夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第47話 柏木邸の嵐

「……ただいま」
 どことなく精気を欠いた顔で真澄が帰宅すると、珍しく応接間には男三人が顔を揃えて歓談中だった。
「おう、戻ったか、真澄。景色は良かったか? 退屈じゃったろう」
「……それなりに」
 答えになっているようでなっていない事を返してきた孫に、総一郎が怪訝な顔をしたが、あっさりと踵を返して出て行こうとした真澄の背中に、どこか楽しそうな口調で雄一郎が声をかけた。


「真澄。昨日清人君からの荷物が届いたから、部屋に置いてあるからな」
「……ああ、そんな事を言ってましたね。それじゃあ失礼します」
 一瞬足を止めたものの、素っ気なく断りを入れて再び立ち去ろうとすると、浩一が不思議そうに問い掛けた。


「言ってたって……、姉さん? 清人から電話でもあったわけ?」
「直接会ってたから」
「はぁ? だって姉さんは熱海で謹慎してるって父さんから聞いてたけど……、姉さん?」
 浩一を完全に無視して真澄は応接間を出て行き、スーツケースを持ち上げて階段を上った自室に入った。そしてすぐに丸テーブルに乗せられた、平たい荷物に気がつく。


「誕生日のプレゼントって……、これね」
 ボソッと呟いた真澄は机から鋏を取り出し、ダンボール箱を括ってある紐を切った。そして箱を開けて中身を保護する発泡スチロールの板と緩衝材を取り出すと、その下から木目が美しい額に入った絵が現れる。
「来生隆也の作品……。こんなに大きくて素敵な作品、きっと何百万もする……。今更何でこんな物をくれるのよ?」
 呆然と立ち尽くしたままそれを見下ろしていると、ある事に思い至った真澄が、乾いた笑いを漏らした。


「ああ、そうか……、結婚するんだものね。必要以上に私や浩一達に構っていられないわよね。以前レジャー代とかでお父様達が払った分の、残りを纏めて返したつもりなのね。どこまで義理堅いのかしら……」
 そんな風に一人で納得していると、慌ただしく廊下を走る音が聞こえた直後、浩一が乱暴にドアを開けて乱入してきた。


「姉さんっ! 今下で父さんに聞いたんだけど、熱海でずっと清人と一緒だったって本当なのか!?」
「……そうだけど。それが何?」
 淡々と返された浩一は戸惑いながら、真澄が見下ろしている物に視線を向けた。
「何って……。ああ、それは昨日清人が送ってきた奴だよね。何で絵なんだ?」
「以前、私がこの画家の作品が好きだと言ったからよ。昨日、私の誕生日だったから……、そのプレゼント」
 まだ絵から視線を離さずに真澄が告げた内容に、浩一は激しく動揺した。


「はぁ? あいつが姉さんに? あ、いや、ごめん、誕生日おめでとう姉さん。今年は色々あって、すっかり忘れてて」
「別に良いわ……」
「それで、その……、清人とは一体どんな話を……」
 何となく真澄の態度に異常を感じながら、浩一が慎重に事の次第を尋ねようとしたその時、先程の浩一と同じ様に乱暴に押し入った総一郎が、真澄に向かって声を張り上げた。


「儂は絶対に許さんぞ真澄! 何の因果で、孫まで得体の知れない野良犬風情に盗られなければならんのだ! 断じて結婚は認めんぞっ!」
「父さん、少し落ち着いて下さい。彼は充分力量のある男ですから」
「お祖父さん! ちょっと引っ込んでて下さい!」
「何だと? お前ら二人ともあやつとグルかっ!? 父親同様、人を誑かすのは得意と見えるな!」
「お父さん!」
「お祖父さん!」
 総一郎の後を追ってやって来た雄一郎も含め、男三人で怒鳴りあっていると、まだ絵を見たまま真澄が低い声で呻いた。


