夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第17話 女二人

 昼にクルージングを楽しんだ面々は、夜はホテル内のプールバーへと繰り出し、そこで二台あるうちの片方を占拠すると、やる気満々で真澄が恭子に声をかけた。
「恭子さん、清人君からビリヤードの腕前が確かだって聞いてから、一度手合わせしたかったの。勝負してくれない?」
「……構いませんよ?」
 チラリと清人の顔色を窺った恭子は、相手が小さく頷いたのを認めてから、真澄に笑顔で応じた。そして女二人の熱い戦いが始まる。


「何でも、プロに付いて教えて貰ったんですって?」
「教えて貰ったと言うか……、勝手に見て覚えろ的な扱いでしたが」
「でも相当の腕前なんでしょう?」
「そもそもキューの握り方も知らないド素人だったんです。上達したと言ってもタカが知れてますよ」
「そうかしら? 姿勢は随分様になってるけど」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
 互いに不敵な笑顔を浮かべつつ、縦横無尽にキューをふるいながらそんな会話を交わしている二人を、少し離れた所から見やりながら、傍観者達がどこか間延びした声を上げていた。


「いや、本当に良い勝負だな」
「美女の真剣勝負って本当、目の保養になるし」
「こっちに良い男揃い踏みなのに、一瞥もしてくれないのがちょっとな」
「違いない」
 クスクス笑いながら、カウンターで酒を飲みつつ勝負の行方を眺めていた面々だったが、少ししてその視線の先で辛くも逃げ切った真澄が勝利を手にしてゲームが終わった。


「やった! 予想以上に恭子さんが強いから、途中で負けるかもって焦ったわ」
 カウンターに向かって歩きながら上機嫌に述べる真澄に、恭子は苦笑して応じる。
「勝てると思っていたんですが、やっぱりあそこで9番を1センチ外したのが痛かったです」
「そうね。あれでこっちに流れが来ちゃったし……。あ、ちょっとごめんなさい」
 聞き覚えのある微かなメロディーを捉えた真澄は、恭子に断りを入れて清人に預かって貰っていた自分のバッグに手を伸ばした。そして携帯を手にしてディスプレイに表示された内容を確認し、驚きに軽く目を見張る。そして若干嬉しそうに、幾分慌てながら携帯片手に周囲に断りを入れた。
「少し抜けるわね、電話してくるわ」
「はい」
「行ってらっしゃい」
 そして慌ただしく抜けた真澄を清人が何とも言い難い表情で見送っていると、飲み物を注文しようかとカウンターに近付いていった恭子に、正彦が声をかけた。


「恭子さん、俺と一勝負してくれない? さっきのあれを見てたら、是非手合わせしたくなってね。それで、君が負けたら俺と一日デートするって事でどう?」
 明るく言われた内容に周囲の者は(また始まった……)と多少意地悪く笑い、恭子も苦笑しながら応じる。
「勝負も賭けるのも構いませんが、私が勝ったらどうなさるおつもりですか?」
「負けるつもりは無いけどね、そうだな……、百万進呈とか?」
 そう面白そうに正彦が口にした途端、恭子の両眼が不敵に煌めいた。


「そう言う事は、あまり安請け合いしない方が宜しいと思いますよ?」
 薄笑いの恭子に、正彦もふてぶてしい笑いで応じる。
「それなら恭子さんが実践して教えて欲しいな。俺は頭の出来があまり良く無くてね」
「教育的指導が欲しい、と言う事ですね。そう言う事でしたらお任せ下さい」
 小さく笑って頷いてから、恭子は正彦と共に再び台へと戻った。
 そして周囲がはやし立てて俄然盛り上がる中、清人が何を思ったか小さく失笑した。
「正彦の奴……、懲りてないな」
 そう呟いた清人に側に清香が、若干怪訝そうに顔を向けた。


