夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第16話 窺い知れぬ深淵

 バカンス会も四日目のその日、清人達一行は大型クルーザーで沖へと出て行った。
 移動の間、海原の風景を楽しんでから頃合いをみて船を停め、皆で沖釣りを始める。しかし小一時間経過した所で、船首に近い甲板で釣り糸を垂れていた真澄の呻き声が上がった。


「うぅ、人を馬鹿にしてるの? ここの魚。どうしてさっきから清人君ばかり釣れるのよ。 並んで釣ってるのに、納得できないわっ!」
 清人が開始後何度目かの獲物を針から外し、傍らのクーラーボックスに入れるのを見ながら真澄が八つ当たりすると、清人は苦笑しながら宥めにかかった。


「そう怒らないで下さい、真澄さん。怖いオーラが釣り竿と釣り糸経由で海中に滲み出て、魚が恐れをなして寄って来ないんですよ」
 サラッと言われた内容に、真澄の目つきが一気に険しくなる。
「……一番人を馬鹿にしているのは、魚じゃなくて横に居る人間だって事が良~く分かったわ」
「拗ねないで下さい。もし釣れなくても、昼は俺が釣った魚を刺身にして食べさせてあげますから」
「それじゃあつまらないでしょ……って、あ」
「引いてますね」
「ちょっと……」
 ここで当たりが来たのを察知した真澄が慌ててリールを巻き上げたが、上げ切らないうちに引きの感覚が無くなり、苛立たしげに海に向かって叫んだ。


「……っくぅっ! やっぱりここら辺にはメスの魚しか居ないんだわ! だから清人君の方にしかかからないのよっ!」
 その物言いに、思わず清人が失笑した。
「はいはい。そうかもしれませんね」
「やっぱり馬鹿にしてるでしょ!?」
「そう怒らないで、一度上げて下さい。餌を付け直してあげますから」
「ちゃんと釣れる様に付けてよ?」
「あまり無茶を言わないで下さい」
「出来ないとでも言うつもり?」
「鋭意努力します」 
 真澄の無茶ぶりにも、軽く笑って応じながら清人がまめまめしく釣り針の先に餌を付けているのをキャビンの陰から覗いた聡は、思わず深々と溜め息を吐いた。


(兄さん……、やっぱり真澄さん限定で、とことん尽くす人だったんですね。無意識だとしたら、見てる方が切ないです)
 前日も日中は各自自由に散って行った面々をよそに、目の前の二人と清香、恭子、浩一と一緒に六人であちこち回ったのだが、率先してドアの開け閉めをするのは勿論、当然の如く荷物持ちをし、発注や手配関係を遺漏無く進める清人の姿に、感心を通り越して複雑な気持ちを抱いてしまった聡だった。


(もうこれが二人の間では当たり前なんだろうな。浩一さんも清香さんも、見ても何も言わないし。川島さんは終始生温かい目で二人を見てたけど。……どうして血が繋がってない、父さんと兄さんの姿がダブるんだ)
 そこまで考えてがっくり項垂れた聡の元に、清人達とはキャビンを挟んで反対側で、聡が居る位置から少し離れた所で釣り糸を垂らしていた清香が、釣り竿を置いて様子を見にやって来た。


「聡さん、気分が悪いですか? 船酔いしたなら、中で休んでいた方が良いですよ?」
 心配そうにそう問い掛けられた聡は、力無く笑って否定した。
「……いや、大丈夫。ちょっと些細な心労が重なってて、色々考えていただけだから」
「心労ですか?」
 怪訝な顔で応じた清香に、聡は密かに溜息を堪えた。


 二日目の夜に執念深そうなメールでの宣言と清人の推論通り、翌日から真澄の陰険かつ狡猾な報復措置が続いていた。
 朝食時に肉団子に切り込みを入れて辛子を埋め込んだ物にすり替えられたり、座敷に上がって靴を脱いだ時に小石を入れられたり、パンフレットの内側を接着させられたり、カラオケで入力した番号を消されたりと、細々した嫌がらせに怒るのを通り越して、既に呆れ気味の聡だった。


(俺と清香さん、兄さんに気付かれずには済んでも、他の皆には見られている筈なのに、皆見てみぬふり……と言うか、絶対片棒を担いでる気がする。何だか浩一さんは、昨日から不自然な位目を合わせて来ないし……)
 そんな事を考えながらキャビンの壁に背中を預けて些かぼんやりしていると、清香の背後から更に声がかけられた。


「清香ちゃん。聡さんは、旅行が始まってからの先生の姿に、ショックを受けてるのよ」
 向こう側の甲板の端にいる二人には聞こえない様に、小さめの笑いを含んだ声でいつの間にか近寄って来た恭子がそう告げると、清香も小声で尋ね返した。
「どういう事?」
「それはつまり……、真澄さんに対してひたすら低姿勢で世話を焼きまくってる姿を見て、あの自信満々で横暴で容赦のない傍若無人な兄さんはどこに行ったんだ!? って、密かに憧れてたお兄さんに、ちょっと裏切られた気分なのよね?」
 いたずらっぽく笑われながら同意を求められた聡は、苦笑いしか出来なかった。


