夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第31話  嘘と真実

 高須に医務室に連れて行かれ、常駐の医師に怪我の処置して貰った真澄は、ゆっくりとした足取りで職場に戻った。
 一足先に戻っていた高須が「帰社直前で足を踏み外して転んだ」とそれらしい理由を課内で告げていた為、誰にも不審がられる事無く、ましてや表に到着したパトカーとの関係など微塵も疑われずに、部下達に口々に怪我の具合を尋ねられ、見舞いの言葉をかけられる。それに愛想笑いで応じ、業務に取りかかろうとしている時、内線で社長室への呼び出しがかかった。
 流石に無視するわけにもいかず、係長である城崎に後の事を頼み、文字通り重い足取りで社長室に出向くと、予想に違わぬ父親からの厳しい叱責が待っていた。


「お前という奴は……、三十過ぎても分別が付かんのか?」
「…………」
 挨拶もそこそこに睨みつけられ、何を差しているのか言われ無くても理解できた真澄は、弁解できずに黙り込んだ。しかし雄一郎はそれで帳消しにするつもりなどサラサラ無く、語気を強めて尚も言い募る。


「引ったくり犯を目の前にして、傍観出来なかったのは分かるとしてもだ。走行しているバイクの前に飛び出す馬鹿がどこにいる! 下手をしたら死んでいたぞ!」
「社屋前でお騒がせして、申し訳ありません」
 神妙に頭を下げた真澄に、一応意思の力で怒りを静めたらしい雄一郎が、疲れた様に溜息を吐き出す。


「全くだ。その挙げ句、沢渡先生や清人君の手を煩わせおって。二人に顔向け出来ん」
 そのままブツブツと口の中で呟いている父に、真澄は恐る恐る尋ねてみた。
「あの……、誰からこの事を」
「沢渡先生からだ。一通りの経緯と、お前の名前や柏木産業の名前を出さないで済みそうだとの連絡を、先程頂いた」
 隠そうともしない仏頂面に、本気の怒りを感じ取った真澄は、再度頭を下げた。


「後で改めて、お礼に伺う事にします」
「そうしろ。二人ともまだ警察らしくて、こちらからかけ直してみても携帯が繋がらなかったからな」
「分かりました」
 それから二・三の小言と注意を受けてから真澄は解放され、頭を下げて社長室を後にした。そして廊下を歩きながら、先程の騒動を思い起こして溜息を吐き出す。


(本当に……、私の考え無しの行動のせいで、迷惑をかけちゃったわ)
 申し訳無く思う気持ちと同時に、先程の光景を思い返した途端、不安な気持ちが頭をもたげる。
(それに、あの万年筆。絶対清人君の物よね? あんなに大事そうに破片を拾い集めていたし。どうしよう)
 歩きながら悩んでいた真澄だったが、あまり長い時間をかけずに結論を出した。


(とにかく一度連絡してみよう)
 そう気持ちを切り替えて清人の携帯に電話をかけた真澄だったが、電源が切られているらしく、無機質なメッセージが流れるのみだった。
「繋がらない……」
 途方に暮れた表情で自身の携帯を見下ろした真澄だったが、気を取り直してそれを仕舞い込んだ。


 そして職場に戻り、小一時間程業務に集中してから、真澄は再び部屋を抜け出た。そして比較的人気の無い通路の端まで来てから、清人の携帯にかけてみる。
 通常であればすぐ応答がある筈が、コール音は聞こえるもののなかなか応答が無い状況に、(まだ駄目かしら)と諦めかけた時、聞き慣れた声が伝わって来た。


「……もしもし? 真澄さん?」
「清人君? あの、大丈夫?」
 清人の声を聞いた途端、それまで頭の中で組み立てていた段取りが綺麗に吹き飛び、真澄は焦りつつ中途半端な問いかけをしてしまったが、清人には十分伝わったらしく笑いを含んだ声で返してきた。


「別に取り調べに関して、問題は有りませんでしたよ? 今警察署を出たところですし、俺は怪我もしていませんから安心して下さい」
「そう、良かった……」
「真澄さんの方こそ、ちゃんと怪我の手当てはして貰ったでしょうね?」
 そこで幾分強めの口調で追及してきた清人に、真澄が神妙に答える。


「ええ。ちょっと掌を擦りむいただけだし、後は軽い打撲と捻挫だから、すぐに治るって言われたわ」
「それなら良かったですが、暫くは無理しない様にして下さい」
「分かってるわ。あの、助けてくれてありがとう。ちゃんとお礼を言っていなかったから」
 消え入りそうな声で真澄が告げると、清人が明るく笑って応じた。


