夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第10話 彼女の怒りのツボ

 離着陸する白い機体が映える、晴れ渡った青空が眩しい八月下旬の羽田空港第一ターミナルビル。そこの出発ロビーで待ち合わせをしていた男女が、互いに相手を認めてスーツケース片手に爽やかに朝の挨拶を交わしていた。


「おはよう、清人君。良いお天気で良かったわね」
「おはようございます、真澄さん。本当にこれ以上は無い位の、旅行日和ですね」
 まずそんな事を口にしてから、清人は幾分気遣わし気に問いかけた。
「ところで……、お忙しそうなのに、五日も休んで大丈夫なんですか?」
「平気よ。実はお盆期間も色々駆り出されて休みが取れなくて、遅れて休みを取ったの。何かあったら部下に対応させるわ。大抵の事なら任せる位じゃないと、下が育たないしね」
「それはそうでしょうね」
 平然と言い返した後、真澄も若干首を傾げつつ尋ねる。


「そっちこそ、それなりに色々忙しいんじゃないの? 本業はともかく、今色々重なってて一部値動きが激しいみたいだし」
 真澄の抽象的な物言いにも問い返す様な事はせず、清人は淡々と答えた。
「文明の利器をフル稼働させて対応してますし、五日で粗方捨てる羽目になるほど、甲斐性無しでは無いつもりですよ?」
「あら、それなら良かったわ」
 それから楽し気に世間話に突入した二人を、同じ様に待ち合わせをして合流した他の面々は、何メートルか離れた場所から複雑極まりない表情で観察していた。


「……爽やかな顔で笑ってるな、真澄さん」
「だけど本当に、姉貴が参加してくれて、助かったよな~」
「…………二課の連中に、廊下で捕まって泣き付かれたけどな」
 ボソッと呟いた浩一の言葉に、玲二が疑問を発した。
「え? 兄貴、どういう意味?」
「いや、何も……」
 しかし浩一はそれ以上何も言わず、姉達からも弟からも視線を逸らし、どこか遠い目をした。そんな浩一には構わず、明良がしみじみと言い出す。


「でも清人さんも良く参加したよな」
「ホント、清香ちゃんの話では、最初あまり乗り気で無かったらしいのに。仕事が忙しく無くて良かったよ」
「忙しく無い?」
 正彦が他の皆に同意を求めた所で、今度は恭子が静かに口を挟んできた。その口調に何となくこれまでとは違う物を感じた正彦が不思議そうに尋ねる。


「あれ? 川島さん、違うの?」
 その問いかけに、恭子は「うふふ……」と若干不気味な笑みを見せてから、淡々と付け加えた。
「ええ、先生は忙しくないでしょうね。昨夜も『俺は十時には寝るから時間が無い。朝までにこれを終わらせておいてくれ』と先生の声を吹きこんだ録音データを渡されて、朝の四時までかかってそれを文章に起こしての入力作業を私が終わらせましたし」
「……ご苦労様です」
 思わず神妙に頭を下げた正彦にも気付かない様子で、恭子は床を見下ろしながらブツブツと独り事を漏らした。


「ふ、ふふ……。ふざけんじゃ無いですよ。こうなったら徹底的にこの旅行を利用して、小金を稼いでやろうじゃないですか……」
  そんな事を呟きながら何やら考えを巡らせているらしい恭子から、他の男達は揃ってジリジリと何歩か離れた。そして本人には聞こえない程度の声で、囁き合う。


「兄貴……、何か川島さんの笑顔が怖いんだけど」
「何だが黒いオーラが滲み出てるな」
「……ちょっとした睡眠不足だろう。気にするな」
「だが……、流石に清人さんの下で働いているだけあるな」
「ああ、大人しい感じの美人ってだけじゃ無さそうだ……」
 そんな事を囁き合っていると、トイレに行っていた清香が、戻る途中で出くわした聡と一緒にやって来た。


