夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第20話 某作家の多忙な一日(1)

 朝九時過ぎ、いつも通り恭子が預かっている鍵で玄関の戸を開けて“職場”に出勤すると、清人は既に仕事部屋で原稿を執筆中だった。
「先生、おはようございます」
「ああ」
 視線を自分の方に向けずに短く挨拶を返した清人は、入力作業に没頭しており、恭子はその邪魔をしない様に自分用の机に荷物を置いた。そしてその日の予定を確認してからファイルの一つを取り上げて中身を捲り、清人の仕事の進み具合を肩越しに眺めながら慎重に声をかける。


「先生、宜しいですか? 確認させて貰いたい事が有りますが」
「何でしょうか?」
 ちょうどキリの良い所で手の動きを止めた清人は、椅子ごと恭子の方に向き直り問い返した。それに恭子が淡々と応じる。


「今日の午後に山東出版にテキストデータを届けに行きますが、そちらの偕成文芸の連載が再来月掲載分で終了になりますので、連載枠を継続するかどうかそろそろ先方から問い合わせがあるかと思います」
「確かにそうですね」
「それで、今日そのお話があったら、取り敢えず継続と伝えておいて宜しいですか?」
 殆ど肯定の返事が返ってくると思っていた恭子だったが、続く清人の言葉に目を丸くした。


「いえ……、取り敢えずその仕事は、それで終了にして下さい。いずれ正式に俺が伝えますが」
「はあ?」
「どうかしましたか?」
 思わず間抜けな声を上げて固まった恭子を、眉を寄せた清人が見上げた。そのどことなく非難がましい視線に、恭子は慌ててその場を取り繕う。


「失礼しました。先生が仕事を増やすのではなく減らすという行為を、初めて目の当たりにした気がしまして……」
「偶にはじっくりと物を考えて、書きたい時もありますから」
「そうですか……。ですが連載終了の代わりに、新年特集号での短編や、関連雑誌でのエッセーの類は受けないといけないかもしれませんが」
「それは分かっています。……ああ、午後に出版社に出向いた後はそのまま帰って貰って構いませんが、近日中にこれを調べておいて下さい」
「了解しました」
 清人が話しながら机の引き出しから出したメモ用紙を受け取った恭子は、それに目を落としながらさり気なく声をかけた。


「先生?」
「他にも何か?」
「今後、執筆活動を徐々に制限する予定でもあるんですか?」
 話は終わったとばかりに既にPCに向き直り、キーボード上で手を走らせていた清人は、前を向いたまま皮肉っぽく言い返した。


「物書きが書くのを止めて、一体何をすると?」
「……会社勤めとか」
「…………」
 恭子が控え目にそう口にしてみた途端、清人の手の動きが止まった。そのままディスプレイ画面を凝視している清人を見て、恭子は次に何を言われるかと精神的に身構えたが、数秒後、再度恭子の方に向き直った清人は、意外な事を言い出す。


「俺では無いですが、川島さんには何ヶ月かしたら、会社勤めをして貰うかもしれません。一応頭の中に入れておいて下さい」
「はい、いつもの様にですか?」
「ええ、履歴書は適当にでっち上げます」
(相変わらず、とんでもない事をサラッと言ってくれるわね、この人)
 内心で呆れつつ、恭子は好奇心から続きを促した。


「因みに……、入社先は決定済みですか?」
「ええ、小笠原物産です」
 そう告げた清人の顔を見て、恭子は本気で呆れた。
(うわ……、なんて嘘臭い笑顔。絶対何か企んでるわよね。と言うか、私を押し込もうとしてる事だけで、その気満々か)
 一人そんな考えを巡らせた恭子は、棒読み口調で問いを発した。


「そうですか。ここ暫く先生は聡さんを放置されていたみたいなので、結構気に入ったのかと思っていましたが、それはあれですか? 愛する弟さんへの愛の鞭ですか?」
「放置? とんでもない、観察と言って欲しいですね。『晩秋の雲』の続編の執筆も佳境に入っていますし、モチベーションを高めておこうと、色々考えていただけです」
 白々しくそう言ってのけた清人に、恭子は最早会話を続行する気力を無くした。


