夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第34話 発覚

 十月末になったある日、清香から突然送信されてきた『お願い皆、話を聞いて! お兄ちゃんが怖くてなんか変なの!』のメールを目にした時、聡及び彼女の従兄達は(そんなの今に始まった事じゃないから)と思わず遠い目をしてしまった。そうは思ったものの、一応各自個別に清香に連絡を入れてみると、清香は全員に対し、『もう訳わかんない! お兄ちゃん何やってんのよ! 会った時に直接ボコれば良いだけの話でしょーっ!』と何やら電話口の向こうで一人で興奮し、殆ど理性的な会話が出来ない状態だった。
 その為清香を心配しながら互いに連絡を取り合い、仕事帰りに《くらた》に全員集合する事にした一同は、今回は普通に営業している為他の客の目を気にしつつ座敷席の奥二つを占領し、まず清香に話すよう促した。すると口を開いた清香は、立て板に水の如く柏木産業創立記念パーティーで遭遇した出来事を、包み隠さず報告した。


「っていう事があったの! すっごくムカつくでしょ? その斎木って人!! お兄ちゃんは『馬鹿の言った事なんか気にするな』って言ってたけど!」
 清香が憤懣やるかたない口調と表情でそう訴えた後、「悔しいぃーっ!!」と呻きつつグラスに手を伸ばし、梅サワーをあおった。横でそれを見た聡が「そんな飲み方をしたら駄目だから!」と慌てて窘めるのを見ながら、周りで溜息が漏れる。


「本当に、感じが悪いね」
「もう感じが悪いってだけじゃ無いわよ! 存在自体、この世から消えてって感じ!!」
「……はは、そうだね」
(あのパーティーでそんな事が)
(馬鹿かそいつ……)
(良くもまぁ、清人さんに対してのNGワードを、これでもかって位言い放って)
(その馬鹿、今、五体満足なのか?)
 そんな事を考えていた面々だったが、一同の思いを代表して聡が不思議そうに声をかけた。


「それで清香さん、その事を話す為だけに俺達を集めたの? 兄さんを馬鹿にされて悔しいのは分かるけど、もう三週間経ってるし本人は引きずって無いと思うし、清香さんもそんな不愉快な事は早く忘れた方が良いよ? 今日は好きなだけ文句でも愚痴でも聞いてあげるから」
 そこで清香はグラスを手放し、勢い良く聡の胸倉を掴んで至近距離から睨みつけた。


「聡さんっ!」
「な、何、かな?」
「話はこれからなの」
「うん、分かった。黙って聞くから……」
 鬼気迫る清香の表情に聡は顔を僅かに引き攣らせ、周りが(何事?)と訝しむ中、清香は聡から手を離して自分のショルダーバッグを引き寄せながら話し出した。


「私もね? 一人でグダグダ言ってても仕方が無いって思ったから、極力考えない様にして忘れてたの。…………今朝までは」
「今朝? 何かあったの?」
「これよっ!!」
 不思議そうに聡が問いかけたその時、清香はバッグから取り出した朝刊の一面らしい物を広げて指し示した。わざわざ指で示さなくても紙面の大部分を占めていたその記事に、(そう言えば、さっきどこかで聞いた名前だと思ったっけ)と聡は自分の迂闊さを呪った。それは他の面々も同様だったらしく、再び揃って黙り込む。


「さっきのいけ好かない斎木ってこの人なのっ!! 何これ!? 『巨額脱税』とか『迂回融資』とか『贈収賄』とか『粉飾決算』とか『芋づる式に逮捕者続出』とか!? ままままさかこれにお兄ちゃん、関わったりしてないよねぇぇっ!!」
 掲載された顔写真の一枚を指差しながら、涙目で狼狽しつつ訴えてくる清香に、聡は冷や汗を流しながらも清香を落ち着かせようと否定の言葉を返した。


「い、いや、清香さん。幾ら何でも一介の作家である兄さんが、そんな事するわけないよ」
(やったな清人……)
(ビンゴ)
(喧嘩売って良い相手かどうか位見極めろよな?)
(底抜けの馬鹿決定)
 周りが頭を抑えつつ溜息を吐いていると、清香が尚も訴える。


「だって! 部屋に引き上げてから、何かブツブツ言いながら『ぶっ潰してやる』って! 後ろ姿しか見なかったけど、その時もの凄く声も見た目も怖かったんだからっ!! 腰が抜けて、前に回り込んで表情を確かめようって気も起きなかったんだから!!」
「確かに機嫌は悪かったみたいだね、兄さん」
(筋金入りのブラコンの清香ちゃんが怖がるって、どれだけだ)
(そうか……。とうとう清香ちゃんも清人さんのブラックオーラが感じ取れる様になったか)
 もう諦めと感心がない交ぜになった感想を皆が抱いていると、尚も清香が興奮しながら言い募った。