「お兄ちゃん、良いの? 恭子さん、デートを賭ける事になっちゃったけど」
 その問い掛けに、清人は軽く首を振ってからあっさり告げる。
「……彼女より、正彦の心配をしてやった方が良いな」
「え?」
「俺はちょっと席を外す。お前はこれがどうなるか見ていろ。多分笑える展開になる筈だ」
 そんな事を一方的に告げた清人は、さり気なく店の外へ出て行った。それを見送り、聡が清香の隣にやって来る。


「兄さんはどこに行ったの?」
「さあ、ちょっと出て来るとしか。それより二人の勝負が笑える展開になるから見てろって、どういう事かしら?」
「笑える?」
 それを受けて清香と共に聡もビリヤード台の方に意識を戻すと、既に先手の正彦が幾つかの的球を落として手詰まりになった所だった。


「はぁ……、ここまでか。恭子さん、どうぞ」
 残念そうに溜め息を吐いて場所を譲った正彦に、恭子が婉然と微笑む。
「そうですか。じゃあ後は責任を持って終わらせます」
「は?」
 些か物騒な宣言をした恭子は、呆けた表情の正彦の前で、とんでもない技を披露し始めた。


「……まず3番。ちょっと斜めに抜けましょうか。…………3番、コーナーバンク」
 最初に狙わなければいけない的球と手玉のライン上には、二つの的球があって直接狙えず、どうするのかと周囲の者達が見守ったが、恭子は躊躇う事無くキューを構え、サイドのクッション目掛けて勢い良く手玉を撞いた。するとそれは余計な的球の間をすり抜け、クッションで二回Z字の様に跳ね返って、見事3番をコーナーに落とす。
「げ……、凄い」
「ウソだろ、おい」
「マジか?」
 開始早々いきなり度肝を抜かれた面々に構わず、恭子はぶつぶつと独り言を漏らしながら、コールショットを繰り返した。


「次、7と11……」
「……12番は楽勝だから、次に跳ねさせて5番を落として、8番の手前をキープ……。12、センター」
「……10、コーナー」
 台の的玉の配置を眺めて呟きつつ、恭子は宣言通り着々と手玉を操って、確実にポケットに落としていく。
 玉一つ分しか空いていない様に並んでいる的玉の間を、手玉が一直線にすり抜けて向こうの的玉を押し込み、縁に止まっている的玉を流しつつ、撞く時に付けた逆回転でポケット手前で手玉を中央寄りに戻して次に撞く為の好位置をキープし、接している的玉のど真ん中に打ち込んで角度を付けて二つとも転がし、それぞれを同時に落とすなど、普通に考えれば有り得ない光景が展開されていった。


「……おい」
「ちょっと待て……」
 初めのうちは純粋に恭子の腕前に感嘆していたギャラリーも、彼女が次々玉を落としていくに従って絶句していく。そして恭子はミスする事無くひたすらキューを繰り出し、大して時間を要さずに最後の的玉を落とした。
「はい、終了しました」
 背後を振り返ってにっこり笑いかけていた恭子に、正彦が殆ど放心状態で呟く。


「……お見事。真澄さんとの時、手を抜いてた?」
 殆ど確信しながら問い掛けると、恭子は小さく肩を竦める。
「分かる様には抜いていません。先生は真澄さんが楽しんでくれれば、その分特別報酬を弾んでくれますし。今ちょうど真澄さんが席を外してましたから、全力でやらせて頂きました」
「はぁ……、俺も大概人を見る目が無いな。負けた。潔く百万払うよ」
 楽しげに笑いつつ、両手を挙げて降参のポーズを取った正彦に、恭子は小さく笑って応じた。


「それじゃあそれはそのまま口止め料としてお返しします。真澄さんに手加減していた事がバレたら、真澄さんと先生双方に怒られますから。皆さんも口外なさらない様、宜しくお願いしますね?」
 それを聞いて、正彦を含む全員が笑って頷いた。
「それはそうだ」
「馬鹿にされたって、激怒しそうだよな」
「なるほど、それでチャラって事か。益々良い女だね、恭子さん」
「ありがとうございます」
 正彦の賛辞もサラリと受け流し、余裕の笑みで返した恭子に、そこで感極まった感の清香が盛大に抱き付いた。


