夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第42話  戸惑い

 ホテルの精算を済ませて真澄と共に車に乗り込んだ清人は、車のエンジンをかけてまさに発車しようとした時、メールの着信音を耳にして助手席の真澄に断りを入れた。
「すみません、ちょっと待っていて下さい」
「どうぞ。構わないわよ?」
 メールの確認だけしておこうと携帯をポケットから引き出した清人は、送信者名を見て見なかった事にしようかと一瞬思ったが、一応内容を確認してみる。


《お兄ちゃん、ちゃんと真澄さんに謝ったんでしょうね!? 電話の一本もかけて無かったら、帰って来ても家の中に入れないからね!》


 予想に違わぬ叱責メールに、清人はうんざりとしながら小さく溜め息を吐き、早速清香に電話をかけた。そして相手が応答するやいなや、先手を取って文句を口にする。
「清香、しつこいぞ。俺がそんなに信用できないのか?」
「この件に関しては、全っ然信用出来ないから! 誰のせいだと思ってるのよ?」
「心配するな。ちゃんと電話して詫びを入れたから」
 叫んだ清香に清人は淡々と言い返したが、清香は如何にも疑わしげな声で問い返した。


「……本当に?」
「本当だ。じゃあ切るぞ? 日曜には帰るから、川島さんの言う事を聞いて大人しくしていろ。それじゃあな」
「あ、ちょっと! お兄ちゃん!?」
 そこで清人が一方的に話を打ち切り、携帯を元の様にしまい込むと、話の内容から容易に相手が分かった真澄が、不思議そうに清人に声をかけた。


「清香ちゃんに電話をかけたんでしょう? 急にどうかしたの?」
「ここに来る前に真澄さんに謝れと、何度も叱りつけられたんです。さっきのはその催促メールでした」
 車を発進させながらそう述べた清人に、真澄は幾分冷やかす様な言葉を口にする。
「あら……、流石の清人君も、清香ちゃんにかかると形無しなのね」
「否定はしませんが……」
 清人は苦笑いしか出来なかったが、ちょっと考えてから真顔で言い出した。


「清香には取り敢えず電話で謝罪した事にしましたので、真澄さんも話を合わせて下さい。一緒にいる事が分かったら、色々不味いでしょうから」
 そう言われて、真澄が首を捻る。
「どうして? 直接会ってお互いに謝ったと言えば良いでしょう?」
 それを聞いた清人は、運転をしながら微妙な顔付きをした。


「……清香が率先して言いふらす事は無いでしょうが、どこから周囲に変に伝わるか分かりませんから。真澄さんに変な噂を立てる訳にはいきません」
「別に私は……」
 確かに男性と二人で旅行中ともなれば色々憶測を呼ぶのは分かっていたが、自分としては別に噂になっても構わないと言おうとした時、真澄の携帯が車内に着信音を響かせた。それを取り出して発信者名を確認した真澄が、思わず笑みを零す。


「……噂をすれば影ね」
 それで清人には清香からだと分かり、ハンドルを握ったまま小さく溜め息を吐く。それを見た真澄が、笑いを堪えながら通話ボタンを押した。


「もしもし、清香ちゃん?」
「あの……、真澄さん、すみません。今お仕事中で、手が離せませんか?」
「いえ、大丈夫よ。今日は休みなの」
「良かった。勢いで電話しちゃってから、いつもなら仕事中の時間帯だって気が付いたから……」
 恐縮気味な口調が一転して安堵の空気が伝わって来た為、電話をかけてきた用件を察知していたものの、素知らぬ振りで尋ねてみた。


「そんなに急いで電話してくるなんて、どうかしたの?」
「えっと……、お兄ちゃんの事なんですけど……。昨日と今日の間に、お兄ちゃんから真澄さんに電話がありましたか?」
(……本当に、最近信用を無くしてるみたいね)
 チラリと運転席を見やりつつ必死に笑いを堪えながら、真澄はいつもの口調で答えた。


「ええ、電話で先日の事を謝って貰ったから、私からも謝ったわ」
 真澄がそう口にした途端、電話越しに安堵した空気が伝わってくる。
「それなら良いんですけど……。でも真澄さんが謝る事は無いですよ?」
「そんなわけにはいかないわ。醜態を晒して不快な思いをさせた上、先にお酒をかけたのは私の方だもの。仕事にかまけて謝罪するのが遅くなった事も併せて謝ったから。清香ちゃんにも余計な気を遣わせてしまったみたいね、ごめんなさい」
「ううん、そんな事気にしないで! お兄ちゃんと仲直りしてくれたらそれで良いの。急に電話しちゃってごめんなさい。それじゃあ切りますね?」
「ええ。また近いうちに顔を見に行くわね?」
「はい、待ってます」
 そうして会話を終わらせた真澄は、携帯をしまい込んでから、黙って話を聞いていた清人に声をかけた。


