年下の上司
story2 May「人はそれを嫉妬と呼ぶ」(2)
「ごめんなさい。うちは門限が厳しいんですよ」
二次会へのしつこいまでの誘いを断り、果歩は笑顔で頭を下げた。
「じゃあ、今日はお疲れ様でした」
正直、立っているのも辛かった。
胃がむかむかして、冷たい汗がわいてくる。足元もおぼつかないが、それを悟られたくなくて、相当無理をして立っていた。
これはアルコールのせいというより、体調のせいだろう。
そういえばここ数日、まともな食事をしていない。
「じゃあ、行きましょうか。藤堂さん」
この飲みの席で、ずっと藤堂につきっきりだった流奈は、早くも藤堂の腕を取って、引っ張っている。
で、藤堂は、またしても曖昧に「はぁ」とか言っている。
――なんなのよ、情けない……。
果歩は眉をひそめて、そんな2人から目を逸らした。
なんだか、急に幻滅してしまったような気分だった。
見え見えで誘惑している子に振り回されて、あんなので局総の係長なんてつとまるわけがない、賢そうに見えても所詮は若造、女の子あしらいに慣れてないっていうか……そもそもだらしなさすぎるんじゃない?
「行ってください、藤堂係長」
果歩は、精一杯、棘を抑えた笑顔で言った。
「局長は、私がタクシーまでお送りしますから、お気づかいなく」
「そうですか」
何故か藤堂の声も冷たく聞こえる。ますますむっとしながら、果歩はにっこりと微笑した。
「失礼します」
「失礼します」
なんか藤堂さん、冷たくありません? という流奈の声を聞きつつ、果歩は大股で局長の傍に戻った。
やがて人はばらばらに別れ、二次会に行く者たちも連れ立って繁華街の中に消えていく。
帰宅する局長をタクシーに乗せ、全ての仕事が終わった果歩はようやくほっと溜息を吐いた。
「……果歩」
背後で、ふいに声がしたのはその時だった。
店を出てすぐに姿が見えなくなったから、一足先に帰ったのだと思っていた――晃司だ。
「……よう」
ポケットに手をつっこみ、役所の人間のいる前とは、別人のようにラフな感じで、少し離れた場所に立っている。
「……何」
果歩は、目を逸らし、素っ気無い口調で言った。
藤堂の態度が、まだ自分の中で尾を引いている。ひどく棘々しい気分だった。
「……元気だったかな、と思ってさ」
「元気そうに見えない?」
「……あんま、メシ食ってないだろ」
「…………」
黙ったまま立っていると、晃司が傍に寄ってくる気配がする。
腹立たしいのに、こうやって近くに立たれると、3年馴染んだ男の匂いは、不思議なほど心地よかった。
「……悪かった……」
ポケットに手をつっこみ、気まずそうに目を逸らしたまま、晃司はぼそっと囁いた。
「…………何が」
「……色々……説明しろっていうなら、するけど」
「別に、もうなんとも思ってないから」
「ホントに……ごめん」
こういう時、2つ年下という愛しさがこみあげてくる。
晃司といると、いつもそうだ。
ある意味、非情なまでに仕事熱心な晃司は、恋人としては最低の男だった。約束を勝手に反古にされたり、待ち合わせの場所に1時間以上平気で遅れてきたり――でも、どんなに冷たくあしらわれても、気がつくといつも晃司を許している。
「……いい、私……もう、晃司とは、終わったと思ってるから」
「そんなこと言うなよ」
「これからは、同僚として、仲良くしていけたらいいと思ってるから」
「まだ、好きなんだよ」
手を強く握られる。
正直、驚きよりも、今は気分の悪さの方が勝っていた。
酔いが回っているせいだろう。
ふらふらと、このまま――何事もなかったように、晃司の胸にもたれかかれたら、どんなに楽かな、と思っていた。
でも、そう思えたのは本当にわずかで、次の瞬間、果歩は晃司の手を振り解いていた。
「本当にごめん。もう、そんな風には思えないし、思いたくないの」
もう二度と、あんな思いをするのは嫌だ。
「果歩」
「もう、お互いに忘れようよ、その方がいいから」
「果歩」
腕をつかまれ、引き寄せられる。
「晃司、やめて」
「お前は俺が好きなんだよ」
「離して、お願い」
繁華街。裏道とはいえ、道行く人が面白そうに振り返っている。
晃司に腕を掴まれ、引きずられながら、果歩は困惑して声をひそめた。
「……晃司、離して」
「俺の部屋で話そう。な、そうすれば分かるから」
晃司はタクシーの通る表通りを目指して歩いている。
抵抗したものの、腕をつかまれたまま、あっけなく滑り込んだタクシーに押し込まれていた。
「晃司!」
晃司は、自分も乗り込みながら、果歩の抗議を無視してマンションのある場所を告げる。
「いやよ、降ろして」
