年下の上司
story2 May「人はそれを嫉妬と呼ぶ」(5)
とにかく……帰ろう。
しばらく、ぼんやりと天井を見ていた果歩は、ようやく、気持ちを落ち着かせて、半身を起こした。
腕時計を見ると、午後5時少し前。定時ぎりぎりの時間である。
残してきた仕事を思うと、とても帰る気にはなれなかったが、今日は執務室に戻っても、まともな仕事ができそうにない。
が、起きて、靴を履いた果歩は、そこではっとして眉をひそめた。
――南原さんの……仕事。
あれはどうなっただろう。
半ばのまま放ってあったあれは、確か今日までの期限で――。
足音が近づいてきたのは、その時だった。
果歩は、藤堂の言葉をようやく思い出す。――ああ、バイトさんが……。
「果歩……起きてるのか」
が、聞こえた声は、思いもよらない男のものだった。
カーテンがしゃっと開いて、そこには、果歩の手荷物を抱えた晃司が立っていた。
仕事の途中で抜けてきたのか、上着を羽織っていない。シャツに、ネクタイを締めたままの姿である。
「……晃司」
咄嗟に、どう言っていいのか分からないまま、果歩は困惑しつつ立ち上がった。
「おたくの係長、うちのバイトをこきつかうから」
晃司は皮肉たっぷりの口調で言うと、手にした荷物をベッドの上に置いた。
「なにこれ、えらい重いけど」
「……別に」
警戒しつつ後ずさりながら、果歩は、今日総務のバイト職員、妙見が休んでいたことを思い出した。
そうか、藤堂は――政策部のバイトに、荷物を持っていくように頼んだのだ。そんなことをしてくれなくても、自分で取りに戻ったのに。
「帰るんだろ、送るよ」
「いい」
晃司は、まるで荷物の前にたちはだかるようにして、果歩の前に立っている。
「……何、警戒してんだよ」
その声が、少し面白そうになっている。
「なんで、しなきゃいけないの」
それにはさすがにむっとした。
むっとしたまま、晃司の傍をすり抜けて、ベッドの上のバッグに手を伸ばす。
が、手がバッグに届くより早く腕を掴まれて、そのままベッドの上に押し倒された。
「晃司……っ、やめてよ、ふざけないで」
「ふざけてない、こんな時間だし、誰も来ないよ」
果歩は全身の力で抗おうとした。
「はっ、はなして、いいかげんにして」
「なんで? 俺たち、まだ別れたわけじゃないんだぜ?」
「せっ……」
なんでこんなことまで言わないといけないんだろう。悔しさを滲ませつつ、果歩は覆い被さる顔から逃げ、そして呟いた。
「生理なの……だから、やめてよ」
「へぇ」
が、晃司が留まる気配はない。
唇が、何度もキスを求めている。果歩は、必死に顔を背ける。
「いや……っ、やめて」
思い切り胸を叩いて、肩を押しやる。その腕を捕らえられ、激しくベッドに押し付けられた。
「大声だすなよ、人が来るだろ」
「だ、だったら」
「恥かくのお前だろ、そうなったら」
「…………」
「お前は俺が好きなんだよ」
違う。
「……逃げられないだろ、俺からは」
唇が近づいてくる。
パンッ、と音がした。
それが、自分が晃司を叩いた掌の音だと――まだ信じられないまま、果歩はベッドから飛びおりた。
多分、背後で晃司が凍り付いている。
「ま……待てよ」
ようやく、我に返ったような晃司の声がした。
果歩は自らの荷物も顧みる余裕もなく、医務室の扉を目指して走る。
と、自分の傍をすり抜ける人影。
――え……。
その影が、藤堂のものだと――認識するまで、数秒を要していた。
「と……」
「なにすんだ、野郎っ」
振り返ると、果歩に追いすがる寸前の晃司の腕を、藤堂が掴み上げている。
晃司は怒りも露わにそれを振り払う。
そして、いきなり身構えた。
「晃司!」
「来いよ、でくの棒」
晃司は軽いフックを繰り返しながら、挑発するような目で藤堂を見上げている。
