circulation ふわふわ砂糖菓子と巡る幸せのお話

弓屋 晶都

第1話 赤い宝石 3.トランド

町を出て三日目。
昼が過ぎようとする頃、ようやくトランドが見えてきた。
遠目に、ぐるりと町を取り囲む城壁と、高い塔をいくつも束ねたような白緑の城に、翻る無数の旗が見える。
ここからでも見えるくらいの旗というのは、相当なサイズなんだろうな。とか、きっと重くて洗濯も大変なんだろうな。などと考えているうちに、遠かった城壁は目の前に迫っている。
町への出入りに簡易的なチェックがあるにはあるが、身分証を提示できれば誰でも通れるため、あってないようなものだった。

三人分の冒険免許を提示して、フォルテの場合は年齢が十五以下なのを確認してもらう。
お役人さんが目の前にかざしている、深緑色をしたカード型のアイテム。
それは、相手が非公開にしていないステータスを見ることが出来るマジックアイテムで、一般的に普及しているものだった。
現に、デュナも一枚所持している。
法的な機関には、相手が非公開設定をしている項目まで見ることができるような物もあるらしいが、私は目にしたことが無い。

フォルテを覗き込んだお役人さんが、首をかしげる。
フォルテは、私のマントの後ろに逃げ込みたいのをぐっと堪えているようで、両手でマントを握りしめたまま、引け腰ではあったが、なんとか、お役人さんの靴元を見ていた。

お役人さん……口元にヒゲを蓄えた、恰幅のいい、というか、ちょっぴりふくよかなおじさんが、その人の良さそうな垂れ目を私に向けた。
「お嬢さん、この子は一体……」
お役人さんの疑問は当然だった。
フォルテのステータスは、年齢・名前・職業以外のほとんどが空欄だからだ。
「この子は、その、記憶喪失なんです……」
ありのままを告げると、おじさんは小さな目を精一杯開いてフォルテを見つめた。
「ほほう……記憶喪失ねぇ……長年門番をしているが、こういうのは初めてだよ」
フォルテを連れてトランドに入るのは、これで3度目だろうか。
前回も、その前もこんな反応だった気がする。
せめて、以前と同じ人に見てもらえばスムーズに通れそうなものなのだが……。
おじさんは、カードをホルダーに戻すと、フォルテに手を伸ばす。
「まだこんなに小さいのに、可哀想になぁ……」
が、その手がフォルテの頭を撫でることはなかった。
その手が伸びきるよりずっと早く、フォルテはマントの裏側へ消えてしまった。
サイドから、ごっそりマントを後ろへ持って行ってくれたフォルテのおかげで、私の首は軽く絞まっている。
「ごっごめんなさい、この子ちょっと人見知りで……」
咳き込みそうなのをこらえつつ、慌ててフォローを入れる。
おじさんは、ほんのちょっと傷ついたようではあったが
「そうだよな、そりゃ右も左も分からない世界じゃ臆病にもなるさ」
と、温かく送り出してくれた。



トランドの町は広い。
巻物の届け先は、きちんと地図が添付されていたが、石の届け先は、彼女のお姉さん『マーキュオリー・クルーガー』の名前のみしか分からなかった。

町の東には彼女の家があるそうだが、そこには居ない可能性が高いと言われてしまったし、では、どこを探せばいいと言うのだろうか。

とりあえずは、目に付いた軽食スタンドで軽く腹ごしらえを済ませてから、マーキュオリーさんについての情報を集めつつ、巻物を届けに行く事になった。


巻物を届け終え、東地区に入ると、あたりはもう夕日の色に染まり始めていた。
マーキュオリーさんの御宅は、誰に聞いても答えてもらえるほどに、立派なお屋敷だった。
なんでも、高名な封印術師のお家なのだそうだ。
町の人によれば、代々続く封印術師の家系という話だったが、そのわりには、レストランで出会った彼女……マーキュオリーさんの妹さんの服装は
封印術師とは程遠いというか、むしろ、召喚術師のようだった気がしないでもない。

