年下の上司

石田累

story1 April「100エーカーの森の人」(4)



「遅くなりました」
 果歩は、手にしたファイルを、机に座る藤堂係長に差し出した。
「すみません、忙しい所、失礼しました」
 穏やかで優しい声がかえってくる。
 本当に4歳も年下なのかな、と、その時ふと思っていた。
 なんだか、ずっと――ずっと、年上の人のような気がする。
「……書庫の、一番下にあって」
 何故だかそのまま立ち去れず、果歩は切れ切れに言葉を繋いだ。隣の島の中津川補佐は、席を空けている。今の間だけ、もう少しこの人と会話をしていたかった。
「藤堂さんは背が高いから……下の方が、お分かりにならなかったんですね」
「そうですね」
 男の唇に、あるかなきかの苦笑が浮かぶ。
「……ありがとうございました」
 それだけを低く言って、果歩はぺこりと頭を下げた。
 藤堂は何も言わなかったが、果歩は、きっと彼は、ファイルの場所を知っていたのだろうと思っていた。
 あと1分で、多分、感情の抑制を崩して泣き出してしまいそうだった果歩を慮って、わざと書庫に行かせてくれたのだろう、と思っていた。
「……わけがわからん、……ったく」
 舌打と共に、中津川が次長室から出てきたのはその時だった。
 果歩は慌てて、頭上を見上げた。先ほどまで外出中だった次長室のランプが灯っている。
 中津川は、いまいましげに藤堂と果歩を一瞥すると、分厚い起案文書を藤堂の机に投げるようにして置いた。
「もう一度、都市政策と協議したまえ。どうにでも君の決裁がないと、受け付けられんと次長がおっしゃる」
「わかりました」
 藤堂の声は落ち着いている。
 正直――果歩は信じられなかった。
 起案文書をさっとのぞく。起案者はやはり晃司だ。国の補助事業の予算決定に関わるもの。
 総務の庶務係長の欄には、中津川の判が押してあって、それに、赤ペンで思い切りバツ印がつけられている。
 春日が激怒した時によくやる癖で、その怒りの矛先は、藤堂ではなく中津川に向けられたらしい。
 よほど厳しく叱られたのか、席についた中津川は、がっくりと肩を落としている。
 ――どういうこと……?
 果歩は、不思議な気持ちでいっぱいになりながら、普段通りの表情でファイルを手繰っている藤堂に目をやった。