「結婚……、するわよ?」
「だから儂は断じて」
「清香ちゃん位年の離れた、若くて可愛くて優しい子と」
「許さんと……、は?」
「お、おい、真澄?」
「姉さん?」
 総一郎の台詞を遮り、清人から聞いた内容を口にした真澄は、絵を見下ろしたままボロボロと涙を流し始めた。それを見た男達は、滅多に見る事の無い真澄の泣き顔に揃って動揺する。そんな男達を半ば無視して、真澄は涙声で独り言を漏らした。


「……悪かったわね、年上で、無駄に背が高くて、性格がきつくて。でも好き好んで、こんな風に生まれついたわけじゃ無いわよ」
「前の二つはともかく……、性格云々については、後天的なものじゃ……」
 ついうっかり浩一が口を挟んだ途端、真澄は泣きながらも浩一を鋭く睨み付け、両手で額縁を掴んだと思うと、力一杯投げつけて叫んだ。


「五月蝿いわよっ!!」
「うわっ! ちょっと待って姉さん!?」
 とっさに頭を腕で庇い、床に落ちた額を呆然と見下ろしながらぶつかった腕をさすると、真澄は我慢出来ずに泣き叫んだ。


「だっ、大体ねぇっ! あんたの事は昔から気に入らなかったのよ! 何なのよ、私の方が先に知り合ってたのに、後からちゃっかり仲良くなって!」
「あの、それって清人の事」
「当然でしょ! それに、釣りだキャンプだ自転車旅行だ、果ては男同士の話だって、いつも私を除け者にしてた上、大学ではいつも一緒に居てイチャイチャしてたくせにっ!!」
「イチャイチャって……。姉さん、頼むから落ち着いて」
「私が営業部から企画推進部に異動になったのだって、社内であんたを押すろくでなし重役連中に、根も葉もない不倫疑惑をでっち上げられたせいじゃない! 涼しい顔して裏では何でも自分が一番だと思ってるんでしょ? どうしていつも私ばかり、我慢しなくちゃいけないのよ!? もう最低ぇぇっ!」
「…………」
 もう支離滅裂な内容に加え、これまで庇って貰った事はあっても、一度たりとも面と向かって真澄に罵倒などされた事の無かった浩一は、驚愕して押し黙った。それを見て雄一郎が真澄を宥めようと口を開く。


「真澄、それは今は関係ないだろう。浩一だって悪気は」
「何よ、自分は紳士ですって善人ぶって! 世間体を取り繕ってる分、お祖父様よりタチが悪いわよ!」
「何だと?」
 流石に気色ばんだ雄一郎だったが、真澄の怒りはそれを遥かに上回った。
「昔から『清香ちゃん』の一点張りで! 清香ちゃんと彼はれっきとした兄妹なのよ? それなのに一度として、同等に扱った事なんか無いじゃない!」
「そんな事は」
「無いなんて言わせないわよっ! 『清香ちゃんに楽しんで欲しいから』ってお金を出して、『清香ちゃんに喜んで貰いたいから』ってプレゼントして。入学や卒業のお祝いだって、清香ちゃんにしかあげてないじゃないの!」
「それは……」
 流石に後ろ暗い所があった雄一郎が言葉を濁すと、真澄は一層声を張り上げた。


「うちの外部取締役に就任依頼をした時だって、別に清人君を認めたわけじゃなくて、『君のせいで清香ちゃんが面倒に巻き込まれるのは困る』とか言ったんでしょう? これが偽善者じゃなくて、何だって言うのよっ!!」
「…………」
 一方的に責め立てられ、気分を害した様に黙り込んだ雄一郎を、不機嫌な顔を見せながら総一郎が庇おうとした。


「真澄、雄一郎が清香優先なのは当然じゃろう。あいつは儂らの身内では無いからな」
「諸悪の根元がガタガタ言ってんじゃ無いわよっ!!」
「なっ……」
 これまでとは比べ物にならない怒声を浴びて総一郎は顔色を無くし、二人も驚いて真澄を見やった。その視線を一身に浴びながら真澄が糾弾を続ける。


