夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第1話 ブラコン娘の懸念

 梅雨の時期にも関わらず、珍しく晴れ渡ったある日。
 三十二回目の誕生日を迎えた清人の為に、異母妹の清香は昼過ぎから台所で奮闘し、夕刻迄に品数・内容共に満足のいく料理を作り上げた。
 味見をしてその出来映えに充分満足した清香が、手際良く食卓に皿を並べ、仕事中の清人に食事の支度が整った事を告げると、机から離れた彼がリビングに現れ、促されてテーブルに着く。


「お誕生日おめでとう、お兄ちゃん」
「ありがとう、清香」
「お兄ちゃんには負けるだろうけど、今日の夕食は私が腕によりをかけて作ったから、食べてみてね?」
「じゃあ遠慮無く、いただきます」
「はい、どうぞ」
 両者とも笑顔でそんな会話を交わしてから、清人は箸を伸ばして皿の中身を味わい始めた。そして幾らもしないうちに、正面に座る清香に、満面の笑みで感想を告げる。


「うん、美味い。随分料理の腕を上げたな、清香」
「本当? お世辞じゃなくて、本当にそう思ってる?」
 誉め言葉にすっかり嬉しくなった清香が念を押して尋ねると、清人は笑って付け加えた。


「勿論だ。ジャガイモの皮を剥くだけで、ザクザク指を切ってたあの清香が、こんなに料理ができる様になるなんて、本当に感慨深いな」
「もう! それ、いつの話よ! お兄ちゃんったら失礼よ?」
 笑いながら幾分拗ねた様に文句を言った清香に、清人も苦笑いで返す。
「悪い。だが本当に、これならいつでも嫁に行ける……」
 しかし清人は何を思ったのか、そこでいきなり口を閉ざし、箸置きに箸を置いて真顔で考え込み始めた。その為。清香は怪訝そうに相手を見やる。


「お兄ちゃん、どうかしたの? 急に黙って」
 その問い掛けに、清人は「ふっ……」と皮肉気に息を吐き出しながら、俯き加減のまま、どこかやさぐれた口調で呟いた。
「俺はあと何回、こんな風に清香に誕生日を祝って貰えるんだろうな……」
「はぁ? 何回でも祝うつもりだけど? いきなり、何変な事を言ってるのよ、お兄ちゃんったら」
 呆れた口調で言い返した清香に、清人がゆっくりと顔を上げ、半分自分に言い聞かせる様に淡々と告げる。


「まあ、あと何年かは、大丈夫だろうな。あいつは今の所、物分かりの良い彼氏を演じているから」
「『あいつ』って、聡さんの事? だけど『演じてる』って、お兄ちゃん。そんな言い方は……」
 無意識のうちに眉をしかめ、窘める口調になった清香に、清人は真顔で自論を展開した。


「いや、俺には分かる。あいつは一見、人畜無害な好青年だが、本当の所は相当独占欲が強くて嫉妬深くて容赦無くて、いざとなったら手段を選ばない奴だ」
 真剣な顔で、自分を正面から見据えながら断言した清人に、清香は僅かに顔を引き攣らせた。


「あの、お兄ちゃん?」
 清香は(それ、自分の事じゃない?)とは思ったものの、そうはっきり告げた場合に傷付くかもと兄を慮っていると、清人がきっぱりと断言した。


「お前達は付き合い出したばかりだから、特に目立つ様な事は何も仕掛けては来ないが、もしお前と婚約したり結婚したら、なんだかんだと理由を付けて、俺の所にお前を寄越さない様に手を打つに決まっている」
「……あのね」
 溜息と共に(何、その被害妄想。お兄ちゃんじゃあるまいし)などと言う言葉を、何とか飲み込んだ清香に、清人の訴えが続く。


「だから清香、お前もまだ学生だし卒業までは当然だが、後十年位、結婚しなくて構わないぞ?」
「はあ?」
 いきなり飛んだ話に、清香が呆れた様に戸惑いの声を上げたが、清人はすこぶる真面目な口調で続けた。


「いや、寧ろそうしろ。それ位交際期間を置けば、あいつのろくでもない所が、徐々に分かってくる筈だ。結婚はそれから考えても遅くは無い。今は晩婚化が顕著だからな」
「お兄ちゃん、ちょっと落ち着いて」
「清香だって以前、『結婚出来なかったら、二人で老後を過ごそうね』と、言ってくれただろう?」
 真顔で同意を迫った清人に、清香が一応頷いて見せる。


