年下の上司
story1 April「100エーカーの森の人」(1)
私は、大丈夫――。
鏡を見るたびに、いつも自分に言い聞かせているセリフがある。
私は、大丈夫。
何があっても、笑っていられる。
感情は必ず抑制できる。
(なんだろね、総務の的場。いい年して若い子ぶっちゃって、大嫌い、ああいうタイプ)
(あはは~、わかるわかる。典型的な八方美人だよね)
私は大丈夫。
(美人は特よね。局長のお気に入りで7年も局総だよ? できてんじゃない? あのじいさんと)
(的場君か……可愛い女性だが、他の仕事を任せるのは少々頼りないね)
(――知ってる? あの子って7年前にさ……)
◆◆◆
「総務の的場です。異動者の通勤届け、今日の午前までですから、お願いします」
的場果歩は今朝から何度目かのセリフを繰り返し、庁内電話を切った。
ふっと唇から溜息が漏れる。
4月中旬――政令指定都市であり、100万市民を有する灰谷市役所は、人事異動の余韻が収まらず、いまだ喧噪の真っ只中にあった。
1万近い職員を抱える灰谷市役所は、この春だけでも3500人以上の職員が異動の辞令を受けている。辞令の内示が3月28日、そして、4月1日にその対象者全員が新しい職場に移る。口頭内示を受けてから、異動までの準備期間が正味3~4日。
異動する職員も大変だが、異動者を送り出し、かつ引き受ける各課の庶務係。そしてその庶務係の統括課である局総務課――通称「局総」の事務量は、まさにこの時期殺人的なまでに膨れ上がるのだ。
的場果歩は、その殺人的な事務量を1人で背負い込む――灰谷市役所都市計画局総務課の庶務担当者だった。
が、そんな最中でも、
「的場さん、コーヒーの砂糖が切れてるよ」
「的場さん、悪いけど、これ30部コピーして」
と、よその係の雑用がどんどん入ってくる。
「はい」と、果歩はその都度笑顔で立ち上がる。
いつも笑顔をたやさない。それが果歩が入庁以来貫き通しているイメージだから、である。
――疲れた……。
ようやく喧騒が途切れた時、果歩は椅子に腰掛けて、思わず額を手で押さえた。
入庁して今年で9年目。
この職場に来て7年、ずっと同じ仕事をし続けてきて、これで7回目の春になるが、いまだにこの時期になると胃が痛む。食欲は全然ないから、4月に入ってからは殆んどサプリメントで済ませている。
コンタクトレンズの奥がチクチクと痛んだ。目が乾いているせいか、ごろごろとした違和感がどうしても消えない。
「的場さん、妙見さんは何やってんだよ」
背後から、隣席に座る同僚の南原の苛立った声がした。
「すみません、彼女、1日お休みなんです」
果歩は慌てて、疲れた表情を顔から拭う。
「けっ」
年は若いくせに、妙に横柄な態度を取る南原は、心底疲れたように舌打ちした。
「あんなババァ、だから辞めさせろっつったんだよ、バイトなんて、いっくらでも代えがいるだろう」
「……ええ」
眉を曇らせた果歩の前に、南原はハガキの束を置いた。
「じゃ、的場さん。これ区内特で出しといて。忙しいなら明日まででいいから」
「…………」
まるでアルバイトがいないならお前に頼むしかないだろ、と言うような口調である。
果歩は、それでも「はい、わかりました」と言うしかなかった。
この激務の中、よりにもよって総務課で雇っているアルバイト職員の妙見静子が休暇を取っているのである。そして南原の言うとおり、4月から別の人にしたらどうか……という周囲の反対を押し切り、その妙見の継続雇用を決めたのは果歩なのだった。
果歩は、自分より五つ年上のいかにも薄幸そうな顔をした女が、どうして再々休みを取るのか、その深刻な理由を知っている。が、その理由はうかうかと他人に話せるようなものではない。
「的場さん」
再び背後から声がかかる。
はっとして果歩は立ち上がった。
もう7年も一緒にいるから声だけで判る。
都市計画局長、那賀康弘である。カウンターひとつ隔てた向こうにある局長室から、小さな白髪頭がのぞいている。
「悪いね、いつもの頼んでいいかな」
今年で定年退職することが決まっている温厚な老紳士は、そう言ってひょい、と片手を上げた。