まあ、デュナの服装も、スカイの服装も、それぞれの職業に似つかわしいかと聞かれれば、首を横に振らざるをえないわけで、衣装というものはやはり、好みに左右されるところが大きいものだとは思うが。

「でっかい家だなー」
「おっきいねーー」
スカイとフォルテが、似たような仕草で屋敷を見上げている。
私達は、マーキュオリーさんの御宅に……いや、マーキュオリーさんのお宅の、門の前に着いた。
門から玄関までは、まだ数分歩かないといけない気がする。

ぐるりと屋敷一帯を取り囲む石塀に、重たそうな金属製の大きな門。
これは果たして、勝手に開けてしまってもいいものなのか。
それ以前に、押したり引いたりする程度で開く物なのだろうか……。
と、思う間に、スカイがひょいと押し開けてしまったが。
きちんと手入れがされているためか、黒々と塗られた鉄柵のような門は、存外軽い音で動いた。

「へぇ」
スカイが感心しているところを見ると、手ごたえとしてもあまり重くはなかったのだろう。
屋敷自体は全体的に3階建てで、横に広がる形になっていた。
まるで、学校のようだな……と数年前に卒業した校舎を思い出してみる。

見知らぬ人の土地に足を踏み入れるのは、私でも多少不安ではある。
しかも、こんな大きなお屋敷に、呼ばれたわけでもなく、となると、大分心細くなってしまう。
フォルテもやはりそうらしく、マントの後ろに半分隠れるようにしてついてきている。

気持ちはよくわかるのだけど、あまり、後ろに引っ張られると、首が、絞まります。
「フォルテ、手を繋いで行こう?」
声をかけてみるのだが、反応がない、これは随分テンパっているようだ。
スカイがフォルテの傍に回ると、ふいにマントが軽くなった。
一息ついて、前を歩くデュナを見上げる。その向こうに、これまた大きな玄関が近付いている。

振り返ると、フォルテはスカイに抱き上げられていた。
十九歳の青年が十二歳の少女を抱える姿にはとても思えないくらい、フォルテは小柄だった。
かといって、親子に見えるほどスカイも老けてはいなかったが。
夕闇の中で、分かりにくくはあったが、フォルテの顔色が良くないように見える。
「デュナ、ちょっと待って」
引きとめておかないと、どんどん先に行ってしまいそうなデュナに声をかけ、フォルテに近付く。
ぎゅっと身を固くしてしまっているフォルテに、なるべく優しく声をかける。
「フォルテ、どこか痛い? 具合悪いの?」
スカイも心配そうにフォルテを覗き込んでいる。
きっと、私もこんな顔をしているのだろう。
「どこも痛くない……」
ぽつりと返事が返ってくる。
フォルテの視線はまだ下のほうを向いているが、その言葉にひとまず安堵する。
「いっぱい歩いて、疲れちゃった?」
「ううん、大丈夫……」
大丈夫という事もないだろうが、それが原因ではないという事か……。
「何か……嫌なことでもあった?」
先ほど、巻物を届けに行った先での話を思い出す。
巻物の届け先は、なにやら埃っぽい古びた研究所の一室だった。
そこで、民俗学の研究をしているというお爺さんが、フォルテの姿を見て仰った。
ここから遥か東の方に住む少数民族に、フォルテの姿が良く似ていると。

その時のフォルテは、今ひとつピンとこないような顔で首をかしげて私を見上げていただけだったが、やはり、何か思うところがあったのだろうか……。
「ええと……ね」
フォルテが、彷徨わせていた視線をやっと上げる。
目が合って、少しでもその緊張を和らげるべく、微笑みを返した。
「なんかね……怖い……このお家……」
肩の力がどっと抜けるのを感じる。
が、出来る限り表情には出さないように答えた。
「そうだね。私もこんな大きなお屋敷初めてで怖いよ」
「……」
フォルテの瞳が一瞬揺らいだような気がする。
何か返事を間違えただろうか。
「大丈夫大丈夫。取って食われたりはしないって。俺達皆で行くんだし、怖くない怖くない!」
スカイが明るく励ます。
「うん……」
つられて、少しフォルテの表情も弛む。
「ほら、一緒に手を繋いで行こ?」
「うん」
私の差し出した手を握り返して、フォルテがようやくはにかんだように微笑む。
その笑顔に頬擦りしたくなるのをぐっと堪える。人様のお屋敷の前だし。誰が見てるかもわからないし。と自分に言い聞かせて。