「おはようございます。宜しくお願いします」
「ああ、おはよう」
「神経が擦り切れない様に頑張れよ?」
 聡が神妙に男達に向かって頭を下げると、当然の如く彼らが聡を弄り始めた。そんな微妙に顔を引き攣らせている聡に、恭子が唐突に声をかける。


「聡さん、ちょっと清香ちゃんに話があるので、彼女をお借りして構いませんか?」
「え? はい、どうぞ……」
「すみません。ではちょっと失礼します。清香ちゃん、こっちに」
「えっと……、はい」
 取り敢えず清人達からも浩一達からも数メートル離れた場所に連れて行かれてから、清香は不思議そうに恭子を見返した。


「恭子さん、どうかしたの?」
 その当然の疑問に、恭子が怖い位真面目な顔で言い出す。
「清香ちゃん、今回の旅行の目的は、真澄さんと先生の真意を暴く事だけど、あの二人の事だから、そうそう簡単に面に出すとは思えないのよね」
「それは私も同意見です。恭子さん、何か良い考えは無いですか?」
 真摯に訴える清香に対し、恭子は些か人の悪い笑みを浮かべつつ、口を開く。


「……実は一つ、思い付いた事があるんだけど」
「何ですか? 教えて下さい!」
 早速喰い付いた清香に、恭子は苦労して笑みを引っ込めながら、淡々と告げた。
「清香ちゃん、旅行中、先生の前で聡さんとイチャイチャして」
「……はい?」
 目が点になった清香に、恭子が続けて言い聞かせる。


「それを見たら独り身の先生が物寂しくなって、自分も恋人や奥さんが欲しいなと思わず考えて、自分も好きな人に真面目にアプローチしてみようかと思うかもしれないじゃない?」
「なるほど、それは一理あるかも……。って! い、いえ、あのですねっ! だからってお兄ちゃんの前でイチャイチャだなんて! 聡さんと二人っきりの時でも、相当恥ずかしいのに!」
 うっかり頷きかけてから顔を赤くして動揺し、両手をわさわさと振りながらうろたえる清香を、恭子は生温かい目で見守った。


「……清香ちゃんも二十歳を過ぎたから、現実を直視させる為に敢えて厳しい事を言わせて貰うけど、今清香ちゃんが頭の中でイメージしてる『イチャイチャしてる光景』って、世間一般的に見たら何でもない事よ?」
「ふ、ふえっ!? じゃ、じゃあ恭子さんが言う『イチャイチャ』ってどんな事なんですか?」
「ちょっと耳を貸して貰える?」
「……はい」
 にっこりと笑った恭子に清香が思わず素直に耳を向けると、恭子はボソボソと囁いた。しかし一分も経たないうちに、清香が真っ赤な顔で恭子の側から飛びのいた。


「ききき恭子さんっ! 無理無理無理絶対無理ぃ~っ!!」
 体の前で両手を組みつつ訴える清香に、恭子は苦笑しながら言い聞かせた。
「ええ、勿論そう言うだろうと思ってたから、もう少しレベルを下げた内容をレクチャーしてあげるから」
「レベルを下げても、聡さんがお兄ちゃんの怒りを買って報復されるんじゃ……」
「その可能性は有るわね」
「そんな!」
 頭に浮かんだ懸念を口にした途端肯定された為、流石に清香は顔色を変えたが、恭子は真面目に言い諭した。


「だけど清香ちゃん、良く考えてみて。聡さんは何の為にこの旅行に参加してるの? 清香ちゃんに協力して、先生の本心を確認した上であわよくば二人の仲を取り持とうとしてるんでしょう」
「それは、そうですけど……」
「聡さんはお兄さんである先生の為に一肌脱いでも良いと思ってるんだから、多少嫌がらせされる位、覚悟の上でしょう。清香ちゃんに下手に庇われたりしたら、そんな聡さんの覚悟とプライドを、却って挫く事にならないかしら?」
 微妙に論点をすり替えつつ恭子が説得を試みると、少しだけ清香は難しい顔で考え込んだが、恭子に向かって力強く頷いてみせた。