「大体お祖父様が清吾叔父様の事を許さなかったのが悪いんでしょ!? 叔父様は確かに学歴も財産も無かったけど、人の道に外れた事なんかする筈のない、立派な人だったわよ。そんなのも理解できないで、叔父様の事を未だに盗っ人だの野良犬呼ばわりしているそっちの方が、人の見る目が節穴で、見識の無い大たわけだわっ!」
「何だと!? 言って良い事と悪い事があるぞ真澄!」
「お祖父様がずっと自分達の事を悪し様に言ってたのを、叔父様と清人君は敏感に感じ取ってたから、下手に親しくなってお祖父様の不興を買ったりしない様に、団地やマンションに送迎の際にも柴崎さんと接触しない様に気を遣ってた位だし、家まで送ってくれる時も、門の前までだったんだからっ!! ……さ、清香ちゃんが、家に来る様になってからも……、何度も誘ったのに、絶対、来てくれなくてっ……。お、お祖父様の、馬鹿ぁぁぁぁっ……」
 そこでいきなり緊張の糸が切れた様に、床に座り込んで両手で目を擦りながら盛大に泣き出した真澄を見て、総一郎はもとより雄一郎も浩一も狼狽した。


「その、真澄……。分かった、儂が悪かった。今後あやつに対する態度は改める。約束するから」
「ほら、真澄。お父さんもこう言ってるから、取り敢えず泣き止め。そして冷静に話し合おう」
「そうだよ姉さん。清人が他の女性と結婚するなんて有り得ないし」
 浩一がそう口にした途端、真澄が殺気の籠もった目で浩一を見据えた。


「……何? それじゃあ、私が嘘を吐いているとでも言いたいの?」
「い、いや、そうじゃなくて! どういった会話の流れだったのか全く分からないけど、二人の間で何か大きな誤解があったんじゃ無いかと思う。清人は以前から姉さんの事が好き」
「誤解じゃ無いわよっ! 清人君が一人暮らしをしてた頃、何度も一緒に出掛けてたけど、『以前清香の為に払って頂いたお返しに』って誘われてたし、お祖父様がお通夜の時に『あんなのと一緒になったせいで貧乏暮らしの上早死にさせられた』って喚いて、それが団地の人経由で清人君の耳に入って、それ以降誘っても貰えなくなったもの!」
 その真澄の叫びを聞いて、流石に浩一が声を荒げて祖父に詰め寄った。


「お祖父さん! 本当にそんな事を言ってたんですか!?」
「いや、それより一人暮らしの頃に誘われてたってどういう事じゃ!?」
「真澄! 通夜の時のそれを、どうしてお前が知っている! 彼から聞いたのか?」
 狼狽した雄一郎が慌てて問い質すと、真澄はそれに短く答えて絶叫した。
「お母様からです! それに、今回丸三日以上二人きりで居たのに、全然手を出して貰えなかったんだから!! どう考えても恋愛対象外って事でしょう!? さあ、笑いたければ笑いなさいよ!」
「…………」
 流石に笑う事も怒る事も出来ず、さりとて下手に慰める事も出来ず、揃って微妙な顔付きで押し黙った三人を見て、再び真澄の中で色々纏めて切れた。


「……っ! ばっ、馬鹿ぁぁっ!! 出てけぇぇぇっ!! 二度とその不愉快な顔を見せるなぁぁぁっ!!」
 泣きじゃくりながら本棚に走った真澄は、そこに整然と並べられていた本を掴み、三人に向かって力一杯投げつけ始めた。
「真澄、頼むから落ち着け!」
「ちょっと冷静に」
「姉さん!」
 腕で顔や身体を庇い、防戦一方の総一郎達だったが、面倒臭くなったのか真澄がテーブルに駆け寄り、それを両手で持ち上げた。


「うわっ!」
「危ない!」
 制止の言葉などあっさり無視して、真澄はそれを放り投げ、放物線を描いたそれから総一郎と雄一郎は辛くも身をかわして避けた。しかし続けて真澄が無言のまま椅子を持ち上げる。
「駄目だ、二人とも下がって!」
 半ば父と祖父を引き摺り出す様にして真澄の部屋を出た途端、背後のドアに生じたもの凄い衝撃音に、浩一は心底肝を冷やした。そして少し様子を窺ってから静かにドアノブを回してみたが、中から施錠されているのが分かって舌打ちする。