「騒ぐなよ、こんな通りで、いい年して恥ずかしいだろ」
いい年して……と言う言葉に無意識に傷つき、果歩は力なく口を閉じた。
なんだかもう、どうでもよくなりかけていた。
身体に力が入らない。どうせ、ここまできたら晃司に抵抗できないのは明らかだ。
――ま、いっか……。
やけっぱちのようにそう思った。
どうせ今ごろ、藤堂さんは……流奈と。
「お客さん、乗るなら、前に乗ってくださいよ」
と、車をアイドリング状態にしたままの運転手が、迷惑そうに振り返ったのはその時だった。
果歩は顔をあげ、晃司もまた、不審気に振り返る。
何故、なかなか発車しないのかな、と思っていたが、その理由がようやく分かった。
後部ドア、それを、外からしっかりと掴んでいる男がいる。
身体が大きいから、窓いっぱいに広い肩と胸が見える。
果歩は――信じられず、ガラス越しに見える、藤堂の顔を見つめていた。
「すみません」
扉を掴んだままの藤堂は、普段通りの口調で言った。
「申し訳ない。まだ、的場さんとの打ち合わせが残っていました。少しいいでしょうか」
「……はぁ?」
晃司は――多分、唖然としている。
それが見え透いた嘘だというのは、多分、晃司にも分かったのだろう。
「なんだよ、お前」
その声に、すぐに怒りが滲んだ。
「的場さんを降ろしてください」
藤堂は丁寧な口調で繰り返す。
「手を離せよ、でくの坊。これ一体何の真似だよ」
アルコールが入っているのか、今の晃司は、藤堂の役職や公務員という自分の立場を、完全に忘れきっているようだった。
「晃司、やめてよ」
「お客さん、喧嘩するなら降りてくださいよ」
運転手が困惑しきった声で言う。
「いいから、とっとと車を出せよ」
「だって、扉が閉まりませんよ」
運転者と晃司の会話を聞きながら、果歩は、反対側のロックを外して、車道側からタクシーを降りた。
ごうっと、目の前を、猛スピードで別のタクシーが通りすぎる。
「藤堂さんっ」
そのまま車を迂回して走り、果歩は、藤堂の傍に駆け寄った。
晃司も、すでにタクシーを降りている。
面倒なことが起こる前に――と思ったのだろう。それまで乗っていたタクシーは、ふいに急発進して去っていった。
「くだらない口実なんて使うなよ。新人、そんなに自分に自信がねぇのか」
晃司は、威嚇するような目で藤堂を見上げた。
体格では圧倒的に負けている。が、腕に自信のある晃司は、こういう時、絶対に気圧されるということがない。
「彼女が困っているように見えましたので」
藤堂の声もまた、それに気圧されることなく落ち着き払っている。
藤堂と晃司は、役職では藤堂が上だか、年でいえば、晃司が2つも年上である。そんな――微妙なプライドと屈辱を、晃司はずっと、この年下の係長に抱き続けていたのだろう。
「ふざけんな」
晃司は心底馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「痴話げんかだよ。そんなことも分からないのか、女と付き合ったことねぇのかよ、お前」
「…………」
それには、藤堂は答えない。
「お前、果歩が好きなのか。あいにくだったな、俺たちセックスの相性が最高なんだ。こいつ、なんだかんだ言ったって、今でも俺のことが好きなんだから」
――違う……。
悔しくて果歩は言葉を飲み込んだ。
顔が、熱の塊になってしまったようだった。
いくら酔っているとはいえ、最低だ。
こんな男に、果歩は3年間も尽くし続け――ほんの1分ほどまえ、再び身を預けようとしていたのだ。
周囲の人々が、今は完全に足をとめ、藤堂と晃司を注目している。
「でくの坊、お前、子供に殴られたんだって?」
晃司は拳を構え、ひょい、と前に突き出すまねをした。
果歩は、それには驚いていた。
確かに晃司は、元アマチュアボクサーだと聞いている。が、普段の彼は、そんな経歴を態度や言葉に出したことはない。むしろ、喧嘩なんて弱い奴がするもんだとばかりに冷め切っているのに――。
「情けねぇな、そのクソでかい身体は飾りかよ」
「晃司、やめて!」
たまらず果歩は口を挟んだ。怒りで、握った拳が震え出すほどだった。
「藤堂さんは関係ないじゃない、どうしてそんな侮辱するような事ばかり言うのよ!」
が、その言葉が、晃司の理性を奪ってしまったようだった。
晃司が、威嚇するように拳を突き出す。
見物人から、わっという声が広がる。
藤堂が、驚いたように後ずさる。そのままバランスを崩し、みっともないほどあっけなく、その巨体は、路地に積み重ねてあったダンボールの上に崩れ落ちた。
緊張が一気に緩み、失笑が漏れるほど、それは無様な転倒っぷりだった。
「なんだよ、お前……、俺、何もしてねぇのに」