「……分かりました、やってみます。それで具体的にはどんな事をすれば良いですか?」
「そうね。例えば……」
 そこでまたボソボソと話し込んでいると、流石に怪訝に思った清人と真澄が連れ立って二人の所にやって来た。


「清香ちゃん、恭子さん? こんな所でどうしたの?」
「いつまで話し込んでるんだ?」
 声をかけられた事を契機に、恭子は清香から少し離れてお愛想笑いを振り撒いた。
「すみません、先生、ちょっと女同士の話をしてまして。今終わりましたから。ねえ、清香ちゃん」
「は、はい……」
 微妙な顔付きの清香に清人は一瞬怪訝な表情を見せたが、口に出しては何も言わなかった。そして同様に一か所に固まっていた面々に、恭子が声をかける。


「それでは全員揃いましたし、搭乗手続きに行きましょうか」
「そうだな」
「じゃあ行きましょう?」
「ああ」
「行こうか」
 そうして全員でゾロゾロとカウンターに向かって歩き出したのを受けて、清香は一人密かに自分自身に喝を入れた。


(うぅ……、こんな人前で恥ずかしいけど、これもお兄ちゃんと真澄さんの為よ!)
 そう自分自身に言い聞かせつつ、清香は浩一から預かって自分のスーツケースを持っていた聡に走り寄り、その胸に勢い良く抱き付いた。
「聡さん、お待たせっ! さあ、行きましょう!」
「…………っ!」
 ひくっと顔を強張らせた聡だったが、他の面々も清香の行動を見て微妙に表情を変えた。


「一人で待たせててごめんなさい。寂しかった?」
「い、いや、別に五分やそこらだったし別に寂しくは……」
 未だ抱きつかれつつ、可愛らしく小首を傾げて尋ねられた聡が、動揺しながらも何でもなかった事の様に告げると、清香は予想外の反応を示した。
「えぇ? そうなの? 酷い! 聡さんが寂しがってると思って、恭子さんとの話を急いで切り上げたのに!」
「そ、そうなんだ、ごめんね? 無神経な言い方をして」
 拗ねた様な素振りを見せた清香に聡が慌てて弁解すると、清香はにっこり笑って聡の体に回していた腕を解いた。それで一瞬聡は安堵したものの、すぐに清香に左腕を絡め取られ、胸に抱き込むようにして指を絡めて握られた為、常にはしてこない恋人の積極的な行動に、咄嗟に反応できなくなる。


「……あの、清香、さん?」
 そんな聡の動揺を知ってか知らずか、清香はサクサクと話を進めた。
「本当に反省してね? せっかく一緒に旅行するんだから、恭子さんに隣同士の席を頼んであるし、機内でじっくり話しましょう?」
「話って?」
「まずは聡さんのスーツ姿も好きだけど、私服姿もやっぱり素敵で惚れ直した、とか?」
「…………っ!」
 相変わらず腕を絡めたまま、僅かに頬をピンク色に染めて自分を見上げて来る清香に、聡は本気で変な動悸と眩暈を覚えた。


(いきなり何を言い出すんだ彼女は! と言うか、この密着具合はっ! 普段なら間違ってもこんな事言ったりしたりしないのに! ちょっと待て、落ち着け、俺! 本気で怒らせたら、最凶な人物がすぐ後ろにっ!)
(うぅぅ……、恥ずかしい。こんなに自分からぴったりくっ付いた事なんか無いのに。しかもお兄ちゃんや皆の前でなんて、一体どんな羞恥プレイ……。でも、お兄ちゃんが思わず寂しくなって、真剣に結婚を考えてくれる様に頑張るから!)
 違った意味で色々必死、かつ限界ギリギリの二人を、年上連中は生温かい目で見やった。