*************************




「ごめん、今日はちょっと私がパス」
 果歩は携帯電話を切りながら、足早に屋上へ続く階段を上がっていた。
 朝から晴天の1日で、昼休憩のベルと共に姿の消えた藤堂は、きっと屋上にいるのだと思っていた。
 すぐに後を追おうとしたが、急な電話が入って足止めを食らった。
 5分遅れで後を追いながら、何やってんだろ、私……と、そんな自分に呆れてもいた。
 屋上に出て、きょろきょろと周辺を見回す。ベンチはどこも女子職員で溢れている。たまに、煙草を吸っている男性職員、ベンチに寝転び、惰眠をむさぼっている者などもいる。
 ――いた。
 目的の人はすぐに見つかった。
 これだけ大きな人は、役所にはいないから、何処にいてもすぐ見つけられる。
 便利な人……と、果歩は隅のベンチに座る藤堂の傍に駆け寄りながら、不思議な楽しさを感じていた。
「……どうしました」
 顔を上げた藤堂は、少しばかりの困惑を、その、少年のような優しい顔に浮かべている。
 果歩は、少し後悔しつつ、それでも勇気を振り絞って、藤堂の前に歩み寄った。
「あの……昨日は……ありがとうございました」
「…………」 
 不思議そうな顔で見上げる男を、果歩は、初めて異性だと強く意識していた。
「え、えっと……すみません、私、お礼がしたくて」
「いや、仕事のことですから」
 藤堂の声は落ち着いている。
 それは分かっている。分かっていても、その刹那、少しだけ果歩は傷ついていた。
「すみません、これをお渡ししたくて。あの、お邪魔はしません、すぐに失礼しますから」
 それでも仕事でよく使う笑顔になり、果歩は手にしていた紙袋を藤堂の前に差し出した。
「私、料理だけが取り得というか……趣味なんです。お弁当なんですけど、あの……父のを作るついてでで申し訳ないんですが」
 後半は思いっきり嘘だった。父親に弁当など、生まれてこのかた作ったことがない。
「…………」
 藤堂は、一瞬、実に無防備な、ぽかんとした顔になった。
「……ええと、……困りましたね」
 が、次の刹那、心底困惑したように視線を傍らのビニール袋に落とし、こりこりと首筋を掻いた。
「実は、今朝、食事を抜いてきたもので」
「……はぁ」
「大目に、4つ買ってしまいました。さすがに食べきれないかもしれません」
 笑いたくなるような、婉曲な拒絶だと思った。
 そうよね、と果歩は思った。いくらなんでも、ずうずうしすぎる。手作り弁当なんて――見知らぬ他人の作ったものは、薄気味悪いに違いない。
 妙な誤解を残してもいけない、果歩は、思い切り笑顔になって、紙袋を下に下ろした。
「すみません。じゃあ、また次の機会にしておきますね」
「いえ、いただきます」
 大きな手が伸びてくる。ちょっと、ドキっとして身体を硬くする間に、藤堂の手が紙袋を掴んでいた。
「代わりに、食べてもらえますか」
「………はい?」
 え? と思っていると、藤堂はビニール袋の中から、弁当をひとつ取り出した。
「は……あの……」
「女性はあまり食べないのかな」
「ええ……いえ」
 戸惑いつつ、その重たい弁当箱を手にしていた。これ……どうみても、ご飯増量ってやつだ。
「僕は、よく食べる人が好きなんです」
「…………」
「あ、いや、今のは関係ない話ですが」
 初めて、藤堂の顔が赤らんで、困惑とは違う、照れのようなものが浮かんだ気がした。
「あの……いただきます」
「はい」
 自分も何故か、妙に赤くなりながら、果歩は藤堂の隣に腰掛けた。
 そのまま、しばらく会話が途切れる。
 何を話して言いかもわからず、藤堂もまた、当然のように無言なので、果歩は、こうやって2人で過ごすことを少しだけ後悔していた。
 ――ヘンな誤解されなきゃいいけど
 ――私、別に……深い意味で作ってきたわけじゃないし。
 ――年、4つも違うもん、そもそも対象外だよね、私なんて。
 と、いいわけのような取りとめのない思考だけが流れていく。
 そして、間を繋ぐためにも、無理をして弁当を口に運んだ。
 初めて口にするコンビニ弁当。正直、脂っこさに辟易する。
 ――こんなものを毎日食べるなんて、いくらなんでも、身体に悪すぎるのではないだろうか……。
 と、思った時、
「……ごちそうさまでした」
「えっ」
 果歩はぎょっとして顔を上げた。ものの何分だったのだろう。かなり大きめの弁当箱は、綺麗に空になっていた。
「あの……もう?」
「美味しかったです」
「……え、はい、……どうも」
 うわ。
 なんだろ、私……今、目茶苦茶嬉しいみたいなんだけど?
 ドギマギしながら、弁当箱を受け取り、それを紙袋に元通りに収める。
 藤堂の食事はそれが最後のようで、彼は所在なげにペットボトルのお茶を口につけながら、視線を遠くに向けているようだった。
「……あ、私なら、食べてから降りますので」
 果歩は慌てて、口を開いた。
「あの、お気づかいなく」
「いえ、いつも休んでから降りるんです」
 やはり、そこで会話は途切れる。
 なのに、今度は不思議なほど居心地の悪さはなくて、むしろ果歩は、大きな身体が隣に座っていることに、安心感さえ覚えていた。
「……やりにくくはないですか」
 ふいに藤堂が口を開いた。
 彼から口を聞いてくれたのは初めてだったので、果歩は、箸を落としそうになっていた。
 藤堂は視線を、膝に置いたペットボトルに向けていた。
「4つも年下の係長なんて、やりにくいでしょう」
「えっ……いえ、……ええと、最初は」
 なんて言えばいいのだろう。変だ、私。
 果歩は妙に舞い上がっている自分が信じられなかった。
「……最初は確かに。でも、仕事は年でするものじゃありませんから」
「性でするものでもありませんね」
 即座に、穏やかな声が返ってきた。
「……的場さんは……もう少し、自分を出してもいいような気がします」
 ドキッとしていた。今度は少し、嫌な意味で。
「……どういう意味でしょうか」
「いえ、……すみません、後輩の僕の言うことじゃなかった」
 多分、果歩の声が棘を含んでいたせいだろう。藤堂の口調が、少し戸惑ったものになる。
 逆に、果歩は気が抜けていた。
「後輩ですか」
「はい、後輩です」
「……上司なのに」
 振り返った藤堂は、にこっと綺麗な笑みを浮かべていた。
「それでも、やはり後輩ですから」
 その屈託のない声に、果歩は、不思議なくらい素直な笑顔を返していた。