スカイがフォルテを降ろすと、そのまま反対の手を取った。
……3人横に並ぶつもりだ、この人……。
それはちょっと……恥ずかしい気がする。
少し離れたところからこちらを窺っていたデュナが、しびれを切らして声をかけてきた。
「もういいー? 呼び鈴鳴らすわよー」
玄関前でそんな大声を出したら、呼び鈴を鳴らすまでもなく誰か出てきそうなものだが、そこはさすがにお屋敷というかなんというか、建物から伝わる人口密度は低そうだった。
あまり、人の気配がしない建物というのは、気味のいいものではない。
こんな風に、薄暗くなってきた中では、尚更だ。

フォルテの手をそっと握り直して、デュナが無遠慮に鈴の紐を引きまくっている玄関の、大きな扉に向き合う。
豪奢な飾りのついた鋳鉄製の呼び鈴は、鳴らし方にも問題があったが、甲高い、耳障りな音を立てている。

この際、横一列に並んでいることについては考えないことにした。


たいして間を置かず、扉が内から開かれる。
中から、メイド服を身につけ、髪を後ろで一つにまとめた女性が顔を出した。
「……ど……」
「こちらに、マーキュオリーさんっていらっしゃるかしら?」
使用人らしき人が何かを言うより早く、デュナが問う。
「……申し訳ありませんが、お嬢様はお仕事で、しばらくお戻りになりません」
気を取り直すように一語一語丁寧に発言する女性の態度は、気のせいか、デュナから会話の主導権を取り戻そうとしているようにも見えた。
「しばらくというのは、具体的にどのくらいなのかしら」
「二週間程になります」
……さすがに二週間もトランドで待ちぼうけというのは難しい。
「行き先は?」
「伺っておりません」
そこまで聞いて、デュナが少し考えるような顔になる。
メガネを軽く押さえて黙り込んでしまったデュナの後ろにいた私と、使用人の女性の目が合った。
「お嬢様にどのようなご用件でしょうか」
にっこりと、穏やかな笑顔。
ほんわかと、笑顔に釣られて答える。
「ええと、届け物を頼まれたんですが……」
「それでしたら、こちらでお預かりいたしましょうか」
有難い申し出を、デュナがきっぱり断った。
「遠慮しとくわ、本人に手渡すよう依頼されたものだから」
あれ、そんな風に頼まれたかな……。
数日前の記憶を呼び戻そうとしていると、急に話題が変わる。
「お客様方、本日のお宿はお決まりですか?」
「うん? まだだよ」
視線が合ったのか、スカイが答える。
あたりは既に夕闇に包まれている。
「よろしければ、こちらでお休みになって下さい」
「え、いいの?」
静かに扉が開かれる。
「お嬢様に、不在時にお客様がいらしたら、丁重に持て成すよう仰せつかっておりますので……」
マーキュオリーさんは、妹さんから誰かが使いに出されることを聞いていたんだろうか。
大きく開いた扉に招き入れられて、スカイとフォルテが、それに引き摺られる形で私も後に続く。
タダで、こんなに立派なお屋敷に寝泊りできるとなって、ちょっと浮かれてきてしまう。
さっきまで、恐々としていたのがまるで嘘のようだった。

玄関を振り返ると、デュナが一人、まだ何かを考えながら歩いている。
普段なら、こういうとき一番嬉しそうにするのは彼女のはずなのに……と思ったとき、デュナがパッと顔を上げた。目が合うと、ひとつウィンクを投げられる。
……なんだろう?
よくわからないけれど、心配しなくていいという意味だろうなと受け取って、手を引かれている方。スカイの進むほうへ視線を戻す。

