夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第43話 共有する想い

 前日同様、眠気覚ましに朝風呂に浸かった真澄は、ぼんやりと窓からの風景を眺めながら、浴槽の縁に頬杖をついて考え込んでいた。
(昨日は岡田さんの事を急に持ち出されて動揺して、清人君に変な態度を取っちゃったわ……)
 溜め息を吐きつつ、チャプンと音を立てて真澄が反対側に向き直り、浴槽の壁面に背中を預ける。
(変な心配させない様に、ちゃんとしないと……)
 そう自分自身に言い聞かせた真澄は、風呂から上がるといつも通りの笑顔を心掛けつつ、リビングに入った。


「おはよう、清人君。良く眠れた? 昨日も言ったけど、仕事ばかりしてちゃ駄目よ?」
 昨日うたた寝をしていた事実から気遣う様に声をかけると、苦笑いしながら清人が応じる。
「おはようございます。大丈夫です、昨日は早めに寝ましたから」
「それなら良いんだけど」
 互いに笑顔で挨拶を交わし、二人でテーブルに着いて何事も無かったかの様に朝食を食べ始めた。
 今日も質量共に満足できるそれを食べ終えてから真澄は応接セットの方に移動し、清人に淹れて貰ったお茶を飲みながら、寛いだ雰囲気でしみじみと言い出す。


「……はぁ、朝からのんびり出来るのは嬉しいわ」
 向かい側でそれを聞いた清人は、小さく笑いを漏らした。
「真澄さんは真面目ですから、休みの日も朝から晩まで何かしら用事を入れそうですね」
「真面目と言うよりは、欲張りなのよ。色々やりたい事を詰め込んじゃうの。だから偶には何もしないでのんびりする様な、こんなのも良いわ」
「そうですか」
 そう言って清人が目元を緩ませた時、自分の携帯が着信を知らせた為、真澄は怪訝な顔をしながら立ち上がった。


「ちょっと失礼するわね」
「どうぞ」
 そうして食卓の隅に置いてあった携帯を取り上げ、ディスプレイで発信者名を確認した真澄は、今度こそ首を捻った。
(藤宮さんから? 土曜日だから今日は職場は休みの筈だけど、何か仕事で緊急の連絡でもあったのかしら?)
 部下の名前に素早く考えを巡らせてから、真澄は幾らか緊張した顔付きで通話ボタンを押した。


「はい、柏木ですけど。藤宮さんどうし」
「GoodMorning&HappyBirthdayです、かちょーっ!!」
 しかし自分の声に対する応答が、あまりにも能天気過ぎる叫び声と大音響の破裂音だった為、咄嗟に真澄は顔を顰めつつ勢い良く耳から携帯を離した。


「……真澄さん?」
 少し驚いた様に自分を見ている清人に気が付き、(何でもないから)と表情と身振りで示してから、真澄は携帯を耳に当てる。
「藤宮さん……、知ってたの?」
 近くに清人が居る為、慎重に言葉を濁して問い掛けた真澄に、電話の相手は上機嫌に肯定した。
「はいっ! 仕事を教えて貰うより先に、係長に教えて貰いました!」
 それを聞いた真澄は、本気で項垂れた。
(城崎さん、何を教えてるの……。それに教える順序が違うから。ちゃんと仕事を教えているんでしょうね?)
 段々不安になってきた真澄だったが、その時心配そうな声が真澄の耳に届いた。


「課長、どうかしましたか?」
「いいえ、何でもないわ。わざわざ電話してくれて、ありがとう」
「いえ、課長が最近お疲れ気味って言うのもありますが、何となく気持ちが沈んでいらっしゃる気がしましたので、一つ景気づけにやってみました。自宅にいらっしゃるなら押し掛けたんですが、旅行中ですから残念です」
 そんな事をしみじみと言われて、真澄は密かに胸を撫で下ろした。
(家に居なくて、本当に助かったわ……)
 そう思ったものの、彼女なりに気を遣ってくれたのだと分かった真澄は、柔らかい笑顔を浮かべつつ感謝の言葉を伝えた。


「藤宮さんにまで気を遣わせてしまって、申し訳なかったわ。きちんと気持ちを切り替えて、月曜には出社するから。来週からこれまで以上にビシビシこき使うから覚悟しててね?」
「それこそ望む所ですから、首を長くしてお待ちしてます! それでは失礼します」
 最後は明るく話を終わらせてソファーに戻った真澄に、清人は一応尋ねてみた。