「清香ちゃんの中で、相当信用度が低下してるみたいね」
 皮肉混じりの台詞に、清人が深い溜め息を吐いて忌々しそうに言い出す。
「遅れてきた反抗期真っ盛りみたいです。全く……、あの野郎がチョロチョロし始めてから、ろくな事がない」
「全部聡君のせいなの? 随分大人気ない事」
「……そうでも思わないとやってられません」
 憮然として吐き捨てた清人に、真澄はとうとう我慢できずに小さく笑ってしまった。そして同情する視線を向ける。


「結婚もしてないのに、もうすっかり父親気分なのね。可哀想に」
 それに清人は、些かやさぐれた口調で応じた。
「ええ、可哀想なんですよ。周囲は誰もそう思ってくれませんが」
「そうでしょうね」
「だから可哀想な俺を、真澄さんが慰めてくれませんか?」
「え?」
(ちょっと待て! 俺は今、何を口走った!? 下手な事を言ったら真澄さんに引かれるだろうが!)
 真澄が困惑した声を発し、それを耳にした清人が瞬時に我に返った。と同時に内心の動揺を押し隠しつつ、あまり問題が無い方向に話を持っていく。


「真澄さんだって清香に対しては母親気分でしょう? 昔から何かと世話を焼いてくれていましたし」
 それを聞いた真澄は僅かに考え込んでから、皮肉っぽく付け加えた。
「そうね……。この場合母親としては、渋る父親を宥めて説得して、娘の交際相手を認めさせてあげるべきよね?」
 そんな風にわざとらしく同意を求められた清人は、ちょうど交差点で赤信号に捕まった所でもあり、ハンドルを両手で握ったままがっくりとうなだれた。


「……もう良いです。何もそんな風に追い討ちをかけなくても、良いじゃないですか。意地悪ですね、真澄さん」
「拗ねないでよ、もう。本当に大人気ないわね? ほら、慰めてあげるから。よしよし」
 そう言って真澄が右手を伸ばし、清人の頭を軽く撫でていると、溜め息と共に清人が体を起こし、信号が変わったのを確認して再び車を発進させた。


「最近……、益々香澄さんと行動パターンが似て来ましたね」
「さっき清人君が、私を叔母様と間違った位ですからね」
(叔母様に似ていなかったら、こんな風に接してくれなかったでしょうから)
 清人と自分、双方に対しての皮肉を口にした真澄だったが、その話はそこで終わりにする事にした。
 そうして来た道を戻り、下り坂に入って暫くしてから、清人と話をしていた真澄が、何かを思い出した様に言い出した。


「……ああ、そうだわ。清人君、戻る途中で本屋に寄って貰えないかしら?」
「分かりました。何か買いたい本でも有ったんですか?」
 何気なく尋ねた清人だったが、何故か真澄は中途半端に言葉を濁す。
「別に、そういうわけじゃ無いけど……。暫く本屋に立ち寄る事もしていなかったし、何か面白そうな本が無いか探してみようかなと思って……」
「じゃあ広い道に出たら検索してみます」
 何やら弁解がましく真澄が口にした為、内心(何なんだ?)とは思ったものの、清人は大人しく了承の言葉を口にした。
 それから更に車を走らせた清人は、街道の周囲に家や店舗が立ち並ぶ様になってきた所で一度車を停め、ナビで書店を探し出してそこに向かった。


「戻る途中で、割と大きな本屋があって良かったわ」
「そうですね。夕飯の食材はあるのでこのまま帰って大丈夫ですから、ゆっくり見ていても大丈夫ですよ?」
「ありがとう」
 隣接する駐車場に停めた車から降り、そんな話をしながら清人と共に店内に入った真澄は、入口を入ってすぐの平積みのコーナーに目をやって、すぐに目的の物を発見した。


(あ、あったわ! だけど……、流石に本人の前で買うのはちょっと。恥ずかしいし、如何にも『買ってあげてます』みたいで、恩着せがましい感じがして……)
 《東野薫》著作の新刊を首尾良く見つけたものの、清人の前で直行するのは躊躇われた為、関係ない方に視線を向けながらうろうろし始めた真澄を不審そうに眺めた清人は、店内を見回してすぐにその理由に思い至り、僅かに表情を緩めた。


