魔王様、溺愛しすぎです!
56. わんわんを前に我慢を覚えました
「人族ですか」
遠まわしに魔族でないなら逃げ帰れと告げる冷たい声に、魔法使いは呪文で応じた。背丈ほどもある杖の先端には魔石が輝き、足りない魔力を補う。
「アイス・アロー」
氷の矢が10本ほど作られ、すぐに放たれた。素早い魔力操作と詠唱、対処する隙を与えない攻撃の判断は素晴らしい――人族にしては。そんな感想を胸中に抱いたアスタロトをよそに、ルシファーは振り返りさえしなかった。
普段から張っている結界を脅かすほどの威力を感じない。それが理由のひとつ、もうひとつは正面に現れた小山のような灰色魔狼の存在だった。魔狼族を束ねる長フェンリルを迎えるのに、人族を相手にしながら背を向ける必要はない。
首だけで振り向いたアスタロトは、背に広がるコウモリの羽で矢を払った。黒い羽に触れる前に氷は砕けて粉々になって落ちる。
「努力は素晴らしい。その程度の魔力で見事でしたよ」
褒めているのか、馬鹿にしているのか。判断できない呟きを美しい微笑みに乗せ、アスタロトは魔法使いを消した。魔王ルシファーが侵入者を片付ける際のランダムな転移ではなく、存在を残さず完全に消滅させたのだ。
「我が君、後は我が眷属にお任せを」
ひれ伏して告げるセーレの後ろに、一回り小さなフェンリルが付き従っていた。同様にひれ伏して、鼻を地面に押し付けて礼を尽くす。セーレの息子だった。普段は魔王城近くの森にいる彼も、一族の報復に同行しようと駆けつけたのだろう。
「わんわんっ」
手を伸ばそうとするリリスを押さえて、ルシファーが「しー」と口の前に指を立てて静かにさせた。命令を下す大事な場面なので、すこしだけ我慢してもらう。
魔狼族も同様にひれ伏して敬意を示す。その後ろに魔犬族が控えていた。狼と犬の間には深い溝があるとセーレは言うが、彼らの間には友情と協定がある。同族に分類される魔犬族も参戦するのだ。
「任せた。抵抗する者は排除してよし。逃げる者は追うな。逃がしてやれ」
最後の一言にセーレが「畏れながら」と意義を唱える。
「陛下のご厚情を無にする輩ですぞ。逃がしてやるのは」
「恐怖を喧伝させるためだ」
遮ったルシファーの言葉に、セーレは再び地に鼻を押し付けた。恐怖は生き残った者の口から広がっていく。死んでしまえば誰も伝える人はいなくなる。フェンリルは静かに同意を伝えた。
「畏まりましてございます」
「真面目すぎるんだよ、お前は……もっと気楽にいけ」
ぽんと鼻の近くを叩いて笑い、ルシファーは砦への道を譲るように数歩下がった。ルシファーと一緒に手を伸ばしたリリスが、届かなかった手をじっとみる。不満そうに唇を尖らせて「わんわん」と呟いた。
「あとでだ、リリス」
言い聞かせて黒髪をなでた。セーレの息子が後ずさり、少し離れた場所で立ち上がる。すると周囲の魔狼達もそれに続いた。
「行くぞ! 我らの領域を侵したものらを追い払え」
セーレの息子を先頭に、砦の塀を崩したスロープから駆け込んでいく。すぐに内側で唸り声と剣の甲高い金属音が聞こえ始めた。
「おや? セーレ。お前はいかないのか?」
「息子にすべて任せました。我はルシファー様のお傍におります」
「そうか」
代替わりが近いと告げた彼の覚悟を微笑んで受け止め、ルシファーはセーレに近づいた。左腕に抱いたリリスが目を輝かせる。ひとつ頷いたルシファーが、アスタロトにバレないよう小声でセーレに頼んだ。
「悪いけど、リリスに触らせてやってくれ」
「はあ……」
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