年下の上司

石田累

extra2 復元ポイント(1)





 シロツメクサの向こうで、誰かが手を振っている。




「ゆーうぅー」
 待って。
 もう少し待って。
 あと少しで見つかるら。もう少しで見つけるから。
「ゆーうぅー、行くわよ」
 待って。
 行かないで。
 あと少しだけ、ここにいて。
「ゆーうぅー」
 手に、指に、緑色の汁が浸みている。青い夏の匂いがする。
 ああ、―― 見つけた。
 摘み取って顔を上げる。
 その人の姿が遠ざかる。
 夜の帳が降りてくる。もう、何も見えなくなる。
 行かないで、その先に僕は行けないんだ。
 ほら、どうしてもその扉が開かない。
 待って。
 お願いだから、待って……。


 
 *************************


 
「市長は?」
 手元の文書を一心不乱に読み込んでいた的場果歩は、その声にはっと驚いて顔をあげた。
 穏やかで優しい微笑み―― 大人の笑顔が見下ろしている。
「あの……、今、外出中です」
「そうみたいだね」
 がらんとした室内を見て、即座にそう判断したのだろう。
 品のいいスーツに身を包んだ長身の男は、あっさりときびすを返して、パーティションで仕切られた来客用ソファに腰を下ろした。
 その前には、すでに果歩も席をたっている。
 たった今入室してきた男―― 灰谷市役所秘書課、この課にとって、いわばボスである市長に継ぐVIPをもてなすためである。
「コーヒーならいいよ、飲んだばかりなんだ」
「じゃあ、緑茶にしますね」
「ありがとう」
 少しだけ、浮ついていた。それは、果歩だけではなく、この秘書課に在籍する女子職員なら皆そうだろう。
 真鍋雄一郎―― 灰谷市を拠点とするトップ企業、光彩建設の若き専務というだけではない。果歩が秘書として付いている灰谷市長、真鍋正義の実子にして後継者―― と目下看做されている男。
 29歳、180センチ近い高身長に、スマートなボディ。
 が、スーツに包まれたすらりとした立ち姿からは想像しがたいほど、腿にも腕にも堅そうな筋肉が内包されている。それはこの部屋で上着を脱いだり―― 無造作に足を組んだりするから、自然に知ってしまったことなのだが。
 強面の父親とは似ても似つかぬ、甘く整った綺麗な顔だち。
 彫が深く鼻梁が高い、唇は男らしい厚みを帯びて、いつも整髪料で整えている髪には、あるかなきかの自然のウェーブがかかっている。目の色は少し淡く、その欠点(ほとんどの女性には魅力としか映らないだろうが)を隠すように、薄い縁なし眼鏡を掛けている。
 よくこの年まで、こんなイケメンが独身のまま残ったものだと、誰もが首をひねるのだが、噂によれば、父親がもってくる見合い話を片端から断っているらしい。
 独身主義者か快楽主義者か、はたまた新宿二丁目の人か。―― 実のところ、様々な憶測が密かに秘書課では飛び交っている。
 とはいえ、果歩にとっては、たとえどの噂が本当であっても、さほど深い痛手ではない。むしろ、どんなゴシップも、彼の魅力を一欠片も損ねたりはしないとさえ思っている。
 もともと雲の上の人―― 仮想世界の王子様。果歩には、たまに父親を訪ねてくる彼にコーヒーを出すだけで十分幸福なのである。
「あの、お約束は、されていますか」
 テーブルに緑茶を置きながら、少し気おくれを感じつつ、果歩は訊いた。
 この人と話す時、果歩はまるで、自分が使用人か生徒になったような気分になる。
 真鍋は、来客用に用意された新聞を広げている。果歩が声をかけると、彼は整った眉をわずかに上げて微笑した。「いや」
「もしかすると、帰りが遅くなるかもしれません。大切な御用なら、連絡をとってみましょうか」
「その時は、自分でするよ。親父のプライベートの携帯に」