通されたのは、落ち着いた装飾の応接間だった。


「こちらでしばらくお待ち下さい」と、応接間に四人取り残される。
夕食を用意してくれるらしい。
四人分ともなると、結構な量だと思うのだが、そんなに気を使ってもらっていいんだろうか……。
まだカーテンの開かれている、大きなガラス窓から外を見る。
応接間は建物の表側に面していて、綺麗に整えられた庭木の向こうに、私達が通ってきた、門から続くまっすぐな道が見える。
明るい時間なら、この庭を眺めるだけで待ち時間も十分楽しめそうだったが、今はもう薄暗く、ガラスから少し身を離すと、指紋ひとつなく拭き上げられたガラスに、室内の風景がくっきり映った。

三人掛けのソファーの真ん中に、腕組みして足も組んで座っているデュナ。
火の入っていない暖炉の上に飾られた、絵皿や飾り時計を、楽しげに眺めているスカイ。
そして、まだ私にぴったりとくっついているフォルテの、少し不安げな顔が、ガラスに映し出される。
「フォルテ、今日はきっとふっかふかのベッドで寝られるよー」
少し屈んで、そのプラチナブロンドの頭にささやく。
顔を上げた小さな少女が、ふんわりと微笑んだ。
「うん、楽しみだね」
もしかして、私に心配をかけないようにしてくれているのかな……。

先ほどのデュナといい、この、私よりずっと小さな手で私のマントを掴んでいる少女といい。なんだか、ほんの少し、自分が情けないような気がしてきた。
ガラスに映るフォルテを見る。
裾に桜色のレースがついた、真っ白なケープ。
大きく開いた首元を、苺色のリボンでぐるりと巻いて、
正面でたっぷりとしたリボン結びになっているデザインが、フォルテをさらに幼く見せている。
ケープの下には、ローズピンクのワンピース。
ここにも、大きな苺色のリボンがハイウエスト気味に巻かれており、背中側で大きな蝶を作っていた。
パニエというほどのボリュームではないが、ふわふわと幾重にもギャザーを寄せられたアンダースカートが、ふんわりしたシルエットを作るとともに裾から白いフリルを覗かせ、一層甘い雰囲気になっていた。
肩から斜めに提げられた、金色のチェーンの先には、ころんとしたフォルムのガマグチポーチがぶら下がっている。
薄紫のポーチの表面には、白いレース糸で編まれた小花がいくつか花を咲かせている。
それらをキラキラと包み込むプラチナブロンドの髪は、全体にごく緩やかなウェーブがかかっていた。
その上には、苺色のリボンに白い大振りのレースがついた、カチューシャ状のヘッドドレスが乗っている。

まるで、砂糖菓子のような、ともすれば、甘い香りすら漂ってきそうな女の子。それがフォルテだった。

私の視線に気付いたのか、フォルテが不思議そうにこちらを見上げる。
ラズベリー色のおいしそうな瞳。
こんな色の目をした人に、私は今まで会った事がなかった。

自立してからの四人旅は一年目だったが、私は、冒険者の両親と鼠色の大きな犬と一緒に、物心ついたときには既に旅をしていた。
両親に連れられて、色んな国の人を見てきたが、それでも、こんな色の瞳を見たのはフォルテが初めてだったように思う。
『遥か東の方に住む少数民族……』民俗学者のお爺さんの声が、耳に蘇る。

「ラズ、どうかした?」
フォルテが少し心配そうに私の目を覗き込んでいる。
「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃった」
あははと笑って誤魔化す。

いけないいけない。
今の私は、この砂糖菓子のような女の子の、保護者なのだから。
もっとしっかりしなくては……。と、どんなクエストの最中も、いつも私への笑顔を絶やさなかった両親を思い浮かべた。