(上手く質問を誤魔化された気がするわね。それに、聡さんに関するえげつないあれやこれやは、頭の中で継続して考えていたって事ですか。聡さん、多少認めて貰っただけでは、攻撃を全面回避して貰えないみたいですね。ご愁傷様です)
 思わず漏れそうになる笑いを抑え、恭子は小さく頷いた。そして旅行中、聡には話さなかった内容を口にする。


「それなら先生が最近小笠原物産の株式も取得し始めたのも、聡さん向けの対策だったんですか? 清香さん名義にしていますし、私はてっきり清香さんの持参金代わりに調達していたのかと思っていましたが」
 そう恭子が口にすると清人は再び手の動きを止め、地を這う如き声音で窘めてきた。


「川島さん、何が誰の持参金代わりだと? あれは万が一、あいつが清香を泣かせた時に、効果的に使う為の道具に過ぎません。つまらない事を言ってないで、さっさと仕事をして下さい」
「失礼しました」
 素直に頭を下げて引き下がり、清人の机とは背中を向けて直角に配置されている自分の机に落ち着いた恭子だったが、密かに溜め息を吐いた。


(あれ位、いつもの先生なら笑って切り返してくる筈だけど……。やっぱり旅行から戻ってから、何となく不機嫌だわ。昨日も一日中そうだったし)
 そしてチラリと斜め後ろを見てから、恭子は資料を揃える手を休めずに、その原因について考えを巡らす。
(最終日の朝までは普通だったから、やっぱり最後に真澄さんとプールに行った後からよね? 後で真澄さんに、さり気なく聞いてみようかしら)


 取り敢えず現時点では仕事に支障を来していないものの、この状態を長引かせたくない恭子が雇い主の操縦方法を考え始めたところで、電話の呼び出し音が鳴った。これ以上清人の神経を逆撫でしたく無い恭子は、素早く立ち上がって足早に壁際に向かい、置かれていた固定電話の子機を取り上げる。


「もしもし、お待たせしました、佐竹ですが。………………はぁ?」
 常には無い調子外れの声を上げた恭子に、思わず清人が視線を向けた。すると何故か恭子も清人の方に顔を向けており、真正面から視線がぶつかる。しかし恭子はすぐに視線を逸らしつつ電話への応対を続けた。


「失礼致しました。少々お待ち下さい」
 そう断りを入れて保留ボタンを押した恭子は、困惑した表情で清人に声をかけた。
「あの、先生。小笠原さんからお電話です」
「あいつから? 午前中から何をやってるんだ、あいつは。ちゃんと仕事をしてるんだろうな?」
 反射的に時計の表示を確認して渋い顔をした清人に、恭子が訂正を入れる。


「いえ、聡さんの方では無くて……、お母様の由紀子さんの方です」
「え?」
 当惑顔で自分を凝視する清人に、恭子も戸惑った表情のまま応じた。


「時間がある様なら、先生にお話ししたい事があるとの事ですが……、どうしましょうか? 私がご用件を承っておきますか?」
 恭子はそうお伺いを立てたが、清人は僅かに考え込む素振りを見せてから、小さく頭を振った。


「取り敢えず出ます。貸して下さい」
「どうぞ」
 そうして恭子から子機を受け取った清人は、一見平然と話し始めた。
「お待たせしました、佐竹です。それで、今日はどういったご用件でしょうか?」


 そうして机に戻った恭子の背後で清人が会話を始めたが、恭子は仕事を再開するふりをしながら密かに聞き耳を立てていた。
「今日、ですか? それなら……、一時過ぎなら大丈夫かと思いますが。…………はい、分かりました。それでは」
 そのまま比較的平穏に話を終わらせた清人は子機を充電器に戻し、無言のまま机に戻って仕事を再開した。しかし十分程経過したところで、かなりの不安と幾らかの好奇心に負けた恭子が、恐る恐る清人に声をかける。


「あの……、先生。お尋ねしても宜しいでしょうか?」
「何ですか?」
「差し支えなければ……、先程の小笠原さんからのお話は、どんな用件だったのか教えて頂けますか?」
 その問い掛けに、清人は溜め息を一つ吐いてから、椅子ごと恭子の方に向き直って淡々と告げた。


