酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(4)松原課長を密かに愛でる会

 醜態を晒した翌朝、沙織はいつも以上に気を引き締めて出社した。そして既に出社し、自分の席に着いていた友之の所に出向いて挨拶をする。


「おはようございます、課長」
「ああ、関本。おはよう。体調は大丈夫か?」
「はい、絶好調です。昨晩は、大変ご迷惑をおかけしました」
「大した事は無い。思わず自分の目を疑うような、珍しい物も見られたしな」
「…………」
 深々と頭を下げた沙織だったが、前方から笑いを堪える気配が漂ってきた為、引き攣った顔を上げた。するとその様子を窺っていた朝永が、すかさず詳細について尋ねてくる。


「課長? まさか関本の奴、帰り道であれ以上の醜態を晒したわけじゃ無いですよね?」
「帰り道では無いし、醜態でもないんだが……。心配なので部屋まで送って行ったら、関本曰わく『愛しのジョニー様』が、十何日かぶりにベランダにやって来たんだ」
「課長……、部屋まで入ったんですか?」
 反射的に意外そうな顔つきになった朝永だったが、ここで少し離れた所から佐々木の驚愕の声が響いてきた。


「え? アメショーのジョニーって、本当に実在していたんですか!? 実は俺、あの話の最後の方で、先輩が寂しさのあまり妄想を展開していただけなんじゃないかと思って、凄く心配になっていたんですが?」
「佐々木君! 今、先輩に対してもの凄く失礼な事を、口走ったって自覚はあるわよね!?」
「すみません! 口が滑りました!」
 物凄い勢いで沙織が振り返って恫喝すると、佐々木は勢いよく頭を下げた。そんな二人を見て、友之が笑いを堪えながら話を続ける。


「茶を出すと言いながら部屋に入れた俺に目もくれず、やって来た“ジョニー様”にご飯だ毛繕いだとかまい倒して、普段とは別人レベルにまで笑み崩れている関本の姿を、お前達にも見せたかったな」
 それを聞いた朝永は、心底呆れた表情になった。


「関本……、お前、わざわざ酒量を抑えてまで、自分を家まで送ってくれた課長を放置って、あり得ないだろう? 佐々木じゃなくて、お前の方がよっぽど失礼だ」
「……すみません」
「謝る相手が違う」
「こんなイケメンな課長を放置って……。ジョニーって、どんなイケネコなんですか……」
 沙織が朝永に向かって頭を下げる中、佐々木はと言えばひたすら茫然としていた。すると友之が、笑顔でスマホを取り出しながら声をかける。


「ああ、佐々木。ジョニーの写真を撮ってきたが、見るか?」
「本当ですか!? 是非お願いします!」
「あ、俺にも見せて下さい」
「課長、友永さん。さっきから『ジョニー』って、何の事ですか?」
「ああ、それはな?」
 興味津々で佐々木を筆頭に、他の同僚達が課長席の周りに集まって来たのを見て、自業自得だが、これ以上笑い話のネタになるのは御免だと、沙織はその場から離れようとした。


「……それでは失礼します」
 しかしそこで朝永にスマホを渡した友之が、彼女に声をかけてきた。
「ああ、ちょっと待て、関本」
「何でしょう?」
「俺が帰った後に、客が来たか?」
 唐突にそんな脈絡のない事を言われた為、沙織は本気で首を傾げた。


「え? そんな予定も、実際に誰も客なんて来ませんでしたが。それが何か?」
(そう言えばふらっと和洋さんは来たけど、お客じゃないしね。でも課長はどうしてこんな事を聞いてきたのかしら?)
 内心で沙織が考え込んでいると、友之は少々気まずそうに話を終わらせた。


「……いや、何でもない。変な事を聞いて悪かった。戻って良いぞ」
「はい」
 釈然としなかったものの沙織は素直に引き下がり、自分の席に戻った。


(やっぱり昨日すれ違った男は、どこか他の部屋に入ったんだな。俺の勘違いか)
(くうっ、暫くの間、面白おかしく噂されても、我慢我慢。昨日の事は、身から出た錆そのものじゃない)
 二人は自分自身にそう言い聞かせながら、気持ちを切り替えて通常業務をこなしていった。




 そんな事のあった翌日。
 昼時に、丁度同じ時間帯に休憩に入る面々と待ち合わせ、社屋ビル近くのパスタ専門店に入った沙織は、注文を済ませるなり一昨日の事について追及を受ける羽目になった。


「聞いたわよ、沙織! あんた一昨日、せっかく松原課長が設定した慰労会でぐでんぐでんに酔っ払った挙げ句、松原課長に家まで送らせた上、お茶も飲ませずに門前払いしたんだって!?」
 声高にそう迫られた為、沙織は周囲の目を気にして由良に懇願しつつ弁解した。


「由良……、一体誰から聞いたのよ。それに声が大きい。ここ、うちの社員が結構利用する所なんだから。それに門前払いなんてしてないし。ちゃんと上がって貰ったわよ」
「それじゃあ、ちゃんとお茶を出したの?」
「……出してない」
 視線を逸らしながら沙織が正直に白状すると、由良を含めた同席している三人が、盛大に溜め息を吐いた。