「う~わ~、初っ端から飛ばしてんな~。若いね~」
「あれ位で赤くなって、可愛いよな~清香ちゃん」
「俺は寧ろ聡君に同情するな。付き合い始めて何ヶ月目だ?」
「あれであれだけ固まってるって事は、手を出してないどころか、下手したら指一本触れてない感じだし……」
「あの清人さんとあの清香ちゃん相手なら、仕方が無いと思うが」
 もう完璧に面白がってニヤニヤしている従兄達だったが、足を止めて振り返った真澄は、そんな二人の様子を見て黙って眉を顰めた。そして徐に行動を起こす。


「………………」
「……真澄さん?」
 何故か右足のサンダルを脱いでそれを手にした真澄は、怪訝な顔をした清人の前で大きく振りかぶったかと思うと、勢い良く前方に向かって投げた。


「げ!?」
「ちょっと……」
「何を!」
 驚く男達の目の前で一直線に飛んで行ったそれは、些かもスピードが落ちる事無く、聡の後頭部に激突した。
「……つっ!!」
「え? 聡さん!?」
 丁度先端の幾分尖った部分が激突したらしく、突如発生した痛みに思わず聡がその場にしゃがみ込み、清香も驚いて座り込んで顔を覗き込んだ。そんな二人に向かって、少し離れた所から、白々し過ぎる声がかけられる。


「……あぁら、ごめんなさい? 慣れないサンダルなんか履いてたから、すっぽ抜けて飛んで行っちゃって。怪我は無いわよね? 鉄パイプが激突したわけじゃ無いんだから」
 そう言ってコロコロと小さく笑う気配に、後頭部を押さえつつ聡が心の中で毒吐いた。
(脱げただけで、こんなもの凄い勢いで激突するかよっ!)
 そこで文句を言おうと背後に体を向け、顔を上げた聡だったが、目の前で展開されていた光景に思わず口を閉ざした。


「あのですねっ! 何がどうやったらすっぽ抜け……」
 そう言いかけた聡の視線の先で、清人が真澄の足元で片膝を立てて座り、折って床に付いている自分の左足に、真澄の右足を軽く持ち上げて乗せていた。
「真澄さん、足の裏が汚れますから」
「そうね」
「……は?」
 互いに何でもない事の様に自然に受け答えしている事に、聡は呆気に取られたが、続く清香の行動にも唖然とした。


「清香、早くそれを持って来ないか」
「は~い」
「……って、ちょっと」
 兄に促された清香が、呆然としている聡の傍らに転がっていたサンダルの片方を持って、平然と清人の元に走って行った。そしてそれを受け取った清人が、左足に乗せていた真澄の右足を再び持ち上げ、両手でサンダルを履かせる。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
 そしてゆっくりと立ち上がってから、清人は真澄に僅かに顔を顰めつつ説教し始めた。


「ところで真澄さん。ここは公共の場です。不特定多数の人間が往来している場所で、騒ぎを引き起こすのは御法度です。分かってますね?」
「……分かってるわ」
 僅かに面白く無さそうに視線を逸らしながらも、真澄は頷いた。しかし清人が更に念を押す。
「今後はサンダルが飛んでいかないように、注意して歩いて下さい」
「気をつけます」
「それならもう良いです」
 殊勝に頷いた真澄に、清人も真面目くさって頷いた。それで話が終わった事を悟った聡は、流石にその顔に苛立たしげな表情を浮かべる。


(はあ? 飛んでいったんじゃなくて、投げつけたに決まってるだろうがっ1? 何なんだそれはっ!!)
 その視線を察知したのか、清人は真澄を浩一達に任せ、一人で清香と聡の方にやって来て口を開いた。


