夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第40話 知らぬは本人ばかりなり

「さて、食事の支度はできたし真澄さんを……。でもその前に、ちょっと確認を入れておくか」
 夕食の支度を済ませ、キッチンから持参したエプロンを外した清人は、テーブルの携帯を取り上げてどこかへメールを送信した。そのまま少し待っていると電話の呼び出し音が鳴り響き、掛け時計で現在時刻を再確認した清人が、僅かに意外そうな顔をしながら通話ボタンを押す。


「先輩、城崎です。どうかしましたか?」
 すぐさまメールに対する応答が有った事をありがたく思いながら、清人は幾分申し訳無さそうに問い掛けた。 
「城崎、まだ仕事中だと思うが、今は大丈夫なのか?」
「ええ、ちょっと外回りから社に戻る途中でメールを受けたので、話をするのに支障はありません。それで『できるだけ至急で確認したい事がある』とは、何ですか?」
 そう不思議そうに問い返された清人は、早速本題に入った。


「最近、真澄さんがかなり重大なミスをしたらしいが、それは何だ? そのせいで彼女、今会社を休んでいるよな?」
 今彼女と一緒にいるなどと、余計な事は言わずにしらばっくれながら尋ねると、途端に電話の向こうで城崎が苦々しげな口調で呟く。
「どうして課長が急遽休暇を入れた事を知ってるんですか。……まさか浩一課長辺りが、先輩の耳にあの悪口雑言を入れたわけじゃありませんよね?」
 その不穏な発言を聞き咎めた清人は、瞬時に電話越しでも冷気を発しているのが分かる口調になって城崎を詰問した。


「城崎…………、何だ、その悪口雑言って言うのは」
「…………」
 自分の失言を悟り貝になった城崎に、清人が薄笑いをしながら電話越しに凄む。
「城崎? 無理やり吐かされたいのか? お前にそんな自虐趣味があったとは知らなかったな。そういう事なら遠慮なく、手段を選ばず」
「分かりました。お話ししますが、最後まで冷静に聞いて貰えますか?」
 抵抗を諦めて溜息混じりに懇願してきた城崎に、清人は素っ気なく応じた。


「保証はできんが、一応努力する」
「……ありがたくて涙が出ます」
 実際に目の前に本人が居たら涙ぐんでいたかもしれない様な声が伝わったが、それは一瞬の事で、すぐに城崎は冷静に、かつ順序立てて真澄のミスの内容と一連の経過を説明した。
 話の途中で清人のこめかみに青筋が浮かんだが、ここで城崎を怒鳴りつけても何もならない事は分かっていた為、何とか怒りを静める。そして城崎が分かっている範囲の事をほぼ正確に伝え終わった所で、清人が些か皮肉っぽく問いかけた。


「……城崎? まさかお前さっきのあれこれを、彼女の横で馬鹿正直に黙って聞いてたわけじゃあるまいな」
 その問いかけに対する城崎の答えは、実にあっさりとした物だった。
「聞いていました」
「何だと?」
 途端に怒気を孕んだ声を発した清人にも臆せず、城崎が冷静に言い返す。
「課長が一言も弁解しないで頭を下げている横で、部下の俺が見苦しく喚き立てる訳にはいきません。課長の指導力が疑われてしまいます。違いますか?」
 そう問われて、清人は苦笑いして自分の非を認め、素直に謝罪した。


「……そうだな。悪い、城崎。お前の立場としてはその通りだ」
 それに城崎も僅かに笑う気配を伝えてから、怪訝そうに問いかけてきた。
「いえ。それで先輩は、どうしてこの事について質問してきたんですか? 正直なところ先輩を激怒させたく無かったので、俺からは伝えていませんでしたし、浩一課長からお聞きになった様でも無いようですが」
 それについてはあまり追及されたくなかった清人は、適当に誤魔化す事にした。


「ちょっとな……。もういい、良く分かった。仕事中に邪魔して悪かったな」
「それは構いませんが……。今、課長は社長に言われてどこかで謹慎中だそうですが、できれば都内に戻ったら、気晴らしにどこか連れ出して頂けますか? 最近お疲れの様なので」
 部下としての気配りを見せた城崎に、清人は何とも言えない顔で返事をした。
「……考えておく。それじゃあな」
「はい、失礼します」
 そうして通話を終わらせた清人は、疲れた様に溜息を吐いた。
「そんな事になってたか……。しかし、あの老害クソ親父ども、近いうちに叩き出してやる……」
 そう言って親の仇でも見る様に、一瞬物騒な目つきで手の中の携帯を見下ろした清人は、また元の位置に携帯を戻し、二階の部屋に真澄を呼びに行った。


