獄卒鬼の暇つぶし
第26話
その日の夕暮れ、私は二代目と共に千住の街に繰り出した。仲間外れにされたと不機嫌になるセラを一人で帰るように言って聞かせ、必ず帰ると約束した。
ふわふわと浮ついた足取りで黄昏を歩いている。まだ開店前だというのに何人も並んで待っている銭湯を覗く二代目は、何食わぬ顔でその列の一部となった。
「ちょっと、飯食いに行くんじゃないのかい?」
「気分が変わったのだ」
「そんなにころころ変わるんじゃ、困る」
「案ずるな、予定というものは大抵変わるのだ。それにまだお主は地獄の匂いがする。きれいさっぱり落とさなければ、飯もまずくなるよって」
腹の虫がなる。「この後久しぶりに男二人で飯でも……」なんて口ぶりであったから、二代目の口車に乗せられた。こんなことならセラと一緒に帰ればよかった。私はつい数十分前に選択を後悔した。
「どうした? 辛気臭い顔をして?」
「自分の胸に手をあててよおく考えてみなよ」
「ふむ、心の臓が脈をうっておる」
「もういい」
六時の時報が街に響くと人は波のように暖簾をくぐっていく。私と二代目もその流れに従って座敷に流れ着いた。ゆっくりとくつろげる空間には使い古されたマッサージ器がぼんやりしながら居座っていた。二代目はそんなものには一瞥もくれずにさっさと脱衣所へとつなぐ道を進む。大勢の人が入浴している浴槽はとにかく幅が広く、タイルに書かれた富士山は壮大であった。
下町育ちの江戸っ子たちは白く濁った湯につかり、富士山を眺めながら、熱すぎる湯の温度を苦ともせず「極楽極楽」とつぶやいている。二代目は「失礼いたす」と湯につかり、湯船の中で私を手招きした。
「肩までつかれ、極楽浄土に地獄の匂いはちと場違いだ」私はあまりに熱い湯船に躊躇していたが、やがて自分にまとわりついた地獄の匂いをおとすべく、痛いくらいの湯につかり頭の中で数を数えた。手拭いで顔を拭いていた中年の男が私の姿を見て、「見ない顔だな、学生さんか?」と言った。「はい、手前の弟でして」湯けむりの向こうから二代目が答える。
「なんだい、国枝くんの弟かい」
「えぇ、さきほど上京いたした次第で」
「そうかい、おいシゲさん、大作、国枝くんの弟だとよ」
中年の男が嬉しそうにお仲間を手招きする、私の周りに集まってきたお仲間はみなホカホカした顔つきで、「どこからきた?」「東京には慣れたか?」と質問の殴打である。
「紀州の出で……」「田舎者ゆえにまだ右往左往でして……」その度に二代目が私の代わりにそれっぽい返答をし、私はただただ首を上下運動して、時おり見せる二代目の高笑いに乗じて笑顔を作るのであった。
「国枝くんさっきからあんたばかり喋っているじゃないか」
「はて? そうでしたかな」
「そうだよ、きみは弟くんのマネージャーか」
「ワハハハハ、可愛い弟ゆえについ過保護になってしまうのでありますよ」
「そうかい、じゃあ徳さんそろそろお二人を解放してあげましょうよ」
二代目はサウナ室に向かうお仲間に手を振る。私は大きく息をついた。
「どうした? もうすでにゆであがっているではないか」
「当り前だよ、私は烏の行水だぞ。まったくお喋りがすぎる、すっかり茹でだこだ」
「ワハハハハハ、すまないすまない主は露天風呂にでも行って夜風にあたるといい」
二代目は露天の入り口を指さして私の肩をポンと叩いた。
「二代目は?」
「手前はもう少し浸かってく、なんせ江戸っ子だからのう」
二代目は真っ赤にした顔でにんまり言った。
「無理してない?」
「してない」
「あっそ」
私はどう見てもやせ我慢している二代目を袖にして露天に歩いていく。広めの浴槽の割りには露天に浸かる人の数が少なく感じる。どうやら生粋の江戸っ子の湯浴びは熱ければ熱いほど良いらしい。私はざぶんと湯につかり言葉の意味をなさない音を発した。肩まで浸かったぬるま湯はいつまでも入浴できる温度であり、私は足をぐうっと伸ばす。