「部下の方からですか?」
「ええ。色々心配してわざわざ電話をくれたの。今年入った新人の女の子にまで心配をかけてしまうって、よっぽどよね」
 多少自嘲気味に笑いかけると、清人が笑って言い返す。
「そんな事は無いですよ。それだけ真澄さんに人望があるって事でしょう」
「ありがとう」
 そうして再び湯呑茶碗を手にした真澄は、静かにお茶を飲むのを再開した。


(色々あって、今日が誕生日だって事すっかり忘れてたわ……。でも、それでお祝いの言葉を言われたなんて、清人君には言えないわよ。これまで清人君に誕生日を聞かれた事は無いし、お祝いして貰った事も無いからきっと知らないだろうし。今教えたら、祝って欲しいって押し付けるみたいで……)
(何か派手な破裂音らしき物が……。誕生日を祝うのに、非常識にも電話の至近距離でクラッカーでも鳴らしたのか? だが誕生日の事を今口に出す訳にはいかないな。知っている事を知られたら、今までどうして祝ってくれなかったと不審がられそうだし、夜にさり気なくお祝いして誤魔化す事にしよう)
 そんな事を考えつつ、当たり障りの無い会話を少ししてから、清人は徐に口を開いた。


「真澄さん、今日これからの予定ですが……」
「ええ、どうしようかしら」
「午前中ゆっくり美術館を見てから、植物園に移動しようかと思っています。その途中に食事をするのに適当な店を見つけておきましたので」
「植物園? もう冬に近いけど、見る所とかあるの?」
 怪訝な顔をした真澄に、清人が頷いて説明を加える。
「ええ。薔薇やハーブの類が豊富に揃えてある、広大な敷地を有している庭園があるんです。一番の見頃は五月から六月みたいですが、今の時期でも咲いている薔薇はあるみたいですし、テーマ毎に整えられた庭園で四季折々の花が楽しめるそうですよ?」
 それを聞いて、真澄は満足気に頷いた。


「本当? じゃあ行ってみたいわ」
「そうしましょう。それから……、帰りがけにちょっと買い物に付き合って貰えますか? 足りない食材を購入したいのですが、一度ここに戻ると時間を食うので」
「構わないわ。一緒に買い物をするから。どこに行くの?」
「酒屋と魚屋と……、スーパーに少し、ですね」
 それを聞いた真澄は、ちょっと意外そうな顔をしてから考え込んだ。


「へぇ、懐かしいわね。今なら流石にデパートの食品売り場とか専門店とか、コンビニとかに入って買い物をしたりするけど、一般的なスーパーとかは小学校の社会科見学以来かもしれないわ」
「確かに……、真澄さんならそうかもしれませんね」
 そう言って何を思ったか自分から視線を逸らし、口に手をやって小さく笑い出した清人を、真澄は幾分険しい目で見やった。
「……何を笑ってるの?」
「ちょっと思い出しまして」
「だから何を?」
 再度きつく問いかけると、清人は何とか笑いを抑えて話し出した。


「香澄さんを初めてスーパーに連れて行った時の事です。『こんなに一杯色々な種類が揃っていて凄い! それに凄く安いわ。店ごと買えそうね!』って感動して叫んで、終始キョロキョロして周りの人目を引いてました。真澄さんが社会科見学で店に行った時も、そうじゃありませんでしたか?」
(叔母様……、確かに二十歳過ぎてもそういう所で買い物をした事が無かったかもしれませんが……)
 自分と血の繋がりがある事を彷彿とさせる話に、真澄は本気で頭を抱えたくなったが、一応正直にその時の事について言及しつつ、弁解してみた。


「……引率の先生に怒られたわ。今言った様な事は言わなかったけど」
「それなら店員に向かって『棚のここからここまで頂戴!』とか豪快に言ったとかですか?」
「幾ら何でもそんな事は言わないわよ!」
「それなら、どんな事を言ったんです?」
 心底不思議そうに問いかけてきた清人に、真澄は幾分疑わしそうに確認を入れた。
「笑わない?」
「香澄さんとのあれこれを経験済みなので、大抵の事なら動揺しないと思いますが……」
 僅かに上目遣いで真澄に念を押された清人は、密かに動揺しつつも平然と会話を続ける。すると真澄は幾分言い難そうに話を続けた。


