あなたが創ったこの世界をわたしは壊したい。

雨野美哉(あめの みかな)

第39話

「はじめまして。私立探偵の硲 裕葵(はざま ゆうき)と申します」

素肌にオーバーオールを着た男はそう言うと、うやうやしく頭を垂れた。

そしてオーバーオールの腹についた大きなポケットに右手をさしこんだ。

瞬間、あたしは身構えた。

拳銃かスタンガンか、何かしらの凶器が出てくるような気がしたのだ。

しかしその手からあたしに差し出されたのは彼の名刺で、「硲■■探偵事務所所長 硲 裕葵」と書かれていた。

硲と探偵の間には二文字、ボールペンで塗り潰された跡があった。心霊、とかすかに読めた。

探偵というだけで十分いかがわしいのに、塗り潰されているとはいえ心霊探偵だなんてまるで漫画だと思った。指先から霊力を集めた球でも出すのだろうか。あ、あれは霊界探偵だっけ。

「鬼頭結衣さん、でいらっしゃいますよね?」

そんなことを考えながら名刺を見つめていると、探偵はあたしの名前を確認した。

「鬼頭建設のご令嬢の。間違いありませんね?
私、橋本直樹さんの友人です。橋本さんからあなたのお噂はかねがね……」

橋本直樹とはナオのことだ。

「彼なら会社、クビになったみたいだから。あたしにはもう関係ないと思うんだけど」

目の前の奇妙な格好をした探偵の言葉を遮るように、あたしは言った。

ナオの知り合いの探偵ということは、やっぱり夏目メイが雇っていた探偵だということだ。

もし彼があたしの身辺調査を依頼されていたとすれば、彼はどこまで掴んでいるだろう。


もし、じいさんの死を気付かれて、あたしが夏目組を潰そうと考えていることまで知られていたらアウトだ。

夏目メイが後手にまわることは絶対にない。必ず先手を打ってくる。

田所は自分の部下を信頼しているようだけれど、どこにナオのような内通者がいるかわかったものじゃなかった。夏目組を襲撃する前に、うちの組でいつ内乱が起きるかわからない。ただでさえ、田所ではなくじいさんを支持する連中がいつ反乱を起こすかわからないというのに、これ以上の厄介事はご免だった。


「そんな邪険にしないでください。私が夏目さんに雇われていたのは夏の終わりまでのことです。今は個人的な興味で夏目メイという人物の周辺を調べているに過ぎません」

どちらかと言えば今はあなた側の人間ですよ、と探偵は言った。

信じられるわけがなかった。

だけど、目の前の探偵がどこまで掴んでいるのか知っておく必要がある。


「そのご様子だと、橋本直樹が夏目組と、いえ夏目メイさんと言った方がいいでしょう、彼女と内通していたことはご存知のようですね」

何も知らなかったあたしはナオに麻衣について調べさせ、彼は知り合いの探偵が偶然麻衣の身辺調査をしていたと言って、麻衣の情報をあたしに横流しした。

「ナオがその女の命令で、ハルの頭の上に建築資材を落としてくれたこともね」

最初からあたしは夏目メイの掌の上で踊らされ続けていた。

「私のかつての依頼主はその少年を殺してあなたを追い詰めるつもりだったみたいですが、自分を兄のように慕う少年を彼は殺せなかったみたいですね」

おかげで少年は、あなたと橋本さんのセックスを目撃してしまうことになってしまったわけですが、探偵はそうつけ加えた。

「生きていればいいことが必ずある、なんてよく言われますけど、彼の場合、家族にはとうに見捨てられて、支えてくれるはずのあなたにも橋本さんにも裏切られて、これからひとりでつらいリハビリや見捨てられ裏切られた心の傷を乗り越えていかなければいけません。死んでしまった方が幸せだったかもしれませんね」

探偵の言う通りかもしれなかった。

あたしはハルを傷つけてしまった。

それでも、もう二度と会えなくても、ハルには生きていてほしかった。

それはあたしのエゴだろうか。


「鬼頭さん、少々お時間を拝借願えますか?」

探偵はもう一度、オーバーオールのポケットに手をいれた。

「私があなたの味方だと証明するものをお見せしますよ」

探偵はそう言って、もう一枚名刺をあたしに差し出した。



探偵から差し出された二枚目の名刺には「フリーライター 硲 裕葵」と書かれていた。

「随分儲かりそうもない仕事をかけもちしてるのね」

あたしが嫌味でそう言うと、

「儲からない仕事をかけもちしたら、余計儲からなくなってしまいまして」

と探偵は笑った。

探偵は、本業の傍ら時折雑誌に記事を書いているのだという。

「記者というのは、実は探偵とあまり変わらない仕事なんです。
探偵は依頼人の依頼を受けて特定の人物、団体などを調べ報告書を作成しますが、記者は、特に私のようなフリーの者は、自分が興味を持った特定の人物、団体などを調べ記事にします。
どちらもお互い、たった一枚の写真を撮るために何日も張り込みを続けることがあります」

