、報告を入れます」
「ああ。こちらの方でも進めておく。くれぐれも慎重にな」
「はい、失礼します」
そこで話を終わらせて職場に戻った友之は、室内を進みながら横目で沙織の様子を眺め、通常運転の彼女を認めて小さく溜め息を吐き、自分の席に座った。
「ジョニー様! いらっしゃいませ! 寒いですので、どうぞお早く中に」
「なぁ~ご」
ベランダから聞こえた鳴き声に、沙織が掃き出し窓に駆け寄ってカーテンと窓を開けると、まるで「邪魔するぞ」とでも言わんばかりに一声鳴いた彼は、悠々と室内に足を踏み入れた。
「さあ、どうぞ。しかし本当にジョニー様は、ミステリアスな猫ですよね」
がっつく事無く、艶やかな毛並みのまま優雅に食べている彼を見下ろしながら、沙織は何気なく今ここには居ない、自分の事を大型犬呼ばわりした人物の事を思い出した。
「そう言えば最近、ジョニー様に負けず劣らず育ちが良い大型犬も、偶にここに顔を出すようになったんですよ? でも初対面の時以降、二人が鉢合わせした事は無いんですよね」
「にゅあ~ん?」
そう言ってクスクス笑った沙織を、ジョニーが食べるのを止めて不思議そうに見上げる。しかし彼はすぐに食べるのを再開し、沙織はその様子を眺めながら真顔で考え込んだ。
「よくよく考えてみたら、年が明けてからはここに二回しか来てないかな? 今月に入ってからは、なんだか忙しそうにしていて、一緒にご飯も食べていないんだけど……」
そして頭の中で日付を確認してから、沙織は真顔でジョニーに問いかける。
「ジョニー様。私、早くも飽きられたんでしょうか?」
「にゃ~う?」
そこでタイミング良く顔を上げたジョニーが、更に首を傾げてみせた為、沙織は思わず笑ってしまった。
「こんな事を言っても、分かりませんよね? 失礼しました。でもこの状況でチョコを用意して良いものかどうか、正直迷っているんですよ……」
「な~ぅ」
そんな事を苦笑しながら口にした沙織をジョニーは再度不思議そうに見上げ、出されたキャットフードを綺麗に平らげてから、アドバイスなど当然する事も無く、悠然とマンションを後にした。
「おはよう、沙織!」
「おはよう、由良」
出社途中で前方に沙織を発見した由良が、足早に追いかけて挨拶した直後、彼女がいつもの鞄の他に紙袋を提げているのを認めて、小さく苦笑いした。
「今年も早々と預かったのね」
中身は見えなかったものの、半ば断定するように告げると、沙織が真顔で頷く。
「そうなのよ。改札を抜けてから、すぐに呼び止められて。今日一日は社内移動時も、紙袋は必須よね」
「毎年ご苦労様。それじゃあ、私のも宜しく」
毎年バレンタインデーに、友之へのチョコの受付係となっている沙織は、それを慣れた手付きで受け取って紙袋に入れた。
「確かに預かったわ。だけど本当に、課長に直接ぶち当たる人っていないわよね」
「松原課長の業務の妨げにならないように、愛でる会の通達が社内隅々にまで徹底されて、慣例化しているもの。これは何と言っても、初代会長の衣川さんの功績だと思うけど」
そこで既に結婚退職して久しい女性の事を思い出した沙織は、しみじみと感想を述べた。
「……うん、威圧感バリバリの人だったよね。並の重役より迫力有ったわ」
「沙織にそこまで言われる位、本当に凄かったわね。じゃあ職場で義理チョコを配る準備があるから、先に行くわ」
「うん、それじゃあね」
そして笑顔で手を振って由良と別れた沙織だったが、すぐに小さく溜め息を吐いた。
「例年、窓口になっている上に、お裾分けまで貰っている私が、今更どんな顔をして渡せと……」
鞄の中に入れてきた物の事を考えて、再度溜め息を吐いた沙織だったが、ここで「関本さん、おはようございます!」と声をかけられた為、笑顔で声のした方に向き直った。
結局、出社するまでに五個のチョコを預かった沙織は、かなり微妙な心境で職場に足を踏み入れた。
「おはようございます」
そんな沙織が、いつもの鞄の他に紙袋を持参している事に目ざとく気付いた者達が、おかしそうに声をかけてくる。
「おう、おはよう」
「関本、今年も早速、出勤途中で貰って来たのか?」
「はい。もう恒例行事ですから」
そのまままっすぐ課長席に向かった沙織は、既に席に着いていた友之に挨拶した。
「課長、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「今年も複数の方から、バレンタインのチョコをお預かりして来ました。例年通り、きちんと所属先と名前を記入したカードを付けてあるのを確認してあります」
そう言って沙織が差し出した紙袋を、友之は僅かに動揺した様子を見せながらも、素直に受け取った。
「……分かった。確認してから、皆に食べて貰う」
それ以上余計な事は言わずに席に戻った沙織だったが、仕事の準備をしながら友之の顔を盗み見して考え込んだ。
(貰った人全員を把握した上で、ホワイトデーにきちんとお返ししてるんだから、本当にまめだよね。変な物が入らないように手作り厳禁とか、課長がお返しの時に困らないようにカード添付とか、衣川さん主導で進めたらしいけど)
そして、他の人間からのチョコと一緒に渡して良いものかと悩んだ挙げ句、まだ鞄に入れっぱなしになっている自分のチョコを思い出した沙織は、無意識に困った顔になった。
(一応付き合ってる身としては、他の女性からチョコを貰うのは、控えて貰うように言うべきかしら? でも付き合い自体、秘密にしているわけだしね……。あれ?)