「ああ、そんな事、気にしないで下さい」
「だって以前も私、ちゃんとお礼を言えなかったし、礼儀知らずだって言われても反論出来ないわ」
「以前?」
 段々気分が落ち込んで行くのを感じながら真澄が告げると、清人は一瞬怪訝な声で考え込んでから、宥める様に言葉を継いだ。


「ああ、あの誘拐未遂事件の事ですか。当時も今も、そんな事気にしていませんから、大丈夫ですよ?」
「それから万年筆の事も……。私が踏んで壊したあれ、清人君の物でしょう?」
 真澄が慎重に問い掛けると、清人は一瞬黙り込んで静かに問い返した。
「どうしてそう思うんです?」
「だって……、大事そうに拾っていたじゃない。だから余程大切な物なのかと思ったんだけど」
 躊躇いがちに真澄はそう言ってみたが、清人は何でも無い事の様に告げた。


「別に、大事な物という訳では……。ただ単に、路上にゴミを散らかして行きたく無かったので、集めていただけです。警察署のゴミ箱に捨てさせて貰いました」
「本当に?」
「ええ、どこにでもある安物ですから、気にしないで下さい」
「そう……」
 それ以上何も言えず黙り込んだ真澄に、清人は尚もしつこく念を押した。


「そんな事より真澄さん。本当に暫くは無茶をしたら駄目ですよ? 何度も捻ると癖になったり、最悪筋を傷めますから。分かりましたか?」
「分かったわ。本当に心配性なんだから」
 思わず苦笑しながら答えると、清人も笑いを含んだ声を返してくる。


「相手限定ですがね。それで、他に何か用事はありますか?」
「あ、ごめんなさい。別に用は無いから切るわね」
「ええ、失礼します」
 そうして通話を終わらせた真澄だったが、どうしても釈然としない気持ちが残っていた。


(本当に、取るに足らない安物だったの? とてもそんな感じには見えなかったんだけど……)
 問題の万年筆の残骸を拾い上げていた時の清人の表情を思い返しつつ、真澄は表面上はいつも通りの顔で自分の席へと戻って行った。
 一方の清人も、真澄との会話中とは打って変わった憂鬱そうな表情で、自分の携帯をスーツのポケットにしまい込んで溜息を吐いた。


「俺も大概、嘘を吐くのが上手になったな。本当の事を言ったら絶対真澄さんが気にするから、言える筈が無いが」
 そうして携帯をしまった場所とは反対側のポケットを上から軽く触れると、そこに感じた硬い感触に僅かに表情を緩めた。


「確かに残念ではあるが……、真澄さんの代わりに壊れたと思えば、後悔は無いな」
 そうして立ち止ったまま、何を思ったか清人が小さく笑う。
「ばあちゃんだって真澄さんの事は気に入ってたし、別に怒りはしないだろう? さて……、時間はあるし、これを入れて保管しておく、手ごろな箱を探しながら帰るか」
 そんな台詞を誰に言うともなく呟いてから、清人は機嫌良く歩き出した。


 ※※※


 柏木産業本社ビル前での騒動から半月程経過した週末、真澄は某老舗百貨店の文房具売り場に出向いた。
 複数のガラスケースに整然と並べられた数多くの万年筆を眺め、行ったり来たりしながら自問自答する。


(チラッと見ただけだったから、あまり詳細まで覚えていないのよね)
 そんな事を考えながらどれを購入するか決めあぐねていた真澄は、深い溜め息を吐いた。
(同じ物が見つかれば良いんだけど。ネットでの商品一覧でも、品揃えが良い筈のここのパンフレットでも、これって確信できる物が無いし。全く同じ物が無理でも、出来るだけ似た物をお礼として渡したいから……)
 ケースの中を見下ろしながら、そんな事を悶々と思い悩んでいた真澄に、背後から躊躇いがちの声がかけられた。


「真澄、さん?」
「え?」
 その声に反射的に振り向くと、僅かに驚いた表情の清香を認めた。対する清香は真澄の顔を見て、嬉しそうに近寄って来る。
「やっぱり真澄さんだ! こんにちは!」
「あら、こんな所で奇遇ね、清香ちゃん。お買い物?」
 釣られて真澄も笑顔で応じると、清香は隣接している小物などを扱っているコーナーを指差しながら答えた。


「はい。ここの文房具売り場は、上品な和風のレターセットが揃ってて気に入ってるんです。お香も種類が豊富ですし、季節ごとに商品やディスプレイも変えてて、見ているだけで楽しいからちょくちょく来ていて」
 笑顔でそう告げた清香を眺め、真澄はしみじみと思い返した。