「あの人から『直に会って話したい事があるから、時間を取って貰えないか』と言われたので、一時過ぎにここに来て貰う様にしただけです」
「え!?」
 それを聞いた恭子が本気で驚いた声を上げると同時に、全身に冷や汗が流れた。


(ちょっと待って。どうしてこれまで出向くどころか、接触すら避けてきた小笠原さんがわざわざここに来るわけ? それって話の流れでは、下手すると先生の機嫌が一気に悪くなる可能性が……)
 あまり嬉しくない予想に何とか最悪の状態を回避するべく、恭子が声を絞り出した。


「あの……、先生。それなら小笠原さんがお帰りになるまで私は残って、お茶でもお出ししましょうか?」
 第三者が居るだけで、それなりに冷静に対応してくれるのではと考えた上での申し出だったのだが、清人が言下に断りを入れる。


「いえ、茶なら俺が淹れます。川島さんは昼過ぎに上がって頂いて結構ですから」
「はぁ……」
 言い切られてしまってそれ以上口を挟めず、恭子は曖昧に頷いて話を終わらせたが、仕事を再開した清人の様子を盗み見ながら深い溜め息を吐いた。


(勘弁してよ。今週は締切が二本控えてるのに……。大方は書き上がってる筈だから、大丈夫とは思うけど)
 うんざりしながらも仕事に意識を集中した恭子は、正午過ぎに予定していた内容を全て終わらせ、椅子から立ち上がった。


「それでは先生、上がらせて貰います」
「ええ、お疲れ様でした」
 一抹の不安を抱えつつも恭子は大人しく出て行き、それを契機に清人も立ち上がって簡単に昼食の支度を始めた。
 手際良く準備を終えた清人は食事を始め、食べ終わって食器を取り敢えずシンクに入れ、お茶を飲み始めたところでインターフォンの呼び出し音が鳴る。無言のまま壁に近寄った清人は、モニター画面で一階エントランスから呼び出している人物を確認し、静かに受話器を取り上げた。


「はい」
「あの……、小笠原ですが……」
 消え入りそうな声で来訪を告げた由紀子の顔を見ながら、清人は冷静に告げた。
「今開けます。どうぞお入り下さい」
 そうしてドアの開閉ボタンを押した清人は、お茶を淹れ直す為キッチンへと入った。そして準備をしていると今度は玄関のチャイムが鳴り、鍵を開けて出迎える。


「どうぞ」
「……お邪魔します」
 無表情の清人に出迎えられ、由紀子の緊張度も一気に高まったが、元々和やかに話をする様な関係では無い事でもあり、俯いて清人に従って中に進んだ。
 そして言葉少なに清人がソファーに座る様促してから台所に消え、茶碗を二つトレーに載せて戻り、由紀子の前にその内の一つを置くと同時に、来訪の目的を問い掛ける。


「ところで、今日はどういったご用件でこちらに? 電話ではちょっと話しにくい、と言うお話でしたし」
 若干冷ややかさすら感じる口調に由紀子は萎縮したが、思い切って口を開いた。
「あの……、実は、私の誕生日がもうすぐで……」
 そこで口ごもってしまった由紀子に、清人が僅かに首を傾げながら話をふってみた。


「それは……、おめでとうございます。因みにいつですか?」
「九月三日です」
「三日?」
(香澄さんと、二日違い?)
 軽く瞠目して驚きを露わにした清人に、今度は由紀子が怪訝な顔をした。


「あの……、何か?」
「何でもありません。それでご用件は」
 すぐに気を取り直したらしい清人が落ち着き払って促すと、由紀子は覚悟を決めて口を開いた。


「それで……、来週末家族でお祝いをする事になっているんですが……、その席にあなたと清香さんにも来て頂きたくて、招待に伺ったんです」
「それが電話で無く、直に話したい内容、ですか?」
「はい、そうです」
「………………」
 そこまで言って由紀子は顔を伏せ、清人はそんな彼女の様子を半ば呆れて眺めた。


(やっぱりいきなりこんな話、無理があったわよね。清人が来てくれたら嬉しいけど、そんな事有り得ないわ。一応普通に対応してくれる様になっただけで、相当譲歩してくれている筈だし……)
(何なんだ? そんな事は電話で済む話だろうし、第一俺を呼んだりしたら、せっかくの誕生日の祝いの席が気まずくなるだろうに……)
 互いにそんな事を考え、その場に気まずい沈黙が満ちたが、それを打ち消す様に清人がゆっくりと口を開いた。


