夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第35話 衝撃

「真澄さん!?」
「げ!」
「嘘!?」
「何でこんな時に!」
 唐突に話題の人物が現れた事に、一同は驚愕したが、その声を耳にした真澄はカウンターから座敷席へと視線を動かし、満面の笑みを浮かべてそちらに歩み寄った。


「あら? そこに居るのは誰かと思えば、私の愛しの清香ちゃんじゃない!」
「ど、どうも……」
 引き攣った笑みで清香が軽く頭を下げると、真澄は上がり口に腰掛け、縁の方に座っていた清香に腕を回して抱き付いた。そして頬摺りしつつ清香の頭を撫でる。
「うぅ~ん、相変わらず可愛い~~! 癒されるわぁ~」
「は、はぁ……」
 どう対応すれば分からず清香がされるがままになっていると、上機嫌の真澄が横に座っている聡と目が合った。その途端、打って変わって渋面になる。


「また湧いて出たわね? このゴキブリ野郎」
「こんばんは」
 如何にも憎々しげに言われた台詞にも、聡は冷静に会釈しながら挨拶したが、真澄は容赦なかった。


「ゴキブリの分際で人間の言葉を喋るなんて生意気よ! 奈津美さん、殺虫剤を持って来て! 綺麗さっぱり駆除してやるわ!」
 真澄がそう叫んだ途端、接客中だった奈津美が慌てて走り寄り、小声で懇願する。
「真澄さん! うちは飲食業なんです! 誤解を招きかねない発言は控えて下さい!」
「すみません、奈津美さん。姉さん! 変な事を言うのは止めてくれ!」
 奈津美の尤もな言い分に浩一も頷いて姉を叱責したが、真澄はどこ吹く風で立ち上がり、カウンターへと向かった。


「あ、そうだ、お酒を飲みに来たんだっけ。目障りなゴキブリに気を取られて、危うく忘れる所だったわ~」
「姉さん!!」
 その時、それらのやり取りを呆然と見ていた柏木会の面々が、僅かに顔を青ざめさせながら呻いた。


「うわ、浩一課長と遭遇するとは……。勘弁してくれ」
「しまった……。親戚の店って事は、浩一課長と遭遇したり、耳に入る可能性もあったな」
「浩一課長、すまん、今日の柏木の事は、くれぐれも清人の奴には内密に!」
 社内で真澄と区別する為に呼ばれている呼称で、達也、雅文、晃司の三人に揃って手を合わせて頼み込まれた浩一は、座ったまま思わず姉の姿を追った。


「ほら、ここにしまってあるのよね~。分かってるんだから~」
「ちょっと真澄さん! 勝手に保冷庫から取らないで下さい!」
「真澄、本当にここで一杯だけ飲んだら帰るわよ?」
「うん、一本飲んだらね~」
「一升瓶抱えて何言ってんのよ、この酔っ払い!! もう本当に勘弁してぇぇっ!」
 カウンター内にズカズカ入り込み、修が止める間もなく保管用の保冷庫からお目当ての酒瓶を取り出した真澄は、そのままグラスも取り上げてカウンターに落ち着いた。
 裕子が縋り付いて帰宅を促すも、平然とコップに日本酒を注ぎ入れている真澄に、浩一は深い溜め息を吐き出す。


「確かにあの様子を清人に見せたら、どれだけ飲ませたと激怒しそうですね。しかしどうしたんですか?」
「知らないのか?」
「何をです?」
 僅かに驚いた表情を見せた晃司に、浩一が怪訝な顔で返す。それを受けて、達也が晃司の腕を肘でつつきながら促した。
「どうせ、明日になったら社内中に噂になってるだろ。教えてやれ」
「まぁな……」
 そして晃司は「……はぁ」と重い溜め息を吐いてから、いきなり核心に触れた。


「実は……、柏木の二課で進めてた《ランドル》の実演販売企画、今日手を引かせられたんだ」
 それを聞いた瞬間、浩一は顔色を変えて腰を浮かせた。
「はあ!? あれは、確か二課で一年近く前から交渉してて、やっと定期開催に持ち込んだ筈ですよね? どうして駄目になったんです!?」
 常には見られない浩一の鋭い詰問口調に、周りが固唾を飲んで事態の推移を見守る中、晃司が苦々しげに説明を続けた。