「偶々当たっただけだろう? そう目くじらを立てるな」
 素っ気なく言い放った清人に対し、聡は皮肉っぽい視線を返した。
「……へぇ? 偶々、ですか?」
「ああ、偶々だ」
「……そうですね。世の中、時々信じられない事が発生しますからね」
 あくまで偶然である事を崩さない清人に、聡はムッとしながら清香を促してチェックインカウンターに向かって歩き出した。その背中に清人の飄々とした声がかけられる。


「ああ、そうだ。今回の旅行の費用だが、最終的に掛かった費用を人数割りして、そのうち二人分をお前に請求するからそのつもりでいろ」
「はあ? どうして二人分……」
 当惑して思わず呟いた聡に、清人が淡々と言い返した。
「お前と清香の分に決まってる。……それとも何か? お前は恋人の旅行費用を払う甲斐性も無いのか?」
 半分馬鹿にする様に謂れ、聡は自分の忍耐度を試されている気分になった。


「……遠慮なく請求して下さい」
「当然だ。じゃあ行くぞ」
 そうして何でもない顔付きで離れて行く兄の背中に、聡は胡乱な目を向けた。


「清香さん……」
「なあに? 聡さん」
「どうして当然の如く、兄さんが自分の分と併せて真澄さんのスーツケースまで運んでるのかな?」
 そう言われて、両手でスルスルと二つのスーツケースを運んで行く清人に目をやった清香は、逆に不思議そうに聡に問い返した。
「いつもそうしてたけど。別におかしく無いでしょう? お兄ちゃんは基本的に女性に優しいし」
 そこで聡は清香に視線を合わせ、並んで歩きながら真顔で問いかけた。


「清香さんは今までに、兄さんに持って貰った事はある?」
「重い物とかは待って貰いましたけど、あまり甘やかし過ぎると駄目だから、自分の身の回りの事は自分でしなさいって言われて、ちゃんと自分で運んでましたよ?」
「……それ、おかしいと思わない?」
「おかしいって、何がですか?」
 キョトンとして再び問い返して来た清香に、聡はがっくりと肩を落とした。
 そしていつの間にかカウンター前で列を作っていた面々に追い付いた為、さり気なく隣の列に並んでいる真澄と清人を見ながら小声で尋ねてみる。


「皆さんはどう思いますか? 兄さんがいつも真澄さんの荷物を運んでいる事について」
 しかし一同の反応は、清香と大して変わらなかった。
「どうって、何が?」
「相変わらずマメだよな」
「うん、フェミニストの鏡」
 正彦、友之、明良に真顔で返され、聡は挫けそうになった。
(これは……、昔からこんな情景を見慣れてて、これが普通だと真面目に思ってるな? こいつら……)
 湧き起こる頭痛と戦いながら、聡はこの場に冷静な判断ができる筈の人間が、もう一人居る事を思い出して声をかけた。


「すみません川島さん、第三者としての感想を一言」
 それに対する恭子の答えは、端的なものだった。
「アホくさっ」
「きょ、恭子さん?」
 普段なら間違ってもしない粗雑な口振りに、聡達に加えて清香までギョッとしたが、恭子は深々とした溜息を履いてから、如何にも呆れた口調で話を続けた。


「これまで個別に付き合いは有りましたが、今回先生と真澄さんがプライベートで一緒に居るのを初めて見ました。だけど……、あれを見たら、あのろくでもない女遍歴ファイルに載ってる女性達は、揃って憤死しますね」
「あのファイルのって……、どういう意味ですか?」
 言わずと知れた兄の不行状の記録を持ち出され、思わず聡は顔を引き攣らせて尋ねると、恭子がキッパリと言い切る。


「基本的に先生は女性に優しいですが、間違っても率先して世話を焼いたりしませんよ? 加えてデート代とか旅行代とかは全額持ちますが、装飾品はおろかどんな小物でも、後に残る様な物は贈ったりはしません。だから逆にあのしまい込んでる箱に驚きましたし」
(それって……、以前聞いた隠してあるプレゼントの事を言ってるんだよな?)
 思わず自問自答した聡の前から、正彦と友之の質問の声が上がった。