つまり、探偵も記者も調査内容の報告の形式や場所が違うだけで限りなく似た職業なんですよ、と探偵は語った。

そんなことはあたしにはどうでもいいことだった。

どうでもいいことだったけれど、彼が本当にあたしの味方なら、一応ジャーナリストのはしくれにあたる彼は、小島ゆきの祖父を失脚させ、彼女を夏目メイのそばから消す、あたしのその計画に一役かってくれるかもしれなかった。

だからあたしは、

「あたしに見せたいものって何?」

そう尋ねて、話を先に急がせた。

敵かもしれない相手と無駄話をするほどあたしは暇じゃない。

味方になってくれるのであれば一分一秒でも早く味方につけたかった。


「私の事務所までいっしょに来て頂けますか? 何、このすぐ近くです」

探偵はそう言うと手を挙げてタクシーを停めた。

手を挙げればタクシーは停まる。当たり前のことなのに、何故だか彼がそれをすると、まるで魔法のように見えた。

「ここで停めてもらえますか?」

探偵に案内されたのは、横浜市内の三流私立大学のそばにある多年荘という外壁にツタがからみついた奇妙なアパートだった。

そこに辿りつくまでには迷路のように随分入りくんだ道を走ってきたので、ひとりで帰れと言われたらとても帰れそうになかった。

「あんたの事務所に行くんじゃなかったの?」

タクシー運転手から金額を聞く探偵にあたしは尋ねた。

「1815円になりますね」

車を停めた運転手が、メーターを手でいじって金額をワンメーター多くしたのをあたしは見逃さなかったけれど、どうせ払うのは探偵だ、とあたしは何も言わなかった。

「鬼頭さん、1815円だそうです」

何故か探偵はあたしにそう言って、手を差し出した。

「あんたが出してくれるんじゃないの?」

「私、今324円しか持ってないんですよ」

あたしは呆れて、しぶしぶ言われた金額を支払った。

千円札を二枚差し出すと、運転手は露骨に嫌そうな顔をした。

助手席の後ろにかけられていた、運転手の名前と顔写真をあたしは覚えて、後で苦情の電話のひとつでもしてやろうと思った。

「さっき言いましたでしょ。儲からない仕事をかけもちしたら余計儲からなくなってしまったって。私、このアパートに住居を兼ねた事務所を構えているんです」

まったく呆れてものが言えない。

どこの世の中にアパートの一室で探偵事務所を開く探偵がいるだろうか。彼の他にはいない気がした。


小さな駐輪場がある庭らしきアパートの敷地内にはいろとりどりの秋の花が咲き乱れ、まだ若い女の人が花に水をやっていた。

あたしたちに気付くと、小さく会釈をして微笑んだ。

どこか陰のある笑顔がとても印象的な人だった。

「こんにちは。硲さん。そちらの方はどなたかしら?」

その声は今までに聞いたどんな声よりきれいだった。まるで小鳥のさえずりのようだった。

「新しい依頼主、になるかもしれない方です」

と探偵はあたしを紹介し、

「はじめまして、鬼頭結衣といいます」

自己紹介をした後で、あたしはあんたに依頼なんかするつもりないわよ、と探偵に耳うちした。

すると探偵は、彼女はこのアパートの管理人で未亡人らしいと、あたしの言葉なんてまるで気にしていないようにそう耳うちしてきた。

「そうですか。探し物、見つかるといいですね」

いつの間にかあたしはなくしたものを探している女の子に管理人さんの中でなってしまっていたので、あたしは苦笑いした。

「そうそう、硲さん。また例の方がいらっしゃってますよ」

管理人さんのその言葉に、探偵の顔が曇った。

「例の方?」

あたしは思わず尋ねていた。

「ええ、行方不明になられた妹さんを探してらっしゃる方なんですけど、何てお名前だったかしら?」

探偵の代わりに管理人さんがあたしに教えてくれた。

「二代目……」

探偵がぼそりと呟いた。

「二代目花房ルリヲですよ」

探偵が口にしたのは、新進気鋭のまだ若い作家の名前だった。


二代目花房ルリヲは、去年愛知で起きたたてこもり事件をヒントに書いた「ドリーワン」という小説で華々しく文壇にデビューした新進気鋭の作家だった。