「凄い、恭子さん! 私あんなスーパーショット、初めて見た!」
「ありがとう清香ちゃん」
「本当に恭子さんって何でもソツなくこなしちゃうんだもん。私、恭子さんみたいな女性になりたいな~」
 自分に抱きつきながら、ニコニコと無邪気に見詰めてきた清香を、恭子は急に幾分冷めた目で見やった。


「……私みたいに、なりたい?」
「うん。恭子さん美人だしスタイルは良いし、お兄ちゃんから指示された資格とか取りながら、色々な仕事もこなしてるでしょ? 基本的に頭が良いし、気配りもばっちりな大人の女」
「清香ちゃん、そこまで」
「え?」
 上機嫌に喋り続けていた清香だったが、それを恭子に冷たく遮られると同時に、いつの間にか彼女の両手が自分の喉に掛かっているのに気付いて固まった。すると恭子が全く笑っていない目で、剣呑な気配を醸し出しながら清香に囁く。


「清香ちゃん。私の様な人間になりたいなんて、今後一切口にしちゃ駄目よ?」
「あの、で、でもっ……」
 常には無い雰囲気に戸惑いながらも反論しようとした清香だったが、恭子は清香から目を離さずに淡々と続けた。
「聞き分けが悪いなら、ちょっと怖い思いをさせて体に覚えさせる事になりそうだけど、それでも構わない?」
「う……、ちょ……」
(えっと、私、何か、恭子さんの気に障る事言った、の?)
 静かにそう問い掛けると同時に、首に回された手に僅かに力が込められた為、清香は狼狽した。しかし周りの男達の方が瞬時に顔色を変え、清香から恭子の手を引き剥がす。


「川島さん!」
「何やってるんですか?」
「早く手を離して下さい!」
 そうして二人を引き剥がした後、女二人の間に割り込む様に人垣ができた。その従兄達の背中を見ながら、清香は素早く考えを巡らせる。
(それって……、恭子さんからこの前聞いた、昔水商売してたとか愛人契約してたって事が関係してる? 恭子さんにしてみれば、だから自分の様になりたいって言われるのは、嫌なのかもしれないけど、でもっ……)


「……あまり人を見くびらないで欲しい」
「え? 何か言った? 清香さん」
 清香が思わずボソッと口に出して呟いた言葉を聞き取り損ねた聡が問い返したが、清香はそれを無視して前に足を踏み出した。
「友之さん、明良さん、ごめん、ちょっとどいて!」
「おっと」
「清香ちゃん!」
 強引に目の前の二人を両脇に押しやり、清香が恭子の正面に出たと思ったら、清香がそのまま突進した。


「恭子さん、覚悟っ!」
「え? ちょっと清香ちゃん!? きゃあっ!」
「危ない!」
「清香さん、何を!」
 もはや抱き付くなどと言う可愛らしいものではなく、殆どタックルに近い勢いで恭子の胸元に飛び込んだ清香は、恭子諸共絨毯敷きの床に倒れ込んだ。位置関係でとっさに清香を抱きかかえる体勢になった恭子は派手に尻餅をついた上、背中と腰を結構な勢いでぶつける事になって思わず呻き声を漏らす。


「痛っ……、あのね、清香ちゃん。これは何事?」
「うふふ、恭子さんを怖い目に合わせる事って至難の業かもしれないけど、私にだって恭子さんを痛い目に合わせる事位できるんだから」
「……ごめんなさい、清香ちゃん。お願いだから分かる様に話してくれる?」
 自分に馬乗りになりながら自信満々にそう告げた清香に、恭子は床に横たわったまま疲れた様に懇願した。すると清香がきっぱりと言い切る。