「その……、そういう所の買い物自体が初めてで、上下二段の買い物カゴ用カートも見たのが初めてだったから……」
「ああ、ありますね。それが?」
「つい……、『これに乗るから誰か思い切り押して!』って周りの子達に向かって叫んじゃっただけよ」
「…………」
 真澄の説明を聞いた清人が表情を消して黙り込んだ為、真澄は眉を寄せて問いかけた。


「何か感想があるならはっきり言ったら?」
 そうすると、清人は口許を押さえつつお腹を抱え込む様にして、明らかに笑いを堪えている様なくぐもった声を漏らした。
「……いえっ、確かに時々見ますね。幼稚園位の子供が、あれに無理やり乗ってるのを」
「ちょっと! 当時の私が幼稚園児並みだとでも言いたいわけ!?」
 気分を害した様に幾分声を荒げた真澄だったが、清人は視線を併せて面白そうに尚も問いかける。
「そうは言っていませんが、よっぽど楽しかったのかな……、と。それで乗ってみたんですか?」
「怒られたって言ったでしょう!?」
「ああ、そうでした」
 そこで話は途切れたが、まだクスクスと笑っている清人を見て、真澄は拗ねた様に言い出した。


「全くもう……。わざと言って面白がってるでしょう?」
「そんな事はありませんから」
 そう言いつつも笑いを堪えている表情に、真澄もいつまでも怒っているのが馬鹿らしくなり、苦笑いの表情になった。そしてひとしきり笑ってから、二人で再びお茶を飲みながら考え込む。
(良かった、いつも通りの真澄さんみたいだな。やはり昨日のあれは、偶々具合か機嫌が少し悪かっただけらしい)
(あれだけ悩んで気まずい思いをしていた事を考えたら、こんな風に普通に話ができる事だけでもありがたいと思わないとね)


 それから二人は先程確認した予定通り、丘の上に設立されている美術館に車で向かい、二時間強を展示品を鑑賞したり、ガラス張りのメインロビーからの眺められる海や半島の景色を堪能し、茶室や和風庭園などを見学して、非日常的な空間と時間を満喫した。そして頃合いを見て清人が移動を促し、車で次の場所へと向かう。
 市街地から海沿いの山道に入り、何分か走って着いたそこは崖の縁に店舗を構えているレストランで、一面ガラス張りの窓際に向けて設置されているソファー席に通された真澄は、間の前に広がる小島が浮かぶ海と、切り立った断崖絶壁が並び立つ雄大な景色に、思わず一瞬見入ってから感嘆の声を上げた。


「うわぁ、素敵……。ありがとう清人君。ここ、わざわざ予約してくれたんでしょう?」
 ソファーに座りながら真澄が声をかけると、清人は並んで座りながら笑いかける。
「土曜日だから混んでいるかと思いましたが、取れて良かったです。コースを頼みますが良いですか?」
「ええ、任せるわ」
 そうして料理が来るまでの間、二人揃って前方の景色を楽しみつつ、時折横を見ながら話に花を咲かせていたが、今回の事を振り返って真澄は自分を幸運に思った。
(誕生日、か……。自主的に誘ってくれて二人きりになったわけじゃないし、清人君が祝うつもりで準備したんじゃないにしろ、私はもうこれで十分だわ)


「……ねえ、清人君」
「何ですか?」
 オードブルとスープを食べ終え、メインディッシュが来るのを待っている時、真澄が静かに口を開いた。それに何気なく清人が応じたが、真澄が苦笑気味に問い掛ける。
「清香ちゃんから聞いたんだけど、今年の誕生日に愚痴ったんですって? 自分の誕生日を、いつまで祝って貰えるのかって」
 それを聞いた清人は、懸命に舌打ちしたい気持ちを堪えた。
(……清香の奴、余計な事を真澄さんの耳に入れて)
 しかし内心の苛立ちを抑えながら、清人はなるべく普通の口調を装って問い返した。


「確かに言いましたね。それがどうかしましたか?」
 すると真澄は何故か清人から視線を逸らしつつ、口ごもった。
「ううん、何でもないわ。何でも無いんだけど……」
「真澄さん? 何でも無いならわざわざ話題に出したりしないでしょう?」
 口調は穏やかなままでも、暗に続きを促した清人に、真澄は躊躇いつつも口を開いた。