「あぁ、天国は大嫌いだが極楽、極楽」
「奇遇ですな、実は私しも天国が大嫌いでして」
夜風が湯けむりを吹き払うと、濁り湯に肩を沈めていた声の主がむっくりと体を起こし近づいてきた。
「いやぁいい湯ですな」と言いながら男は私の顔を舐めまわすようにねっとり眺めてきた。私は男の視線に嫌悪感を憶え、わざとらしく笑みを浮かべ「どちらさまで?」と冷たくあしらった。
「これは失礼わたくし、目の方が悪くてお顔がよく見えなかったのですよ」
「なるほど」
不愛想に笑って見せたが男は本当に目が悪いのか、にへへと笑って濁り湯を足でじゃばじゃばとかき混ぜた。
「差し支えなければお名前は?」
「冷徹斎貫徹という」
「冷徹斎さん?」
「うむ」
「……古風なお名前ですなぁ」
私は愛想笑いを浮かべて男と距離をとった。せっかくのいい湯が台無しゃないか。
「しかし、夜が暮れるのが長くなりましたな」
男が近くの岩場に身を乗り出して言った。
すでに太陽は西の空に沈み、漆黒の空には星がちらほらと瞬き始めている。この星空の下で聞こえるものとすれば、年老いていくのを待つ人間の深いため息と手持ち無沙汰の男がじゃぶじゃぶと湯をかき混ぜる音ばかりだった。空に召されていく湯煙を見上げながら、セラの真似をして無数にある星を一つ、二つと指折り数え始めた。八つ、九つとテンポよく数えたはいいものの十を数え終えたあたりから自分の指が足りなくなって十五を数える頃にはすっかり飽きてしまった。
「貫徹、そんないつまでも凍るか、煮え立つかはっきりしない湯に浸かっていないでさっきの浴槽に戻らないか?」
湯船から腰をあげようとした瞬間に露店の出口から聞えてきた二代目の声に私は驚いて再び湯の中に肩を突っ込んだ。
「なんだよ二代目」
「先に上がってるから、早くこいよ」
「はいはい」
私は手をあげて岩場越しに合図を送った。
ふわふわと浮ついた足取りで黄昏を歩いている。まだ開店前だというのに何人も並んで待っている銭湯を覗く二代目は、何食わぬ顔でその列の一部となった。
「ちょっと、飯食いに行くんじゃないのかい?」
「気分が変わったのだ」
「そんなにころころ変わるんじゃ、困る」
「案ずるな、予定というものは大抵変わるのだ。それにまだお主は地獄の匂いがする。きれいさっぱり落とさなければ、飯もまずくなるよって」
腹の虫がなる。「この後久しぶりに男二人で飯でも……」なんて口ぶりであったから、二代目の口車に乗せられた。こんなことならセラと一緒に帰ればよかった。私はつい数十分前に選択を後悔した。
「どうした? 辛気臭い顔をして?」
「自分の胸に手をあててよおく考えてみなよ」
「ふむ、心の臓が脈をうっておる」
「もういい」
六時の時報が街に響くと人は波のように暖簾をくぐっていく。私と二代目もその流れに従って座敷に流れ着いた。ゆっくりとくつろげる空間には使い古されたマッサージ器がぼんやりしながら居座っていた。二代目はそんなものには一瞥もくれずにさっさと脱衣所へとつなぐ道を進む。大勢の人が入浴している浴槽はとにかく幅が広く、タイルに書かれた富士山は壮大であった。
下町育ちの江戸っ子たちは白く濁った湯につかり、富士山を眺めながら、熱すぎる湯の温度を苦ともせず「極楽極楽」とつぶやいている。二代目は「失礼いたす」と湯につかり、湯船の中で私を手招きした。
「肩までつかれ、極楽浄土に地獄の匂いはちと場違いだ」私はあまりに熱い湯船に躊躇していたが、やがて自分にまとわりついた地獄の匂いをおとすべく、痛いくらいの湯につかり頭の中で数を数えた。手拭いで顔を拭いていた中年の男が私の姿を見て、「見ない顔だな、学生さんか?」と言った。「はい、手前の弟でして」湯けむりの向こうから二代目が答える。