「あんた最低だわ……」
「さすが、関本さん。こうでなくちゃ……」
「でもやっぱり松原課長って紳士よね? 夜に女の一人暮らしの部屋に上がり込んでも、何もしないで帰るなんて」
 その場での最年長である木曽明里がしみじみとした口調で感想を述べると、由良と一期上の富岡玲奈が明るく笑いながら告げる。


「だって相手が沙織ですし。課長だけでなく誰にとっても、“女”じゃないですよ」
「それよりもお茶も出さずに追い払われても、微塵も気にしない松原課長の懐の広さに、惚れ直しました」
「そうですよね!」
 そして友之の魅力について明るく語り合う三人を見て、沙織は心底感心した様に感想を述べた。


「本当に皆さん、松原課長が大好きですよね。アタックしてないのに」
「だって松原課長ったら、『一応、父親が社長だし、万が一その大切な社員と喧嘩別れする事になったら、お互いに気まずいから、社内の人間とは付き合わない事にしているから』って宣言して、入社以来社員で付き合った女性は皆無なんだもの」
「最初の頃はね……、それでも『最初から上手くいかなかった時の事を考えるなんて間違ってます! 私が松原さんの頑なな心を解いてみせるわ!』と言って突撃した猛者が何人もいたけど、全員あえなく撃沈したし……」
 玲奈に続いて、友之とは一歳違わない明里が、これまでに討ち死にしたらしい友人知人の顔を思い浮かべたのか妙に黄昏ていると、由良がその台詞を引き継いだ。


「かと言って、女っ気が無いのかと言うとそうではなくて、時々女性との目撃談が社内に伝わっていますしね。あんたからも逐一、情報が来てるし」
「うん、美人ばかり。課長、審美眼もなかなかだわ」
 注文品のランチパスタがきた為、遠慮なくフォークに絡め取っていた沙織が何気なく口にした台詞に、由良が反応した。


「……何でそこまで知ってるのよ?」
「皆さんが課長の情報を知りたがってるから、時々『今課長のお付き合いしている女性の顔が知りたいんですけど』って課長に聞くと、普通に彼女さんの写真を見せてくれるから」
 そう言ってフォークに巻き付いたパスタを口の中に入れて、美味しそうに食べている沙織を見ながら、周りの者は盛大に溜め息を吐いた。


「聞く方も聞く方だけど、見せる方も見せる方ね」
「あんた本当に、女扱いされてないわ」
「当然でしょ? 男とか女とか以前に、松原課長にとっては『できる使える部下』を目指して頑張ってるんだから」
「ああ~、偉い偉い。頑張って~」
「誠意が籠もってない」
 取って付けたような由良の口ぶりに、沙織がすかさず文句をつける。そんな二人の様子を見た明里と玲奈が、どことなく遠い目をしながら言い合った。


「松原課長の下に初めて女性社員が配属される事になった時、どんな女かと警戒したものだけど……。まさか、こんなフリーズドライ女だったとはね……」
「本当に。配属直後に実態を知って、一瞬でも本気で嫉妬した自分が馬鹿馬鹿しくなったわ」
「皆さん何気に失礼ですし、どうして『フリーズドライ女』が定着しているんですか」
 入社一年目に現部署へ配属直後、友之の身近で勤務できるという事で嫉妬した《松原課長を密かに愛でる会》会員フルメンバーに絡まれたものの、あっさり正面突破&論破&各個撃破を繰り返し、何故か妙に気に入られた挙句、妙な二つ名まで貰ってしまった沙織は、そこだけは納得しかねるという顔で尋ねたが、由良があっさり断言した。


「だって沙織は干物女って言うのとはまた違って、傍目にはちゃんと年相当の女に見えるのに、何故か女っぽく無くて、ジメジメネチネチしてないんだもの。本当に、存在自体が摩訶不思議」
「一応、誉め言葉として受け取っておくわ」
 これ以上言っても無駄だと、再びパスタに意識を集中しようとした沙織だったが、ここで明里と玲奈の力強い声が上がった。


「とにかく、松原課長が私達を恋愛対象に見てくれなくても、良い男ウォッチングは、働く女の心のビタミンなの!!」
「そうよ! 松原課長の邪魔にならず嫌な思いもさせず、遠くからその雄姿と活躍を見守る活動を、私達は止めないわよ!?」
「いつかはどこかで現実と妥協しなくちゃいけないんだからさ、それまでちょっと夢を見てても良いじゃない?」
 最後に由良が苦笑いしながら締めくくった為、沙織も色々諦めながら口を開いた。


「はぁ……、それでは皆さんがイキイキと働けるように、課長情報をこれからも流していきますので」
「宜しくね」
「それから松原課長に、余計な迷惑をかけるんじゃないわよ?」
「……肝に銘じておきます」
 沙織が神妙に頷いた為、そこで沙織の失態に関する話題は終わりになり、食べ終わって社屋ビルに戻るまで、四人は友之の話題で盛り上がったのだった。





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