 そんな状況下で始まった二人きりの食事は、挨拶をしてから比較的静かに進んだ。
(外で食べる事があっても、必ず誰かと一緒だったし……。この前私が料理を作って一緒に食べた時は、由紀子さんとの事を聞き出すつもりで押しかけたから、清人君の意思を殆ど無視してたし。こんな風に清人君が作ってくれた料理を、落ち着いて二人で食べるなんて、一体何年ぶりかしら? )
 ご飯茶碗片手にチラリと清人の様子を窺いつつ、真澄はしみじみとそんな事を考えた。


(マンションを訪ねた時にご馳走になる事はあっても、清香ちゃんと一緒だし……。下手をすると、叔母様達が亡くなって以来かしら? あれから随分時間が経ったけど、あっという間だったわね……)
 考え事をしながら黙々と箸を動かしていた真澄を見て、何を思ったか清人が静かに声をかけた。


「……真澄さん。箸が進んでいないみたいですが、お口に合いませんか?」
 そんな事を言われて、真澄は慌てて笑顔になって答えた。
「そんな事は無いわよ? とっても美味しいわ」
「それなら良いんですが……」
 清人もそれに曖昧に笑ってから、何やら考える風情で再度問いかけた。


「真澄さん、日曜までここに居るんですよね?」
「ええ、そうだけど……、やっぱり迷惑かしら?」
「そうじゃありません。どこか行きたい所は無いですか?」
 唐突に言われた内容に、真澄は驚いた様に何回か瞬きしてから口ごもった。
「え? 行きたい所って……、一応謹慎中だし……」
「そこまで真面目に考えなくても良いでしょう」
 思わず苦笑した清人に、真澄が尚も確認を入れる。


「あの、でも……、お父様から監視しておくように言われてるんじゃ無いの? 勝手に出歩いたら清人君が困るんじゃない?」
 父親に何か借りがあるらしい清人が、更に困る事になりはしないかと心配する台詞を吐いた真澄に、清人は小さく肩を竦めた。
「余計な事を言うつもりはありませんし、俺がわざわざ報告しなければバレませんよ。そこまで従う義理も有りませんし」
「でも……」
「勿論、真澄さんの気が乗らないなら、無理強いはしませんが」
 清人の顔色を窺いつつ、まだ逡巡している真澄を見て、清人は思わず舌打ちしたくなった。


(本当に丸々四日、閉じこもってるつもりだったのか? 全く柏木さんも、真澄さんにどれだけきつく言ったんだか……)
 自分を良い様に丸め込んだ事に対する怒りも含めて、清人は頭の中で雄一郎を罵倒したが、そこで恐る恐るといった感じで真澄が言い出した。


「あの……、正直に言うと、散歩位はしたいなと思っていたけど……」
「構いませんよ? 俺が幾らでもお付き合いします」
「付き合って、くれるの?」
 驚いた様に軽く目を見開いた真澄に、清人は笑って頷いた。
「当然ですよ。一人だと何かと物騒ですから」
「観光とかする気は無かったけど……、美術館とか、海岸あたりの散策はしたいかも……」
「じゃあ車で来ていますから、足は心配しないで下さい」
 笑顔で請け負う清人に勇気づけられる様に、真澄は更に考え込みながら思った事を口にしてみた。


「それなら……、山の方が色付いて来ているから、ゆっくりドライブとか……」
「そうですね。まだ真っ赤になってはいませんが、緑一色ではなくてなかなか趣がある季節ですから。いっその事ドライブがてら箱根まで行きませんか? 芦ノ湖まで一時間位で行けるでしょう。美術館や植物園もある筈ですし、向こうの方はもう紅葉のシーズンに入っていると思いますよ?」
 食事の手を止めて、機嫌良く色々提案してくる清人に、真澄は顔付きを改めて尋ねた。
「清人君」
「何ですか?」
「本当に構わないの?」
 その問いかけにも清人は小さく笑って答えた。


「何を今更、遠慮してるんですか。真澄さんらしく無いですよ?」
「だって、お父様に頼まれた仕事なんでしょう? そこまで気を遣う必要は無いのよ?」
「正直に言えば、他の人間だったら適当に放置しておきますが、真澄さんは特別ですから」
「……そう」
(自分は特別って言われて、昔は単純に喜んでたわね……)
 そんな苦い想いを噛みしめながら、真澄は辛うじて笑顔を作った。それに気が付かないまま清人が話を続ける。


「それに……、昔、香澄さんから話を聞いていた事があったので、俺もちょっと出歩いてみたいものですから、真澄さんさえ良ければ付き合って下さい」
「叔母様が?」
「ええ。お母さん……、澄江さんがまだ元気な頃、家族旅行で来た事があったとか。一家六人で最後に旅行したのがここだったそうで、凄く懐かしそうに話していたんです」
「そうなの? 知らなかったわ」
 初耳だった為素直に驚きを示すと、清人が再度真澄に誘いをかけた。