 優しい目が、果歩を捉えた。
「―― 君は、どう思う?」
「え?」
「逮捕されると思う?」
 果歩は、つられるように真鍋の視線の先を追っている。
 新聞―― 紙面には、大きな見出しが踊っていた。<芹沢議員、任意同行拒否><検察側の勇み足か>。有名な国会議員の仏頂面が中央で果歩を睨みつけている。
「公新党の、議員さんですよね」ためらいがちに果歩は訊いた。
「収賄容疑でしたっけ」
 真鍋の父親―― 灰谷市長真鍋正義は、無所属ではあるが公新党を支持母体としている。芹沢議員は、その公新党の幹事長である。
「正確には、政治資金規正法違反なんだけどね」
「それって、重い罪なんですか」
「さぁ?」
 新聞を置き、真鍋は楽しそうに肩をすくめてみせた。
「法律なら、僕より公務員さんの得意分野だろう?」
「は、はい」実は試験科目の中で、法律が一番苦手だった果歩である。
「市長秘書なら、もう少し新聞を読んだほうがいいね」
「……す、すみません……」
 最低……恥ずかしい。
 みるみる顔が熱くなるのが自分でも判る。それを取り繕うように、急いで秘書スマイルに切り替えた。
「では、ごゆっくりしてくださいね」
 が、内心の動揺を映したように、盆が指から滑り落ちている。
「!!……あっ、と、すみません」
 あわててかがみこんだはずみで、胸ポケットに入れていたポールペンが転がり落ちる。
「っ、っ、すみません!」
 湯呑を指で持ち上げた真鍋は、不思議そうに瞬きをしている。―― が、すぐに、その喉からくぐもったような笑いが漏れた。
「失礼―― 笑うつもりじゃなかったんだけど」
「いえ……」
 笑われて当然です。果歩は指まで赤く染まるのを感じながら、盆とポールペンを拾い上げた。
 真鍋はまだ笑っている。唇に緩く握った手の甲をあて、喉で笑いを殺している。
 なんて最低な状況だろう。ドジ丸出し。せっかく完全武装しても、結局は緊張しすぎて素が出ている。
「座ったら」
 涙を指で払う仕草(それはいくらなんでも大げさすぎる気がしたが)を見せながら、真鍋が視線で、対面のソファを指示した。
「ここにいて。1人でお茶を飲んでも、つまらないから」
 一瞬停まった心臓が、今度は恥ずかしいほど強く音を立て始める。
 いつものことだが、彼が、また<例のゲーム>を始めたのだと、果歩には判った。
「それは……無理です」
「どうして?」
「前も言いましたけど、勤務時間中は……、その、座ってお話なんて、できません」
「じゃ、仕事の話をしよう」
 指を顎の前で組み、真鍋はますます楽しそうな顔になる。で、果歩はますますかちんこちんだ。
「ま、真鍋さんは部外の方です」
「で?」
「仕事の話なんてできません。しゅ―― 、守秘義務が、あるじゃないですか」
「では、君のプライペートの話ならどう?」
 いや、だからそれは―― 。「それにも、守秘義務がある?」
 ありますよ。ある意味、公務員より厳しい守秘義務が。
「とにかく、ですね」
 姿勢を立て直して、果歩はやや口調を改めた。
「私の立場で、来客用ソファでお客様とくつろぐなんて許されないんです。いつもお断りして申し訳ないですけど」
「僕の秘書なら、平気で秘書室のソファでくつろいでいるけどね」
 真鍋は、不服そうに片眉をあげた。
 こんな風に、真鍋は、果歩が一人きりの時に時折ふらっと現れて、ひとしきり果歩に絡んで帰っていく。思わせぶりなことを言ったり、無理な難題をもちかけてきたり―― 果歩が降参するまで、決して席を立とうとしないのだ。
 一度や二度ではない。それはもう、秘書課では、ささやかかつ公然の噂になっていて、もちろん、棘のある眼差しで果歩を見る同僚秘書も沢山いる。