「正確に言えば、二課から俺の一課預かりになって、担当が変わったんだ」
「有り得ないでしょう? 一体、何がどうしてそんな事に?」
「柏木と二課の担当者が、先方との打ち合わせをすっぽかして、待ちぼうけを食わせたのが直接の原因だ」
「何ですって!?」
 あまりにも予想外の事を聞かされた浩一は、一言驚きの叫びを上げて絶句した。それはその場に居合わせた者達も同様で、皆一様に固まる。
 そんな中、緊張感の欠片も感じさせない真澄の声が伝わってきた。


「うふふ、修~、もっと酒の肴出しなさい。ケチってんじゃ無いわよ?」
「真澄さん、本当にそろそろ止めた方が良いですから」
 本気で困惑している修と真澄に一瞬目を向けてから、浩一は再び晃司を問い質した。
「どうしてそんな事態になったのか、差し支え無ければ教えて頂けませんか?」
 それに晃司が幾分気まずそうに答える。


「俺が直に柏木から聞いたわけじゃ無いんだが……、二課係長の城崎の話では、最初に先方が打ち合わせ日時の変更を申し入れて、柏木が了承してスケジュールを組み直した時、メモを取った時に数字を書き間違って、そのまま課員共通のスケジュールファイルに書き込んだらしい」
「有り得ない……。何なんですか、その初歩的なミスは。第一、姉さん一人で仕事をしているわけじゃなし、複数人でチェックをかける筈でしょう?」
 殆ど呆れながら浩一が問いかけると、晃司は益々困った様な表情で続けた。


「勿論、今日までに何回かやり取りはあったんだが、偶々担当者が休みで他の者が応対したり、資料の内容についての議論に終始して、今日の日程には触れてなかったらしい。それに、城崎の話では何が原因かは知らんが、この一月位柏木のする事に小さなミスが多かったらしく、それらのフォローに手間を取られた事もあって、この間色々細かい確認が疎かになってたとか」
 そう言って晃司が溜め息を吐き出すと、清香ははっきりと顔色を変えた。それを視界の隅に捉えた浩一が咄嗟に次の言葉に迷うと、達也と雅文も心底嫌そうに口を挟んできた。


「それで、先方がすっぽかされた事に激怒して、担当者の上司がうちに乗り込んできたそうだ」
「その挙げ句、柏木を目の前にして『だから女はまともに仕事が出来ないんだ』とか、『お嬢さんの腰掛け仕事に役職など与えては、無駄どころか弊害だ』とか言ったらしい」
「何ですって?」
 途端に怒気を孕んだ声音になった浩一に一瞬怯みながらも、達也が説明を続ける。


「しかも何かと柏木を目の敵にしてるうちの重役まで、呼ばれもしないのにでしゃばって来て。これまで柏木は目立ったミスなんか一度も無かったから、ここぞとばかりに嫌味の言い放題で」
「俺達はその場に居合わせた訳じゃないから詳細は不明だが、同席した城崎の話では相当聞くに耐えない事も言われたらしくてな」
「城崎は流石に言葉を濁してたが……。柏木の奴、何を言われても弁解しないで終始頭を下げてたそうだ」
「……誰ですか、それは?」
 普段の温厚さをかなぐり捨て、ギリッと歯軋りをしてから鋭く見据えてきた浩一に、晃司達は慌てて話題を変えた。


「えっと……」
「そ、それは後から教えるから」
「とにかく揉めた挙げ句、『以後の担当者は男性で』という先方の意向で、担当が二課から一課に変更されて俺が引き継いだんだ」
「そうですか」
 その説明に浩一が怒りを抑えながら頷くと、晃司が再度溜め息を吐いてから話を続けた。


「それからもう二課の雰囲気がお通夜でな。仕切りを挟んで同じ部屋に居るこっちはたまったもんじゃない。全員無理やり定時で帰らせて、景気付けにと柏木を飲みに引っ張り出したんだ」
「そうでしたか。お手数おかけしました」
 姉と同期の晃司達の心配りに、素直に頭を下げた浩一だったが、途端に晃司達の表情が微妙な物に変わった。