(ああ、そう言えば、あれは今日発売日だったか。色々あって忘れていたな……。俺の前で買うのは、如何にも恩着せがましく見えるとか考えて、困っているのか? 俺としては嬉しいだけだが、真澄さんはそういう事に関しては控え目だからな……)
 そこで清人は気付かないふりをしながら、その場を離れる事にした。
「真澄さん、俺はちょっと奥の児童書のコーナーに行ってますから」
 そう声をかけると、真澄が驚いた様に問い返した。
「児童書? どうしてそんな所に?」
「鹿角先輩の所の陽菜ちゃんが、年が明けたらすぐに一歳になるでしょう? お祝いに絵本でもと思いまして。ネットでも購入できますが、そういう物はやっぱり直に見てみないと内容が分かりませんから、見れる時に見ておこうかと」
 その尤もらしい理由に、真澄は素直に頷いた。


「なるほどね。じゃあ私はこの辺りに居るわ」
「ええ、分かりました」
 そして清人が本棚の向こうに姿を消してから、真澄は安心して新刊コーナーの所に戻り、《東野薫》の新刊を手に取って安心してレジへと向かった。
(良かった、買う所を見られなくて済んで。夜に部屋で一人で読もうっと)
 本にカバーをかけて貰った上で袋に入れて貰い、それを手に持って上機嫌で児童書のコーナーに向かうと、清人はある本を手にしてページを捲っている所だった。


「清人君、お待たせ」
「ああ、買い終わったんですね。じゃあ行きましょうか」
 本から視線を上げ、手にしていた本を閉じて元の位置に戻した清人に、真澄は一応尋ねてみた。
「清人君は買わなくて良いの?」
「一応眺めていただけですから。まだ時間はありますし、改めて買います」
「そうなの。……あら、これ、小さい頃に読んだ事あるわ。懐かしい! こっちにもある」
 視線を何気なく平積みされている絵本に落とした真澄は、その表紙を見て嬉しそうに手を伸ばした。それを見た清人も、笑顔で頷く。


「俺も読んで貰った事があります。絵本の類は根強い人気がある作品は、何版も重ねていますから。親が小さい頃に読んだ物を、自分の子供にも読ませたいと思って購入するパターンも多いみたいですね」
「そうよね。私もこれは読ませたいわ」
「え?」
 何気なく応じた真澄の台詞に清人が戸惑ったが、それに気付かないまま真澄が上機嫌で続ける。
「それに……、読んであげるならこれかしら? へえ、これもまだ出版されてるのね」
「…………」
 楽しそうに視線をあちこちに動かしていた真澄だったが、そこで清人が何か言いたげな顔をして黙り込んでいるのに気が付いた。


「何? 清人君。変な顔をして」
 急に声をかけられて僅かに動揺しながら、清人は正直に理由を述べた。
「いえ、その……。普段真澄さんから、聞かない様な台詞を聞いたので、ちょっと戸惑いまして……」
「は?」
 それを聞いた真澄は、一体何がそんなに気になったのかと一瞬考えたが、自分の口にした事を思い返してみて、些か不機嫌そうに言い返した。


「何? 私が絵本の読み聞かせとかするのが、そんなにおかしいわけ? 昔、清香ちゃんにしてあげた事だってあるんだけど?」
「いえ、そうではなくて……」
 焦った様に弁解しかけた清人だったが、真澄が気分を害した様に続けた。
「分かっているわよ。私に家庭的な事なんか似合わないし、そもそも結婚願望を持ってるのがおかしいって言うんでしょう?」
「そんな事は言っていません」
 どう言えば良いか困ってしまった清人を見て真澄は苛立ちを抑え、苦笑いしながら宥めた。


「別に構わないわよ? 以前から散々言われてる事だし。だからそんな顔をしないで頂戴。苛めているみたいじゃない」
 それを聞いて、清人が微妙に顔を歪める。
「……どんな顔をしているって言うんです」
「一言で言えば、情けない顔? じゃあ行きましょうか」
「分かりました」
 いつもの顔で促された清人は、色々言いたい事を飲み込み、店を出て車へと向かった。


 それから再び車で別荘へと戻る道を運転しながら、(結婚願望か……)などと何となく清人が先程の会話を思い返していると、助手席から小さな笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ……」
 思わず漏れた、と言った感じのその声に、清人が不思議そうに声をかける。
「真澄さん、どうかしたんですか?」
 すると真澄は清人の方に顔を向け、面白そうに言い出した。
「清人君、さっき絵本を読んで貰ったって言ってたでしょう?」
「ええ、それが何か?」
「叔父様に読んで貰ったんでしょう? 想像してみたんだけど、ちょっと叔父様のイメージと合わなくて。ごめんなさい」
 それを聞いた清人は、思わず噴き出しそうになりながら真澄に言い返した。