(そう言えば叔母様も、可愛い物に目がなかったわね。本当にいつまでも少女の様に無邪気な所がある女性だったわ。やっぱり私とは違うわね)
 そんな事を考えて密かに真澄が落ち込んでいると、清香が何気なく問いを発した。
「真澄さんは万年筆を買いに来たんですか?」
(そうだわ! 清香ちゃんなら、あの万年筆の事を知ってるかも)
 その問い掛けに、事態打開の策を思い付いた真澄は、素早く思案を巡らせて口を開いた。


「そうなの。清人君が持っている万年筆で書いている所を見て、書きやすそうだなって思って。今使っている物の調子が悪くなってきたから、この際清人君が使っているのと同じ物を使ってみようかと思って、探してたのよ」
(流石に踏み潰して、こっそり代わりの物を探してるなんて言えないし)
 後ろめたさから、それらしい理由を捻り出して問い掛けた真澄だったが、それを聞いた清香は首を捻った。


「お兄ちゃんが持ってる万年筆……。ひょっとして、いつも持ち歩いてる深緑色の物ですか?」
「そう、金具の部分が金色の物よ。清香ちゃん、メーカーとか商品名とか知らないかしら?」
 嬉々として清香の返事を待った真澄だったが、何故か清香は難しい顔で考え込んだ。


「うぅ~ん、流石にそこまでは。それにお兄ちゃんが貰ったのはかなり前だし、同じ物はもう出回っていないかもしれません」
「え? あれって、誰かからの頂き物だったの?」
 予想外の言葉を聞いて困惑した真澄だったが、清香は更に真澄を戸惑わせる名前を口にした。
「ええ、佐和子おばあちゃんがお兄ちゃんの大学合格祝いにってくれた物だから……、もうかれこれ十四年前かな?」
 そう言ってブツブツと何やら呟いている清香に、真澄は幾分申し訳無さそうに尋ねてみた。


「清香ちゃん、その方って清人君とどんな関係に当たる人? 初めて聞いた名前なんだけど、差し支え無かったら教えて貰えない?」
「あれ? 話題にした事無かったかな? それに真澄さんが家に遊びに来てくれた時、何度か顔を合わせた事があると思うんだけど……」
 しかし如何にも不思議そうに問い返されて、真澄は更に困惑する。


「遊びにって……、団地時代の話よね? ごめんなさい、ちょっと記憶が定かじゃなくて」
 すると清香が補足説明をした。
「うちの真下の部屋に住んでた、岡田さんの事なの。おじいちゃんとおばあちゃんだけで住んでて、父子家庭で大変だからって、お兄ちゃんが小さい頃毎日の様にお世話して貰ってたんだって。だからお兄ちゃんが『じいちゃん』『ばあちゃん』って凄い懐いてたの。勿論私も可愛がって貰ったし」
 そう言われた真澄は、清香と団地の公園で遊んでいた時などに、親しげに声をかけてきた老婦人の事を思い出した。


「岡田さん……。そう言えば清香ちゃんと遊んでいた時、声をかけて来られて、簡単な挨拶をした様な気がするわ。清人君とそんなに仲が良かったとは、知らなかったけど」
「それでね? その万年筆を貰った経緯は、ちょっと長くなるんだけど……。どこから話せば良いかな?」
 何やら考え込み始めた清香に、真澄は思わず笑いながら、売り場の向こうの一角を指差した。


「長くなる様ならあそこのティールームに行かない? スコーンのセットが美味しいのよ。せっかくだから奢らせて貰うわ」
「え? 真澄さん、良いの?」
 途端に目を輝かせた清香に、真澄が鷹揚に頷いてみせる。
「ええ、勿論よ。清香ちゃんを独り占め出来るんだから安い物だわ」
「嬉しい! 一度入って見たかったの。でも一人だと何となく入りづらくて」
 そんな事を口にした清香に、真澄は多少不思議に思いながら茶化してみた。


「あら、聡君とは一緒に来ないの?」
「聡さんとこういう所にショッピングに来ると、常に危険と隣り合わせなんです」
「危険って……」
 真顔で訴えてきた清香に、真澄は思わず小さく噴き出した。


(あれもこれもと甘やかして買い過ぎるって事なんでしょうけど……、もうちょっと清香ちゃんの扱いと匙加減を考える様に、お仕置きしないといけないかしら?)
 そんな事を考えた真澄は、笑いを堪えながら清香を促した。
「そんなに畏まらなくて良いと思うけどね。じゃあ行きましょうか」
「はい!」