「……以前、言ったわね。確かに」
 するとそれで力を得た様に、清人が更に口調を強めて断言した。
「だろう? だから結婚は、あと十年か二十年かけて、ゆっくり考えれば良い。俺はお前の経歴に、傷を付けたくは無いからな」
「…………」
 堂々とそんな主張を繰り出して、幾分安心した様に食事を再開した清人を、清香は割と冷静に、呆れと憐れみが混ざった表情で眺めやった。


 ※※※


 佐竹兄妹の間でそんなやり取りがあってから、五日程経過した週末。清香は小笠原邸を訪れていた。
 聡と付き合い初めてからの時間は短いものの、聡の母である由紀子は清人の生き別れの母でもあり、清人と由紀子間の行き来は未だに途絶えているものの、関係性を公にしてからは由紀子は清香の事を実の娘の様に可愛がっていた。加えてその夫である勝も、妻同様に清香を気に入っており、既に清香とは家族ぐるみの付き合いの為、清香も小笠原家では、プライベートなあれこれを結構気安く口にする様になっていた。


「と言う事を、お兄ちゃんったら、終始真顔で言ってのけたんです。私がお兄ちゃんのお誕生日を祝うのを、聡さんが妨害するだなんて、被害妄想も甚だしいですよね?」
 世間話の一つとして、お茶を飲みながら清人の誕生日ディナーでの一部始終を語って聞かせた清香は、話し終えてから疲れた様に溜め息を吐いてみせたが、それに対する他の三人の反応は、実に微妙な代物だった。


「…………」
「は、はは。俺は兄さんに、一体どんな人間だと思われているんだろうね?」
 勝と由紀子の夫婦は(何と言っても兄弟だし、聡ならやりかねないかも)と、無言で息子に生温かい眼差しを向け、聡は聡で乾いた笑いを零した。するとそれに頷いた清香が、とんでもない事を言い出す。


「全くです。何だかお兄ちゃんが、最近情緒不安定っぽくて、ちょっと心配なんです。あと『十年や二十年、結婚なんかしなくて良い』なんて言い出すし」
 その内容に、流石に聡は慌てて問いかけた。


「ちょ……、何!? その『十年二十年』って?」
「それ位、交際期間をおけば、聡さんのろくでもない所が分かるからって言うんです」
「……へぇ」
(あの人は……、流石にあっさり認めてくれるとは、思っていなかったが)
 真顔で語る清香に、聡は歯軋りしたい気持ちを何とか抑えつつ心の中で呻いたが、続く清香の台詞に思わず動揺した。


「それで、そんな事を言われてしまったものだから、私も色々と考えてしまって……」
「え? 考えたって何を? まさか一生独身のまま、兄さんと一緒に居るって訳じゃ無いよね!?」
 慌てて真意を問い質した聡に、清香は急にもじもじとしながら言い出した。


「そうじゃなくて……。付き合い出したばかりなので、私としては正直まだ実感は無いですし、学生でもあるので、まだまだ先の話としか思っていないんですけど……。その、聡さんは、ゆくゆくは私と結婚する事を、前提に考えていると言ってましたし……」
「ああ、うん。それは勿論、俺は今でもそのつもりだけど……」
 これまで清人によって言い寄る男が悉く粉砕されて来た為に、恋愛経験値がゼロに等しい清香に対し、交際を始めてもすぐに大して進展は望めない事は、百も承知していた聡としては、長期戦を覚悟してこの間それなりの対応をしていた。その為、顔を赤くしながら述べた清香に釣られた様に、聡も僅かに照れた様に応じる。
 テーブルを挟んで、彼らの向かい側に座っていた勝と由紀子が、そんな二人を笑いを堪えながら微笑ましく見守っていると、ここで清香が急に表情を曇らせながら、懸念らしきものを口にした。


「それで、私が聡さんと結婚したら、お兄ちゃんが一人になってしまうから、大丈夫かと思いまして……」
「清香さん? 何も心配する事は無いんじゃないかな?」
「清人は家事一切をこなして、あなたの面倒を見ていた位でしょう?」
 ここで首を傾げつつ、不思議そうに口を挟んできた勝と由紀子に、清香は先ほどの自分の台詞についての説明を加えた。