「姉さん! ここを開けてくれ! 落ち着いて話せば、誤解が解ける筈だ! とにかく清人と連絡を取って貰えれば、はっきりするから!」
 浩一は乱暴にドアを叩きながら暫く姉に訴えたが、中から何も応答が無いため溜め息を吐いて諦めた。そして父と祖父を振り返って首を振りつつ、二人を促して階下へと向かう。


「参った……、奥の寝室に籠もってるみたいで、おそらく話を聞いてないな。だけど一体、何がどうなってるんだ?」
 本気で頭を抱えてしまった浩一の横で、八つ当たり気味に総一郎が吠えた。
「雄一郎! そもそもお前が、あれを真澄の婿などにと考えたのが間違いだ!」
 それに雄一郎が憮然として答える。
「……じゃあ良かったですね。手を出されなかったんですから」
「けしからん! あやつは真澄のどこが不満だと言うんじゃ!」
「手を出して欲しいんですか? 欲しくないんですか?」
「…………」
 互いに険悪な表情で睨み合っている間に、清人の携帯に電話をかけてみた浩一は、盛大に舌打ちしてから乱暴な口調で毒吐いた。


「……駄目だ。電源を切ってやがる。あの馬鹿野郎、姉さんを泣かせやがって……。ズタボロにしてやる」
「お、おい……」
「浩一?」
 常には無い浩一の物言いに二人は思わず視線を向けたが、浩一はそんな二人にチラリと目を向けただけで、すぐに違う番号を選択して電話をかけ直した。
「ああ、清香ちゃん? 浩一だけど。清人は家に居るかな? 居たら悪いけど電話口に呼んで欲しいんだ」
 口調はいつも通りでも、顔付きが険しいままの浩一を二人は黙って見守ったが、ここで突然浩一が声を荒げた。


「え?…………何だって!? それ本当かい? 清香ちゃん!」
 いきなり叫んだと思ったら顔色を変えて電話の向こうを問い質し始めた浩一に、二人が驚いて事の成り行きを見守る。
「うん……、ああ、そうだね。俺からも心当たりは当たってみるから。……引き続き川島さんに泊まりに来て貰うんだよ? ……ああ、そんなに心配しなくても大丈夫だから。それじゃあ、また電話するからね」
 そして幾つかのやり取りをして通話を終わらせた浩一が、苛立たしげに二人に向き直って簡潔に事情を説明した。


「清人が消息不明になりました」
「はあ?」
「消息不明とは?」
 怪訝な顔をした二人に、浩一が苛立たしげに告げる。
「清香ちゃんに行方も帰宅予定も言わず、『このまま暫く帰らないから』とだけ電話で言ってから、音信不通になったそうです」
 あまりといえばあまりの事態に、総一郎と雄一郎は揃って呆れた声を上げた。


「……何を考えておるんだ? 清香を一人で放置しおって!」
「過去にそんな事は無かったよな?」
「ええ、皆無ですね。可哀想に清香ちゃん、ちょっとしたパニック状態でしたよ。いつ何時清人から連絡が入るか分かりませんし、引き続きアシスタントの女性に泊まり込んで貰う事にしました」
「それが良いだろうな」
「全く何がどうなっとるんじゃ……」
「それは俺が聞きたいです」
 そして男三人で応接間のソファーに座り、沈鬱な表情を浮かべながら重い溜め息を吐いていると、外出先から戻った玲子が姿を現した。


「ただいま戻りました。……あら、どうかしたんですか? 皆揃って変な顔をして。真澄は戻っているんですよね? 清人君からの荷物は開けてみたかしら?」
 怪訝な顔で尋ねた母親に、父と祖父から無言で促された浩一は、言いにくそうに事情説明を始めた。
「ああ、帰ってる。だけど寝室に閉じ籠もってて……」
「あら、具合でも悪いの?」
「そうじゃなくて……、熱海で清人が何か馬鹿をしでかしたらしい」
「……もっと分かりやすく説明なさい」
 途端に冷え冷えとした視線で促され、それに僅かにたじろぎつつ、浩一は真澄が帰宅してからの一部始終を語った。それを聞いた玲子は呆れた様に溜め息を吐いてから、傍らで困惑しながら控えている使用人を振り返る。