ガチャリ。と重厚な音を立てて、ドアノブが動いた。
私達の入ってきた扉とは逆の位置の、大きな扉が観音開きに開かれて、先ほど私達を案内してくれた使用人の女性が顔を出した。

「お待たせいたしました。お食事の支度が整いましたので、ご案内いたします」
開かれた扉の向こうは食堂になっているらしく、遠くに長いテーブルと椅子が並べてあるのが見えた。
ぞろぞろと移動する。
それにしても広い食堂だ……。もしかしたら、この部屋で、立食パーティーだとか、そういった事もするのかもしれない。
テーブルがいくつも入るような、宴会場のような広さだった。
十人は掛けられそうな長いテーブルに、四脚分のみ用意された椅子が、なんだか不釣合いだ。
もっと小さな部屋はなかったのだろうか。それか、小さなテーブルは……。
ピシっとテーブルセッティングされた食卓では、王冠のような形に畳まれたナプキンが、大きな皿の上に乗っている。
ナプキンを膝に広げると、もう私達の意識はこれから出てくる料理に向いてしまい、部屋の広さなどは気にならなくなってしまったが。

あれ、ナイフの並びがなんだか変な気がする。
ふと気になって、ナイフを外から数えてみる。
どうやら、肉料理と魚料理の順番が逆になっているようだ。
カトラリーを並べ間違えたのか、実際にお肉の後にお魚が出てくるのかは分からないが、周りを見ると全員の物がその順で並んでいた。
デュナにその話をしようかと口を開きかけたとき、隣の部屋……おそらくキッチンになっているのだろう場所から、静かにワゴンが入ってきた。
大きなスープ皿には、緑色の液体が見える。
ほうれん草?そら豆?つい色々と想像してしまう。

絨毯のおかげか、音も立てずにやってくるワゴンを、私達は揃って待ち構えていた。


皆の目の前に並べられている大きなお皿に、スープ皿が置かれる。
全員に渡ったのを確認して、私達は声を揃えた。
「「「「いただきまーすっ」」」」
スープを口に運ぶ。
あ、ちょっと……辛いかな……?
何のスープって言われたんだっけ。あれ、説明なかったよね?
ああ、けどレストランってわけじゃないもんね……。

などと考えていると、案の定フォルテが隣から
「ラズぅ……これ、ぴりってする……」
と、涙目で訴えた。
スープを良く見ると、胡椒に、鷹の爪に、表面にはうっすらと赤い油のようなものも浮いていて、ポタージュ系のスープとしては珍しい辛さに仕上がっていた。
「うーん、ちょっと辛いね。フォルテには厳しいかな……?」
フォルテの頭を撫でようと思うも、席と席が離れていてほんの少し届かない。
「じゃあ、フォルテのスープ、俺もらっていい?」
フォルテの向かいに座るスカイが、嬉しそうに手を伸ばした。
「はいどうぞ。スカイにあげる……」
平たく重いスープ皿をよろよろと持ち上げようとするフォルテに、スカイがさっと身を乗り出して、自分の皿を持たせた。
それはもう、すっかり空になっている。

二杯目をご機嫌で掻き込むスカイ。
相当な速さで、音を立てずに動くスプーンが何だか異様だ。
スカイは、辛いものが好きだった。
むしろ、甘い物は苦手なのだが、甘いもの大好きのフォルテはまだそれに気付いていないようだ。

私も、気付くまで数年かかった。
なぜかというと、食べるからだ。スカイが。無理をして。
たとえ後から吐く事になろうとも、人がくれるお菓子は断らないというその頑張りは、間違っていると思う。