「それで、その話をした時に、絶対一度は見ておきなさいと言われた美術館とかが有るので、良かったら一緒に行きませんか?」
「……そうね。行こうかしら」
 少し迷う風情を見せながらも頷いた真澄に、清人は機嫌を良くして軽く頷いてから食事を再開した。
「じゃあ明日と明後日は出掛けましょう。他にも色々場所を確認しておきますから」
「お願いね」
 そんな会話を交わしてからは比較的和やかに会話も進み、当初の重苦しい空気はいつの間にか消え去っていた。
 そして食事の後も、お茶を飲みながら滞在中の予定について幾つか話をしてから真澄は自分の部屋に引き揚げ、入浴して寝る準備を整えた。そして幾分迷ってからパジャマの上にカーディガンを羽織り、リビングのドアを少し開けて顔を出す。


「清人君、先に休ませて貰うわね?」
 テーブルの上に置かれたノートパソコンを凝視しながら、何やら手を動かしていた清人は、その声にドアの方を振り返り、優しく笑って挨拶をしてきた。
「はい、おやすみなさい、真澄さん。夜間は結構冷えると思いますから、温かくして寝て下さい」
「分かったわ。それじゃあおやすみなさい」
 そして何事も無く部屋に戻って来た真澄は、ベッドの端に座り込んで一人項垂れた。


「仮にも一つ屋根の下で二人きりで、微塵も動揺しないで平然と挨拶されるってどうなの? ……やっぱり女扱いされてないわよね。変に意識して動揺した私が、馬鹿みたいじゃない」
 そこまで言って深い溜息を吐いた真澄は、自分自身に言い聞かせる様に暗い表情で呟く。
「やっぱり特別は特別でも、清人君の『特別』は世間一般で言うところの特別とは違うんだから……。いい加減学習しなさいよ、真澄」
 そうしてもそもそと移動して布団の中に潜り込んだ真澄だったが、枕元のリモコンで照明を消しても、色々な感情が頭の中を入り乱れていてなかなか眠れなかった。
「眠れない……、どうしてくれるのよ、全く……」
 十分程して小さく悪態を吐いた真澄は再び照明を点け、ベッドから起き上がって床に下り、部屋の片隅に置いておいたスーツケースに向かって歩み寄った。


 そろそろ日付が変わろうかと言う頃、一仕事終えて二階に上がって来た清人は、真澄の部屋の僅かに開いていたドアの隙間から、明かりが漏れている事に気が付いて眉を顰めた。
(何だ? まさか、まだ起きている訳じゃあるまいな)
「……真澄さん?」
 慎重に小さく声を掛けながらドアを開けて室内に入ってみると、煌々と照明を点けながらベッドで寝入ってしまっている真澄の姿を認め、思わず溜息を吐いた。次に真澄の手元にあった本を見て、そのタイトルを確認した清人が小さく笑みを零す。


「俺の本を持ってきてくれたのか……。そういう所が好きですよ、真澄さん」
 そう言いながらベッドから本を持ち上げ、サイドテーブルに置いた。そして幸せそうな笑顔で寝入っている真澄を些か呆れた様に見下ろし、愚痴っぽい呟きを漏らす。
「しかし……、一軒家に男と二人きりなのに、ドアに鍵もかけないで熟睡とはな。基本的に無防備なのか、俺が男として見られていないのか……」
 そんな事を言ってから、清人は軽く首を振って何か諦めた様に自嘲気味に笑った。
「まあ、両方だろうな」
 気を取り直しつつ清人は真澄を起こさない様に、片手で掛け布団を持ち上げつつもう一方の手で慎重にその手を掴み、布団の中に手を入れてから掛け布団を真澄の肩まで引き上げた。そしてベッドの端に座って改めて真澄の寝顔を見下ろした清人は、僅かに不機嫌そうな顔になる。


「人の気持ちも知らないで、随分気持ち良さそうに寝てるな……。ちょっと腹が立ってきた」
 そんな事を言いながら、僅かに横を向いて眠っている真澄の顔の横に手を付いた清人は、至近距離で小さく囁いた。
「躾のなってない犬を引っ張り込んだのは、あなたの父親なんですから。ちょっと噛まれる位我慢して下さい」
 そう言っても全く目覚める気配の無い真澄に安堵しながら、清人は僅かに顔を傾けた。そのまま真澄の顔に自身の顔を近付け、その唇に自分のそれを重ねる。
 少しの間触れ合っていたそれが音も無く静かに離れてから、清人がゆっくりと身体を起こし、真澄を見下ろしながら苦笑した。


「……これは噛んだって言うより、舐めたって言う方が正解か」
  そう言ってクスクスと小さく笑いながら、真澄の体越しに手を伸ばした清人は、リモコンを取り上げて室内の照明を消した。そしてそれを元の位置に戻して、ついでの様に手で真澄の髪を一梳きしてから立ち上がる。
「おやすみ」
 優しくそう告げた後清人は振り返らずに歩き出し、廊下に出てきちんとドアを閉めてから自分用の部屋に向かった。



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