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年下の上司

石田累

story5 august 恋と友情の板ばさみ(1)



 カノは桃色、ノノは青色。
 ピンクの服はカノ、青の服はノノ、……お人形はカノで、本はノノ。
 カノはきれい、ノノは汚い。
 へのへのもへじのノノには、ピンクもお人形も似合わない。


 なのにあの瞬間、へのへのもへじは恋に落ちてしまいました。
 ぼんやりとコート脇に立っていたもへじちゃんに、あの人が眼鏡を預けてくれた瞬間に。
(ありがとう)
 きれいな眼で、優しくそう言われた瞬間に。
 空っぽだったもへじちゃんの胸は――まるで熱々のミルクを注がれたように、彼のことでいっぱいになってしまったのです。


 カノはきれい、ノノは汚い。
 ねぇ、神様、教えてください。
 どうやったら――私みたいな女が、あの人の目に入るんでしょうか。


 


*************************


     
「はぁ? 男をデートに誘う方法?」
 目を丸くしてそう言った妹の口を、果歩は大慌てで手のひらでふさいだ。
「声、大きすぎ」
「………ごめん」
 リビング。
 背後の和室で新聞を読む父親に気づいたのか、美玲みれいは、ちろっと舌を出した。
 的場美玲。
 果歩の妹。大学2年の遊び盛りである。
 華やかな顔立ちの美人で、性格も姉と違って陽気で能天気。気まぐれであっけらかんとしていて、調子がいい。
「つか、そんなもん、デートしよって、そんだけ言えば済むんじゃないの?」
 美玲は、心底不思議そうに首をかしげた。
 そして、関心をなくしたように、膝の上の雑誌に視線を戻す。
「済まないから聞いてるのよ」
 果歩は、咳払いをして、卓上のポテトチップスを指で摘んだ。
「こう……どう、スマートに切り出していいのかわかんないのよ」
「スマートねぇ」
 と、雑誌をめくりながら美玲。
 果歩は、その返事を待ちつつ、もう一枚チップスを摘む。
「いつも思うけど、お姉ちゃんの食生活ってゆがんでるよね」
「うるさいわね、これだけはやめられないのよ」
 例え食事を抜かしてもやめられない――大好物のポテトチップス塩味。
 ストレスが溜まるに比例して空ける袋の量も多くなる。むろん、この性癖は、3年つきあった晃司にも明かしてはいない。
「つか、お姉ちゃんの質問、私の想像の範疇外なんだけど」
「じゃ、美玲から彼氏をデートに誘う時は、なんて言ってるのよ」
「デートしよ、一緒に遊ぼ、セック」
 再び果歩は、大胆な妹の口を両手で塞いだ。
「………ごめん」
 と、再び背後の父親に視線をやりつつ、目をぱちぱちさせて美玲。
「いい、あんたに聞いた私がバカだった」
「どこ行くの?」
「仕事、社会人には夏休みなんてないのよ、暇な大学生と違って」
 果歩はそう言い捨てて、サマーカーディガンを持ち上げた。
 8月。
 世間はどっぷり夏休みである。
 自宅のマンションを出た果歩は、炎天下のアスファルトをうんざりしながら歩き出す。
 ――休みたいなぁ。
 バス停前の信号で、果歩は、はぁっとため息をついた。