なので、フォルテにその事を教えるつもりも今のところ無かった。
いい加減自分で気付いてほしい。フォルテではなく、スカイに。
頑張る方向が間違っている事を。

「ラズも飲まないのか? スープ」
その声にスカイを見る。
スカイの顔には、はっきりと『飲まないなら欲しいなぁ』という文字が浮かんでいた。
「う、うん。ちょっと辛いから遠慮しようかと思って……」
飲めないことはない辛さだったが、ついそう答えてしまった。
スカイの後ろに、ぱあっと花が咲くのが見える。
あまりの分かりやすさに、思わず噴出しそうになるのをこらえつつ、スープ皿を渡した。
フォルテのときと同じく、手元には、空になった皿が瞬時に乗せられる。
さすが盗賊と言うべきか、そのすり替えの早さには驚かされるが、それよりも席の離れたこの対角線上の位置へ、どうやって手を伸ばしたのかが謎だった。
私の正面にいるデュナも、そろそろスープを飲み終わりそうだ。
ウェイターさん……じゃなくて、ええと、男の使用人さんが様子を見に来ている。
次のお料理も、すぐ出てきそうだ。


お腹いっぱい夕飯を食べて、案内された客室は三人部屋だった。
ベッドが三つ並ぶ、客人専用に設えられた室内。
旅館でもない個人の家に、こんな部屋があるとは……さすがお屋敷といったところか。
マーキュオリーさんには、しっかりお礼を言わないといけないな、と、そこまで考えてから、彼女が二週間程帰ってこないという話を思い出す。
デュナはそれまで待つつもりなんだろうか?
「デュナ、結局石は――……」
私の背後、出入り口に一番近いベッドに、デュナは突っ伏している。
どうやら、寝てしまっているようだった。

靴も脱がずに、ベッドに倒れこんだままの状態で。
ベッドで一休みしていて、そのまま寝てしまったんだろうか?
お酒は飲んでなかったよね……? と、思い返す私の横を、すっと大気の精霊が通り過ぎて消えた。
……あれ?

本来、精霊というのはどこにでもいるものだ。むしろ、この世は精霊で満ち溢れていると言ってもいい。
それでも、普段はこの世界と平行になっている向こう側の世界で生活しているので、私達にその姿を見せることは無いと言われている。
精霊がこちらの世界に姿を現すのは、魔法が使われる時だけだと。

魔法使いや魔術師達は、魔法を実行する際に必要な要素……例えば、火だとか水だとかを精霊達にお願いして用意してもらうのである。
もっと細かい構成をする人になると、素粒子単位でオーダーを出したりするらしいのだが、私にはちょっと分からない感覚だ。

そうして、頼まれたものを提供した精霊たちは、報酬として精神力……俗にマジックポイントとかスキルポイントとか呼ばれるそれを貰いうける。

私には、貰いうけるというより、その場でもしゃもしゃと食べているように見えるが、魔術の教科書には「精神力を受け取り元の世界に帰る」と書かれていた。

そういうわけで、魔法が使われるとき以外、精霊はこちらの世界に来ることが無いと、一般的には言われている。
しかし、精霊自身はいつでも好きな時に、こちらの世界へ顔を出すことが出来るので、実際は、綺麗な場所だとか、お祭りの最中だとか、そういうところでは、誰に呼ばれたわけでもない精霊達の姿を目にするものだった。

とはいえ、私のように精霊の姿を目にすることが出来る人間はごくわずかしかいない。
いわゆる霊感があるとか言われる類の人だけが、その姿を見ることが出来るため、こういった事は知らない人の方が多いわけだが……。

見えたからといって何の役に立つものでもなかった。
せいぜい、その人が魔法を発動する準備が出来ているかそうじゃないかが見分けられるというくらいか。
それすら、私のように対人戦を行わない者にとっては、意味がなかった。

そんなわけで、パチパチと髪に静電気のようなものを光らせながら消えていった大気の精霊を見て、一瞬、デュナが魔法でも使ったのかと思ったわけだが、ぐっすり眠っている姿からはそれも考えにくい。

窓際にあるベッドでは、フォルテがブーツを脱ぎ捨てて、ベッドの中央あたりで丸くなっている。
小さな両手を柔らかい頬に寄せて、ラズベリー色の瞳は、今にも閉じそうにうとうとと小さな瞬きを繰り返していた。
カーテンの隙間から、月の光がそのプラチナブロンドの髪を細く照らしている。