 基本、オープンの執務室には、今も、誰がいきなり入ってくるか分からない。そんな状況で、真鍋と2人で応接椅子で向かい合って談笑などしていたら―― 考えただけでも、その後蔓延するであろう噂にぞっとする。
「僕が来ると、君の仕事の邪魔になるかな」
 なのに、駄々っ子のように真鍋は続けた。「もし、迷惑に思われているのなら」
「そんな、迷惑だなんて」
 なんで、そんな言い方をするんだろう。言い訳する羽目に陥る不思議を感じながら、果歩はとりなすような笑顔を作った。
「お客様をもてなすのも、私の仕事のうちですから」
 別にあなたは、私に会いにきているわけじゃないんでしょう? 本当はそう切り返したかった。
「そう、仕事だ」
 満足そうに、真鍋は湯飲みを厚みのある唇につけた。
「だから、もっと、もてなしてもらわないとね」
 言葉を切って、正面から見上げられる。
 その思わせぶりな目色に、果歩はさすがに、平静を保てずにどぎまぎした。
 もし彼が自分より7歳も年上じゃなくて、市長の息子などではなかったら―― 多分、片思いになると知りつつ、あっさりと心を奪われていただろう。
 それほど目の前に座る男は、23歳の果歩にとっては、絵本の中の王子様のように凛々しくて完璧で、大人で―― くらくらするほど魅惑的だった。
 が、現実には、相手は庁内で最も気難しいボスの息子。しかも、財閥を実家に持つ雲の上の人である。真鍋が専務を務める光彩建設は、彼の母親が会長をしているし、父である市長は、その創設一族の直系で大株主だ。市内に不動産を数多く持ち、その資産は、クリーンで質実なイメージからほど遠いほど莫大なものだ。
 間違ってもそういった期待を持ってはいけない相手―― 。が、決して口に出せない本音を明かせば、もしも―― という気持ちも、ほんの少しだけないではなかった。
 まるで王子様がシンデレラを見染めたように、白雪姫を森の奥から見つけ出したように、もし、彼が……奇跡みたいに、自分を選んでくれたなら。
 その夢想は、果歩を少女みたいにときめかせ、ざわめかせ、そして現実に引き戻しては落胆させた。
 そう―― 現実は、まず成り立たない恋愛だ。
 もし、何かの間違いが起きて…… それは、まずあり得ないのだが、そんなことになろうものなら、果歩の首が飛んでいる。現市長真鍋正義の厳しさは、傍にいる果歩自身が一番よく判っている。
「お茶……お代わり、淹れましょうか」
 今も、用心深く果歩は言った。近づきすぎる危険は、この際、果歩一人が背負っている。大人の彼にとっては、七つも年下の果歩は子供だ。間違っても心が乱されることはないだろう。
「いいよ。お茶はいいから、5分だけそこに座って話をしよう」
 果歩は、少しだけ打ちのめされた。せっかく平静を取り戻したのに、まだ彼は、ゲームをやめてはいないのだ。
「真鍋さん……私、本当に」
「この1年、僕は何度も君に同じことを頼んでいるような気がするよ。それは、馬鹿馬鹿しいほど簡単なことなのに、君は一度もそれに応じようとしない」
 眼鏡越しに見える淡褐色の目色は、窓から差し込む日光に透かされ、ますます透明度を増している。
「僕の前のソファに、君に座ってほしいと、たかだかそれだけのことなんだけどね」
 気のせいか、いつもからかうだけだった口調が、わずかな真剣味を帯びている。果歩はますます緊張して、自身の警戒線を引き上げた。
「ご存じだと思いますけど、市長がそういう……私的な振る舞いを嫌われるんです。私だけでなく、この課の誰でも、そのソファに腰かけたりはしません」
 おそらく、役所内でも相当の予算をつぎ込まれて購入された来客用の応接ソファ。それは間違っても職員用のものではない。
「君が初めてになればいいよ。親父がもし怒るとすれば、君じゃなくて俺だと思うし」
「あのですね……」