 ひと夏まるまる休める学生と違い、果歩が取得できる休みはたった5日。
 まとめて取ろうと分けて取ろうと自由なのだが、実の所、ひとつだけ制約がある。
 同じ係の者と、休みが重ならないようにすること。
 つまり――つまりである、果歩は、同じ係の係長であり、恋人?でもある藤堂と、絶対に同じ日に休めないのである。
「すみません。土日は、家の用事が入ってるんです」
 数日前、何気なく土日の予定を聞いてみると、藤堂はすまなそうにそう言った。
「あ……自営業でもしてらっしゃるんですか」
 勇気をくじかれた果歩は慌てて取り繕ったが、「まぁ、そんなところです」と、再び曖昧に逸らされる。
「平日に、休みが取れたらいいんですが」
 その日は忙しくて、会話はそれきりになってしまったが、決して同じ日に休み取れないと分かっているだけに、果歩の落胆は大きかった。
 国道。
 長い信号は、なかなか青に変わってくれない。
 果歩は、額に滲む汗をハンカチで押さえた。
 ――もしかして、藤堂さん、私と……きちんと付き合うつもりなんて、ないのかな。
 朝の太陽にじりじりと焼かれながら、少しだけ、憂鬱な気分になっている。
 7月の半ば、夜の執務室でキスを交わしてから2週間。あれ以来、一向に進展のない関係。
 もちろん同じ職場だから、毎日顔をあわせている。が、デートをするでもなく、秘密めいた会話をするでもなく――果歩にしてみれば、あんなすごい出来事があったにも関わらず、不思議なくらい、なんら変哲のない日々。
 結局、仕事上の問題は山積みのまま、2人の仲だけ平和な状態が続いている。
 ついでに言えば、流奈の猛アタックも、夏の太陽のように続いている。
 ――なんていうか、じれったい? じれったいにもほどがある?
 長すぎる信号。
 果歩の憂鬱は、しだいに微妙な怒りに変わっていった。
 もしかして藤堂とは、女に関していいかげんな性格の持ち主なのだろうか。それとも、どこかで本気になることを敬遠しているのだろうか。
 職場環境が複雑だから、公にできないし、したくないのは分かる。が、せめて、一度くらい、二人きりで職場を離れてのデートに誘ってくれてもいいとも思う。
「お姉」
 背後から、ぱん、と背中を叩かれた。
 振り返ると、シルバーのジェットヘルを被った美玲が、ミニバイクを支えて笑っている。
「私もバイト、暇な公務員と違って、苦学生だから」
「少しは家に入れなさいよ」
 へいへい、とそこだけは煩げに唇を尖らせてから、美玲はポケットから封筒を取り出した。
「愛の真実、君と過ごした夏の日々」
「………?」
「阿弥陀仏大戦争、大菩薩峠の曼荼羅」
「?????」
「今つきあってる彼氏が映画館でバイトしてんの、どっちもこの夏ヒットしてるロードショー」
「そうなの?」
「レイトショーのただ券もらってるから、どっちかあげるよ」
 美玲は、果歩の目の前で封筒をちらつかせた。
「ベタだけど、口実にはなるんじゃない?」
 もちろん、愛の真実の方を受け取り、果歩は少し明るい気持ちで、青になった信号を渡りはじめた。
 まぁ、自分から動かなきゃ始まらない。
 確かにベタだけど、ちょっと勇気を出して、誘ってみようかな、今夜……。