「松波さん、お茶を一杯貰えるかしら。それから私の部屋に行って、本棚最上段にある、黒いファイルを取って来て欲しいの」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
 用事を言いつけた女性が一礼してドアの向こうに消えた途端、玲子は夫に向かって刺す様な視線を向けた。


「全く……、どこまで短絡思考なんですか。繁殖期の犬猫じゃあるまいし、二人きりにすればあっさり盛って纏まるとか、本気で考えていたんですか? そんな事で簡単に纏まるなら、長い事好き合っていたんですから、お互いにグズグズしてないでとっくに纏まっています」
「玲子さん……」
「盛るって……、お前な」
「ちょっと待って。……まさか母さんは、姉さん達がお互いに相手の事を好きだって、以前から知ってたのか?」
 唖然とする祖父と父を尻目に浩一が慌てて問い質すと、玲子は落ち着き払って答えた。
「勿論知ってましたよ? だから本人達には内緒で、清人君が二十五歳になったら真澄を貰ってくれる様に、私と香澄さんの間で口約束も出来てましたし。香澄さんが亡くなって以降、二人で会うことも滅多に無くなってしまいましたが」
 それを聞いた途端、忽ち周りの男達から非難と疑問の声が上がる。


「なんじゃそれはぁぁっ!!」
「おい、玲子、どういう事だ!?」
「そんな大事な事、どうして黙ってたんだよ!」
「言えるわけ無いじゃありませんか。当の本人達が口を割らず、動いてもいないのに。……誰かさんのせいで、そんな事口に出せる雰囲気でもありませんでしたし?」
「…………」
 そこでチラリと冷たい目で見やって総一郎を黙らせ、玲子は夫に向かって淡々と続けた。


「気付かない方がおかしいですわ。高校生の頃から香澄さんの家に行く度に、気合いを入れて服や小物を揃えてましたし、前日から凄く機嫌が良いんですもの。清吾さんからレシピも貰ったらしくて、友達と遊びに行くとか休日出勤だと嘘を言っては、こっそり料理学校に通って練習してましたし」
「そんなのが分かるか……」
「どうしてこっそり通ってたんだ?」
 素朴な疑問を雄一郎が呈したが、これにも玲子は明確に答えた。


「どなたかが、娘も孫も『料理をさせなければいけない様な男に誰がやるか!』と公言していたからですわね。まあ尤も? 清人君なら真澄に料理をさせたりしないでしょうが、真澄には真澄なりに女のプライドがあったんでしょう。料理学校を三校出入り禁止になりながら、時間を作っては頑張ってましたから」
(三校出入り禁止って……、一体何をやった?)
 そこで男達が揃って脱力すると、玲子は戻ってきた女性から黒のファイルを受け取り、それを捲って視線を落としつつ愚痴を零した。


「全く……。せめて熱海に清人君と一緒に行かせると、私にだけでも教えてくれれば、真澄に万全の支度を整えてあげたのに。ぶち壊しになったのは、全てあなたのせいですわよ?」
「なんだそれは! どうして俺のせいになるんだ!?」
 憤然として雄一郎が言い返したが、玲子は如何にも残念そうに答えた。
「だって真澄ったらふてくされて適当に荷造りして行ったので、いつも使ってる下着しか持って行かなかったんです。それできっと、清人君の興が削がれたんですわ」
「…………」
 玲子が真顔で断言した内容に、男達は無言で顔を見合わせた。そして控え目に浩一が異議を唱えてみる。


「母さん? ひょっとして……、それって、所謂勝負下着の事とか言ってるわけ?」
「そうよ?」
「……いや、それは絶対違うと思う」
「結婚相手どころか恋人の一人も作らないでフラフラしてるあなたに、男女の機微についてどうこう言う資格はありません。黙っていなさい」
「…………」
 ピシャリと言い切られて浩一が黙ると、玲子は悔しげに言い募った。