「はい、すぐにお持ちします」
果歩は笑顔で答え、ひっきりなしにかかる電話の対応している職員の合間を縫うようにして、すぐ傍の給湯室に向かった。
――ああ、いけない……。
棚からカップを出しながら、果歩はうっかりしていた自分に嘆息した。
午後10時30分。
いつも10時には、決まって、那賀局長は暖かいミルクを飲む。
催促されるまでもなく、それを局長室まで持っていくのが、庶務兼実質局長秘書をしている果歩の仕事なのだ。それだけは妙見にもやらせたことはない。微妙な温度加減というのがあって、果歩が必ず調整している。
毎日出入りの販売員が持ってくるミルクや乳酸飲料を、職員は各々で購入し、普通はそのまま飲むのだが、那賀局長は、冷たいミルクが苦手らしい。
給湯室の手前まで行くと、中から楽しげな声が聞こえていた。
「えー、マジ?」
「ホントホント。自分より美人が来ると嫌だから、それで総務のバイトさん、あんなさえないおばさんらしいよ」
「やだー、それじゃ、男の人にしたらいい迷惑ですよねー」
果歩が給湯室に入ると、ぺちゃくちゃとおしゃべりしていた他課のアルバイト職員が、あ……と、間の悪そうな顔をして急にカップなどを洗い出した。
大学を出たばかりの2人の若い女の子。おしゃべりの中で中傷されていたのは、明らかに果歩である。
が、このようなシチュエーションは何も初めて体験するものではない。もっとひどい中傷を聞いてしまったことはいくらでもある。7年も男所帯の総務にいれば、何十人ものバイトを見てきているし、年がさほど変わらない彼女たちが、正規職員の女性に微妙な反感を覚えているのも知っている。
果歩は笑顔で「おはよう」と言い、彼女たちの背後をすり抜けた。
まだ学生気分が抜けないフリーター……そんな彼女たちは、それでもまだましな方だ。
一番難しいのは民間企業を退職してバイトにきた女の子で、やらされる仕事があまりに雑務ばかりなので、その鬱憤がすぐに果歩のような正規職員に回ってくる。
果歩が冷蔵庫を空けていると、女の子たちは、再び楽しげに昨日のテレビ番組のことを話し始めた。
この時期、極端に忙しいのは果歩のいる総務課だけで、同じ局内でも、他の課などは割合のんびりしているのである。当然、他課で雇用しているアルバイト職員も暇そうにしているのだが、それは課同士の暗黙の了解で、基本的に雇用元課以外の仕事では使えないのが決りになっている。
再びひそひそとおしゃべりを初めた2人の女の子たちを尻目に、果歩ははぁっとため息をついた。少しでも手伝ってもらえたら、どれほど事務が早く終るかしれないのに……。
「局長秘書って大変ですね」
が、そんな果歩の葛藤も知らず、のんびりカップを洗っている可愛らしい女の子がそう言って声を掛けてくれた。
「秘書の方がミルクまで温めるなんて、そんなの初めて見ました、私」
「……局長とは、長いつきあいだから」
「的場さんって、役所に入った最初は市長の秘書してらしたんですよね。すごいなぁ、ずっと秘書の仕事ばかりしてるんですってね」
「……他に何もできないのよ」
果歩は言葉すくなに答え、熱湯を給湯器から出して、それで紙パックのミルクを温めた。
そして、ふと思い出していた。
役所に入って最初の仕事が、那賀のミルクを温める作業だったことを。
入庁初日に出合った那賀とのつきあいは、もう9年にもなる。そして長いゆえに、どこかで甘えが出てしまっている。
――ほんと、いけない。
最近、ミルクの時間を忘れがちなのもそのひとつだろう。
那賀は一昨年、局長――都市計画局のトップに昇格し、そして今年いっぱいで退職だ。おそらく果歩も、それと同時にこの課を去ることになると思っている。
7年も馴染んだ椅子を離れるのは不安だが、その反面、嬉しくもある。
ミルクを出し終えて局長室を出ながら、果歩は、広いフロア――市役所本庁舎13階にある都市計画局のフロアを見回した。
総務課を筆頭に、都市政策部、都市デザイン室、建築指導課、宅地開発指導課、緑化推進部、住宅管理課、整備課、営繕課、設備課、それだけの部課室がパーティションで区切られて詰め込まれている。どこを見ても男、男、男、男――実際、構成員の九割が男性なのである。