「いや、それは良いんだ。良いんだが……。最初暗い顔で無言でチビチビ飲んでる柏木の周りで、俺達が馬鹿話をして気分を盛り上げようとしてたんだが、一時間前位からいきなり暴れ出して」
「暴れ……、って何をしたんですか?」
 軽く目を見開いた浩一に、達也が僅かに視線を逸らしながら告げる。
「いきなり店主に向かって『ちょっと! 水で薄めた酒を出して、暴利貪ってんじゃないわよ、この守銭奴が!!』って食ってかかって、店主と乱闘しかけて店を叩き出された」
「ご迷惑おかけしました」
 盛大に顔を引き攣らせながら謝罪した浩一だったが、他の二人が続きを教えた。


「それで次の店では『シケた面してみみっちく飲んでんじゃ無いわよ! 金が惜しけりゃ家で飲みなさいよ!』って他の客に絡んで、乱闘騒ぎになりかけて叩き出されて」
「……返す返す申し訳ありません」
「スイッチのオン・オフが極端な奴ってのをすっかり忘れててな。『飲み足りない! 近くに従弟の店があるから行くわよ!』って頑強に言い張るので連れて来たんだが。色々すまん」
「いえ、こちらこそ」
 深々と頭を下げた浩一に、その一部始終を見聞きしていた従弟妹達は心底同情した。そして、これまで呆然と真澄の失態話を聞いていた清香がここで我に返り、先ほど感じた疑問を口にする。


「あの、皆さんはお兄ちゃんとお知り合いなんですか? 真澄さんの状態を知ったら怒りそうだなんて、さっき言ってましたが」
「はい?」
「えっと……」
「君は?」
 そこで三人は漸く清香の存在に気が付いた様に、揃って当惑した視線を向けた。そんな中、浩一が解説する。


「清香ちゃん。この人達は全員、姉さんの大学時代の同級生で、俺と清人の先輩でもあるんだ。それで在学時代から親交があるから、清人が何かと姉さんの世話を焼く事も知ってるし、同じ柏木産業で働いて」
「お兄ちゃん……。そういえばさっき柏木が抱き付いてて」
「柏木が『さやか』って言ってた名前……、まさか、君」
「ひょっとして、清人の奴が事ある毎に『超絶に可愛らしくて素直で賢くて目に入れても痛くない俺の天使』と言っている、奴の妹さん、とか?」
 浩一の説明を遮り、三人が呻く様に語った内容に、清香は思わず畳に突っ伏したくなった。


(本人が知らない所で、何を言ってるのよお兄ちゃん)
 周囲から生温かい視線を一身に浴びながら、清香は気を取り直して達也達に告げた。
「えっと……、お兄ちゃんが私の事を外で何と言っているのかは知りませんが、佐竹清人の妹の佐竹清香です。初めまして」
 そう清香が自己紹介した途端、三人は叫び声を上げながら床に崩れ落ちる様に座り込んだ。


「うわあぁぁっ!! もう終わりだっ!! よりによって奴の妹さんにバレるなんて! 俺のエリート街道まっしぐら人生がぁぁっ!!」
「え?」
「お前は無職になるだけだろ!! 俺なんか住宅ローンがあと三十年残ってるんだぜ!? 一家揃って路頭に迷うぞ!」
「うちなんて、カミさんが来年娘をお受験させるんだって息巻いてんだぞ!? 無職になったら即刻離婚の危機だ!」
 思わず目を丸くした清香の前で、何やらブツブツと「駄目だ」「もうおしまいだ」「はは……、運が悪かったな、俺達」などと呟いている三人に、店中の非難と困惑の視線が集まり、店内に気まずい沈黙が漂った。少し離れたカウンターに真澄と一緒に座って様子を見ていた裕子にもそのやり取りは伝わったらしく、顔を蒼白にして固まる。
 その様子を見ながら、清香はどこか納得できない思いを抱いた。


(どうしてお兄ちゃんがそんなに怖がられているのかしら? お兄ちゃんの先輩なら、普通は怖がるのはお兄ちゃんの方だと思うんだけど……。うん、あまり深く考えるのは止そう)
 そもそも今日皆にここに集まって貰った理由が頭を掠めた清香は、些細な疑問には目を瞑る事にして、未だ座り込んでいる達也達を見下ろしながら声をかけた。