「せっかくのお誘いですが、来週末は色々予定が詰まっているのでお断りします。ですが清香に何も用事がなければ出向かせますので」
「そうですか……、分かりました。ありがとうございます」
「いえ。この間、清香が度々お世話になっていますし」
 すこぶる冷静に招待を断り、茶碗を取り上げてお茶を啜る清人を見ながら、由紀子は落胆と共に再び気を引き締めた。


(断られるのは承知の上だったもの。普通に話を聞いて貰っただけで良しとしないと。できることなら一言伝えたいし、気落ちしている暇は無いわ)
 そして由紀子は些か強張った顔で話し出した。


「それから……、この前の旅行では聡がお世話になったそうで、ありがとうございました」
「お世話と言われても……。彼はれっきとした大人ですし、取り立てて世話をした覚えはありませんが」
 軽く頭を下げてそんな事を言い出した相手に、清人が本気で戸惑いながら応じると、由紀子は尚も話を続ける。
「柏木さんにもお世話になったそうで、宜しくお伝え下さい」
 その台詞に、清人はピクリと反応した。


「柏木さん、とは、真澄さんの事ですか?」
「ええ」
「……一体、どんな世話になったと、耳にされたんでしょうか?」
「いえ、その……、そこの所は詳しくは聞いていませんが……。以前、車に乗せて頂いた時に顔を合わせたきりですけど、綺麗で優しそうな方ですよね? お仕事の方も順風満帆みたいで」
「そうですね……」
 何やら動揺した挙げ句、半ば強引に話を逸らしたらしい由紀子に、清人は探る様な視線を向けた。


(あいつは真澄さんにされたあれこれを、この人に話して無いのか? 唐突に話に出してきた上、誉める理由が分からないんだが)
 緊張のあまり、その視線を殆ど意識しないまま、俯き加減で由紀子は続けた。


「それで……、私は外で働いた経験が無いので、柏木さんの様に自立出来ている方が羨ましいし、好きなので……」
「はあ……」
「それに……、先程は外見の事を言ったけど、勿論物の考え方とかもしっかりとした方だと思うから……」
「確かにそうですね……」
「だから……、あなたが……いう人を……になっても、……しは……って欲し……、……って」
「あの、すみません。何を言っているのか、良く聞き取れなかったんですが。もう一度言って貰えませんか?」
 殆ど消え入りそうな声で何やら述べた由紀子に清人が困惑顔で促すと、由紀子はのろのろと顔を上げ、清人と視線を合わせた。そしてまたすぐに顔を俯かせる。


「すみません、大した事ではありませんでしたので、気になさらないで下さい」
「そうですか。それなら構いませんが……」
 怪訝な顔をして清人が応じると、室内に再び沈黙が満ちた。
 結局そこで話を終わらせる事にした由紀子は、清人に簡単に挨拶をして立ち上がり、逃げる様に玄関へと移動した。一応、清人もそこで見送る事にする。


「それでは失礼します。今日はお時間を頂き、ありがとうございました」
「……いえ、お気をつけて」
 身支度をして深々と頭を下げた由紀子に、清人は当たり障りの無い態度で応じ、彼女の姿が扉の向こうに消えてから、清人は玄関に鍵をかけてリビングへと歩きつつ独り言を漏らした。


「結局、何が言いたかったんだ? あの人は……。しかし九月三日か……。そんなに誕生日が近いとは、夢にも思わなかったな」
 そしてリビングに戻った清人は、まっすぐ壁際のリビングボードに歩み寄り、そこに飾られていたフォトフレームを手に取った。
 そこには一家四人で最後に撮った写真が入っていたが、明るく笑っている香澄の顔に視線を落としながら、しみじみと呟く。


「だけど全然タイプが違うじゃないか。星占いなんて当てにならないっていう、良い例だな」
 そう断言してから、清人は香澄に視線を合わせたまま、殆ど呆れた様な口調で続けた。


「でも……、漸く分かりましたよ。あの人の誕生日を知ってたから、毎年殊更この時期に、五月蝿く言ってたんですね? 『さっさと書いて、私への誕生日プレゼントの代わりに「お母さん」って呼んで』って」
 そこで小さく溜め息を吐いた清人は、その顔に苦笑いの表情を浮かべた。