都市計画局。
ここは、灰谷市役所の中でも有数の、まるで時代から取り残されたような、前時代の男性至上主義がまかり通っている局だった。
都市計画という分野のせいだろうか。多局に見られるような女性の役付きは一人もいない。女性の専門職も一人もいない。
5本の指で数えられるほどしかいない女性職員は全員、庶務か男性職員のサポート役。つまり果歩と同じ、人事、給与、そして雑用しかやらせてもらえないのである。
果歩の同期の女性には、すでに男性の上に立ってばりばり仕事をしている者もいる。
年は果歩よりわずかに若いが、本省から派遣された行政管理課の課長補佐、柏原暁凛などは、その好例で、まだ20代という若さで、役所の頭脳とも言えるポジションに立っている。
何度か彼女が総務課長と協議しているのを見たことがあるが、弁が立つというか、毅然としているというか、とにかく持っているオーラみたいなものが全く違うと思ったのをよく覚えている。
うらやましいと言えばうらやましい。が、自分にはそもそも縁がない……と果歩は思う。
正直に言えば、果歩にはここを出て、他の仕事をやっていく自信がいまひとつないのである。
入庁して9年。果歩はいまだ、庶務と秘書の仕事しかやったことがない。
秘書と言えば聞こえはいいが、女性秘書の役割は、要は雑用役。予算や決算など、市の根幹に関わる仕事は一切やらせてもらえていないのである。
給湯室に盆を返し、そのまま自席に向かっていると、すれ違う何人かの男性職員が、憧憬をこめた目で果歩を見てくれる。
元市長秘書で美人で優しい、そのイメージが思いっきり染み付いているから、果歩もそれを崩さないよう、向けられる視線には笑顔を返す。
男性が多い職場というのは、このへんが楽なのだ。笑っていれば、なんでも許されるという利点がある。
が、それが通用しない職員も何人かいて――。
「的場君、人事から矢のように催促がきているぞ」
カウンターをくぐる直前、険しい声が、何気なくすれ違った男から聞こえた。
果歩は足を止め、ダークグレーのスーツを着た男を見上げた。
そして、あ、と眉をひそめた。正直、嫌な人にからまれたな、と思っていた。
局次長の春日要一郎である。那賀局長の次のポストにいる男。
まだ53歳という若さなのに、すでに時期局長が確実視されている切れ者で、灰谷市のエリートコースを突き進んでいると言っても過言ではない。
が、その肩書きとは別のところで――果歩はこの男、春日要一郎が苦手だった。
「すみません、すぐに電話しておきます」
感情を殺した笑顔でそう答え、再び自席に向かおうとした時、背後から嫌味な声が追いかけてきた。
「的場君、局長のご機嫌取りも結構だがね。君の時間給を分に換算してみたまえ、血税で無駄なことをしている暇は1分もないぞ」
「すみません、急いで済ませていますので」
その嫌味が、先ほどのミルクのことだというのはすぐに判った。
局長へのミルク出しは、他局の者にさえ、「今どきそんなことまでさせられてるの?」と呆れられている。万事合理主義の春日が、それを快くよく思っていないのは明らかだった。
「職員への湯茶の配膳はとっくに廃止になっているんだ。君がいつまでもそんな悪習を残しているから、他課の者に示しがつかないでいることを忘れるな」
「……申し訳ありません」
「一度、自分の仕事のありかたを、考え直してみてはどうかね」
「…………」
この地獄のような忙しさの中、しかし春日はまだ話を続けたいようだった。ねめつけるような陰湿な眼差しが、じいっと果歩を見下ろしている。
「それから的場君、」
「あっ、わっ、すみませんっ」
と、素っ頓狂な声がしたのはその時だった。同時に、春日の足元にばさばさっと書類が落ちて散乱する。
ぎょっとして果歩は顔を上げる。
取り澄ました春日が無様に顔をゆがめ、ぐらり、とその痩せた長身をゆるがせた。
春日の背後から、頭ひとつ抜きん出て大きい男の顔が見える。
――藤堂係長。
新任の係長、藤堂瑛士。
果歩は、相手を認め、思わずてのひらで口を覆った。
まるで少年のようなファニーフェイス、なのに、その顔の印象を裏切る巨体。