「その……、清香ちゃん以外に、清人君の誕生日を祝ってくれる人はいないの? それともつきあってる女性が月替わりだから、皆誕生日を知らないうちに別れるとか?」
 そんな事を真顔で言われ、清人は頭を抱えた。
「月替わりって、何ですか。幾ら何でもそこまでサイクルは早く無いですよ。それにそんな事、一体誰に聞いたんですか」
「それは……、その、浩一とか正彦とか明良とか? 『会う度違う女を連れてる』って言ってたし」
(…………ここら辺で一回、全員纏めて絞めておくか)
(素行調査してるなんて言えないから、適当に誤魔化すしかないわね)
 一瞬清人が物騒な気配を醸し出したが、後ろめたい事がありありで視線を逸らしていた真澄がそれに気付く事はなかった。そんな真澄を眺めて小さく溜息を吐いた清人は、静かに口を開く。


「俺は大して親しく無い人間にわざわざ恩着せがましく祝って貰うのが面倒なので、滅多に誕生日を教えないだけです。勿論、清香以外にも悪友とかが勝手に祝ってくれてますが、清香は家族なので特別なんです。だから清香以外に誰にも祝って貰っていない訳ではありませんから、心配しないで下さい」
 そんな事を幾分素っ気なく言われた真澄は、殆ど無意識に口を開いた。
「付き合っている相手でも『大して親しく無い人間』に括られるの?」
「そうですね。……真澄さんは不満ですか?」
 感情を削ぎ落とした様な声でそう問われた瞬間、真澄は気まずそうに顔を逸らしながらボソボソと口にする。


「そうじゃないけど……。清人君の口から直に誕生日を聞いた事は無くて、清香ちゃんから何かの折に聞いただけで。しかも『誕生日は誰にも邪魔されずに清香と二人で過ごす』って毎年宣言していたみたいだから、押しかけるのもどうかと思っていたから……」
「あの、真澄さん? 要するに、何が言いたいんですか?」
 いつの間にか目の前にメインディシュの牛ヒレ肉のステーキが運ばれてきて、美味しそうなソースの香りが漂っていたが、完全に二人の視界に入っていなかった。そしてまた少し逡巡してから、真澄が控え目に言い出す。


「その……、もし、この先清香ちゃんが清人君の誕生日をお祝いしてくれなくなって、清人君が寂しい思いをするようなら……、その時は私で良かったら、お祝いしてあげるわよ?」
「え?」
 そう言われた清人は軽く目を見開いてからたっぷり五秒は固まり、次いで呆れた様に溜め息を吐いた。
「いきなり何を言い出すんですか。あなたって人は」
「こんな事を言われても、付き合ってもいない私に祝って貰うなんて、嬉しくも何とも無いでしょうけど……」
 誤魔化す様に料理の皿に視線を向けながら告げると、苦笑している様な声がかけられる。


「そんな事はありません。真澄さんに祝って貰えるなら、俺は嬉しいです」
 その声に静かに清人に顔を向けた真澄は、相手が本心からの笑顔と分かる表情を見せていた事に戸惑った。
「どうして?」
 反射的に尋ねた真澄に、清人はさも当然の如く告げる。
「真澄さんは特別ですから。真澄さんは確かに家族では無いですが、香澄さんは俺の家族ですから、真澄さんも身内みたいなものですよ?」
 そう言われた真澄は半分落胆し、半分納得した。


(確かに叔母様の姪だから、身内みたいなものよね……。ここは、十把一絡げの女性達と同一視されていない事を、喜ぶべき所かしら)
 清人が未だに自分の背後に香澄を見ている気がする事に、真澄はいい加減嫌気が差していたが、それを面には出さずに曖昧な笑みを浮かべた。その笑顔の裏に隠れた真澄の心情を読み取れなかった清人が、さり気なく真澄を促す。


「さあ、温かいうちに食べませんか?」
「ええ、そうね。美味しさが半減するわね」
(お祝いか……。流石にそろそろ、叔父様との約束を果たさないとね……)
 それから真澄は余計な事を考えない様に心掛け、清人との会話と食事を楽しむ事に専念しながら食べ進め、デザートと食後のコーヒーを飲む頃までには心の中の重い空気を一掃する事に成功した。



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