そこでスマホが静かに震えてメールが届いた事を伝えて来た為、それをポケットから出して確認した彼女は、反射的に友之に顔を向けた。
(随分、急な話……。それに面白がってわざと関係無い書類に挟み込んできたり、即刻削除必須の暗号じみた社内メールとかじゃなくて、勤務時間中にまともなスマホへの連絡って珍しい……)
いつもとは違う連絡方法に、一瞬何事かと思ったものの、沙織はすぐに気持ちを切り替えた。
(うん、まあいいか。それならチョコは、夜に渡せば良いしね)
そう自分を納得させた彼女は、何となく落ち着かない気分のまま、その日の仕事に取りかかった。
その日、連絡があった通り、友之は九時過ぎに沙織のマンションを訪れた。
「やあ、遅くにすまない」
「まだそれほど遅くはありませんが……。夕飯は要らないという話でしたけど、ちゃんと食べて来ましたか?」
「……ああ、一応」
「そうですか。取り敢えず上がって下さい」
明らかにいつもとは異なる、微妙に重苦しい空気を纏わせている友之に声をかけながら、沙織は密かに考え込んだ。
(何だろう? 妙にテンションが低い……。何となく想像は付くけど)
そう思いつつ余計な事は言わずに沙織は珈琲を淹れ、彼用のマグカップにそれを注ぎ、ついでに用意していたチョコを小皿に乗せて彼の所に持って行った。
「どうぞ」
「……ありがとう」
友之は礼を言って、すぐにマグカップを手にして珈琲を一口飲んだものの、チョコには見向きもせずに俯いたまま黙り込んだ。そのまま一分程経過してから、沙織が声をかけてみる。
「それで? 今日は何のお話ですか?」
「その……」
「はい」
「…………」
しかし顔を上げて自分と真正面から向かい合った友之が、何やら後ろめたそうに視線を逸らして再び黙り込んだ為、沙織は少々苛つきながら話を進めた。
「あのですね……、友之さんは別れ話とかは、それなりに場数を踏んでいるんじゃ無いんですか? 別に短期間で別れるとか、私は別に気にしていませんけど?」
「いや、別れ話とかじゃ無い」
「それなら何ですか?」
てっきりその類かと思っていた沙織は、当惑しながら尚も尋ねると、友之がは益々意味不明な事を言い出した。
「その……、かなり勝手な物言いに聞こえるだろうが、暫くの間、付き合いを保留にして貰いたいんだ」
「……はぁ? 何ですか、保留って?」
「…………」
眉間に皺を寄せて問い返した彼女に、友之が再び黙り込む。しかしこのままでは話が進まないと判断した沙織は、何とか怒鳴り付けたい気持ちを押さえ込みながら確認を入れた。
「ええと……。要するに、一定期間付き合うのは止めるけど、それが過ぎたらよりを戻したいとか、そういう事を言っているわけですか?」
「ああ……、かなり勝手な事を言っている自覚は」
「それ以前に、全く意味が分かりません」
「…………」
相手の弁解がましい台詞を、容赦なくぶった切った沙織は、本気で呆れ果てた。
(本当にらしくない……。何なの、この煮え切らなさ)
ずるずると男女関係を引きずるようなタイプじゃ無かったのにと、沙織が友之に対して軽い怒りと幻滅を覚えながら睨み付けると、それを感じ取ったらしい彼は、再び居心地悪そうに視線を逸らした。しかし多少しょぼくれた姿を目にした位でほだされる様な沙織ではなく、毅然として言い返す。
「はっきり言わせて貰いますが、どう考えてもフェアじゃありませんよね? そっちが好き勝手してる間、こっちはおとなしく待ってろって事ですか? 冗談じゃありません」
「それはそうなんだが……」
「取り敢えず付き合いを止めるのは構いませんが、それ以降は私には構わないで下さい。友之さん以上に魅力的な人が出てきた時、私がその人と付き合っても、そっちからグダグダガタガタ言われる筋合いはありません」
はっきりとそう断言されて、友之は神妙に頷いた。
「……分かった。尤もだ」
「それで? 他に何かお話があるんですか?」
「いや、他には無い。帰る。邪魔して悪かった」
硬い表情で立ち上がった友之は、それでも律儀に頭を下げて玄関に向かった。そんな彼の後に無言で付いて行った沙織は、靴を履き終えた彼に向かって、冷静に確認を入れる。
「ところで課長、職場では今まで通りに接して頂けるんでしょうか?」