「そ、それからっ! しばらく恭子さんが顔を見せなくて、連絡も取れないからお兄ちゃんに聞いたら、『取材を頼んだ』って。それで三日前戻って来た時に顔を合わせて、何気なく旅行先を尋ねたの。そしてこの記事を見てから検索したら、ここの本社や支社、子会社やお金のやり取りをしたって上がってる地名とピッタリ一致してて!!」
「旅行には良い季節だよね。仕事しながら観光もできる川島さんが羨ましいな」
 そう言って「ははは……」と乾いた笑いを漏らした聡に、周囲の者は同情を禁じ得なかった。
(あぁ、聡君が現実逃避に走った)
(付き合ってるなら頑張って否定してやれ、聡君)
(流石川島さん、清人さんの下で働いてるだけあるよな~)
(一体、どこで何をしてきたんだよ)


「ねぇ、聡さんっ!! 何とか言ってぇぇっ!!」
 新聞紙を放り出し、再び聡の服を掴んで揺さぶってきた清香の手を押さえつつ、聡は気力を振り絞って口を開いた。
「あの……、清香さん。それはどう考えても気のせいだから」
「どうしてっ!!」
 もう喚く寸前の清香に、先程から店内中の視線が集まっている事を意識しつつ、聡はなるべく穏やかに言い聞かせてみた。


「良く考えて。常識的に考えて、そんな重大事件に発展する様な事柄なら、捜査する方は何ヶ月、或いは何年もかけて下調べして、証拠を集めて逃れようが無くなってから逮捕する筈だ」
「言われてみれば、そうですね……」
 やっと幾らか冷静になったらしい清香に安堵しつつ、聡がこの機を逃すかと畳み掛ける。


「兄さんとその斎木さんとは、約三週間前のそのパーティーが初対面で、他に接点も無いんだろう?」
「はい、その筈です」
「それなら、たかだか三週間で、一個人が企業の不正を暴いて告発するなんて、不可能だよ。偶々兄さんが不快な思いをさせられた直後に相手が逮捕されたからって、それが兄さんのせいだなんて有り得ないから」
「でもっ」
 まだ不安そうな表情を浮かべている清香に、聡は明るく言い切った。


「川島さんの取材先も、偶々重なっただけだから。清香さんがそんなに心配性だったなんて、知らなかったな」
 そう言って「ははは……」と笑いつつ、心の中で密かに(でも絶対兄さんのせいで、止めを刺されたと思うけど)と確信していた聡の顔をじっくりと眺め、清香も漸く表情を緩めた。
「そ、そうですよね? 気のせいですよね? やだなぁ、もう一人で空回りして……。皆、変なメールで呼びつけちゃって、本当にごめんなさいっ!!」
 漸く安堵したらしく、聡や浩一達に向かって勢いよく頭を下げた清香に、皆鷹揚に笑って頷いた。


「いいって、気にしないで清香ちゃん」
「よっぽど怖かったんだね、その時の清人さん」
「もう災難としか言いようが無いな」
「本当に、その斎木って馬鹿のとばっちりだよな。もう忘れて忘れて」
「うん、そうするね」
 そう言ってまだ幾分硬さが残る笑顔のまま、「気のせい気のせい、偶然偶然、偶々なんだからね、清香」と自分自身に言い聞かせながらグラスを傾けた清香に、何やら考え込んでいた浩一が声をかけた。


「そういえば清香ちゃん、清人の事なんだけど」
「何ですか?」
「あいつが持ち歩いてる万年筆って、以前から同じ物?」
 唐突に出された話題に首を捻りつつ、清香は素直に答えた。
「以前からって……、そうですよ? 大学入学の記念に貰った物ですから」
「そうか。大学の時に見た記憶が有ったんだけど、話を聞いた外観がそれと変化無かったから、そうじゃないかとは思ったんだが……」
 そういってブツブツと小声で何やら呟いている浩一に、今度は清香が不思議そうに声をかけた。


「浩一さんも真澄さんと同じで、お兄ちゃんと同じ万年筆が欲しいんですか?」
「いや、そうじゃないけど……。清香ちゃん、姉さんが清人の万年筆について何か言ってきたの?」
 何故か顔付きを変えて尋ね返してきた浩一に、清香は益々要領を得ない表情になって続けた。