「私、恭子さんみたいになりたいって発言、取り消すつもりはサラサラ無いから」
「あのね、清香ちゃん」
 思わず口を挟もうとした恭子だったが、真剣な顔の清香に上から顔を覗き込まれる体勢になって思わず口を噤んだ。
「そんなに見損なわないで欲しいんだけど。私こう見えても、一旦気に入った人間は絶対に自分から放さない悪癖持ちだって、お兄ちゃんに言われてるし」
「悪癖なの? それ」
 思わずクスッと小さく笑ってしまった恭子だが、清香はいたって大真面目に続けた。


「お兄ちゃんにしてみればそうみたい。どうせ私、まだ人間の上っ面しか読めない気配り皆無の子供だし。だから嫌いって言われて離れて行こうとしたって、手放さない気満々なんだから!」
「……それは確かに困りものかも知れないわね」
「恭子さんが昔どんな人間だったかなんて、一緒に居なかったんだから知らないもの。でも今どんな人か、これからどんな風に付き合っていけるかが重要でしょ? 恭子さんは初めて会った時からお姉ちゃん二号なんだから、何をされたり言われたりしても、絶対放さないからね! 覚悟してて!」
 完全に開き直った感じの訴えに周囲は唖然とし、恭子は多少呆然としながら呟いた。


「二号って……。因みに一号は真澄さん?」
「やっぱり恭子さんは頭の回転が早いわ」
 そこでうんうんと感心した様に頷いた清香に、恭子が泣き笑いの様な表情になる。
「ははっ……、真澄さんと並べられるのは良いわね。本妻と愛人みたいで。……お姉ちゃん、ね……」
 些か皮肉っぽく口にしながら片手で両目を覆った恭子を見下ろして、今度は清香が首を捻った。
(一号二号って言い方、そんなにおかしかったかな? それに真澄さんと並べられるのが、嫌ってわけじゃ無いよね?)
 そこで清香に呆れた気味の声がかけられた。


「……お前達、何をやってるんだ? 営業妨害だろうが」
 いつの間にか真澄を連れて戻っていた清人が、浩一達を押しのけて清香と恭子の目の前に立っていた。言われた内容に清香が思わず周囲に目をやると、清人達が押さえていない台でプレーしていたグループが、何事かと自分達を眺めており、カウンター内のホテルの従業員も不審さと困惑を露わにしてこちらの様子を窺っている事に気が付く。
 流石に清香も自分の行為が引き起こしたこの状況に、冷や汗が出てきた。


「え? あ、えっと……、こ、これは~」
 この場をどう収めようかと考えつつ立ち上がりかけた清香だったが、清香と恭子を等分に眺めていた真澄が、ここでいきなり行動を起こした。
「清香ちゃん。そこをどいて!」
「きゃっ!」
 二人の側に膝を付き、清香を突き飛ばす勢いで恭子の上から退かせると、真澄は勢い良く恭子の上半身を引っ張り上げて非難の声を上げた。


「酷いわ! 『女性を口説くなら真澄さんが良い』って言ってたのに、あれは嘘だったの? どうしてこんな所で清香ちゃんを口説いてるのよっ!?」
「へっ?」
 予想外の話の流れに間抜けな声を上げて固まった清香だったが、恭子は一蹴目を瞬かせてから、苦笑いして言い返した。


「どこがどう口説いていると? 押し倒されたのは私の方です」
「そんなの、あなただったらいとも簡単にかわせるでしょうが!」
「確かに……、ちょっと若い子に迫られて、このまま流されても良いかな……、なんて思った事は否定できませんね。だって真澄さんが美貌を保つ為、忙しい中時間とお金は惜しまず費やしているのは知ってますけど、やっぱり清香ちゃんの肌の方が触り心地が良いですし」
 真澄の両頬を自分の両手で包み込む様にしながら恭子が零した言葉に、その場の空気が凍った。