ここに来るまで三日は歩き通しだった。
昨夜は野宿だったし、皆、疲れが溜まっているのだろう。

部屋の空調はぽかぽかと暖かく、お腹はいっぱいで、足も体もとても重い。
私も、もう、このまま寝てしまいたい気分だった……。


小さな手が、私の腕に二つ乗せられている。
ぽかぽかしたその手に、遠慮がちに揺らされて目を覚ました。
「ラズぅ……トイレ、どこかなぁ……」
私まであのまま寝てしまったのか、靴も脱いでいなかった。
辺りはシンと静まり返っている。
起してごめんね。とフォルテが小さな声で謝った。
気にしなくていいよ、と頭を撫でて、フォルテの手を引いて部屋を出る。

デュナは、さっきと全く変わらない姿勢でベッドにうつ伏せていた。
途中で目を覚まして着替えるだろうと思っていたので、なんだかちょっと意外だったが、同じく靴も脱がずにうたた寝していた自分が言えることではない。

さすがに旅館ではないので、部屋にトイレは付いていないし、私達はトイレの場所についての説明を受けていなかったため、フォルテと二人、真夜中に、見知らぬ屋敷でトイレを探すはめになってしまった。
廊下はさすがに部屋よりひんやりしている。
それでも、外に比べればずっとマシだったが。
「寒くない?」
フォルテがこっくりと頷く。
周りをぐるりと塀で囲まれた屋敷だからか、外からは、微かに聞こえる葉擦れ以外の音が無い。

まっすぐ続く長い廊下には、毛足の短い絨毯が隅々まで敷かれていて、私達の足音を飲み込んでいる。
どうして廊下の天井がこんなに高く作ってあるんだろう。広々としている分、余計に寒々しさを感じる。
窓の外に映る空には、一つの星もない。
雲が出てきてしまったのだろうか、月も、その姿を隠してしまっていた。

なんというか、野宿で迎える深夜より、室内で迎える深夜の方が怖いというのもどうかと思うのだが。フォルテは明らかに怯えていたし、私もまた、外敵への恐怖とはまた違う、この言い知れない不気味さに正直足がすくみそうだった。
「ほら、フォルテ、早くトイレ探さないとでしょ?」
小さい体をさらにちんまりとさせてしまったフォルテに声をかけて、私達は階段を下りた。

一階で、ようやくトイレを発見する。
これだけ広い屋敷なのだから、おそらく二階や三階にもあったのだとは思うが、見知らぬ屋敷ですべてのドアを開けて回るわけにもいかず、こうなってしまった。

フォルテが出てくるのを、扉の外で待つ。
「ラズ?」
心細そうなフォルテの声がする。
「うん、ここにいるよー」
返事をしたとき、上からドンという物音がした。
重いものが床に落ちたような、そんな音だ。

なんだろう。
確かスカイが二階で寝ているはずだが、ベッドから落ちるような寝相ではないし……。
フォルテの反応が無ったのは、気にならなかったのではなく、もしかしたら恐怖で固まってしまっているのだろうか。

扉の向こうから、紙を引く音が聞こえてほっとする。

しばらくして、バタバタと走る足音のようなものが微かに聞こえる。
この絨毯の上で尚響く足音というと、相当慌てて走っているのだろうか。
さっきの音は、何か……例えば、シャンデリアだとかが落ちた音だったりしたのだろうか?
いや、そんな簡単に落ちてこられても困るけど、それなら慌てて使用人さん達が片付けようとするのも分かる気がする。

深夜だというのに大変だなぁと思っていたら、フォルテがトイレから出てきた。
「ラズ……さっきの、何の音かな」
「うーん。何だろうね」
不安げにしているフォルテの頭を軽く撫でて、今度は私がトイレに入る。
さすがに広い屋敷なだけあって、トイレも二つ並んでいたのだが、水音を聞くまではその気がなかった。
一緒のタイミングで入っていれば、もう帰ることが出来ただろうに、外で一人待たせてしまうことをちょっぴり後悔しながら、手早く用を足すことにした。


          

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