「全面的にそうだと断言できませんが、確かにそう言う面もあります」
「そうなると……、やっぱり世間一般から見たら、真澄さんに対するお兄ちゃんの行動って、普通じゃ無いの?」
「無いと思うよ?」
「無いですね」
 聡の背後の壁の向こうを覗き込みながらの、この期に及んでの清香の質問に、聡は更なる疲労感を覚えながら、恭子は笑いを堪えながら答えた。すると続けて問いが発せられる。


「じゃあやっぱり二人がそんなに仲が良いなら、周りからちょっと押してあげれば、上手く纏まるんじゃ」
「甘いわね、清香ちゃん」
「え? どうして駄目なの?」
 自分の台詞を遮って否定してきた恭子に、清香が驚いた顔を向けると、恭子も冷静に二人を観察しながら断言した。


「あの二人は確かに仲は良いわ。良いんだけど…………、あれは例えて言うなら、惚れた腫れたなんて状態はとっくの昔に通り越して、偶に顔が見れて一緒にほっこりお茶飲みできたらそれだけで幸せ、みたいな、敬老会のおじいさんおばあさんカップルよ」
「…………」
 雇い主への配慮などかなぐり捨てたその評価に、目の前の清香と聡は何とも言えずに黙り込み、清人達と反対側で釣り糸を垂れながら清香達の話に聞き耳を立てていた面々も(本当に容赦無いな……)と溜め息を吐いた。そして聡も思い出した様に呟く。


「確かにそうかもしれませんね……。この前二人にそれぞれ個別に、相手の事をどう思ってるのか尋ねてみたんですが……」
「え? 聡さん、いつの間に!?」
「随分な直球勝負を仕掛けましたね?」
 そう呟いた途端清香が嬉々として食い付き、恭子は多少驚いた目を向けたが、聡は淡々とその時の反応を告げた。


「二人とも微塵も戸惑ったり答えに窮する事無く、兄さんは『香澄さんが可愛がってた姪で、清香さんが懐いてる自分にとっては義理の従姉』で、真澄さんは『香澄叔母様が可愛がってた義理の息子で、清香ちゃんのお兄さん』と、至極冷静に答えてくれました」
「そうでしょうね」
 小さく肩を竦めた恭子の横で、清香が諦め切れない表情で呟く。


「……やっぱり二人に『結婚して』って言っても無理?」
「それだけだとね。笑って『何をバカな事を』で一蹴されそうだ」
「お互いに何が引っ掛かってるか良く分からないけど、色々条件や状況の変化が重ならないと、難しいでしょうね」
「そうなのかなぁ……」
 聡と恭子の両者から否定され、思わずうなだれた清香の顔から恭子に視線を移した聡は、話を続けた。


「因みに、その時に兄さんが本業の他に株取引をしているのを聞きまして。兄さんははっきり言いませんでしたが、柏木産業の株式を相当数保有してますよね。ご存知無いですか?」
 風に乗ってその話が耳に届いた浩一達が、一斉に驚いた顔を聡の方に向け、恭子は薄く笑った。
「仮に先生が柏木の株を大量に保有しているとして、何か問題でも?」
 そう問い返されて、聡は慎重に言葉を継いだ。


「現時点では問題は無い筈です。有事の際は別ですが。因みに具体的な数量は分かりますか? できれば総発行株式数に対する保有比率を教えて頂ければ」
「今現在、総発行株式数のおよそ2%です」
「……本当ですか」
 駄目もとで聞いてみた内容にあっさりと答えが返り、しかもそれが想像以上の内容だった為、聡は片手で顔を覆って溜め息を吐いた。しかしその意味が分からなかった清香は、キョトンとした顔を聡に向ける。


「聡さん、お兄ちゃんが伯父さんの会社の株を持ってたら何かまずいの?」
 その問いに、聡の代わりに周囲の者達が口々に答えた。
「まずくは無いよ? 無いけど……、聡君はそれだけ保有するだけの必要な資金を考えて、気が重くなったんだよ」
「一流上場企業の柏木株の2%? どう考えても億単位だし」
「しかも使ってる金はそれだけじゃ無いだろ? 本業だけじゃなく、手広くやってそうだし」
「そうですね。FXやファンド、他の株取引で得た利益を、柏木株取得の為に注ぎ込んでますから」
 再びあっさり認めて告げた恭子に、清香は未だ怪訝な顔で尋ねた。


「それは……、柏木産業が好きだから?」
 ストレート過ぎるその感想に、思わず周囲の者達は苦笑いで応じた。


「勿論、その会社が好きだから株を購入するって株主も居るけど、清人さんの場合純粋にそうとは言い切れないな」
「総発行数2%とすると、下手すりゃ議決権はそれ以上だし。影響力はそれなりにある筈だ」
「清香ちゃん、ひょっとすると、清人は柏木産業の株主総会で、会計帳簿閲覧請求や役員解任の提起をしたり、議題を提案したりする重要な権利を持ってるかもしれないんだよ」
「例えば柏木が外部から乗っ取りを画策された時、経営陣側と敵対する陣営、両者から自分達に委任状を出して貰える様誘いを受けると思うよ? 創業者一族及びメインバンク保有以外の個人株主としては、五本の指に入ると思うし」
「三本の指に入ると訂正しておいた方が良いでしょうね」
 懇切丁寧な解説を受けた清香は目を丸くしてから、再度根本的な疑問を口にした。