「お前、この前はわざと倒れたろ。そんなのすぐに分かったよ。俺なめてんのか、それともよっぽど自信があんのか」
果歩の視界に映るのは、藤堂の背中だけである。
白いシャツを着た背中は、微塵も動こうとはしない。
「……ここは、役所の中ですよ」
ようやく聞こえた声は、わずかに困惑しているようでもあった。
「丁度いいことに医務室だよな。怪我してもすぐに手当てができる」
晃司はただ、薄っすらと笑う。
「来いよ」
「晃司、やめて」
「……とにかく、話合いましょう」
藤堂の声だけが、場違いに静かだった。それは、聞きようによっては晃司を馬鹿にしているようにも思え、多分、晃司もそう思ったのだろう。その端正な眉に、さっと怒りの色が走る。
藤堂が、ベッドに向かって歩き出す。
その上には、果歩の荷物が投げ出されたままになっている。
「ふざけんな、この野郎」
あ、と思う間もなく、晃司の身体が素早く動いた。
振り向き様に突き出された拳が、藤堂の腹部のあたりに吸い込まれていく。
「きゃ……」
体格差がありすぎるせいか、さほど衝撃を受けたようにも見えなかった。が、藤堂の身体がわずかによろめく。
バランスを失った藤堂がベッドに手をつき、そのはずみでベッドの上の荷物も落ちた。
ぐしゃ、と重量のあるものがくずれる音がして――室内に、ふいに家庭の匂いが溢れ出した。
――あっ。
果歩は両手で口元を覆っていた。
それは、この現場では、滑稽なほど浮いた香りだった。
「なんだよ、これ、弁当か」
ちらっとそれを見た晃司が、呆れたように眉を上げた。
「こんなでかいの、誰が食うんだよ、……つかそれ、腐ってんじゃねぇか」
気勢をそがれたのか、晃司は露骨に不機嫌そうな目になって顔をしかめる。
温かかった一日、朝作った弁当は、臭気とはいえないまでも、どこか鼻につく匂いがした。
果歩は耳まで赤くなった。
サイテーだ。こんな形で――藤堂さんにばれちゃうなんて。
「前園さん」
静かな声がした。
「失礼します」
それがどういう意味か理解できる前に、ふいに体勢を立て直した藤堂の拳が――。
そして、多分、それより早く晃司も身構え、攻撃の態勢に入っている。
「や、やめて!」
鈍い音。
呻き声。
果歩はさすがに目を閉じた。
「的場さん、雑巾、持ってきてもらえますか」
静かな声で、果歩は震えながら目を開けた。
―――…………。
げほげほと咳き込み、前屈みになって腹を押さえているのは晃司である。
藤堂は、零れた弁当箱の前でしゃがみ込み、多分、それを片付けている。果歩の位置からは背中しか見えない。
「な……なんなんだよ、てめぇ」
晃司の悔しそうな声を聞き、果歩はようやく我に返った。
「的場さん、拭く物を」
藤堂の声。
「は、はい」
慌てて、医務室を飛び出し、果歩は、すぐ傍のサニタリーに駆け込んだ。
多分――果歩はあの場に留まってはいけないのだ。そんな気がした。
晃司のために、多分藤堂はそれを思って言ってくれたのだろう。
が、その思いやりがかえって晃司を怒らせることも、果歩はよく知っていた。
*************************
乱れた衣服を元通りに直し、水で絞った雑巾を持って医務室に戻ると、もうそこに、晃司の姿はなかった。
「すみません」
立ち上がった藤堂が、控え目に笑って手を差し出す。
「…………」
なんとも気まずい思いのまま、果歩は雑巾を差し出した。
すでに床はあらかた片付けられ、弁当は、多分元通り紙袋の中に収められている。
藤堂は再び膝をつき、濡れた床を雑巾で拭った。
「食べましょうか」
その背中がふいに言う。
「えっ、だ、ダメです、絶対ダメ」
果歩は慌てて両手を振った。
「学生の頃は、貧乏で」