 
*************************


 
「すみません。ですから、昨日の夜メールで送らせてもらったのが最終で、はい、席順のファックスも午前中には送りますから」
 灰谷市役所本庁舎都市計画局。
 の総務課。
 始業前の朝――果歩が執務室に入ると、いつも、ぎりぎりまで新聞を読んでいる南原亮輔が、珍しく必死の形相で電話の応対をしていた。
「すみません、本当に申し訳ありません」
 ――なんだろ?
 不思議に思いながら、バッグを自席に置いた果歩が給湯室に入ろうとすると、
「おはようございます」
 ポットを手に持つ、際立って大柄な男が、その中から不意打ちのように現れる。
「あ、お、おはようございます」
 果歩は、一瞬赤らみ、そして慌てて居住まいを正した。
 藤堂瑛士。
 果歩の直属の上司であり、先月まで4度のキスを交わした相手。
 今朝、果歩が、憂鬱になったり怒ったりしたのは、まさにこの男のことが原因なのである。
「朝の支度は、僕がやると言ったのに」
 藤堂は、眼鏡越しの目で、柔らかく笑んでそう言った。
「的場さんは、もう少し、遅くこられてもいいんですよ」
「ええ、それはわかってるんですけど」
 バスの時間が決まっているから、これ以上遅くはこられない。
 で、こんな立場になって初めて分かったことなのだが、結構所在ないものなのだ。朝、ただ席に座っているだけというのは。
 今まで果歩一人でしていた朝の掃除や湯茶の仕事は、先月以来、藤堂と2人で、分担してやるようになっていた。
 朝は、藤堂がお茶の用意をする。
 夕方は果歩がそれを片付ける。
 ゴミ捨てや再生紙の搬出は藤堂がする。
 掃除は果歩が、そして、来客、局長、次長、課長三役へのお茶出しは、基本的に果歩がすることになったのだが――。
「職員へのお茶だしはセルフサービスにして、準備は全員でやりましょう」
 と、7月に藤堂が打ち出した提案を守っているのは、いまだ藤堂と果歩の2人だけ。
 反藤堂派の中津川補佐を筆頭に、その他の職員は全員無視。果歩より年下の計画係の職員、水原真琴にまで黙殺されているのだから、どうしようもない。
「藤堂さん、ご自分の仕事が忙しくなったら、いつでも言って下さいね」
 給湯室。
 果歩は、カップを積み上げている藤堂を見て、軽く嘆息しながらそう言った。
 雑務の分担は、結局は、藤堂一人の負担を増やしただけになっている。それが果歩には申し訳ない。
「忙しいと言えば、仕事はいつだって忙しいです」
 藤堂の横顔は淡々としていた。
「ただそれは、やりようですから」
 180センチを越える大きな身体は、狭い給湯室ではひどく窮屈そうに見える。
 が、見かけを裏切ってなかなか器用で俊敏な藤堂は、手際よく果歩の背後をすり抜けては、必要なものをトレーに載せている。
「やりよう、ですか」
「はい」
 滑らかで綺麗な肌には、剃刀負けの痕さえない。20代半ばの若々しい横顔に、果歩は眩しくなって目をそらしていた。
「仕事の量なら、やりくり次第でなんとでもなります。増えれば、増えるなりの仕事の仕方をすればいいし、全体の作業を見直して、新しい時間を作ればいいだけですし」
「………簡単におっしゃいますけど」
「? 簡単ですよ」
 振り返った藤堂は、殆ど無邪気と言っていい笑顔だった。
「気持ちひとつですから」
 気持ちひとつ。
「…………」
 まぁ――そうかもな。
 果歩は少し考えてから、藤堂の言葉に頷いた。
 ひとつの仕事を過剰に感じるかどうかは、所詮、人の気持次第だからだ。
 コップ一杯の水を「これだけ」と思う人もいれば、「こんなに」と思う人がいるように。
 ただ、やはり果歩は、それは藤堂が特別だからだと、そんな気持ちが捨てきれないままでいた。
「その気持ちが……なかなか切り替えられない人の方が、多いんじゃないかな、とは思いますけど」
 ――それは、私のことなんだけど。
 新しい仕事への恐れ。
 失敗への不安。
 今が目いっぱいで、これ以上は絶対できないという固定観念。
 理由は、多分、色々だろうけど。
 果歩だけでなく、南原にしても「これ以上何やれっていうんだよ」が口癖だし、大河内主査に至っては、業務分担以外の仕事は絶対にしない。
 庶務係では、藤堂くらいだ。誰の仕事にも同じレベルで深く関わっているのは。
「それは、……人にもよるのかもしれないですが、訓練次第だとは思いますよ」
 藤堂は、そう言いながら、布巾をカップの上に被せた。
「訓練ですか?」
 はい、と、かなり目線が上の男は頷く。
「どんな無理な仕事を任されても、絶対に出来ないと言うな。僕は最初の会社で、それを徹底的に叩き込まれたんです」
「最初の会社、ですか」
「ええ、まぁ、務めていたのはわずかな間ですが」
 果歩は、多少の驚きを持って、話し続けてくれる藤堂を見上げた。
 藤堂の口から、自らの過去の話が出たのは、これが初めてのような気がする。
「一言でも出来ないと言えば、会社からリタイヤするしかなかったですしね。確かに最初は、……上司のしごきだとも思いましたが」
「……………」
「気がつけば、どんな大量の仕事を請けても、苦にならない体質になっていました。いい上司に巡り会えたと、今では感謝しています」
 藤堂がかつて所属していた会社。
 無論、履歴から果歩はそれを知っている。