「柏木産業株主としてのお兄ちゃんの立場は何となく分かりましたけど、どうしてそんなに柏木の株を持つ必要があるの?」
 そこで恭子は思わせぶりな視線を、本気で首を捻った清香から浩一に移して問い掛けた。


「浩一さん。確か五年程前に、総一郎会長が自社株を家族に生前贈与しましたよね?」
「ええ。確かにそうですが」
「そうなると、今現在のご家族の株式保有比率は、どれ位でしょうか?」
「それは……、祖父は減らして5%程度になって、父が35%になって筆頭株主です。その時叔父二人にそれぞれ5%ずつ、それに姉さんと俺が1%ずつ贈与されて……」
 そこで何を思ったか口ごもった浩一だったが、清香以外の他の面々は何とも言い難い渋い顔になった。


「……ひょっとしてそれか?」
「本気で? 真澄姉より少ない資産じゃ釣り合わないって?」
「普段飄々としてるくせに、どれだけ思い込み激しいんだよ」
「加えて柏木に対して、存在感を示したかったって事か?」
 一通り思った事を口にしてから、一同は思わず顔を見合わせて溜め息を吐いた。
「正直、あの清人さんがそこまで卑屈になってるとは思わなかったぞ」
「いや、単に伯父さんや祖父さんに認めさせたいって意思表示かもしれないが」
「でもそれなら、柏木から貰った内定を蹴らないで、就職して社内で認めて貰った方が良くは無いか?」
「だよな。“あれ”の後暫く、雄一郎伯父さんと祖父さんの清人さんに対する態度が、更に硬化してたし」
「ああ、当時姉さんもかなり落ち込んでたしね」
「そうだったんだ……」
 思いがけず清人が過去に発生させた柏木家との軋轢を知る事になった清香は、思わず俯いて重い溜め息を吐いた。そんな清香の額を人差し指で軽くつつきながら、苦笑混じりに恭子が告げる。


「取り敢えず当初の予定通り、二人の言動に注意して、気になる所があればそれを逃さず働きかけていくしかないんじゃないかしら? せっかく遊びに来てるのに、そんな眉間に皺を寄せたままじゃダメよ?」
「……うん、ありがとう恭子さん」
 アドバイスに笑顔になって、素直に頷いた清香に、恭子も微笑み返す。


「どういたしまして。さて、あの二人にそろそろ飲み物を持って行かないと。頭と心に続いて、身体まで干からびちゃうものね」
 その物言いに、思わず周囲から失笑が漏れ、先ほどまでの重苦しい空気が一変した。
「キツいね、恭子さん」
「確かにそうだけどね」
 それらにも、恭子は余裕の笑みで応じる。
「清香ちゃんにも後から持って来るわ。皆さんの分も揃えますから、何が宜しいですか?」
「あ、俺ジンジャーエール」
「じゃあアイスコーヒー宜しく」
「麦茶でいいよ」
 結構バラバラな注文にもびくともせず、メモも取らずに恭子はキャビン内に扉を開けて入って行き、清香は聡と共に改めて兄達の様子をコソコソと覗き見やった。


「きゃあっ、やったわ! やっと釣れた、嬉しいっ!」
「良かったですね。オスの魚も居たみたいで」
 真澄が釣り上げた魚を針から外していた清人が苦笑しながら告げると、如何にも気分を害した様な真澄の視線が突き刺さる。
「……当て擦るのは止めてくれない? せっかく人が良い気持ちになってるのに」
「すみません。あまりに嬉しそうな顔をしているので、つい……」
 睨んでも全く動じないでクスクスと笑いを零している清人に、真澄は呆れた様に小さく肩を竦めた。


「全く……、少しは言動に気を付けたら? そんな調子だからすぐに振られるんじゃないの?」
「すぐに振られると言う所は否定しませんが……、別にこのままで不自由はしていませんから」
「はいはい、勝手に言ってれば? さっさと次の餌を付けて」
「はい、もう済みましたからどうぞ」
 淡々とそんなやり取りをしている二人を見て、清香は頭を抱えた。


「何? 真澄さんって、お兄ちゃんが色々な女性と付き合ってる事知ってるの?」
「……そうみたいだね」
 真っ当な交際とは言い難い兄の所業をとてもそのまま清香に告げる事はできず、かと言って全くの嘘を吐く事もできなかった聡は、「これまで付き合っている人が、切れ目無く居たらしい」とだけ告げていたが、それでも清香にとっては衝撃だった上、それを既に真澄が把握済みだったらしい事に地味にダメージを受けたらしかった。


「うぅ……、真澄さんは、お兄ちゃんのそんな女性関係が嫌なのかしら?」
「それは何とも言えないけど……」
 コソコソと囁き合う二人だったが、その場で結論が出る筈も無く、取り敢えず引き続き観察しようと言う事で、取り敢えず話が纏まったのだった。



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