「……清香ちゃん? 私の恭子にちょっかい出さないでくれる?」
「ちょ、ちょっかいって! それ、誤解っ! ……だ、第一」
 背中を向けたまま地を這う様な声を発した真澄に、清香はあわあわと狼狽しながら、涙目で弁解しようとした。しかし年長者達は微塵も動じる事無く、突然始まった小芝居の推移をニヤニヤしながら黙って見守る。


「恭子も恭子よ! そんなに三十過ぎの女が鬱陶しい訳!? 自分だって四捨五入すれば三十じゃない」
「真澄さんは来年の誕生日が過ぎたら、四捨五入すれば四十ですよ?」
 そこで真澄の声のトーンが若干下がった。
「……そんなに私と別れたいわけ? 顔と金払いだけ良くて、性格と根性が激悪の男なんかに引っかかったわけじゃ無いわよね!?」
「過去も含めて、そんなろくでなしに引っかかった事が一度も無いと断言できないのが、辛い所ですね……」
 思わずと言った感じで恭子が「ふっ……」と溜め息を吐きつつ真澄から視線を逸らしたのを見て、清人は黙ったまま僅かに表情を動かし、横で男達が「あれって嫌味か?」と囁き合った。そんな外野の思惑は関係無しに、二人の会話はどんどん進む。


「恭子の相手は、若さだけが取り柄の子なんか無理よ。いい加減それ位解りなさい?」
「そうですね、真澄さんが相手をしてくれるなら、私は別に構いませんよ?」
「あら、じゃあ私に構われたくて、わざとちょっかい出してただけ?」
「偶には良いじゃ無いですか」
 含み笑いで視線を合わせてきた恭子に、真澄が機嫌を直した様に楽しそうに笑いかける。


「そんな事で清香ちゃんを驚かせちゃ駄目でしょう。これはお仕置きものね」
「真澄さんにお仕置きされるなら、幾らでも構いませんよ?」
「最初から素直にそう言いなさい」
 そう言いながら今度は真澄が手を伸ばし、恭子の顔を両側から包み込む様にして自分の顔を近づけかけたその時、テンパった声と共に肩を掴まれ、グイッと二人の体が引き剥がされた。


「だだだ駄目ぇぇっ!! お願いだから二人とも落ち着いて、冷静になってっ!」
「どうしたの? 清香ちゃん」
「落ち着いた方が良いのは、清香ちゃんの方だと思うけど?」
 狼狽しきった清香の叫びに女二人は噴き出したいのを堪えつつ、真面目な表情を装って問い返した。それに清香が真顔で言い募る。


「だって! 女の人同士で恋愛とか結婚とか駄目でしょう! 色々無理ですし!」
「恋愛は自由だと思うけど? それに日本だと確かに同性同士だと結婚できないけど、できる国も有るのよ?」
「ちょっと面倒だけど、そこの国籍を取れば良い訳だし」
 事も無げにそう告げる相手に、清香は益々血相を変えて迫った。


「全っ然良くありません! 女同士だったら子供ができないじゃないですか!」
「それはそうよね。それが?」
「生まれたら快挙だわ」
「冗談じゃ無いです! 真澄さんと恭子さんが本当に結婚しちゃったら、私の完璧な人生設計が大幅に狂うんだから!」
「はあ?」
「それはどういう事? 清香ちゃん」
 真顔で絶叫された内容に、真澄と恭子は思わず顔を見合わせたが、清香は大真面目に話を続けた。


「だって私に弟妹は居ないし、家族ぐるみでお付き合いしていたうちや団地の周りのおうちにも、私より小さい子って居なかったんです」
「そういう環境って、珍しくは無いんじゃない?」
「偶々そうだったんでしょうけど、それが?」
「だから、真澄さんか恭子さんが子供を産んだら、仕事で忙しい時とか、飲み会とか法事とか、結婚記念日デートとかに子供を預かって予行演習として子守して、対応に慣れたところで子供を産んだら、育児経験も心構えもばっちりだと思ってたのに!! だから二人は真っ当に男の人と結婚して、ちゃんと子供を産んで、時々私に子守させてっ!」
 清香が真剣極まりない表情で力一杯訴えると、周囲に微妙な沈黙が満ちた。