「勿論だ。公私混同をするつもりは無い」
背中を向けたまま即答した友之は、それ以上余計な事は言わずに外に出て扉を閉めた。それを見送った沙織は、玄関に下りて施錠してからひとりごちる。
「……ちょっと苛めすぎたかな? でも説明も何も無しで一方的に保留って、どう考えても有り得ないわよ」
ぶつぶつ呟きながらリビングに戻った沙織は、テーブルの上を片付けようとして、再び愚痴めいた呟きを漏らした。
「しかも全然気が付いて無かったのか、今から別れようって話をするのに洒落にならないからわざと手を付けなかったのか、一個も食べなかったし。結構高かったのに……。あ、そう言えば、これをどうしよう?」
手つかずのチョコに続いて友之用に買ったマグカップに目を向けた沙織は、一瞬困った顔になったが、すぐに結論を出す。
「取り敢えず、洗ってしまっておこう。使いたかったら言って貰えれば、会社で渡せば良いしね。毎日顔を合わせているんだし」
そして彼女はテーブル上の物を纏めて、キッチンへと運んで行った。
同じ頃、マンションを出て歩道を歩き出した友之だったが、普段殆ど使っていないスマホが着信を知らせた為、それを取り出しながら憤怒の形相で吐き捨てた。
「よりにもよってこんな時に! つくづく人の神経を逆撫でする女だな!!」
とてもまともに話のできる心境では無かった為、無視してやろうかと思った友之だったが、そこで予想外の声がかけられた。
「にゅあっ!」
「え? ……ジョニー?」
自分の進行方向に、見覚えのある猫が後ろ足を道路に付けて座り込んでいるのを認めた友之は、思わず彼を凝視した。そして無言で自分を見上げてくる彼と、何秒か見つめ合った友之は、苦笑して相手に声をかける。
「……分かった。沙織に不快な思いをさせたから、きちんとする事をしてから、仕切り直しさせて貰う。それまで、彼女の事をよろしく」
「にゃっ!」
すると言われた内容が分かったように、ジョニーは腰を上げて彼の横をすり抜け、マンションの敷地内の大木に駆け寄り、するするとその幹を上って行った。それを目撃した友之は、そこから一番手近なベランダに飛び移り、手摺を伝って沙織の部屋まで到達しているらしいと分かり、笑顔で呟く。
「猫にしてはなかなか骨があるし、物も分かっているらしい。彼女が惚れ込むのも分かるな」
そこで深呼吸した彼は、一度切れた後に再度しつこく鳴り響き始めた問題のスマホを操作して、通話を始めた。
「はい、もしもし? 寧子さん、お待たせしてすみません。こんな時間にどうかしましたか?」
その声はいつも通りの穏やかな物であったが、表情はそれとは対照的に、実に冷ややかな物だった。
「あ、お帰りなさい、友之。沙織さんは元気? チョコを貰って来たんでしょう?」
友之が帰宅すると、夫婦揃ってリビングでお茶を飲んでいた真由美が、明るく声をかけてきた。友之はそれに若干苛つきながら、仏頂面で答える。
「ああ……、そう言えば、チョコが出ていたな。気にも留めなかったから、食べ損ねた」
「え? あなた何をしに、彼女のマンションまで行って来たの?」
真由美が怪訝な顔で問い返し、義則も意外そうに顔を向けてきた為、友之はわざと素っ気なく言い放った。
「母さん。言っておくけど、今後は彼女と、あまり馴れ馴れしく連絡を取ったりしないで貰えるかな?」
「何それ? どうして?」
「だから……、彼女とは以前のように、仕事上だけでの付き合いになるから。向こうだって迷惑だろう」
「はぁ?」
それを聞いた真由美は困惑顔になったが、すぐに顔を怒りで染めながらソファーから立ち上がり、息子を糾弾し始めた。
「……何? あなたまさか、沙織さんと別れたとか言わないわよね!?」
「そう思ってくれて良い」
「何を考えているの! 見損なったわよ、友之!」
「いくら母親でも、三十過ぎの息子の色恋沙汰にまで、一々口を挟まないで貰えるかな。正直ウザい」
「これだから息子なんて、生意気なだけでつまらないわよね!」
そんな真由美の怒声がリビングに響き渡り、友之は怒り出しはしなかったものの、面白く無さそうに応じた。
「……悪かったな。娘じゃなくて」
「全くだわ!」
「おい、真由美!」