「なんだい、国枝くんの弟かい」
「えぇ、さきほど上京いたした次第で」
「そうかい、おいシゲさん、大作、国枝くんの弟だとよ」
中年の男が嬉しそうにお仲間を手招きする、私の周りに集まってきたお仲間はみなホカホカした顔つきで、「どこからきた?」「東京には慣れたか?」と質問の殴打である。
「紀州の出で……」「田舎者ゆえにまだ右往左往でして……」その度に二代目が私の代わりにそれっぽい返答をし、私はただただ首を上下運動して、時おり見せる二代目の高笑いに乗じて笑顔を作るのであった。
「国枝くんさっきからあんたばかり喋っているじゃないか」
「はて? そうでしたかな」
「そうだよ、きみは弟くんのマネージャーか」
「ワハハハハ、可愛い弟ゆえについ過保護になってしまうのでありますよ」
「そうかい、じゃあ徳さんそろそろお二人を解放してあげましょうよ」
二代目はサウナ室に向かうお仲間に手を振る。私は大きく息をついた。
「どうした? もうすでにゆであがっているではないか」
「当り前だよ、私は烏の行水だぞ。まったくお喋りがすぎる、すっかり茹でだこだ」
「ワハハハハハ、すまないすまない主は露天風呂にでも行って夜風にあたるといい」
二代目は露天の入り口を指さして私の肩をポンと叩いた。
「二代目は?」
「手前はもう少し浸かってく、なんせ江戸っ子だからのう」
二代目は真っ赤にした顔でにんまり言った。
「無理してない?」
「してない」
「あっそ」
私はどう見てもやせ我慢している二代目を袖にして露天に歩いていく。広めの浴槽の割りには露天に浸かる人の数が少なく感じる。どうやら生粋の江戸っ子の湯浴びは熱ければ熱いほど良いらしい。私はざぶんと湯につかり言葉の意味をなさない音を発した。肩まで浸かったぬるま湯はいつまでも入浴できる温度であり、私は足をぐうっと伸ばす。
「あぁ、天国は大嫌いだが極楽、極楽」
「奇遇ですな、実は私しも天国が大嫌いでして」
夜風が湯けむりを吹き払うと、濁り湯に肩を沈めていた声の主がむっくりと体を起こし近づいてきた。
「いやぁいい湯ですな」と言いながら男は私の顔を舐めまわすようにねっとり眺めてきた。私は男の視線に嫌悪感を憶え、わざとらしく笑みを浮かべ「どちらさまで?」と冷たくあしらった。
「これは失礼わたくし、目の方が悪くてお顔がよく見えなかったのですよ」
「なるほど」
不愛想に笑って見せたが男は本当に目が悪いのか、にへへと笑って濁り湯を足でじゃばじゃばとかき混ぜた。
「差し支えなければお名前は?」
「冷徹斎貫徹という」
「冷徹斎さん?」
「うむ」
「……古風なお名前ですなぁ」
私は愛想笑いを浮かべて男と距離をとった。せっかくのいい湯が台無しゃないか。
「しかし、夜が暮れるのが長くなりましたな」
男が近くの岩場に身を乗り出して言った。
すでに太陽は西の空に沈み、漆黒の空には星がちらほらと瞬き始めている。この星空の下で聞こえるものとすれば、年老いていくのを待つ人間の深いため息と手持ち無沙汰の男がじゃぶじゃぶと湯をかき混ぜる音ばかりだった。空に召されていく湯煙を見上げながら、セラの真似をして無数にある星を一つ、二つと指折り数え始めた。八つ、九つとテンポよく数えたはいいものの十を数え終えたあたりから自分の指が足りなくなって十五を数える頃にはすっかり飽きてしまった。
「貫徹、そんないつまでも凍るか、煮え立つかはっきりしない湯に浸かっていないでさっきの浴槽に戻らないか?」
湯船から腰をあげようとした瞬間に露店の出口から聞えてきた二代目の声に私は驚いて再び湯の中に肩を突っ込んだ。
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