「あ、あの~、皆さんがお困りの様なら、真澄さんが泥酔した事、お兄ちゃんには内緒にしておきますけど?」
「え?」
「本当に?」
 即座に顔を上げて反応した面々に、清香が笑いかけながら浩一に確認を入れる。
「はい。皆さんも悪気があって飲みに誘ったわけじゃありませんし、真澄さんが怪我とかもしてませんし。ねえ、浩一さん?」
「そうだね。今夜は姉にお付き合いさせて、すみませんでした。姉は俺が責任を持って家に連れて帰りますので、皆さんはもう引き取って頂いて構いませんから」
 浩一も笑顔で後を引き取ると、ここでいきなり立ち上がった三人は、晃司と雅文が清香の両手を、達也が浩一の肩をガシッと掴んで真顔で語りかけた。


「……天使」
「は?」
「いや、後光が眩しいから観音菩薩」
「へ?」
「浩一課長、前々から思ってだが、清人以上にいい男だな」
「……どうも」
(おいおい、どれも微妙過ぎる誉め言葉だな)
 固まっている清香と浩一を見た周囲の者達は揃って内心で突っ込み、三人はこの機会を逃してたまるかとばかりに、慌ただしく立ち去ろうとした。


「おい、帰るぞ! 柏木は浩一課長が引き受けてくれるそうだ。この状態も清人には秘密にしてくれるとさ」
「本当に!?」
 達也に呼びかけられた裕子は喜色満面で椅子から立ち上がり、浩一の元まで駆け寄って嬉しそうに感謝の言葉を告げた。
「ありがとう! 分からず屋の重役連中にいびられたらいつでも声をかけて頂戴! 人事部だから脅すネタの一つや二つ、常時確保してるからっ!!」
(それって倫理的にどうなんだ?)
 裕子の発言を耳にした全員が揃って呆れたが、そんな事はお構い無しに四人は早足で戸口に向かった。


「じゃ、じゃあ後は宜しく」
「すまないね、お騒がせして」
「ほら行くぞ!」
「ちょっと待って!」
 その時、引き戸がカラカラと滑らかな音を出しながら開かれ、新たな客が店内に入って来た。
 当然達也達と鉢合わせする事になったその客は、僅かに驚いた顔を見せて目の前の人物に声をかける。


「先輩? 奇遇ですね、こんな所でお会いするなんて」
「きよっ」
「ひっ……」
「何です? まるで化け物にでも遭遇したような顔をして」
 一番会いたくない人物がいきなり登場した為に、全員頭が真っ白になって固まったが、その反応に清人は怪訝な顔をした。更に店内を見回して、軽く目を見開く。


「あ、イケメン作家のご登場だ~! 清人く~ん、一緒に飲も~っ! これ、美味しいわよ~!」
 カウンターの真澄から、グラス片手に陽気にぶんぶんと手を振られた清人は、座敷席に見慣れた面々を発見し、殺気の籠もった視線を向けた。


「……誰だ。あんなになるまで真澄さんに飲ませた奴は?」
 その恫喝に、身の危険を感じた面々は、口を噤む約束をした浩一と清香を含め、全員が一斉に柏木会の面々に視線を向けた。それを受けて、清人が四人に冷え切った視線を向ける。
「先輩?」
「いや、これにはわけが……」
 ダラダラと冷や汗を流しながら弁解しかけた達也だったが、それを脳天気な声が遮った。


「ねぇ、ちょっと! どうしたの~? 私の酒が飲めないって言うわけ? けしから~ん!」
 そう言ってケラケラと笑う真澄の声に、清人は深い溜め息を吐いてから、達也達に冷たく言い捨てた。


「話は後日、ゆっくりお伺いします。お引き取り下さい」
「あっ、ああ」
「失礼……」
 どこかふらつきながら達也達が出て行くのを見送ってから、清人は踵を返して清香達の席の方へやって来た。


「お兄ちゃん? どうしてここに?」
「門限破りとは良い度胸だな、清香」
 狼狽しながら清香が尋ねると、清人が腕を組んで見下ろしながら睨み付ける。それに清香は腕時計を確認しつつ、慌てて反論した。


「え? だってまだ十時じゃないけど!?」
「ここから帰るなら、今から出ても十時には間に合わないが?」
(しまった。話に夢中になってて、引き上げる時間を見計らうのを失念してたわ)
 移動時間から逆算するのを忘れていた清香が自分の迂闊さを恨んだが、ふと気になった事を口にした。


「それはともかく……、今日ここに来るって、お兄ちゃんに言ってたっけ?」
「言ってはいないが、それがどうした」
 平然と言い切られて、清香と聡の顔が揃って引き攣った。そして周りの面々は何となく清人から視線を逸らす。