 そしてティールームに入った二人は、二人掛けの席に落ち着き、静かなクラシックがBGMとして流れる中、まずは近況を報告しあいながら注文の品が運ばれるのを待った。そしてクロテッドクリームとマーマレードが添えられたスコーンが運ばれ、目の前でカップに紅茶を注いで貰ってから、真澄が本題を切り出す。
「それで? 普通に合格祝いで貰った物では無いのよね? 話が長くなるって事は」
「ええ、実は合格前に貰ったんです」
 そこで紅茶を一口飲んでから、真澄が怪訝な顔をした。


「前? 清人君が東成大合格確実って言われていたから?」
「それもあるんですけど……」
 そして清香は、時折スコーンと紅茶を味わいつつ、清人が万年筆を贈られた経緯を話し出した。更に贈り主の女性とのその後の関係も、食べながら飲みながらの為、余計に長い時間を要しながらも、事細かく語り終えた。


「と言うわけなんです。だからお兄ちゃんは、今でもそれを佐和子おばあちゃんの形見として凄く大事にしてて、出掛ける時も肌身離さず持ち歩いてるんですよ」
「そう、なの。そんな事があったなんて、全然知らなかったわ」
(まさか、そんなに大事な物だったなんて……。清人君は一言も……)
 僅かに手が震えて持ち上げようとしたカップがカチャリと小さな音を立てたが、それ以外には異常を感じさせない動きで真澄は紅茶を口に含んだ。
 話の途中から真澄がスコーンにも紅茶にも全く手を付けなくなっていたが、表情を変えずに話を聞いていた為、清香は真澄の異常に気付かないまま嬉しそうに続けた。


「でも真澄さんがあれを書きやすそうって誉めてたのを知ったら、お兄ちゃんが喜びそう。あ、そうだ! お兄ちゃんに製造メーカーとか商品名とか聞きましょうか? 真澄さんが同じ物を欲しがってるって聞いたら、喜んで教えてくれると思」
「それは止めて!!」
 いきなり大声で清香の話を遮りつつ、ガシャンと乱暴にカップをソーサーに戻した真澄に、清香は驚いて目を丸くした。と同時に、店内の客や従業員の視線も、何事かと真澄に集中する。


「どうしたの? 真澄さん」
(清人君がわざと誤魔化した事を私が知ったと知られたら、清香ちゃんが怒られるかもしれないし、清人君と顔を合わせた時、余計に気まずい思いをするかも)
 そんな事を考えた真澄は、狼狽しながらも何とかそれらしい理由を口にしてみた。


「清香ちゃんがさっき売り場で言ってたでしょう? 随分年月が経っているから、同じ商品がもう無いかもしれないって」
「言いましたけど……」
 まだ怪訝な顔の清香に、真澄が言葉を選びながら慎重に続ける。


「だけど……、もし私が同じ物を探してるって言ったら、これまでの傾向からすると、清人君、日本中のメーカーや卸問屋の倉庫の中を引っくり返して探しかねないわ。そんな大事になるのは、正直勘弁して欲しいのよ。だから黙っていてくれない?」
 そう控え目に訴えると、清香はさもありなんと言った感じで笑い出した。


「あはは、本当ですね。お兄ちゃんにとって、真澄さんは特別ですから」
(特別、か)
 いつもなら嬉しい筈の台詞を、真澄は苦々しい想いで受け止める。しかし余計な事を、口にしたりはしなかった。
 すると清香は笑いを収め、笑顔で頷いた。


「分かりました。今の話は無かった事にしますね。お兄ちゃんには言いませんから」
「ええ、そうしてくれる? やっぱり試し書きをさせて貰って、手に馴染む物を買う事にするわ」
「それが良いですね。あ、私はそろそろ失礼します、あまり遅くなるとお兄ちゃんがまた五月蝿いので。ごちそうさまでした。また家に訪ねて来て下さいね?」
「ええ、またそのうち伺うわ」
 そうして完食した清香は笑顔で頭を下げて立ち去ったが、一人残った真澄は冷え切ったカップの中身を無言で眺めながら、泣き出したいのを必死で堪えていた。


(何が安物で大した事ないのよ! 平然とあんな嘘を吐くなんて。以前、私に嘘は言わないとか言った癖に)
 そう考えた真澄は更に落ち込んだ。


(本当の事を話したら、私が気にすると思ったからそう言ったんでしょうけど。それは分かっているけど……、ちゃんと感情を面に出してよ。いつも物分かりが良いふりをしないで。大切な思い出だったら、私にも少し位共有させて。怒られても構わないから……)
 そこで再び真澄はカップに手を伸ばし、それを取り上げた。


(やっぱり私は今でも、清人君にとっては大事なお客様で、引け目がある家のお嬢様で、叔母様の姪でしか無いのかしら?)
 そう自問自答しながら飲んだ紅茶は、冷め切ってしまっていたせいか、通常の物よりも苦味が増していた様に、真澄は感じていた。





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