「いえ、そういう意味では無くて、お兄ちゃんはこれまで私を構い倒す事を生き甲斐にしていた面があるので、その私が居なくなったら気落ちして、精神面でのダメージが、酷いのではないかと思いまして……」
「それは言えるな……」
「確かに、ダメージは大きいかもしれないわね……」
 そう言われた二人は思わず真剣な顔で考え込み、清香は続けて訴えた。


「お兄ちゃんに限って、まさかとは思いますが、正常な判断力を無くした挙げ句、ヤケになって変な作品を発表して文壇を追われたり、諸悪の根源と聡さんを逆恨みして、刃物で切りかかったり、この世に絶望してうっかり首を吊ったりとかしないかと考え始めたら、一睡も出来なくなってしまいまして……」
(如何にもありえそうで、とても笑って否定できない)
 途端に室内が静まり返ってしまった為、自分の顔を凝視して黙ってしまった三人の顔を見回しながら、清香がじわりと目に涙を浮かべて訴えた。


「どうして、皆さん黙り込んでるんですか? 盛大に笑い飛ばして、否定して欲しかったのに……」
 傷付いた様に俯き、清香が今にも泣き出しそうな気配を醸し出し始めた為、他の三人は慌ててその場を取り繕おうと試みた。


「あのっ! ごめん、清香さん! 今のは、別に肯定したわけじゃないから! あの兄さんに限って、そんな心配は無用だし!」
「いや、本当に、作家の妹さんは流石に想像力が豊かだと、うっかり感心してしまってね」
「そうよ? そんな風に心配するなんて、清香さんはとても清人の事を大事に思っているんだなと思って、つい次の言葉が出なかったの」
「そうですか? それなら良いんですけど」
 各人必死の弁解に、まだなんとなく納得しかねる風情で応じた清香だったが、取り敢えず話を進める事にした。


「それで……、そんな事を色々考えているうちに、お兄ちゃんが未だに独身なのが、一番の問題なんじゃないかと思ったんです」
「はぁ?」
 予想外の話の流れに、聡は思わず戸惑った声を上げたが、清香が聡の方に顔を向けながら、真剣な口調で言葉を継いだ。


「だってお兄ちゃんは、この前三十二歳になったんですよ? 年齢から言っても、とっくに結婚してておかしくないのに、あれだけ格好良くて稼ぎも充分で頭も切れるお兄ちゃんが、今まで結婚出来なかったのは、小姑の私が引っ付いて居たからだろうなと思って……」
 そこで深刻極まりない顔で俯いた清香だったが、他の三人は揃って心の中で突っ込みを入れた。


(出来なかったと言うより、単にする気が無かっただけでは? 確かに清香さんのせいと言えば、そうなのかもしれないけど。しかも兄を誉めちぎる、ブラコンぶりは相変わらずだし)
 そんな事とは露知らず、清香の独白っぽい訴えが続く。


「以前、私が手のかかるうちは結婚は考えていないとか言っていましたし、ひょっとしたら過去に付き合ってた女性から、妹と同居なんて嫌だとか言われ、て振られたりしたんじゃ無いかと……」
「いや、それはどうかな?」
「気のせいだと思うわよ?」
「単に、縁が無かっただけだよ」
 話しているうちに再び涙ぐんできた清香を、三人が口々に宥めると、清香は気を取り直した様に顔を上げて言い切った。


「私も成人しましたし、もう自分の事は自分で充分対処できますので、兄に心置きなく結婚して欲しいんです。そうすれば自然と奥さんや子供優先になりますから、私の事は二の次三の次になって、私が結婚しても寂しい云々なんて気にする筈無いと思いますし。……それはそれで、正直ちょっと寂しい気もしますが」
「なるほど……、言われてみればその通りだな」
「清人も、とっくに結婚していておかしくない年齢ですものね」
「でも清香さん。兄さんは今現在、付き合っている女性とか居るのかな?」
 最後はちょっと苦笑いの風情で告げた清香に、勝と由紀子が小さく笑って同意を示すと、聡が素朴な疑問を呈した。すると清香は僅かに顔を歪め、深い溜め息を吐いて応じる。


「それが、一番の問題なんですよね。お兄ちゃんに尋ねると、女性とはそれなりに付き合ってはいるとは言っていますが、具体的な話になると、いつもはぐらかされて……。妹相手に交際相手の女性について、あれこれ話す兄は居ないだろうって言うんです」
「まあ、それは確かに……」
「妹相手には、言いにくい事かもしれないわ」
 勝と由紀子が思わず相槌を打ったところで、清香は聡の方に向き直り、口調を変えて訴えた。