(うわぁ、開き直ってるよ、この人)
(当然の如く、尾行か発信機付けてるのを認めた様なもんだろ)
 そんな微妙な雰囲気の中、清人は清香に背を向けながら宣言した。


「帰る支度をしておけ。これから門限は八時だな」
 そのまま真澄の方に歩いていく清人の背中に、清香の憤慨した声が突き刺さる。
「ちょっとお兄ちゃん! 今年やっと門限が九時から十時になったのに、前より早くなってるってどういう事!? 一回遅れただけで横暴よ!」
「うるさい。ちょっと黙ってろ」
 煩わしそうに清香にそう告げてから、真澄の横に立った清人は僅かに上半身を屈め、一人で酒を飲んでいた真澄に声をかけた。


「真澄さん、随分ご機嫌ですね?」
「清人君も一緒飲みましょ? はい、グラス」
「ちょっと真澄さん! 店の物を勝手に取らないで下さい!」
 さっさとカウンターの中に手を伸ばし、グラスを取り上げて清人に手渡そうとした真澄に、困り顔で対応していた修が慌てて窘める。それを見た清人は無言で真澄の手からグラスを取り上げ、修に手渡した。
 すると真澄は幾分ムッとした顔付きになったものの、再び無言でグラスに口を付ける。


「真澄さん、少し飲み過ぎですよ? それにその酒は、そんな風に飲む代物ではありませんから」
 不愉快そうに眉をしかめながら指摘した清人だが、真澄は平然と言い返した。
「そんな事無いわよ?  チビチビ飲んで何が楽しいのよ。第一、まだまだ飲めるしね~」
「もう駄目です。身体を壊しますから。浩一に連れて帰って貰います」
「い~や~よ」
「真澄さん」
 些か強い口調で迫った清人に、真澄は小さく笑いながら告げた。


「だって浩一ったら辛気臭い顔してるんだもの。せっかく楽しく飲んでるのに、あんなのと顔突き合わせて帰ったら余韻が台無しだわ。清人君が家まで送ってくれるって言うなら、帰ってあげても良いけど?」
 そう言ってクスクスと笑いながらグラスを傾けた真澄に、清人は色々諦めた表情で溜め息を吐いてから口を開いた。


「分かりました。俺が送って行けば、素直に帰ってくれるんですね?」
「そうね~。そうだ。ついでに部屋まで抱えて運んでくれる? 階段を上るのが面倒で」
「嫌だ」
「…………」
 恐らく何気なく呟いた真澄の台詞を即座に短く遮った清人の一言に、その場の空気が凍った。
 言われた真澄は顔を強ばらせて清人を凝視したが、清人も自分が無意識に何と反応したのかを一瞬遅れて認識し、微動だにせず一切の表情を消す。そして事の成り行きをハラハラしながら見守っていた面々も、驚愕の色を隠さずに小声で囁き合った。


「おいっ! 今の聞いたか!?」
「初めてだ……。真澄さんの頼みを、清人さんが断るなんて」
「しかも『嫌だ』だぞ?」
「普通ならもっと柔らかい表現で窘めたり、断りを入れる程度だよな?」
「あれ絶対、反射的に口にしただろ?」
 常には見られない清人の反応を、驚きと困惑が入り混じった表情で皆が評していると、固い表情をしていた真澄が清人から視線を外し、グラスの中身を見下ろしながら誰に言うとも無く小さく呟いた。


「へぇ? ああ、そう、良く分かったわ」
「真澄さん……」
「別に、あなたに面倒見て貰わなくても平気よ。とっとと帰って。好きなだけ飲んだら一人で帰るわ」
 清人から顔を背けたまま真澄が口元にグラスを運ぼうとすると、その手首を掴んだ清人が強引に、しかし慎重にカウンターにグラスを戻させた。そして幾分強い口調で言い聞かせる。


「こんな状態の真澄さんを置いて帰れません。さあ、いつまでも我が儘を言ってないで、帰りますよ?」
「一々五月蠅いわね、離しなさいよ! せっかく人が気持ち良く飲んでるのに!」
「駄目です。もう飲み過ぎですから、真澄さん」
 強く手首を掴んだまま離さない清人と押し問答になった真澄は、苛立って左手に持っていたグラスを右手に持ち替えた。