「謝る事はありませんよ。確かにそんなのは親父の柄じゃありませんから。実際に読んで貰ったのは、殆どじいちゃんとばあちゃんにですし」
「え?」
 予想外の人物の話が出てきて思わず顔を強張らせた真澄だったが、清人は運転中だった為その表情の変化は分からず、ただ戸惑った空気を察して説明を加えた。


「……ああ、真澄さんには話した事は無かったかもしれませんが、団地に住んでた時にすぐ下の階に住んでいたご夫婦の事です。俺が小さい頃、良く面倒を見て貰ったんですよ」
「そうなの……」
「真澄さんが家に来て、清香と一緒に外で遊んでいる時、何度か顔を合わせた事が有ったかと思いますが」
「そう言えば……、何となく覚えがあるわ」
(清香ちゃんから万年筆の事を聞いた時、その人の事も聞いて知ってると言ったら絶対気を遣わせるし、万年筆の事も蒸し返したく無いもの……。知らないふりをした方が良いわよね)
 そんな事を考えて適当に相槌を打った真澄に構わず、清人は前方を見ながら懐かしそうに話を続けた。


「良く二人に手を引かれて、図書館に連れて行って貰ったんですよ。一人で一度に借りられるのが六冊までなので、二人で登録カードを作って沢山借り出してくれて」
「……そう」
「気に入ったシリーズで欠けてる物があると、他の図書館の蔵書も探してくれたりして。小さい頃は、そこの岡田さんの部屋に入り浸ってました」
「随分、お世話になったのね」
「ええ。ごく近くにですが時々遊びに連れて行って貰ったり、病気の時に看病して貰ったりもしてましたから」
「……じゃあ、殆ど家族みたいなものね」
「そうですね。もう二人とも亡くなりましたが」
「…………」
 話す度に段々益々真澄の口調が重くなっていき、遂に黙り込んでしまったところで、漸く清人は真澄の異常に気が付いた。


「真澄さん? 急に黙り込んでどうかしましたか?」
 ちょうど信号待ちで車を止めた為、清人が助手席の方に顔を向けて声をかけると、真澄はそれから逃れる様に視線を逸らしつつ答えた。
「……別に、何でも無いわ」
「ですが、急に具合でも悪くなりましたか?」
「何でも無いから!」
 反射的に真澄に向かって左手を伸ばしかけた清人だったが、外に顔を向けたままの真澄に鋭く叫ばれて、その動きを止める。


「真澄さん?」
 訝しむ様なその声に、真澄は我に返ってその場を取り繕った。
「あの……、本当に大丈夫だから。何でもないのよ」
「……そうですか」
 それ以上は何を聞いても無駄だろうと判断した清人は、姿勢を戻して車を発進させて交差点を通過しながら静かに告げた。
「一応ゆっくり行きますから、気分が悪くなったらすぐに言って下さい」
「ええ」
 真澄も素直に頷いた後は何事も無く別荘に戻り、清人が夕食の準備をしている間は真澄は部屋に引きこもっていた。


 夕食時には傍目にはいつもの様に振る舞っていた真澄だったが、清人からすると微妙に作り物臭い笑顔に、密かに違和感を覚える。しかし本人が何も口にしない上きちんと食べている事もあり、清人は(別に問題は無さそうだな)と自分自身を無理矢理納得させた。
 そして真澄が風呂から上がって再び部屋に引き上げてから一時間程して、躊躇った挙げ句清人は真澄の部屋に様子を見に行ってみた。


「真澄さん?」
 小さく声をかけながら常夜灯のみの薄暗い室内を静かにベッドまで進み、極力音を立てない様にしてその端に腰を下ろした。そして無言のまま、規則正しい寝息を立てて眠り込んでいる真澄を見下ろしながら、その額に手を伸ばす。


(熟睡してるよな? 苦しそうでも無いし、熱も無いと思うし……)
 特に異常を感じなかった清人は安堵した半面、真澄の態度が急におかしくなった理由が掴めず困惑した。
(別に心配要らないと思うが、一体どうしたんだ? 本屋を出るまでは普通だったと思うんだが……)
 そこまで考えた清人は、真澄の顔を見下ろしながら思わず自分の心情を口にした。


「本当に……、俺をここまで振り回すのは、貴女だけですよ。全然分かっていないでしょうが……」
 多少恨みがましくそんな事を呟いてから、清人は諦めた様に小さく首を振って立ち上がった。
「明日は寝惚けている訳にいかないからな。無理にでも寝ておくか」
 そんな自嘲気味の呟きを残し、清人は入って来た時と同様、足音を立てずにその部屋を後にしたのだった。



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