代表作に「口裂け女、人面犬を飼う」シリーズを持つ直木賞作家花房ルリヲを父に持ち、彼が原作の映画でヒロインを演じ続けた女優内倉綾音を母に持つ。

デビュー小説の発表後まもなく、なかば自主製作に近い形で自身の作品を監督して映画化したドリーワンは、妹に二代目内倉綾音の名を与えて芸能界デビューさせヒロインを演じさせ、監督、主演ともに花房ルリヲと内倉綾音の子どもが務めることで話題になった。

今年の夏には、製作費がたったの10万というフェイクドキュメンタリー映画を撮り(あのブレアウィッチプロジェクトの十分の一の製作費だ)、興業収入数億円と言われるほどの大ヒットとなり、二代目花房ルリヲは一躍有名映画監督になった。

妹、二代目内倉綾音の本名は加藤麻衣と言って、彼の小説や映画のヒロインは必ず加藤麻衣という名前が与えられていた。

あたしが彼の作品を見たのは、一度だけしか会ったことのないあたしの友達と出会った直後のことだった。同じ名前だったから、とても印象に残っていた。

二代目内倉綾音が行方不明になったのは、10月のはじめのことだった。

もう一ヶ月以上も前のことで、警察は家出と誘拐の両面で捜査しているとテレビのニュースで伝えられていた。最初こそ連日報道されていたけれど、続報が一切なく繰り返し同じ情報が流れ、コメンテーターの憶測ばかりが並べたてられるようになり、他に話題性のある事件が起きるとすぐにワイドショーの話題にものぼらなくなっていた。

二代目内倉綾音がその後見付かったという話は聞かなかった。


二代目花房ルリヲは、探偵の住居兼事務所のアパートの一室のドアの前で、彼の帰りを待っていた。

最初の映画が公開された頃は兄妹の不仲説が週刊誌を賑わせていたけれど、ふたりは「バストトップとアンダー」という彼の小説にも登場するインディーズバンドのボーカルや作詞、ドラムや作曲を務めるなどしていて、週刊誌が騒ぎ立てるほど不仲ではないという印象をあたしは持っていた。

しかし目の前にいる二代目花房ルリヲという男は、テレビで見ていたような才能と野心に溢れる新進気鋭の作家とはまるで別人のようだった。

いつも小綺麗にサロン系の洋服を着こなしていた彼は、ヨレヨレのシャツにジーンズという格好で、髪もくしゃくしゃだった。顔は憔悴しきっていた。

不仲どころか、妹がいなければ何も出来ないような、情けない男に見えた。

「見せたいものってこの人?」

あたしがそう尋ねると探偵は首を横に振った。

二代目花房ルリヲは、あたしの言葉も聞こえていないようで、あたしたちの存在にも気付いていない様子だった。

探偵の事務所のドアをぼんやりと見つめながら、ずっと何かを呟き続けていた。麻衣、麻衣、と妹の名前を呼んでいるのだと、耳をひそめるとわかった。

「彼ではありません。彼は私の今の依頼主です。警察が家出の可能性も誘拐の可能性も極めて低いとさじを投げてしまったために、妹さんを捜すように私に依頼してきたのです」

探偵は二代目花房ルリヲの顔を覗きこみ、今日も何も進展はありませんよ、と言った。

二代目は、とても残念そうにため息をついて、踵を返すととぼとぼと歩いて行った。

「何かわかり次第必ず連絡します」

その背中に探偵は声をかけた。


二代目は振り返ることもなく、力なくただ手だけを振って、階段を降りていき、やがて見えなくなった。

「鬼頭さんは彼が夏の終わりに野いちごというケータイ小説サイトで連載を始めた『夏雲』というケータイ小説はご存知ですか?」

探偵のそんな言葉にあたしは首を横に振った。


「一度読まれるといいでしょう。きっとそこにあなたの知りたいすべてがあります」


探偵が何を言っているのか、このときのあたしにはよくわからなかった。

その言葉の意味を知るのは、ほんのすこしだけ後のことになる。


「お見せしたいものは、事務所の中にあります」

探偵は事務所の入り口のドアの鍵をあけて開くと、あたしを部屋に招き入れた。


          

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