「だから、ここは一つ聡さんに、お兄ちゃんと男同士の話をして欲しいの!」
「え、えぇ? ちょっと待って清香さん! それは一体どういう事?」
 いきなり両手で自分の手を取って懇願してきた清香に、聡は本気で狼狽した。それに清香が嬉々として答える。


「だって恋バナで盛り上がると言ったら、やっぱり同性同士ででしょう? だから妹には言えなくても、弟には意外と気さくに話してくれるかもと思って」
「いや、それはちょっと」
「あと……、お兄ちゃんは聡さんとは異父兄弟の間柄って認めたものの、長年離れて暮らしていたから、未だに二人の間の空気がどことなくぎこちなくて、打ち解けているとは言い難いでしょう?」
 続けてしんみりとそう話した清香に、聡は一人心の中で呻く。


(それは……、兄弟関係を認める認めないの話じゃなくて、兄さんにしてみれば、単に俺が清香さんに近付いてるのが面白く無いだけだから)
「だから、この際男同士で過去の恋バナで盛り上がったら、親近感も一気に深まるんじゃないかなぁって思って」
 そんなとんでもない内容を告げられて、聡の顔は盛大に引き攣った。


(そんな……、うっかり過去の女性遍歴を兄さん相手に告白しようものなら、即刻清香さんに筒抜けになるか、それをネタに脅されるかのどちらかしか無いだろう!?)
 聡の内心での激しい動揺に気が付かないまま、清香は更なる要求を繰り出した。


「それでそのついでに、さり気なくお兄ちゃんの好みの女性のタイプを聞き出してくれれば、一石二鳥だなって考えたの。傾向が分からなければ、対策の練りようが無いでしょう?」
「それは、確かにそうかもしれないけど……」
「ねえ、聡さんお願い、この通り! 何とかお兄ちゃんから、好みの女性のタイプを聞き出して貰えない?」
「いや、それは……」
 未だに自分の手を両手で握り締めつつ、頭を下げて拝むように懇願してきた清香を見て聡は困惑したが、向かい側に座る両親からも(清香さんがこんなに頼んでいるのに、お前はそれ位何とかできんのか?)という父親からの責める視線と、(お願いだから清人の為にも、何とか聞き出してみてくれない?)という母親からの哀願の視線を受け、色々諦めて頷いた。


「……分かった。何とかやってみる」
 そう呟いた途端、清香が心底安堵した様に、聡の手を握ったまま満面の笑みを浮かべる。
「良かった! ありがとう聡さん。……あ、それで、お兄ちゃんに今現在、結婚を前提にお付き合いしている人が居なくて、好みのタイプが分かったら、おじさまと由紀子さんにその条件に合うお見合い相手の紹介とかもお願いしたくて。こんな厚かましいお願いは、駄目でしょうか?」
 自分達の方に向き直り、恐縮気味にお伺いを立ててきた清香に向かって、勝と由紀子は破顔一笑して請け負った。


「まあ、清香さん。そんな事、遠慮しなくて良いのよ?」
「そうだとも。家内共々、喜んで協力させて貰うよ?」
 そう言われて、清香が安堵の表情を見せた。


「本当ですか? 良かった、安心しました。柏木のおじさん達にも相談しようとは思っていましたが、なるべく多くの人に声をかけるのに越したことは無いと思ってたので」
 それを聞いた勝は、新年早々柏木側から持ち込まれ、苦労して蹴散らした聡の見合い話の数々を思い出し、苦笑いしながら頷いた。


「ああ、柏木さんはなかなか広い人脈をお持ちだからね。腕によりをかけて清人君の相手を探してくれるだろう」
「勿論、私達もできるだけの事をさせて貰うわ」
「ありがとうございます。やっぱり思い切ってお話しして良かった!」
 それからは和気あいあいと、清人にはどんな相手が相応しいかと言う話題で三人は盛り上がっていたが、それを余所に聡は一人沈鬱な表情で、深い溜め息を吐いていた。


(俺的には、全然宜しく無い状態なんだが……)
 あの一癖も二癖もある、手強過ぎる異父兄相手にどこからどう話を持っていけば良いのやらと、聡は本気で頭を抱える羽目になった。





コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品