なにしろ身長189センチ、ラグビー選手顔負けの見事な体格の持ち主なのである。
その巨体が、あろうことか、枯れ木のように痩せた春日次長に激突してしまったらしい。
「なんだね、君は、きっ、気をつけたまえ」
あきらかに癇癪を爆発させかけた春日は、それでも相手を見て、悔しげに言葉を飲み込んだ。
「すみません、あの、ちょっと急いでおりまして」
「もういい、早く拾いたまえ」
――また、この人か……。
はぁっと、果歩は溜息を吐いた。
言っては悪いが、この忙しいのに、余計な仕事を増やしてくれる。
「すみません、申しわけありません」
わたわたと巨体がしゃがみ込み、散らばった書類を集め出す。
この4月に民間会社から途中登用された男――藤堂瑛士。
去年から導入された、いわゆる「社会人枠組」の一人である。
年齢は26歳、30歳の果歩より4つも若い。
なのに、ここでの役職は都市計画局総務課庶務係長――つまり、果歩の直属の上司なのだ。
どこから見てもドンくさい男だが、元の職場でそれ相応の役職についていたのだろうか。
民間登用は、去年取り入れられたばかりの新しい制度で、いまだ試験的な意味合いが強いらしく、果歩にもその趣旨はいまひとつ判らない。
藤堂の元の職場は大手建設会社だと履歴にはあったが、正直、26歳の係長というのは、役所の常識では、ありえない人事だった。
(――間違いなく、ただの市民向けアピールだろ)
(――民間の風を取り入れますってか? いきなり係長なんて普通ありえないよな、しかも局総で)
(――都市計画も、やっかい者を背負い込んだようなもんだよ)
彼が就任して約半月、今では誰もがそう認識している。
申し訳ないが――果歩自身も。
「手伝います、藤堂係長」
「すみません」
いちいち謝らなくても……と思うのだが、年下の上司は実に素直に謝ってくれる。
――こんなだから、みんなに馬鹿にされるのよね……。
と、内心思うが、それは表情にも口にも出さない果歩だった。
何を言われても何を思っても、笑顔、笑顔、笑顔――。
そういう腹芸は、秘書と呼ばれるようになって最初の1年で身につけてしまっている。
散らばった紙を、上からスニーカーが踏みつけたのはその時だった。
「…………」
果歩が驚いて顔を上げると、いかにもこんな通路で何してるの、といわんばかりの冷たい眼差しを向けてきた男。
忙しいのか、一瞥を向けただけで慌しく通り過ぎて行ったのは、都市デザイン室の窪塚主査だった。ロサンゼルス帰りのエリートらしいが、アフロヘアを思わせる蓬髪にスーツ、その挙句スニーカーを履く変わり者で、ある意味果歩のことを完全に無視している。笑顔がまるで通用しない男の一人である。
「すみません」
藤堂は、その窪塚にまで謝っている。
主査は、階級こそ係長と同格だが、部下を持っている分藤堂の方が立場は上だ。しかも、書類まで踏みつけにされたのに――である。
――情けないなぁ……。
果歩は心底、うんざりしながら、
「慣れない環境で、大変じゃないですか」
と、書類をまとめ、あえて優しい声で言ってみた。
「いえ、まぁ、はぁ」
と、曖昧な答えが返ってくる。
黒縁眼鏡の奥の目は、こういう時、決して果歩を見ようとしない。無表情で逸らされる目は、でも、少しだけ可愛くて、クマのプーさん実写版ってこんな感じかなぁ、といつも思う。
が、ここは100エーカーの森の中ではないのだ、ある意味、弱肉強食の世界である。
で、悪いが、こののどかな上司の失態は、全て果歩をはじめとする部下に被ってくるからたまらない。
「じゃ、失礼します」
果歩はにっこり笑って立ち上がると、そそくさと自席に戻った。
在職期間は平均で3年。少なくともこの1年は確実に一緒に過ごすことになる男。
一昨年、春日が次長として異動して来た時もそうだったが、なんだかそれ以上に憂鬱だ。
いくらなんでも4歳年下の上司で、しかも使えない男なんて……。
――やりにくいなぁ……。
果歩はうんざりしながら、作りかけの書類に目を落とした。
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