「川島さん、一つ質問が。どうして清人さんの女性に対する行動パターンを知ってるのかな?」
「そうそう、男女関係は無いって言ってた割には、嫉妬でもして尾行でもした様な口振りじゃない?」
 その問いに、ふっとどこかやさぐれた笑みを浮かべてから、恭子が皮肉っぽく告げた。
「何回か、作品の参考にするから、自分のデートを尾行して相手の行動を詳細に観察してくれと言いつけられましたから。流石にベッドの中までマイクを仕掛ける様な真似はしませんでしたが……。あのろくでもないファイルといい、涼しい顔してとんだど腐れ野郎だわ」
「…………」
 最後は我を忘れて吐き捨てた様な恭子に、誰もこれ以上追及の言葉をかけなかった。しかしここで引っ掛かりを覚えたらしい清香が、おずおずと口を開く。


「あの……恭子さん? 女遍歴ファイルって何の事?」
 そこで(しまった……)と一瞬その顔に動揺を浮かべたものの、瞬時にそれを押し隠して真顔になった恭子は、清香の両肩を掴んで静かに言い聞かせた。


「……清香ちゃん。世の中には知らなくちゃいけない事がたくさんあるけど、知らない方が良い事も一杯あるのよ」
「え、えっと……」
「どうしても知りたかったら、内容を知ってる聡さんに聞いて? 清香ちゃんの先生像を壊したくないし…………、何より命が惜しいわ。じゃあ、私、次だから」
 戸惑っている間に恭子がさっさと話を切り上げ、カウンターに向かった為、清香は傍らの聡を睨み上げた。


「……聡さん?」
「いや、本当に何も! な、何の事やらさっぱり!」
 間違っても詳細を告げる事などできない聡は冷や汗を流しながら何とか誤魔化そうとしたが、清香は益々疑わし気な視線を向けた。
「そんなに私に言えない事?」
「言えないと言うか、言いにくいと言うか……」
 恭子の説明と聡の態度から、問題となっている物がどんな代物かを薄々察してしまった正彦、友之、明良の三人は、そんな一見じゃれ合って見える二人を、黙って遠巻きにして見守ったのだった。


 そうして搭乗手続きを終え、セキュリティーチェックを抜けてゲートラウンジに入った二人が、相変わらず揉めながら歩いているのを見て、先に座って珈琲を飲んでいた真澄がしみじみと感想を述べた。
「……本当に仲が良いわね、あの二人」
「そうですね…………」
 隣で雑誌から目を上げず、淡々と相槌を打った清人を見てから、真澄は静かに立ち上がった。


「ヘラヘラ話してて喉が渇いたと思うし、ちょっと奢ってくるわ」
「どうぞお好きな様に」
 横のテーブルに置かれた紙コップに注意を向けてから、清人は複雑な表情で真澄を見送った。
 そして真澄は軽食コーナーで珈琲を二つ注文し、待つ間カウンターの傍らに置いてある物に目をやっていたが、出されたカップを受け取ってからそれを抱えてカウンターの隅に行き、片方のカップに細工を施した。その一連の動作を見ていたカウンター内の人間は目を丸くしていたが、そんな視線は気にも止めず、両手にカップを持って清香と聡の元に歩み寄る。


「こら、二人とも、話に夢中なのは分かるけど、こんな人目のある所で痴話喧嘩なんて止しなさいね?」
「ち、痴話喧嘩なんてものじゃ……」
「いえ、ご心配頂く程の事では……」
 にこりと愛想良く笑いかけた真澄に、清香は途端に照れながら、聡は一気に緊張を増しながら応えたが、真澄は穏やかな笑顔のまま手にしていた珈琲を二人に差し出した。