「……予行演習」
「だ、そうですよ? 真澄さん」
 ボソッと呟いた真澄の顔を見ながら恭子が小さく肩を竦めると、それが引き金になったかの様に、真澄は突然左手でお腹を抱えて爆笑し始めた。


「…………っぷ、あははははっ!! だから女同士の結婚が認められない? 何て凄い自分本位な理由なの? それに何て穴だらけな、完璧な人生設計! どれだけ可愛いの清香ちゃん。お願いだから笑わせないでぇぇっ!!」
 そう絶叫してから、うずくまって空いている右手で床をバンバン叩きつつ、「いやぁぁぁっ! もう駄目ぇぇっ!」とお腹を抱えたまま笑い続ける真澄から目を逸らし、恭子は清香に向き直った。


「……やっちゃったわね、清香ちゃん」
「え、え!? 何が?」
 狼狽しながら真澄と恭子を交互に見つめる清香に、恭子は淡々と説明した。
「真澄さんが隠れ笑い上戸なのを忘れてたでしょう? 私も一度、不用意にランチタイムのフレンチレストランで爆笑させちゃって……、料理の途中で店を出た事があるわ」
「いえ、あの、でも、そんなに笑うほどの事でも……」
 遠い目をして語った恭子に、清香の顔が引き攣る。そこで恭子が些かわざとらしく、深々と溜め息を吐いてみせた。


「これは暫く戻らないわね……。先に二人で部屋に戻るから、清香ちゃんは後から来てくれる? この状態だと清香ちゃんの顔を見ただけで、容易に笑いがぶり返しそうだし」
「う……、分かりました」
 申し訳なさそうに頷いた清香から視線を外し、恭子は真澄に声をかけた。


「真澄さん、いつまで笑ってるんですか。ほら、部屋に戻りますよ?」
「だ、だって……、笑いすぎて力が抜けて、立てないっ……」
「しょうがないですね」
 相変わらずクスクスと笑いながらの返事に、恭子は半ば真澄を引き上げる様にして立たせた。
「じゃあ部屋でお茶でも飲んで、気を落ち着かせましょうか」
「恭子さん、お茶お願い~」
「はいはい」
 自分の腕にしがみついて寄りかかりながら、未だ笑い続けている真澄を適当にあしらいつつ、恭子は周りの人間に軽く会釈してから歩き出した。


「やっぱりお茶の話題は、同性同士で子供が作れる様になったら、異性間の結婚が減るかどうかよねっ! これは絶対減るでしょ!」
「お願いですから、もう少しテンションを下げましょうね。他のお客の迷惑です」
「だあってぇぇっ!!」
 カラカラと笑う真澄を連れて恭子が姿を消すと、呆然とそれを見送っていた清香に清人から静かに声がかけられた。


「清香、お前川島さんに何か余計な事を言ったか?」
「余計な事って……、特に変な事は……」
 清香が戸惑いつつ背後を振り返ると、いつの間にか台上のキューを手に取り、その先端にチョークを付けながら、清人が重ねて問い掛けてきた。
「彼女にうちに来て貰う時、お前に注意した事が幾つか有ったが、覚えているか?」
「えっと……『仕事を詮索しない』『家族の話をしない』『“お姉ちゃん”と呼ばない』……、あ……」
「忘れていないならいい。……さて、俺に叩きのめされたい奴はいるか?」
 思わず瞠目した清香から視線を逸らした清人は短く言い聞かせてから、口調を変えて周囲の男達を見回した。すると友之が楽しそうに笑いながら、一歩足を踏み出す。