*************************


 
 階段を降りて、15階のエレベーターホールについた時には、始業5分前になっていた。
「すみません、私のせいで」
「いいえ」
 結局藤堂は、果歩がもたもた弁当を食べている間、待っていてくれたようだった。
 途切れがちながらも、なんとなく話もできて、少しだけ、この異星人のような男に親しみを感じるようになっている。
 というより、なんだか可愛い。
 無口なのも、無表情に見えるのも、単にシャイな性格だからだ。そう分かってしまえば、怖くも気味悪くもない。
 15階は職員食堂のある階で、近くの専門学校生も利用する食堂は、この時間、うんざりするほど込み合っていた。エレベーターホールにも、学生服と職員が入り混じってひしめいている。
「階段で降りましょうか」
 振り返って果歩は訊いた。
 2人揃って遅くなると、中津川あたりに、どんな嫌味を言われるか知れたものではない。
「そうですね」
 と、藤堂が素直に頷いた時だった。
 きゃーっと、悲鳴のような声が、混雑していた人の輪の向こうで聞こえた。
 食堂の方だった。逃げるようにそこから人が溢れてくる。
「どうした」
「何だ?」
 エレベーターホールにいる人は、逆にわけが判らず、食堂に向かって戻ろうとする人もいる。
 がしゃん、と何かが倒れる音と、それから男の怒声がした。
「学生さんたちが、喧嘩をはじめたんですよ」
 食堂から駆けてきた誰かが、早口でそう言った。
「警察呼びましょう。片方がナイフみたいなものを持っている」
 何人かが、慌てて携帯電話を取り出している。
 果歩が気づくと、隣に立っていたはずの藤堂の姿は、もう見えなくなっていた。
 ――藤堂さん……?
 とはいえ、一際背が高いから、視線を巡らせればどこにいるのかはすぐに判る。藤堂は、混雑する人並みを縫って、あっという間に食堂の中に消えていった。
「藤堂さんっ」
 果歩は驚愕して後を追った。
 一体何をしようというのだろう。彼の性格で、単に野次馬根性で向かっていったとは思えない。
「ごめんなさい、通して」
 始業開始のベルを聞きながら、果歩は人ごみを縫うようにして、食堂に飛び込んだ。
 食堂の中央では、2人の青年が睨みあいながら対峙している。その他のものは脇に逃れ、固唾を飲んで中央の様子を見守っている。
 近くの美容学校の生徒だとすぐに判った。髪が金髪と茶髪で、個性的なカットが施されている。
「てめぇ……ぶっ殺してやる」
 金髪の方が、威嚇するようにナイフをちらつかせている。
「ざけんな、オラ、やれるもんなら、やってみろよ」
 相対する男は、よほど負けん気が強いのか、それでもみじんもひるんではいない。
 どちらも専門学校生。まだ10代の子供たちだ。息を引いた果歩は、足が動かなくなっていた。
 どのみち、誰かが通報したろうから警察が来るだろう。が、それまでに、今の均衡が破れてしまったら……。
 息が詰まるような均衡の中に、ふいに巨体が飛び込んできた。止める間もない、あっという間の出来事だった。
「おっさん、邪魔すんな」
 少年が、ナイフを振り上げて威嚇する。
 ――藤堂さんっ
 果歩は目を閉じようとした。
 がつん、と固いものがぶつかるような音がした。全員が緊迫したのは一瞬で、藤堂の手が、少年のナイフを叩き落し、その腕をねじりあげるまでが、ものの数秒の出来事だった。
「い……いてぇ」
 少年が悲鳴を上げる。藤堂が手を緩める。が、途端に跳ね起きた少年は、拳を振り上げ、藤堂の顎に突き入れた。
 今度こそ、果歩は目を閉じていた。
 ものすごい音がした。人を殴る音というのは、こんなものなのかと思った。