「余計なお世話よ! さっきから放っておいてと言ってるでしょう!?」
 真澄がそう叫びながら右手を翻すと、コップの中に入っていた酒が、盛大に清人の顔面に浴びせられた。
「…………っ」
「あっ……」
 至近距離から受けた為咄嗟に避ける事もできず、清人は辛うじて目を閉じてそれを受けた。そして乱れた前髪や顎からポタポタと酒を滴り落としている清人を見て、真澄は一気に酔いが覚めた様に真っ青な顔で固まる。しかしそれは、その場面を目にした全員も同じだった。


「きゃっ」
「うわ……」
「清人さんっ!」
 浩一達が蒼白になって微動だにせず見守る中、無言の清人は真澄に顔を向けたまま、掌とジャケットの袖で濡れた顔を拭った。
 一方の真澄は、清人の腕辺りに少しかけて脅かす程度のつもりが、まともに顔面に浴びせる事態になって激しく動揺した。そして無表情に見下ろしている清人に怖じ気づきながらも、何とか謝罪の言葉を口にする。


「あ、あのっ……、ごめっ、きゃあっ! ちょっと止めてっ!」
「お兄ちゃん! 何するの!?」
 真澄に最後まで言わせず、清人はカウンター上の真澄が飲んでいた一升瓶を取り上げ、それを彼女の頭上で逆さまにして中身をトプトプと出した。
 真澄が頭に手をかざして悲鳴を上げ、清香が非難の叫びを上げる中、あっさりと瓶の中身が全て真澄の身体に降りかかり、髪とスーツを台無しにする。
 あまりと言えばあまりの事態に、額にかかった髪からポタポタと酒を落としながら真澄が茫然自失の態で清人を見上げると、清人は感情を切り捨てた様な冷たい視線で、小さく吐き捨てた。


「きよ」
「飲んだくれてる女の姿なんて、醜悪そのものだな」
「…………っ!」
 それを聞いて僅かに見開かれた真澄の両眼から、頭からかぶった酒の雫では無い物が頬を伝いながら零れ落ちる。すると清人が真澄を見ながら、ジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。


「清香、ちょっと持ってろ」
 そう言うなり、相変わらず視線を真澄に合わせたまま、清人はポケットの中身を清香達が座っている座敷席の方に放り投げた。次々飛んでくる財布、車や家のキー、免許証入れ、携帯等に、とても一人では受け止められない清香が悲鳴を上げる。


「え? きゃあっ! ちょっと待って!」
「危ないっ!」
「兄さん! 何するんですか!?」
 清香の側にいた浩一や聡が顔色を変えて何とか受け取って安堵の溜め息を吐いたが、その間に清人はジャケットを脱いで真澄が頭から被る様に着せ掛け、清香達の元にやって来た。


「お兄ちゃん! 幾ら何でもあれじゃあ真澄さんが可哀相」
「寄越せ」
「お兄ちゃん!」
 清香から引ったくる様にして財布を手に取ると、一万円札を何枚か浩一の目の前の座卓に叩き付ける様に置き、冷たく言い捨てた。


「浩一、服のクリーニング代だ。新調するなら請求書を俺に回せ。清香、帰るぞ」
 そう言って清香の手を取り、引きずる様にして立ち去ろうとした清人を、慌てて清香が足を踏ん張りながら引き止める。


「ちょっと待ってお兄ちゃん! せめて真澄さんに謝ってから」
「どうして俺が謝る必要がある。本当の事を言って、迷惑な酔っ払いに当然の処置をしたまでだ。行くぞ」
「お兄ちゃん! ……聡さん、ごめんなさい。また今度」
「ああ、気をつけて」
 これ以上は無理だと悟った清香は、諦めて聡が差し出してきたバッグを受け取り、慌ただしく店を後にした。
 そしてピシャリと引き戸が閉まる音と共に、カウンターの方から微かな物音が浩一達が居る座敷席の方まで伝わってきた。


「……っ、……ふぇっ、……、……うっ……ふぅっ」
 明らかに頭からジャケットを被ったままの真澄が発している泣き声に、殆どの人間が固まる。
(姉さん!?)
(げ! 真澄姉、泣いてる?)
(おいおい、マジかよ……)
(清人さん、あなたって人は……)
 そんな中、真澄達のやり取りにヒヤヒヤしながら接客していた奈津美が店の奥からタオルを持ってきて真澄に差し出しつつ声をかけた。