雑巾を持って立ち上がり、医務室内の隅にあるシンクに向かいながら、藤堂は楽しそうな口調で続けた。
「賞味期限切れのものを、バイトしていた店から分けてもらったりしていました。全然食べられますよ」
「……だ、だめです……」
あんなに床に散らばった物を……いくらなんでも。
流水の音だけが、静かになった医務室に響いている。
果歩は、なんと言っていいのか分からなかった。
そして、ふと思っていた。貧乏って――藤堂さん、お金持ちのはずなんじゃ……。
ではあれは、ただの噂か誤解だったのだろうか。
何故かほっとしながら、果歩は少しだけ素直な気持ちになっていた。
「……もう、お弁当は、やめときますね」
「無理をされなくていいですよ」
穏やかな返事と共に、きゅっと蛇口を締める音がする。
無理とかじゃない。
そんなんじゃない。
でも、それを、どう伝えていいか判らない。
「……と、特別扱いは……よくないって、そういうことですから」
赤くなってうつむきながら、果歩は続けた。
ああ、もう、しっかりしろ、と、自分に舌打したくなる。
子どもじゃあるまいし、なんでこう、すっきりした表現で大人っぽく言えないんだろう。
「と……藤堂さんがしてるんじゃないです。私が、……特別なこと、してました。……私が」
「…………」
「気をつけなきゃいけないんです。これからは」
「…………」
「がんばってみようと思います、仕事」
こちらを向いた姿勢のまま、藤堂は黙っている。
果歩は顔を上げられなかった。
聞きようによっては、いや、どう聞かれようと、これは思いっきり告白だと思っていた。
藤堂がよほど鈍ければ別だが、多分――誰が聞いても、これは。
「……確かに、気をつけたほうがいいと思います」
「……は、はい」
少し躊躇うような気配のあと、藤堂がこちらに近づいてくる。
体温と、そして圧倒的な存在感を身近に感じながら、果歩はそれでもまだ顔をあげられないまま、自分の心臓の音だけを聞いていた。
最初に右腕を掴まれて、そのままゆっくり引き寄せられた。
腰を抱かれ、抗うことなく果歩は――その大きな胸に、抱き締められる。
心臓の鼓動の音がした。
心臓までも、おっきいのかな、と、ふとおかしいような気持ちでそう思っていた。
「今は、勤務時間ではありませんね」
「…………」
ドキッとしていた。
この抱擁だけでもどうにかなってしまいそうなほど舞い上がっているのに、それは、どういう意味なのだろう。
「そ、そうなんじゃないかと、思います」
と、なんだかわけの判らない返答をしてしまっている。
――この人を好きになって。
藤堂の指が髪に触れた。
びくっと自分の肩が、たったそれだけで震え出す。
こんなに大きな人に、包み込まれるように抱き締められる事が――こんなに心もとないものだとは思ってもみなかった。
自分が――何もできず、ただなすがままに流されてしまいそうで、それがなんとなく怖くなる。
そのまま、うなじに手を当てるようにして、顔をあげさせられる。
咄嗟に目を閉じ、被さってきたキスを、果歩は、胸が痛いような鼓動と共に受け入れた。
――私、辛い思いをすることになるんだろうか。
今だって、十分辛い。
同じ係で、今――係内では微妙な立場で。
年齢のことも、不安要素だ。
まだ若すぎる藤堂は、この恋愛を、どういう意味で捉えているのだろう。2年や3年は夢中になっても、そこで、ふいに冷めてしまうことだってあるだろう。
その時、果歩は33、だが藤堂はまだ20代だ。
それが、なんだかひどく危険な賭けのような気がしてしまう。
――年をとるって……。
あわさった唇のぬくもりを感じながら、果歩はふと思っていた。
こんな風に、先が読めて、何も冒険できなくなることなのかもしれない……。
藤堂が、そっと唇を開いた。