 が、
「いっ……てぇ……」
 拳を震わせながらうめいたのは少年の方で、顎に拳を打ち込まれた藤堂は、逆に、微動だもしていない。
「気がすんだら、戻りなさい」
 落ち着いた、彼らしい声だった。
 駆け寄った職員の1人が、咄嗟に落ちたナイフを拾い上げる。
「警察呼んで!」
「す、すす、すみませんっっ」
 がっと土下座して謝ったのは、ナイフをつきつけられていた少年の方だった。
「俺ら、ふざけてて。こいつ、俺の友達なんす、こいつもマジじゃなかったんす!」
 金髪の少年は、よほど拳が痛かったのか、片手で拳を掴んだまま、まだ苦悩の表情を浮かべている。
「ホントすみません。け、警察だけはカンベンしてくださいっ」
「僕はいいですよ」
 藤堂の声がした。
「櫛を振り上げてのケンカは、あまり穏やかではありませんが」
 ――櫛……?
 果歩は初めて気がついたし、周囲も、それでようやく気がついたようだった。金髪少年が掴んでいたのは――ナイフではない。銀色の櫛だったのである。
「……すみません……カットの方法のことで、少し議論が熱くなって」
 今度は金髪の少年が、青い顔で頭を下げた。
「もう、二度としないです……。本当にすみませんでした」
「いいですよ」
 ゆるゆると、その場の緊張が解けていく。
 金髪の少年の肩を抱くようにして、もう1人の少年が、周囲にぺこぺこ頭を下げながら食堂を出て行った。それまで見守っていた専門学生たちが、ほっとしたようにその後を追っていく。
「……藤堂さん……」
 再び流れ出した人の波に逆行するように、果歩は歩き出していた。
 藤堂の顔には眼鏡がない。
 多分、殴られたはずみで飛んだのだろう。
 誰かがその眼鏡を拾い上げて、顎に手を当てている藤堂に渡していた。
「……大丈夫ですか」
 ようやく彼の傍に近寄れた果歩は、それだけしか言えなかった。
「ええ、頑丈にできているもので」
 藤堂は、かすかに笑んで、何事もなかったように歩き出す。
「……お……驚きました、お強いんですね」
 その後を慌てて追いながら、果歩は言った。
「いいえ、強ければ、殴られてなどいませんから」
 とんでもないといった感じで、即座に返事が返ってくる。
 エレベーターホールに戻ると、周囲の人が、藤堂を何気に注目しているのが分かった。
 ――ほら、あれが、今度都市計画局にきた……。
 ――ああ、民間採用の。
 ――でけぇな、一体何センチあるんだ?
 ――でも、案外あっさり、殴られてたわね。
 ――それに、笑っちゃう。櫛とナイフを見間違えたんですって。
 それは、違う。
 果歩は、むっとしながら、囁きの方に顔を向ける。
 藤堂は最初から、あれがナイフではないと気づいていた。
 が、櫛であっても、鉄製の立派なものだったから、使いようによっては十分な凶器になる。
 大人が何十人もいて、少年を止めることができなかった。あのとき、藤堂が飛び込まなかったら、あんなに素直に謝っていた少年は、取り返しのつかない罪をおかしていたのかもしれないのだ。
「……少し、口が切れてますけど」
 果歩は、彼の顔を見られないままに囁いて、慌ててポケットを探る男に、そっとハンカチを渡してあげた。
「すみません」
 エレベーターに乗っても、果歩はまだ、藤堂の顔がまともに見られないままでいた。
 眼鏡を取り払った藤堂の顔が、想像以上に男らしくて――切れ長の、黒目がちな眼差しが、思いもよらずセクシーで、こんな状況なのに、そんなことを考えてしまった自分が、ただ恥ずかしかった。



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