「真澄さん? タオルを持ってきましたから、どうぞ使って下さい。それにうちでお風呂を使って行って下さい。お酒が付いたままだと、髪が酷いことになりますよ?」
「…………」
 何やら口にしたらしい真澄の顔を覗き込む様にしながら奈津美は二言三言交わし、タオルで顔を押さえた真澄を、抱きかかえる様にして立ち上がらせ、店の奧へと誘導した。


「え? ……ああ、そんな事は気にしなくて良いですよ。さあ、立って。修さん、ちょっと抜けるわね? 明良君、お願い」
 夫と義弟に声をかけて奈津美は真澄を連れて奥の扉に向かった。接客担当の女性はもう一人存在していたが彼女だけでは心許なく、さらに一連の騒動で気まずすぎる空気に耐えかねて席を外す機会を窺っていたらしい客が会計に列を作り始めているのを見て、明良と玲二が腰を上げる。


「分かりました、奈津美さん。真澄さんを宜しく」
「ええ。……じゃあ行きましょうか」
「兄さん、じゃあ配膳は俺がやるから」
「ああ、頼む。これは四番卓、これは二番卓にな」
「あ、じゃあ俺、会計に入ります」
「すまないな、玲二」
「いえ、どういたしまして」
 そうして開店時や繁忙期に何度も手伝いに入っていた明良や、客商売に従事している玲二は、手慣れた様子で「すみませんね、お騒がせして」「いつもは落ち着いた良い店ですから。今後とも宜しく」などと愛想を振りまきながら店内を行き来し、それ程時間を要さずに店内に喧騒が戻り始めた。




「お兄ちゃん! やっぱりあれはちょっと酷いんじゃない!?」
 手を掴まれて駐車場に移動しながら清香は精一杯訴えたが、清人は前を向いたまま聞く耳持たなかった。
「真澄さんは……、あんな無様な姿を人前に晒して良い人じゃないんだ。頭を冷やして、即刻帰らせるべきだろう」
「じゃあ家まで送ってあげれば良いじゃない! 真澄さんは『送ってくれれば帰る』って言ってたんだし!」
「浩一が居ただろう」
 ボソッと弁解した清人に、清香が思わず足を止めた。


「清香?」
「浩一さんじゃ駄目だと思う」
「どうして?」
 俯いて断言してくる清香に、清人が怪訝な顔をすると、清香が顔を上げて真顔で告げた。


「だって……、お兄ちゃんがお店に入って来たのが分かった時、真澄さん、一瞬凄く嬉しそうな顔をしたんだもん」
「その前から上機嫌だったんじゃないのか? 俺とは無関係だ」
 僅かに視線を逸らしながら反論した清人に、清香は恨みがましく言葉を継いだ。
「そんなに……、おじいちゃんの家に行くのは嫌?」
「そんな事は無いが、行く必要性を認めないだけだ。行くぞ」
 そう言って踵を返して再度歩き出した清人の背中に、思わず清香が声をかける。
「そんな意気地無しのお兄ちゃん、嫌い」
 それを耳にした清人は、再び足を止めた。そして前を向いたまま独り言の様に呟く。


「清香に『嫌い』と言われたのはこれで二度目だが、あまりショックはないな。……少しは耐性が付いたらしい」
 そう言って自嘲気味の口調で清人が冷静に分析すると、どこか傷付いた様な気配を察知した清香は慌てて一歩踏み出した。そして清人の手や腕に手を伸ばしかけて少し躊躇した結果、控え目に清人のシャツの腰の辺りを摘み、心持ち引っ張りながら告げる。


「あの……、お兄ちゃん。さっきの『嫌い』って言うのは嘘だから」
「そうか」
「お兄ちゃんの事はいつでも大好きだから……」
「それは嬉しいな」
 清香の囁き声に、清人も前を見たまま優しい声で言葉を返したが、次の清香の台詞で口調を一変させた。


「それで……、私、真澄さんの事も大好きだから、お願いだから仲良くして?」
「……ああ」
 途端に感情を欠落させた声音で応じる清人に、清香は不安な顔をしつつ、控え目に念を押す。
「後から、ちゃんと謝ってね?」
「分かった。いい加減帰るぞ」
「うん……」
 そうして《くらた》の存在する方向を一瞬振り返ってから、清香は前を歩く清人の後を追いかけて行った。





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