 それがとんでもない間違いだと、どうやってこの人に説明しようか。
 真鍋市長は家庭では温厚な人なのかもしれない。が、この役所内では、誰一人逆らえないほどワンマンな―― 言い方は悪いが、一種暴君的な人なのだ。
 が、同時に果歩は、真鍋の要求が決して度を越したものでないことも理解している。
 市長は殆どの時間席空けだし、この応接ソファは、時折、課長や補佐もヒアリングや接待にこっそり利用している。先輩秘書たちが懇意の議員の雑談相手の場として利用していることもある。そうだ、別段、腰掛けたところで―― 悪意に満ちた噂になることを除けばだが―― さほど問題になるわけではない。
 それでも、果歩は、頑としてそこだけは譲らないのだった。中傷の対象になるというだけではなく、市長が間違いなく嫌な顔をするという理由だけではなく、何故だか、それが自分と真鍋の距離だという気がするからだ。
 現実と空想世界を隔てるラインを、絶対に崩してはいけないのだ。
「どうご説明していいか判りませんけど、この課には、うちなりの決めごとがあって、私はそれを守らなければならないんです」
 果歩は、精一杯の素っ気なさを装って言った。
「それに、私なんかじゃ、多分真鍋さんの話相手は務まりません。直に、御藤みとうが戻りますから」
 御藤とは、果歩とペアを組んでいる男性秘書である。
 真鍋は、おどけたように両手を肩のあたりまで上げてみせた。
「じゃあ、言おう。実は君に話したいことがあるんだ」
 話? 私に?
「すぐ済むよ。難しい話じゃない」
 本気か、からかいか判らない眼差しが、果歩を下から見上げている。
「3分にしよう」
「………」
「座って、ちゃんと僕の顔を見てくれなきゃ」
 なんだろう。その怖いほど魅力的な誘惑は―― 。
 ふらふらっと、ソファに吸い寄せられるような感覚になる。が、最後で理性が踏みとどまり、果歩は、ちょっと強い声を出していた。
「お、お話なら、立ったまま伺えますし」
「………」
「どうぞ、そのまま続けて下さい」
 果歩の態度が気に障ったのか、はじめて真鍋は、あからさまに不快気な目を見せた。
「誰も来ないよ。来たらすぐに立てばいい」
 彼は最初から、果歩が躊躇する理由のひとつを知っている。
「隣の秘書課も課長しかいなかった。噂になるような心配はないよ」
「それは―― でも」
 果歩もまた、いきなり感情を露にした彼の反撥に、返す言葉に窮している。
「できません。誰か来たら立つって、ますます不自然じゃないですか」
「もてなしも、秘書の仕事だろ?」
 他人に命令するのに、慣れた口調がたたみかける。
「客の僕が、隣に座ってくれと言っているんだ。それをむげに断るのが、市役所の礼儀かい?」
 それは―― 。言葉は何も出てこない。
 そもそも、小娘ごときがかなうはずのない相手である。
「一応……その、別の仕事もあるんです」
「手伝うよ」
 むっとした表情のまま、真鍋が立ちあがる。果歩はぎょっとして後ずさった。
「何をしよう。事務仕事ならあらかた出来るよ。君よりはスキルもある」
「なっ、何無茶なこと言ってるんですか」
「どうせ暇なんだ。ああそうだ、守秘義務があるというなら、そこのカップを洗おうか。それくらいなら、職務違反に当たらないだろう」
「そんな、勘弁してください、もう」
 大股でこちらに歩み寄ってきた真鍋を、果歩は白旗をあげて、押しとどめた。負けた。今日も、果歩の完敗だ。
「困ってる?」
 笑いを含んだ低い声は、もうすぐ傍から聞こえる。
「困ってます」
「じゃ、その顔をよく見せて」
 どうしてこの人は、こんなにも不躾な目で私のことを見るんだろう。
 果歩は赤くなったまま、顔をあげ―― 注がれる視線にまごつくように目を逸らした。