「ひと月位前に、デパートの文房具のフロアで万年筆のケースの前で真澄さんと偶然会って、その時お茶をご馳走になりながら、お兄ちゃんの万年筆の話をしたんです。真澄さんからその事を聞いて無いんですか?」
「いや、何も。良かったらその由来を、俺にも聞かせてくれるかな?」
 その申し出に、清香は快く頷いた。


「良いですよ? それをくれた人は岡田佐和子さんって言って、団地に住んでた頃うちの真下にご夫婦だけで住んでた人です。お父さんと二人で住んでた頃、小さいお兄ちゃんを頻繁に預かって面倒を見てくれてたそうで、お兄ちゃんが『じいちゃん』『ばあちゃん』って凄い懐いてました」
 それを聞いて周囲の皆は意外そうな顔をした。
「へぇ、そんな人が居たんだ」
「清人さんからは聞いた事が無かったな」
「外で皆と遊んでいるときは、遠くからニコニコ見てる位でしたしね。敢えて紹介まではしなかったんじゃないかと」
 簡単に説明をした清香は、更に話を続けた。


「私も随分可愛がって貰ったんですけど、年長の頃におじいちゃんが体調を崩して、小学校に上がってすぐ亡くなったんです。一緒にお葬式に出たのを覚えているけど、お兄ちゃんがボロボロ泣いてて、それで」
「はぁ!? 兄さんが泣いた?」
「あの清人が!?」
「ありえねぇぇっ!!」
「うん。私もびっくりしたの。お兄ちゃんが泣いた所を初めて見たから……」
 自分の台詞を遮り、皆が驚愕の叫びを上げた為、清香は一瞬それに動揺しながらも、何とか話を続けた。信じられない事を聞いて、呆然自失状態の面々がそれに黙って聞き入る。


「それでおばあちゃんが一人暮らしになっちゃって、広島に住んでた娘さんが心配して、自分の家に呼び寄せて一緒に暮らすって事になったの。その時、お兄ちゃんが受験生だったんだけど、おばあちゃんが引っ越しの日、見送りに出たお兄ちゃんに『少し早いけど清人君は合格確実だから入学祝をあげるわね。やっぱり手渡ししたかったし』ってそれをくれたの。『何十年ぶりかで銀座まで出て、良い物を買ってきたから。東京を離れる前に最後に良い思い出ができたわ』って嬉しそうに笑ってたわ」
「そういう物だったのか……。清人の奴一言も」
 殆ど無意識に浩一が呟くと、清香は小さく頷いてから真顔で続けた。


「それでお兄ちゃん『ばあちゃんから入学祝を貰い済みなのに、万が一落ちたりしたら顔向けできない』って言い出して。当時すでに楽勝って言われてたのに、それから更に気合いを入れて勉強してたら、入学式では新入生代表で挨拶してたっけ」
「…………」
 同じ大学出身の聡と浩一は、自分の受験期を振り返りつつ(その『ばあちゃん』の為に、気合い入れたら首席入学か……)と思わず複雑な心境に陥った。そんな二人の心中など分からないまま、清香が笑顔で話を続けた。


「それで入学してからはその万年筆で、おばあちゃんに毎週分厚い手紙を書いてて。時々読ませて貰ったけど、凄く面白いの」
「面白いってどんな風に? そんなに頻繁に面白い事が身近に起きるとは考えにくいけど」
 素朴な疑問を口にした正彦に、清香が考え込みつつ答えた。
「どんなって……。うぅ~ん、一言で言えないけど、道に落ちた枯れ葉が舞ってる中に世界が有るとか、噴水の水幕を透すと夢が煌めく、みたいな?」
「……はぁ?」
「えっと、つまり……、単なる近況報告とか情景描写の羅列とかじゃなくて、読む人間に考えさせたり、物語風にして読み込ませる様な感じの文章だったの。ごめんなさい、上手く説明できなくて……」
 恐縮した風情で軽く頭を下げた清香だったが、何か察したらしい友之が小さく笑いながら口を挟んだ。


「なるほど……、それが作家《東野薫》の原点、っていうわけかな?」
「そうすると、その岡田さんが《東野薫》作品の初めての読者とも言えるのかも」
 友之の後を引き取った玲二に、清香が我が意を得た様に力強く頷く。
「まさにそうですね!」
 そうして一瞬穏やかな空気が流れたが、すぐに清香が沈鬱な表情でそれを打ち消す内容を口にした。


「それで、お兄ちゃんは佐和子おばあちゃんが引っ越してからずっと手紙を送り続けていたんですが、六年前に無くなって、二人でお葬式に出向いたんです」
「……亡くなったんだ」
 思わずしんみりとした声で口を挟んだ聡に、清香が頷く。