盛大に怒鳴り散らした妻が、足音荒くリビングから出て行くのを見送ってから、義則は溜め息を一つ吐いて呆れ気味に息子に声をかけた。
「それで? わざわざ真由美を追い払った上で、俺に何か話したい事でもあるのか?」
その推察に小さく頷きながら、友之は父親の正面に腰を下ろした。
「一応、父さんには全部話しておく。もしかしたら今後、迷惑をかける事になるかもしれないから」
「穏やかな話では無さそうだな」
「例の、十年前の事に関わる事なんだが……」
「さっさと言え、友之。例の女がどうかしたのか?」
過去に全て事が終わってから、一部始終を友之から聞かされていた義則は、どう考えても穏便に済むはずもない内容だろうと察し、一気に表情を険しくしながら息子の話を聞く態勢になった。
「おはよう、母さん」
「…………」
翌朝、いつも通りの時間に友之がダイニングキッチンに顔を出して挨拶したが、完全に腹を立てた真由美からは何も返ってこなかった。
「今日だけど、少し仕事が溜まっていて、帰りが遅くなりそうだから、夕飯は要らないから」
「…………」
無言のままであるが、友之の前に朝食を揃えていく母親を見て、自業自得だと分かり切っていた友之は、文句など口にせずおとなしく食べ始めた。
(完全に怒らせたな。彼女の事を随分気に入ってたし、無理もないか。それでもきちんと朝食を出して貰えるから、ありがたいと思わないとな)
そう自分に言い聞かせながら食べ進めていると、義則が顔を出していつも通り挨拶してくる。
「二人とも、おはよう。今日も良い天気だな」
「おはよう、父さん」
「…………」
しかし彼女の怒りの余波は義則にも向けられているらしく、息子と同様に無言のまま食事が並べられた。そして彼女が少し離れた所でご飯をよそっている間に、義則が友之に囁く。
「かなり機嫌が悪いな。真由美の気持ちは分かるが……。お前も暫くは諦めろよ?」
「分かってる」
そんな居心地の悪さを甘んじて受けつつ、友之は朝食を食べて出社した。
「おはようございます、課長」
「おはよう」
その日も殆どの課員にとってはいつも通りの朝であり、友之は笑顔で挨拶を返していた。
「課長、おはようございます。住吉精機との契約書を提出しておきましたので、確認を宜しくお願いします」
「……分かった。目を通しておく」
そして昨夜の宣言通り、全くこれまで通りの態度で業務連絡をしてきた沙織に、友之は密かに溜め息を吐いた。しかしそれ位で仕事に支障をきたす筈も無く、黙々と仕事をこなしていた彼は、昼近くになってある人物からスマホに連絡が入っていた事に気が付き、部屋を抜け出して廊下の人気の無い場所に移動して、電話をかけ始めた。
「清人さんですか? 連絡、ありがとうございます」
この間、後ろ暗い上に面倒な事を頼んでいた相手に、友之が神妙な口調で声をかけると、相手は淡々と言葉を返してきた。
「仕事中に悪いな。希望の物が全て揃ったと、連絡があったんだ。ところで、例の教授の方はどうだ?」
「かなり衰弱されていますが、まだ意識はあります」
「そうか……」
そこで一度話を区切った清人は、思い出したように確認を入れてきた。
「例の女、もう入籍はしているんだよな? その事は、お前も知っていると」
「ええ。教授が俺と彼女を病室で鉢合わせするように仕組んで、その場で直々に教えて貰いました。今のところ、特に彼女に怪しまれてはいない筈です」
それを確認した彼は、納得した口調で話を続けた。
「それなら例の物はそちらに送る。好きに使って構わないが、下手に指紋を付けるなよ? それと必要が無くなったら、さっさと廃棄しろ。証拠は一切残すな。万が一お前が捕まったりしたら、松原工業の名前に傷が付く。真由美さんにも顔向けできん」
「十分気を付けます。それではまた進行状況について、報告を入れます」
「ああ。こちらの方でも進めておく。くれぐれも慎重にな」
「はい、失礼します」
そこで話を終わらせて職場に戻った友之は、室内を進みながら横目で沙織の様子を眺め、通常運転の彼女を認めて小さく溜め息を吐き、自分の席に座った。
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