 そんな目で見つめられたら、本当に判らなくなる。どう、心の平静を保っていいのか。
「的場さん」
「は、はい」
「こっちを見て」
 抗いがたいものを感じ、やむなく視線を戻している。途端に、全身を硬直させて後ずさる。あまりに近くに、整った顔がありすぎて―― 
 かすかな、喉を鳴らすような笑いをたてて、真鍋は身体の向きを変えた。
「いいよ、冗談。本当に的場さんは真面目だね。からかって悪かった」
「は、はぁ……」
 そうか、からかわれてたのか。当たり前だ―― それでも、心臓が轟音をたてている。
 それで、退屈しのぎを終えたのか、真鍋はあっさりと席に座り直すと、空の湯飲みを持ち上げた。どうやら話など、最初からなかったらしい。
「お茶、お代わりいいかな」
 緊張から解放された安ど感から、果歩はほっとした笑顔で頷いた。真鍋には悪いが、それでも逃げるように給湯室に駆け込んでいる。
 シンクで水を流して手を濯ぐ。冷たい水流が迸る。
 できるものなら(絶対にできないけど)その水で、火照った頬を冷やしたかった。
 どういうつもりか知らないけれど、ああいう絡み方は勘弁してほしい。
 あまり、恋に慣れていないという自覚がある。笑ってあしらえるほど大人でもない。絶対にかなわない恋に、あまり本気になりたくない―― 。


 *************************


「で、で? プリンスとそれからどうなったの?」
「しっ、声が大きい」
 果歩は慌てて、興味津津の同期の口を遮った。
「どうもこうも、……それだけよ。お願いだから、おかしな噂を広めないでよ」
「噂って……ねぇ」
 お昼の食堂。6人掛けの席に座る同期の女子職員たちは、顔を見合わせて頷きあった。
「私たちが広めなくても、自然に、ねぇ」
「だって、果歩もプリンスも有名だもん」
 ほぼ満席の職員食堂。基本、執務室を離れられない果歩が同期の集まりに合流できるのは、月に数回だけである。
 なんとなく、暗黙のルールができて、その日だけは本庁に配属された同期女子が集合する。
 もちろん本庁組全員が集まるわけではない。学生時代と同じように、女の子には派閥がある。類友というのか階級というのか、似たようなカテゴリーに属するメンバーが最後には残る。
 で―― ここに集う面々は、果歩にしてみれば、少しばかり苦手な人たちばかりだった。企画総務、国際交流、議員秘書、財政、いわゆる本庁花形部局に配属された才媛ばかり。性格も容姿も学歴も、際立って目立つメンバーばかりが顔をそろえている。
 何故そんな高嶺のグループに、学生時代常に中流かそれ以下だった自分が残ってしまったのか……。今一つ判らない果歩だったが、そこは同じ悩みを抱える同期女子だけあって、打ち解けあえればそれなりに楽しい。
 が、―― その場で耳にする庁内の噂には、時々ぎょっとさせられることがあった。
 それは概ね果歩自身にまつわる噂で―― しかも、大抵が的外れだったり、とんでもない創作だったりする。
 誰かとつきあった、別れた、ふった、ふられた、市長の勧めでお見合いした―― それを生意気にも断った―― 云々。
 この同期の集まりの場さえ、<女王的場とそのとりまき>と揶揄されている。どうしてそんな有り得ない誤解が生まれたのか―― 果歩自身は、極めて地味で引っ込み思案で、こんな美人で目立つ人たちと同席しているだけで居心地が悪いのに。
 が、1年がたって、さすがに果歩も悟りを得た。とどのつまりは市長秘書、このポジションに立つ限り、様々な憶測や中傷の的になることからは逃げられないのだ。
「てか、プリンスって何よ。その妙に何かを誇張した呼び方は」
 唇を尖らせながら果歩はぼやいた。