果歩は、ドキッとしながら、全身をわずかに震わせた。
公園の時もそうだった。その時は、果歩は唇を閉じていた。あまりにも幸福で……そんなセクシャルな気持になれなかったから。
今も、気持的には変わらない。それでも果歩は吸い寄せられるように唇を開き、藤堂の熱を受け入れていた。
その刹那、男の体温が上がったのが、怖いほど強く感じられた。
互いの境界が溶けた瞬間、恋はプラトニックなものから、否応なしに次の段階に進んでいく。
境界が溶けた後の藤堂のキスは、普段の冷静な彼からは想像もできないほど情熱的で、果歩は息も継げないほどだった。
――藤堂さん……。
頭の芯がぼうっとする。胸がぎゅっと締め付けられる。
それでも、不思議と心地よかった。いつまでもこうしていたい。身体がどれだけ崩れそうになっても、藤堂の腕が支えてくれている――。
そっと、唇が離される。
果歩は、愛しさと切なさを同時に感じたまま、未練のように藤堂の頬に手を当てていた。
「……すみません」
やがて額だけを合わせたまま、藤堂は低く呟いた。
その沈んだ声に、少し驚いた果歩は、おずおずと閉じていた眼を開けた。
「な、なにがでしょう」
「…………」
自分を見下ろす藤堂の目は――先ほど交わした情熱的なキスの後とは思えないほど、翳りを帯びたものだった。
「…………」
え、なに……?
どうして、……そんな、寂しい目で私を見るの……?
そのまま何も言わず、藤堂は、果歩の肩から手を離した。
果歩もまた、自分の中に津波のように押し寄せた情熱が……藤堂の表情を見た事によって、静かに引いていくのを感じていた。
彼の目色は、明らかに今の行為を後悔しているようにみえる。
「謝るような、ことだったでしょうか」
内心、傷つく自分を感じながら、果歩は訊いた。
藤堂は答えず、わずかに眉を寄せて沈思している。
「あなたは、普通ではない精神状態だったのに」
果歩が口を開く前に、藤堂がようやく言葉を繋いだ。
「僕は……今は、自制すべきだったと思います。フェアではなかった。……前園さんにも申しわけないことをした」
どういう風に解釈すればいいのか、微妙な言い訳だったが、藤堂が晃司のことに触れたので、そこは果歩がフォローしなければ、と思っていた。
「前園さんのことは、気にしなくてもいいと思います」
晃司は確かに怒ったろう。が、喧嘩をふっかけたのは、明らかに晃司の方である。
不思議だった。
晃司は、元アマチュアボクサーである。それゆえに、逆に喧嘩などは一切しないし、間違っても自分の力を誇示するような真似もしない。果歩にしても、晃司のあんなポーズを見たのは先日の飲み会の夜が初めてだ。
いつも余裕を滲ませている晃司が、……そうだ、藤堂の前だけでは、最初からどこか余裕のない喧嘩ごしだった。
「こ、前園さんは……アマチュアですけど、格闘技の経験があるんです」
「そのようですね」
「……だから、気にされなくても」
「僕も、格闘技の経験があります」
果歩ははっと息をのんでいた。
「最もボクシングではありませんが……、いずれにしても、ああいった真似を役所でするべきではなかった」
それは、晃司を殴ったことのようであり――果歩と交わしたキスのことを言っているようでもあった。
「……一人で帰れますか」
振り返った藤堂の目は、優しかったが、どこか悲しげでもあった。
「は、はい」
「僕は、仕事に戻ります……では、また明日」
果歩は黙って頷いた。
本当は、もっと傍にいて欲しかった。
そして、一言――唇で雄弁に伝わった感情が、一欠片でも言葉として欲しかった。
僕も、あなたが好きですと―――
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