「何が自分への誕生日プレゼントの代わり、ですか。あの人の為だったんじゃないですか……。自分の事は棚に上げて、本当にお節介な人でしたね、香澄さん」
 しみじみとそう呟いてから、清人は上にフォトフレームを戻し、穏やかな表情で静かにそれに声をかける。


「……それじゃあ、行って来ます」
 そして踵を返した清人は、予めソファーに置いておいたブリーフケースを取り上げ、玄関のコートハンガーに掛けてあったジャケットを羽織り、戸締まりをして出掛けて行った。




 それから約四十分後、清人は幹線道路沿いの商業ビル一階に入っている、ある画廊に足を踏み入れた。ここを訪れるのは三回目であり、受付の女性に名前を告げると、すぐにこの店のオーナーである根本が歩み寄って来て奥へと案内される。
 十分な余裕を持って壁に掛けられている絵画に目をやりながら、白髪混じりの彼の後に付いて進んだ清人は、出入り口付近からは見えない、応接セットが置かれた奥まった一角に通され、一方の壁に一枚だけ飾られた絵を指し示された。


「佐竹様、先日電話でご連絡したのはこの作品です。如何でしょうか?」
 無言でその絵を眺めていた清人は、感想を求められて至極満足そうに頷く。
「……ああ、これなら以前見せて頂いた物より、数段良いですね」
「はい。最近の作品では無いのですが、昨年都内の収集家がお亡くなりになって、最近遺族が売りに出していたのを迷わず押さえました。それで……、佐竹様、どうでしょうか?」
 改めて根本が相手の顔色を窺う様に問いかけると、清人は相手に顔を向けながら迷い無く告げた。


「ええ、大きさも色調も題材も、あれと比較すると段違いです。気に入りました、これを頂きます」
 その途端、幾分緊張気味だった初老の男性の顔に、安堵の笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。それではこちらの机で手続きをお願いします」
「分かりました」
 促されてソファーに腰を下ろした清人の前に、先程受付で応対した女性が珈琲を運んできた。軽く礼を述べて早速口を付けていると、根本が向かい側に座って清人の方に書類とボールペンを差し出す。


「こちらにサインをお願いします」
「はい」
 そして目の前のテーブル上の書類の内容に素早く目を走らせた清人は一番下にサインし、向こう側に押し返した。
「それでは請求金額を指定の口座に、二日以内に振り込みます」
「分かりました」
「それと……、以前お話しした様に、あれを梱包する時にこれを一緒に入れて、指定した日付にこちらの住所に届く様に手配して下さい。それまでの保管もお願いします」
「はい、お預かりします。それ位のサービスは、喜んでさせて頂きますので」
 根本は清人がブリーフケースから取り出した住所を記した一枚の紙と、掌に乗るサイズの白い封筒を愛想良く受け取った。その笑顔に釣られてか、清人が満足そうな笑みを漏らす。


「……しかし、本当に良い物が見つかって良かった」
「そう言って頂けると、私共も嬉しいです。佐竹様は、来生隆也の作品をずっとお探しだったんですか?」
 その問い掛けに、清人は一口珈琲を飲んでから、苦笑混じりに告げた。


「去年の年末位から、ですね。あちこちで何点か見させて貰いましたが、これと言う物が無くて……。この作者の作品は国内ではあまり出回っていないと聞いていたので、半ば諦めていたところだったんです。こちらを紹介して頂いた滝沢会長には、後でお礼を言わなければいけませんね」
「そうでしたか。それは私共にとっても僥倖でした。滝沢会長がご来店の折りには、良いお客様を紹介して頂いたと、私からもお礼を言わせて頂きます」
 互いに満面の笑みを湛えながら言葉を交わし、清人は再根本の背後の壁に掛けられている絵を見上げながら、心の底から嬉しそうに呟いた。


「本当に……、今年の誕生日に間に合わせる事ができて安心しました。……これなら絶対、喜んで貰える筈ですから」
 必要書類を纏めながらその表情を黙って眺めた根本は、売買が成立した以上の達成感と満足感を、久し振りに密かに味わっていた。



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