 役所内には、どの部局にも1人や2人有名人がいて、こっそり伝搬されるあだ名がある。市長なら<社長>、総務局長は<赤鬼>、不倫と結婚と離婚を繰り返しているという行政管理課の課長補佐は<石田純一>。
 市長の息子、真鍋は<プリンス>。―― これは、この席に座る面々が名付け親だ。
「じゃあ、堂々と本名で話しちゃおうか? 真鍋ゆう」
「――!」
 それはもっと困る。
 半ば立ち上がりかけた果歩を見上げ、同期の女の子たちは、くすくすと笑った。
「いいじゃない、果歩。あんな素敵な人と噂になってるんだから」
「そうよ、何が不満なのよ。上手くいけば、玉の輿だよ?」
 絶対にいくわけがない。ないから―― この、誤解が誤解を招きまくっている状況が問題なのだ。市長の耳にこの不名誉な噂が入るのはいつかしら? そうなれば、年度中途であっても秘書課からはお払い箱だ。 
「……そんなに、噂になってるの?」
 にわかに不安になり、おそるおそる果歩は訊いた。当たり前だが、果歩から真鍋のことを吹聴した覚えは一度もない。むしろ、極力噂が立つのを恐れてきたのに―― 。
 女の子たちは、マスカラでぱっちり上げた目をぱちぱちさせて、顔を見合わせた。
「まぁ、……そこそこね」
「しょうがないんじゃない? 市長秘書は役所内じゃ注目の的だし、プリンスはモデルみたいに素敵な人だもん。しかも社長の息子だし」
「一緒にいれば、嫌でも噂になっちゃうわよ」
「いいじゃん、最悪遊ばれても。ひとまず軽いノリでつきあってみれば」
 なぐさめられているのか、とどめを刺されているのか―― 少なくとも、すでに役所内で公然の噂になっていることだけは間違いない。
 激しく動揺しつつ、果歩は空になった弁当箱を包み直した。
 どうしよう……これ以上は迷惑ですと、そうはっきりあの人に言おうか。でも、そんな生意気で高飛車なセリフ、果歩の立場では死んだって口に出せない。
「でもさ、もれなくすごい姑がついてくるよね?」
 誰かが声をひそめて囁いた。
「市長の奥さん。プリンスと結婚するってことは、あの人が義理母になるってことでしょ」
「うわぁ……」
 誰からともなく目を見合わせ、それだけは勘弁……みたいな雰囲気になった。
 灰谷市長の妻であり、灰谷市を代表するトップ企業の会長職についている女のことなら、実のところ誰でもよく知っている。
 真鍋麻子―― 貫録ある巨体と、一昔前の美白の女王みたいにこってりと塗りたくった白塗りの顔。いつもラメ入りの黒のドレスを着て、ビジネス雑誌や地元経済番組などに頻繁に顔を出している。笑っていても、何かをぎらっと睨みつけているような目元が非常に男性的で―― 恐ろしい。
「でもあの人、プリンスの本当のお母さんじゃないんでしょ」
「そうそう、市長って確か再婚だもの」
「継子の嫁か……なんか、ますます立場弱そう」
 果歩を置いて、話はますますエスカレートしていく。
「いけない、もうこんな時間」が、誰か一人が顔をあげると、それが合図のように、全員がばたばたと立ち上がった。
 あと20分足らずで昼休憩が終わる。歯磨きと化粧直し必須の女子たちの集いは、いつも、このあたりで散会となる。
「じゃあねー、果歩」
「進展あったら、教えてね」
「てか、結婚式には、ぜひ呼んで」
 どこから、その安易な発想が出てくるのだろう。果歩は、はぁっと息を吐いて額を押さえた。
 結婚? 継子の嫁? 冗談じゃない。私なんて、まだ、真鍋さんと対等に話したことさえないのに。精一杯の空想世界でも、彼と目を合わせるのがやっとだというのに。
 そう思いながら、立ち上がりかけた時だった。
「やめといたほうが、いいと思うな」
 独り言なのか、呟くような声だった。
 一瞬、気のせいかと思った果歩は、それでも、聞こえたほうに首を傾け、声の主の正体に気がついた。