両手を上げた晃司は、呆れたように顔をゆがめて笑っている。
「帰ってよ、晃司」
果歩は、怒りを込めて晃司を睨みながら、腰をついたままの藤堂の傍に駆け寄った。
晃司がわずかに顔をゆがめる。元彼が傷ついたのは分かったが、今は藤堂の方が心配だった。
「藤堂さん、大丈夫ですか」
「ええ……はい、まぁ」
「怪我、してないですか」
「頑丈にできてますから」
果歩は、藤堂の傍に膝をついた。
眼鏡が思いっきりずれている。それを手にとって、そっと外す。
「…………」
そのまま、果歩は手を止めてしまっていた。
いつの間にか晃司は消えて、周囲の人の輪も動き始めていた。
「みっともない所を見られてしまいましたね」
なんでもないようにそう言うと、藤堂は果歩の手から眼鏡を受けとり、立ち上がった。
それを、元通りに掛けなおす。
「帰りましょうか、タクシーを捕まえましょう」
「はい……」
果歩は、今度は逆に自分が立てなくなっていた。
眼鏡を外し、間近で見つめ合った藤堂の目が――上司というより、男のそれを剥き出しにしていたような気がして、そんな風に思えた自分が恥ずかしくて、しばらく立つことができなかった。
*************************
 
「大丈夫ですか」
差し出されたペットボトルのミネラルウォーターを、果歩は「すみません」と会釈してから受け取った。
夜風がここちよかった。
繁華街の真ん中に、こんな公園があること自体驚きだ。
周辺は賑やかな喧噪に包まれているのに、この10メートル四方の空間だけは、世界から取り残されたように静まり返っている。
(――気分が悪いんです……)
タクシーに乗れば、そのまま吐いてしまう気がして、おずおずと果歩がそう言うと、
(――どこかで休みましょうか)
藤堂は即座にそう言ってくれた。
この場合、普通の男ならホテルに行くのだろうが――。
まさかと思いつつ、多少はドキドキしたものの、藤堂が向かった行き先は、ホテルなどではなく、近くの小さな公園だった。
遊具などは何もなく、ただベンチと草の生えた砂場だけの、見るからにさびれた公園である。
「……ごめんなさい……今日は、ご迷惑をおかけして」
ようやく胸苦しさも落ちついて、果歩は素直な謝罪を口にした。
「いえ」
藤堂は言葉少なにそれだけ言い、屋上でそうするように、ベンチのぎりぎり端に腰を降ろす。
暑いのか上着を脱ぎ、シャツ一枚になっている。それでも、ネクタイを締めた男の横顔は、普段よりひどく大人びて見えた。
「……二次会に行かれたんだと思ってましたけど」
「…………」
それには、返って来る返事はない。
――怒ってるのかな……。
果歩は、気まずさを感じて、ちらっとその横顔を仰ぎ見た。
表情の読めない横顔の向こうに、薄い月が透けて見える。
やがて、その唇が、静かに動いた。
「……僕も、謝らなければいけないと思っていました」
「……はい?」
藤堂は再び黙り、言いにくそうに、首筋のあたりに手をやった。
「的場さんの体調がよくないのも、……帰り際、辛そうだったのも分かっていて、そのまま、行こうとしていました」
――え……?
それは、意外というか――謝られることとは、少し違うのではないだろうか。
「そんな、平気ですよ、私だって子供じゃないんですし」
「いや……」
「それに、二次会に出るのも、仕事のひとつですから」
「…………」
しばらく黙ったままだった藤堂は、髪を指で払いながら、立ち上がった。
大きな背中が、果歩の前の風景を遮る。
「いや、僕は故意に、あなたを避けようとしていたんです」
「…………」
「……宴会の途中から、妙に腹立たしくなってきまして……、僕が怒る筋合は、全くないことなんですが」
「はぁ……」
腹立たしいって、私に、だろうか。
意味がいまひとつ分からず、果歩はただ、藤堂の背を見上げる。
「………局の庶務担当が、皆に人気があるのは、いいことだと思います。……いや、僕がおかしいんです。忘れてください」
「………………」
え?
何、それ……?
それって、どういうこと?
それきり、何も言わずに黙ってしまった藤堂の背中を、ただ、果歩は呆けたように見上げていた。
「…………あの、藤堂さん」
「はい」
「…………それは、もしかして、その」
嫉妬、と言うんじゃ……。
「…………」
藤堂が、少し、周囲を見回してから、振り返る。
怒ったような、戸惑ったような目をしている。
そのままかがみこみ、ベンチに手をついた藤堂と、果歩は二度目のキスを交わしていた。
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