「お相手しますよ、清人さん。これなら自信はあるので、チャンスを逃す訳にはいきません」
「そんなに返り討ち記録を更新したいのか? 自虐趣味も大概にしておけ」
「清人さんの木っ端微塵敗北記念日を作るのが、俺の悲願なんです」
「もっとマシな願望にしろ」
 不敵に笑った清人に友之も同様の笑みを返し、周囲も釣られた様に笑う。未だ難しい顔をしている清香と、彼女の顔を心配そうに眺める聡を抜きにして、先ほどまでの重い空気は見事に一掃されたのだった。


 一方、真澄は廊下に出てからも派手に笑い続け、行き交う従業員や客の人目を引いていたが、角を一つ曲がった所であっさりとその笑いを引っ込め、恭子から腕を放して歩き始めた。
「ここら辺でもう良いわよね。はぁ……、笑いすぎて顔が筋肉痛になりそう」
 頬を抑えてしみじみと零した真澄に、恭子が恐縮気味に頭を下げる。
「すみません真澄さん。お手数おかけしました」
「別に大した事じゃないわ。一体何を言われたの?」
 スタスタと歩いて行く真澄の後に付いて歩きながら少し無言だった恭子だが、エレベーターの前に立って真澄が上行きのボタンを押したところで、漸く静かに状況説明をした。


「清香ちゃんに私の様になりたいと無邪気に言われて、思わず軽く首を絞めかけたら、押し倒されてお姉ちゃん二号って言われました。因みに一号は真澄さんです」
「ふぅん? なるほど、ね」
 軽く相槌を打っただけでそれ以上は何も言わなかった真澄だったが、少し逡巡してから恭子が再び口を開いた。


「実は……、最近、清香ちゃん達にちょっと昔の事を口にした事がありまして……」
「あら、どうして?」
「自分でもはっきり理由は分かりませんが……、色々秘密にしているのが疲れて嫌になったのかもしれません」
「ちょっと時期的には早いけど、もう更年期?」
「……さっき四捨五入したら再来年は四十って言った事、根に持ってます?」
「ちょっとね」
 エレベーターの扉を見詰めたまま恭子と会話していた真澄だが、扉が開いて中に入り、奥の壁に背中を預けてから恭子に笑いかけた。


「だけど……、あそこでああいう切り返しが来るとは、思わなかったわね」
 気まずい空気を払拭しようと咄嗟に仕掛けた話に恭子が応じるのは想定内だったが、予想の斜め上をいく清香の反応は流石に真澄にも予想できなかった。恭子もそれを思い出して小さく笑い、真澄と同じ様に壁にもたれ掛かりながら、先ほどとは逆に真澄の肩に寄りかかる。
「私にも予想外でした」
「あれで清香ちゃん、色々頭の中が吹っ飛んだでしょうから、その前のあれこれはあまり気にしてないわよ。それと……、さっき手加減したでしょ?」
 最後は多少咎める様に断定口調で告げると、恭子は居心地悪そうに小さく溜め息を吐いた。


「……バレてましたか」
「当然よ、あの場はあなたに合わせたけどね。だから今度二人でプールバーに行くわよ? 私だけスーパーショットを見逃したなんて悔しいもの」
 前の扉を見詰めたまま真澄がきっぱりと言い切ると、小さく笑った恭子は真澄の肩に頭を乗せながら、ゆっくりと目を閉じた。


「やっぱり真澄さんって、女が惚れる本当の良い女です」
「当然よ。でも残念ながら、そういう女って男には見向きもされないのよね」
「男に飽きたら声をかけて下さい。真澄さんにとっては清香ちゃんが一番だと思いますが、真澄さんの二号だったらなりたいです」
「考えておくわ」
 そこで小さく笑った真澄はエレベーターが宿泊階に付いて扉がゆっくりと左右に開いた為、恭子を促して部屋に向かって足を踏み出したのだった。



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