青篝の短編集

青篝

青髪の青年

朝6時前になると、
目覚まし時計が鳴る前に
私は顔に重みを感じて目を覚ます。
我が家の愛犬、『クーちゃん』が
散歩の時間だと私を起こしたのである。
木曜日は母が散歩の担当だったはずだが、
今朝のクーちゃんの気分は私だったらしい。
グチグチと口の中で文句を言いつつも、
私は重い瞼をこじ開けて、
目を擦りながら洗面所に向かう。
その間も、クーちゃんは尻尾をブンブン振り、
散歩用のリードを咥えて付いてくる。
顔を洗い、服を着替えて玄関までくると、
クーちゃんは早く早くと
飛び跳ねてアピールしてくる。
けれど、リードを首に付ける時だけは
おすわりして大人しくなるので、
思わず偉い偉いと褒めてしまう。
玄関を開け、まばゆい朝日に目を細める。
梅雨も近い6月の上旬になると、
太陽はすっかり昇っていた。
もうこんな時期かと物思いにふけるも、
クーちゃんに引っ張られて
私は歩き出すしかなかった。
スズメの鳴き声や、木々の葉が騒ぐ音。
新聞配達の大学生が自転車で通り過ぎ、
朝ごはんを作っている家からは
甘い卵焼きの匂いが流れてくる。
そういえば、最後に卵焼きなんて
作ったのはいつだっただろうか。
最近はもっぱら忙しくなり、
家事のほとんどは母に任せきりだ。
クーちゃんの散歩さえしてくれたら
あとは任せて欲しいと母は言ったが、
どうしてもどこか負い目を感じてしまう。
母も還暦を目前に控えているし、
私もいい歳になってきた。
忙しいことを免罪符にして
全てを任せてしまうのは、
やはり間違っているのではないだろうか。

「…かわいい子ですね。お名前は?」

しかし、私の中で結論を出す前に、
誰かに話しかけられて
思考を放棄することになった。
私の足がぱったりと止まり、
一人の男性がクーちゃんと戯れている。

「あっ、はい。クーちゃんです。」

散歩中に話しかけられるのは、
別に珍しいことではない。
クーちゃんの可愛さに魅せられて、
大人も子どもも寄ってくる。
私が反射的に答えると、
彼は私の方に視線を向けた。
深海のように暗い海色の髪と、
ラピスラズリをはめ込んだような
妖美な青の瞳が印象的な青年だった。
初めて見る顔だ。
最近引越してきたのだろうか。
彼は私をじっと見つめて、
クーちゃんに視線を戻すと、

「今度は、いい飼い主さんで良かったね。」

と、言って静かな笑みを浮かべた。
彼のその言葉に応えるように、
クーちゃんは元気に一つ鳴いた。
こんなにクーちゃんが初対面の人に
懐くのは初めてだったから、
私は少なからず驚いた。
クーちゃんの返事を聞いてから、
彼は立ち上がり、私の方へと向き直る。

「これからも、大切にしてあげてくださいね。
世の中には責任なんて考えないで、
生き物を大切にしない人もいますから。」

私は、去って行く彼に、
何も言い返すことが出来なかった。
全てを見透かしたような彼の言い方に、
心を封じられた感じがしたから。
そして彼が、今にも泣いてしまいそうな、
とても悲しい表情をしていたから。
──クーちゃんは、拾い子だった。
3年程前に私が拾ってきたのだ。
まだ真っ直ぐ歩けないような、
小さな小さな子犬だったのに、
ダンボールに入れられて放置されていた。
幸い、人に対して怯えることはなかったけれど、
世の中には、犬や猫に暴行するような
ヒドイ人達がたくさんいると聞く。
私の住む地域ではそんな話は聞かないけれど、
さっきの彼には覚えがあったのだろう。
彼の頬にあった大きなアザが、
壮絶な何かを物語っていた。
クーちゃんを愛でている時の彼の手は、
とても優しいものだった。
それが、彼の悲しい現実が作った産物なら、
これ以上皮肉なことがあるだろうか。
振り返ってみるけれど、もう彼の姿はない。
クーちゃんも、彼の後ろ姿を
探しているようにも見えたが、
多分、私の気のせいだろう。
変なことがあって、少し神経質になっている。
私はクーちゃんに声をかけて、
また2人で歩き出す。

大丈夫。私達なら、大丈夫。
誰かが動物達を愛さないのなら、
その人達の分まで、私が愛情を注いであげる。
だから彼には安心して欲しい。
あなたは、孤独じゃないんだと。

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