「昔、香澄さんとああでもないこうでもないと相談して揃えたあれこれが、全部無駄になってしまいましたわ。あなた、どうしてくれるんですか?」
「叔母さんと何を相談していたと?」
「どうしてくれると言われても……」
 呆れた様に呟いた浩一に続いて、気分を害した様に眉を寄せた雄一郎を眺め、玲子は些かわざとらしく話を続けた。


「本当に……、典子さんも明美さんも結衣さんも、あなたの事を『仕事は出来るかもしれないけど、プライベートはどこか脇が甘い方ですよね』と口を揃えて言ってましたし、浩一同様男女の機微云々を察しろと言うのが、そもそも無理な話で」
「ちょっと待て玲子! どうしてその名前が出てくる!?」
 真っ青になって問い質して来た夫に対し、玲子は朗らかに笑ってみせた。
「あら、だって皆さん私の友人ですもの。結婚相手をお世話したのも私ですのよ? 因みに今日は、将来有望な若手官僚の方と歩実さんを引き合わせて来ましたの。早速連絡先を交換していましたわ。それが何か?」
「…………」
 聞き覚え身に覚えが有り過ぎる名前を連呼され、雄一郎は脂汗を流して固まった。そして玲子は他の二人から白い目を向けられている雄一郎から総一郎に視線を移し、徐に口を開く。


「まあ、真澄が言った通り、諸悪の根元はどう考えてもお義父様ですが。ほら、昔から記録してある暴言妄言失言リストが、こんなにありましてよ?」
 ファイルを開き、パラパラと指をずらしながらページを捲って見せた玲子に、総一郎が顔を引き攣らせながら呻いた。
「……何でそんな物を作っとる」
「一度はお説教をしないとは思っていたのですが、毎回殆ど真澄が噛み付いていたので、私から敢えて言う必要は無いかと。でもやはりお説教しなくてはいけない時に、資料は必要でしょう?」
「…………」
 すこぶる冷静に問い返した玲子に総一郎が押し黙ると、玲子はページを捲りながら喋り続けた。


「やはり『恥知らずの盗っ人』と『薄汚い野良犬』と言うのが双璧ですが……、清人君の交友関係が広いのを聞いては『育ちの卑しいのは人に取り入るのが上手い』とか、佐竹さんの家の慎ましい生活をあげつらって『手元不如意で清香まで品性卑しい人間になったら困る』だとか、清人君がスポーツ万能だと浩一達が誉めているのを聞いて『恥知らずだと怖いもの知らずで、何でも出来るんだろう』と仰ったりとか。それを直に聞いていた真澄の心境を、この際少しは考えて頂きたいものですわね?」
「…………」
 玲子が薄笑いを浮かべて総一郎に呼び掛けると、総一郎は無表情で黙り込み、応接室に気まずい沈黙が漂った。そこで姿を消していた使用人の女性が、玲子に恐る恐る声をかける。


「あ、あの……、奥様?」
「あら、どうかしたの?」
 にっこり微笑んだ玲子に多少びくつきながら、松波はお伺いを立てた。
「その……、お夕飯の支度が整いましたが、如何致しましょうか?」
「今ちょっと立て込んでいるの。一食位抜いても死んだりしないから大丈夫よ。夕飯は明日の朝食に回して頂戴。それからもう下がって良いわ。ご苦労様」
 あっさり言われて松波は一瞬戸惑ったものの、すがりつく様な目を向けてくる主人達から視線を逸らし、深々と玲子に一礼しながら挨拶をした。


「畏まりました。他の者にも上がる様に伝えます。失礼致します」
「ええ、ご苦労様でした」
 そして再び応接室に四人だけになってから、玲子は男達を眼光鋭く睨み付けた。
「この際です。色々言わせて頂きましょうか。夜は長いですし、今日は最後までお付き合いして貰いましょう。雄一郎さんも浩一も、真澄の前で色々無神経な事を言っていましたものね?」
 そうして一見穏やかに笑いつつ、玲子の追及は止まることを知らず、その日は夜半を過ぎても柏木邸の灯りが落とされる事は無かった。





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