「ええ。そうしたらおばあちゃんの娘さんから『母は毎週佐竹さんからの手紙を心待ちにしていて。それで『うちの人に清人君が立派な作家になった事を教えてあげるから、死んだらお棺に花の代わりに、貰った清人君の本と手紙を全部入れて欲しい』と頼まれたので、申し訳ありませんが入れさせて貰いました』って言われて」
 そこで一つ溜息を吐いてから、清香がしみじみと続けた。


「それでお棺の中を見たら、本当におばあちゃんの周りに本と手紙がぎっしり詰めてあって。それを見たお兄ちゃんが、号泣しちゃって大変だったっけ」
「号泣って……」
「あの清人が!?」
「うん。おじいちゃんの時とは比べ物にならない位に。両親が死んだ時だって泣かなかったから、私、驚いて涙が引っ込んだ位だったし」
(六年前って言えば、小笠原前会長が亡くなった時期と前後するよな)
(実の祖父には、生前に大量の仏花を送りつけたのに……)
(遠くの親戚より近くの他人って事だな。離れてもそれは変わらんか)
(清人さん、シスコンでマザコンだけじゃなくて、ババコンでもあったんだ)
 以前に聞いた仏花事件を思い返し、その落差に唖然とするしかない一同だったが、清香は淡々と話を締めくくった。


「その後もおばあちゃんの法事とかに顔を出したり、年に一回はお墓参りしてるの。だからその万年筆は、おばあちゃんの形見代わりに大事に持ち歩いていて。『ばあちゃんが『良いものを買ってきた』と言っただけあって、使い易くて書きやすい』って気に入ってるし」
「ありがとう、清香ちゃん。良く分かったよ」
 一連の事を聞いて、浩一は顔を青ざめさせながら礼を述べた。それに周りの何人かは異常を感じたが、清香がきょとんとしながら問いかける。


「でも浩一さん、どうしてお兄ちゃんの万年筆の事なんか聞いたの? 真澄さんと同じで、書き易そうに見えたから、同じ物を買いたいと思ったから?」
「いや、そうじゃなくて……。清香ちゃん、多分それ、この前姉さんが踏み潰して壊した」
「ああ、真澄さんが壊し…………、えぇえぇぇっ!?」
 消え入りそうな声で浩一が告げた内容に、清香は目を丸くして絶叫し、聡も慌てて問い質した。


「浩一さん! それは本当ですか!? 一体どうしてそんな事に?」
「それが……、九月の定例取締役会があった日の事なんだが」
 再び店内中の視線を浴び、営業妨害紛いの状態になっている事を店主の修に心の中で詫びつつ、浩一はその日高須から聞いたばかりの、九月に本社ビル前で起きた事件のあらましを皆に伝えた。
 話が進むにつれて清香の顔色が変わって来ているのは分かったが、壊れた万年筆を清人が拾っていた所まで一通り話し終える。


「その事を、その場に居合わせて清人に恫喝された、姉さんの部下の高須さんに、今日の朝捕まって聞かせられたんだ。『柏木課長はうちの課長の実の弟さんですから、課長の害になりそうな事は口外しませんよね!? あの人が無茶苦茶怖いんですが、どうしても誰かに喋りたくて喋りたくて!』と泣いて縋られたから。一通り喋ったらすっきりして職場に戻って行ったから、言いふらされる心配は無いだろうけど……」
 そう言って重い溜息を吐いた浩一に、清香が涙声で謝った。


「ごめんなさい浩一さん、それに高須さんって人にまで迷惑を。それに、真澄さん絶対気にしてるよね? そんな事だと知ってれば、口が裂けても佐和子おばあちゃんの話なんかしなかったのに!!」
「清香ちゃん、不可抗力だから、本当に気にしないで良いから」
「で、でも~」
 再び涙目になって項垂れる清香を、今度は浩一が懸命に宥める。その光景を見ながら、他の面々は再び何とも言えない顔を見合わせて黙り込んだ。


(兄さん……、万年筆の事を清香さんにも秘密にしていたのが裏目に出ましたね)
(パーティーの時、二人とも普通に見えたんだが)
(さっきの馬鹿といい、タイミングが悪過ぎるぞ)
(何か変なのが憑いたのか? 二人とも)
(お祓いでもして貰った方が良いな)
 そんな事をしみじみと考えていた矢先、予想外の人物の声が《くらた》の中に響き渡った。


「ほぅら、ここよ! すぐ近くだったでしょ? 修! 売上上積みに貢献しに来たわよ~~!」
 引き戸を開けるなり、上機嫌でカウンターの中に居た修に呼びかけたのは、柏木会の面々を従えた柏木真澄、その人だった。



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