 国際交流課の宮沢りょう。―― いたんだ、この人。そう思いつつ、果歩は微妙な表情を押し殺して笑って見せた。
「もしかして、私に言った?」
「何を?」
 同じような微妙な笑顔で切り返される。
 果歩の微妙さは、この人が苦手だという苦痛をあえて堪え、隠しぬいた故の表情だが、宮沢りょうは、単にふざけて果歩の表情を真似ているだけである。―― 明らかに。
「いたんだ、宮沢さん。珍しいね」
「ごめんね。存在感なくて」
 精一杯親しみを込めて続けた言葉も、そんな感じで切り捨てられる。
 なにが存在感なくて、よ。果歩は内心むっとする気持ちをぎりぎり押さえて微笑した。だいたい、目の前の女ほど同期で注目を集めている存在もない。
「いつもいないから……随分久しぶりじゃない? みんなとランチするの」
「ダイエットしてたのよ」
 くすり、と鼻で笑われた。まるで取り繕った今の心境や笑顔を見抜かれているような笑い方である。
 同期中ナンバー1の美貌と存在感を誇る宮沢りょう。―― 彼女が、果歩だけではなく、同期女子の誰からも敬遠されているのは、間違いなくこの振る舞いのせいである。
 どこか人を、一段下げて見ているような―― あたかも自分が特別であるかのような―― 。
 今も、通りすがりの男性職員が振り返っている。同期一の美形、というだけではなく、庁内でも一、二を争えるレベルの美貌の持ち主。おまけに、トップ成績で合格したという頭脳と際立った語学力を持っている。国際交流課に配属された彼女は、入庁1年目だというのに頻繁に海外研修、出張に出ており、外国人相手の通訳までこなしているらしい。
「えー、ダイエットって、必要ないでしょ、宮沢さんには」
 それでも強張った笑顔で果歩は続けた。基本、八方美人の果歩の頭には、社交辞令会話が山ほど蓄積されている。
「同性にそう言われて信用するほど馬鹿じゃないのよ」
 宮沢りょうは、モデル顔負けのスレンダーなボディをひけらかすように(果歩にはそう見えた)身体の向きを変えると、嫌味のように化粧っ気のない透明感あふれる顔(果歩にはそう思えた)で、微笑した。
「いいの? お化粧の時間、なくなるんじゃない?」
 それには……さすがに、ぐっときていた。
 なにそれ。嫌味?
 ちょ、ちょっと自分が……すべすべ美肌の美人だと思って。
「気をつけたほうが、いいと思うけどな」
 が、背後で声がした。
 足をとめた果歩が振り返ると、宮沢りょうはつまようじを口に当てている。
 えっ、おやじ?? と、イメージぶち壊しの光景に思わず目を見開きながらも、とっさに訊き返していた。
「なんの話……?」
「真鍋Jrの女癖の悪さは本物よ。口説いては棄て、口説いては棄て、その気になった被害女性は後をたたずってやつかしら」
「…………」
「もちろん、私がその中の1人だったわけじゃないけどね」
 なんなの、それ。
 むっと唇を噛み、果歩はそのままきびすを返そうとした。が、何か我慢できない感情がこみあげてきて、つい口を開いていた。
「それ、何の根拠があって言ってるの」
 つまようじを持つ女は、おどけたように肩をすくめる。
「悪いけど、余計なお世話……だわ。だいたい私、彼に口説かれてるわけじゃないし」
 まぁ、その抗弁も悲しいけど。
「そうね、ものすごく余計なお世話―― でも私だったら、少しは口に気をつけると思うけどな」
 宮沢りょうは立ち上がった。
「しょせん、他人が望むのは蜜の味」
「…………」
 どういう意味?
「人の不幸ってことよ」
 それだけ言うと、男性でももてあますほど量があるA定食のトレーを持って、宮沢りょうは嫌味としか思えないほっそりとした背を向けた。



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