 都英建設。日本でも最大手の建設会社だ。
 藤堂は、大学卒業後、2年のインターバルを置いて都英に就職、そして2年で退職している。在職時の、所属部署は記載されていない。
 いずれにしても、果歩にしてみれば、もっと聞きだしたい藤堂の過去話だった。
「あの、例えば、前の会社では、どんなことがあったんですか」
「え?」
「その、訓練みたいな、お仕事って」
 果歩がそこに食いついてきたのが驚きだったのか、藤堂は、少し意外そうな表情になる。
 が、すぐに男は真面目な目になると、そうですね、と、思案気な横顔を見せた。
「一番途方にくれたのが、入社2日目のことで」
「はい」
「朝9時に、いきなり、10時の会議で使う資料3千部を用意しろと言われました」
「えっ、3千部ですか」
 役所の会議ではまず有り得ない数字に、果歩は驚いて声をあげた。
「株主用の配布資料に、公開前の株式情報が入っていたんです。全部破棄した上で差し替えでした。当分は、コピー機の音が耳から離れなかった記憶があります」
「…………」
 てゆっか、それ、一体、どうやって処理したんだろう。
 コピー機の処理速度的に、不可能な気がするけど。
「それが……訓練なんですか」
「今思えば、そうですね」
 藤堂は、淡々と頷いた。
「量をこなすことで、こなす術を体得できます。大量の仕事を任せられるということは、スキルアップのチャンスですから。1日かかったものが、次に同じことをすれば半日になる。やがて一時間になる。それは、理屈や勉強では得られない、社会で生きていくためのノウハウのようなものかもしれません」
「藤堂さんは、すごいと思います」
 果歩は、自然にそう言っていた。
 実際今、藤堂が抱える仕事の量は、庶務係の誰よりも多い。
 局次長の実質秘書であり、局内の取りまとめ役でもある。
 運転手から苦情処理、議会対応まで一手にこなし、さらには局の決裁文書の全てに目を通している。
 そして――信じられないと、果歩はいつも思うのだが、今では、局内全ての、かなり膨大な種類の職務を、藤堂は殆ど掌握しているようなのだ。
 今となっては、志摩課長でさえ、課長補佐の中津川をすっとばし、他課の仕事内容を藤堂に確認しているほどである。
「最初は、決裁が遅くて」
 笑いながら果歩が言うと、
「いや、それは、大変失礼しました」
 藤堂が、少し慌てた態で赤くなる。
「いえ、今は、逆にすごく早いので、本当に驚いてます」
 果歩も慌てて言い添えた。
 その件では、最早誰も文句が言えない。厳しすぎるとの泣きごとは聞こえてくるが、それは今までがザルのようなひどい決裁だったからだ。
「僕は、……以前、少し、特殊な仕事の仕方をしていたものですから」
 藤堂は、わずかに迷うような目で、カップを出し終えた戸棚を閉めた。
「大所帯の中で、こういった仕事をやった経験がありません。最初から、一緒にすればよかった、的場さんには大変申し訳なかったと思っています」
 こういった仕事?
 しばらく考えて、それが、いわゆるお茶だしや掃除のことだと気がついた果歩は、むしろ慌てて手を振っていた。
「いいですよ、やる必要なんてそもそもないんです、藤堂さんは役付きじゃないですか」
「でも、年は一番下ですから」
「でも係長です」
「でも、年下ですから」
 最後は、笑いの交じった口調だった。
 果歩は、少しむっとする。
「ちょっと……」
「え?」
「微妙に傷つきます」
「え?」
「あまり年下って強調されると」
「え、いや、そんなつもりは」
 無論、言葉に出したのは冗談だった。
 が、見あげると、正面から目があって、藤堂がわずかに赤らんでいる。
 その、どこか少年のような表情に、果歩も思わずときめいてしまっていた。
 い、言おうかな。今。
 今なら、こう、何気なく言える気も。
「あ……あの」
 が、
「すみません、申し訳ありませんでした!」
 ふいに聞こえた南原の大声が、果歩の勇気をかき消した。
「この度は、大変申し訳ございませんでした。ええ、すみません、どうぞよろしくお願いします」
 そして、いったん電話を切って、またどこかへ掛けなおしている。
 ――どうしたんだろ、南原さん。
 仕事で何かトラブルがあったんだろう。
 多分、昨日、果歩が帰宅した後で。
「……何かありました?」
 執務室の南原の様子を窺いながら、藤堂に聞くと、
「ええ、でも大丈夫でしょう」
 藤堂はなんでもないように言って、軽く目で笑ってくれた。
 その涼しげな目許に、果歩は、南原のことも忘れ、再びときめいてしまっている。
「じゃあ、お先に」
 しかし藤堂は、そんな果歩の気も知らず、すたすたと執務室に戻っていった。
「………あ」
 い、言えなかった。
 すごいチャンスだったのに。というか、あのキス以来、こんなに長く2人で話せたのは初めてだったのに。
 ていうか。
 やはり果歩には、藤堂の態度は謎だった。
 ――どうしてそんなに余裕かな?
 思うに、最後のキス以来、藤堂には妙な余裕がある。
 果歩にしてみれば、何一つ進展しない関係が苛立たしくもじれったくもあるのに、どうやら年下の上司は、あのキスで、妙に落ち着いてしまったようなのである。



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