「これでも飲んで気持ちを落ち着かせて。搭乗開始までもう少しあるから」
「はい……」
「いただきます」
「それじゃあね」
 素直に二人が受け取ると、真澄は終始にこやかに話しかけて歩き去って行った。それを見送って、聡が内心首を捻る。
(何なんだ? さっきのはどう考えてもわざとだが、偶々機嫌が悪かっただけなのか? 全く傍迷惑な女性だな……)
 何となく釈然としないながらも、これ以上面と向かって文句を言うわけにもいかず、聡は黙り込んだ。そんな聡の様子を見て、取り成す様に清香が声をかける。


「じゃあせっかくだから、座って飲みましょうか?」
「そうだね」
 そうしてカップ片手に並んで座ると、清香がしみじみと言い出した。
「う~ん、お兄ちゃんが真澄さんの世話を焼くのは昔からだったから、聡さんに指摘されるまで、全然気にも止めなかったなぁ……」
「……そうみたいだね」
 一応相槌を打ちながら、聡はこの状況に呆れかえっていた。


(彼女といい彼女の従兄達といい、感覚が麻痺してるのか? 全く、あれじゃあどこからどう見ても、恋人……っていうのを通り越して、言い方は悪いけど女王と下僕……)
 対象の二人にかなり失礼な事を考えながら、珈琲を飲み下そうとして口に含んだ瞬間、聡は口内に異常を感じた。


「……ぅ、ぐっ!?」
 聡がいきなり変な呻き声を上げ、片手で口許を覆いながら勢い良くテーブルにカップを置いて上半身を折り曲げて丸まった為、清香は驚いて声をかけた。
「ど、どうかしたの? 聡さん!」
 それにすぐには応えず、聡は何秒かしてから真っ青な顔でゆっくりと上半身を起こした。


「い、いや……、ちょっとむせて、コーヒーが気管に入って……」
「大丈夫?」
「うん、なんとか……」
 何となくまだ顔色が悪い聡の背中を、清香が心配そうにさすってくれたが、聡は問題のカップの中身を呆れた様に凝視した。
(何だこれ、塩? しかも相当量入ってないか? 嫌がらせにも程があるぞ。兄さんならいざ知らず、俺に何の恨みが有るって言うんだ!)


 一方、涼しい顔をして戻って来た真澄の背後で、何やら聡に異常が発生した事を見て取った清人は、深い溜息を吐いてから、再び座った真澄に先程の珈琲を取り上げて渡した。
「どうぞ」
「ありがとう」
 そうして何事も無かったかの様に、再び紙コップに口を付けた真澄に、清人が疲れた様に確認を入れる。


「……今度は何をしたんですか?」
 それに真澄は、悪びれずに答えた。
「大した事はしてないわ。スタンドに有った塩の小瓶の蓋を開けて、中身を全部カップの中にぶちまけてさっとかき混ぜただけよ」
「……真澄さん」
 半ば呻いた清人に向かって、真澄は平然と主張を繰り出した。


「飲めばすぐ気が付くんだから、大して害は無いでしょう? 本気で危害を加える気だったら下剤にするとか、もう少し気付かれ難い方法にするわ」
 堂々とそんな事を言い切られた清人は、一瞬窘めかけてから質問を変えた。


「どうしてそんなにあいつを嫌うんですか? 今までは直接仕掛けたりしなかったでしょう。小笠原へのあれだって、当初貴女は反対してましたし」
 その問いに真澄は視線を逸らしてから、弁解がましく口にした。
「別に……、知らない所でなら何をしても構わなし、気にもしないけど、目の前で私の清香ちゃんに纏わり付かれるのが、気に入らないだけよ」
「それだけですか?」
「それだけよ」
「そうですか……」
 僅かに眉を寄せた清人だったがそれ以上は何も言わず、少し離れた場所に居る清香と聡に一瞬気遣わしげな視線を送っただけに止めた。



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