青篝の短編集

青篝

人の姿

自分が産まれた時の瞬間なんて、
映像でも見ない限り分からない。
でも、一つ言える事があるなら、
きっと、貴方が産まれた時には
貴方は泣き喚いていて、
周りの人達は笑っていたでしょう。

「――だからね、陽菜。
お母さんにその時が来ても、
陽菜は泣いちゃダメよ?」

生活感のない白い箱の中、
ベッドの上で母親と娘が言葉を交わす。
頬の肉はすっかり落ちてしまい、
点滴で命を繋ぐ母親の姿を見て、
娘は不安になっていた。
今よりもっと小さい頃に
同じような姿になっていた祖母は、
娘とまともに話も出来ないままに
二度と会えなくなったのだ。
自分の母親もそうなってしまうのかと、
娘は不安で不安で仕方なかった。
今年で中学生になるとはいっても、
まだまだ心は夢見る少女。
母親の言葉を受け入れられず、
ブンブンと首を横に振る。
母親にガッシリとしがみついて、
頑固たる様子で離れようとしない。

「もう…この子ったら……」

困ったように眉を寄せ、
しかしどこか嬉しそうに、
母親は優しく娘の頭を撫でる。
その腕ももう骨と皮だけで、
肌色も白くなっていた。
娘の体温を感じながら、
母親は言葉を振り絞った。

「私は、こんなにも家族に愛されて、
とても幸せな人生でした。
思い残すことは…そう、陽菜の
中学校の制服を着た姿を、
最後に見たかったかな。
今と昔で変わっているけど、
私には当時全然似合わなかったから、
陽菜には似合って欲しいな」

傾いたベッドに身を沈め、
消え入るような声で。
母親は精一杯声を出しているが、
もう長くない体は
思い通りに動いてくれない。
そんな母親の様子が、
娘をより一層不安にさせる。

「いや!」

子どもっぽい意思表示だった。
まるで、お気に入りのぬいぐるみが、
もう古くなったからといって
親に捨てられそうになっているようだ。
力一杯母親に抱きついて、
顔を埋めている。

「これも、痛いはずなのにな……」

既に、痛みさえ感じない母親は、
痛がることも泣くことも叶わない。
ただ、細い腕で娘の頭を撫でるだけ。

「ありがとう……陽菜…。
愛し………て…る」

やがて、母親の腕が
力尽きてダラりと垂れ下がった。
やっくりと瞼を閉じて、
無慈悲にも機械の音が鳴る。
夕陽が差し込んでくる、
静かであるべきの病室で、
一人の少女の泣き叫ぶ声が
廊下の方まで聞こえていた。
その叫びを聞いた一人の男は、
息を荒らげて現場に辿り着いたはいいが、
しばらくの間、
目の前の白い扉を開けられなかった。



母親は、哲学が好きだった。
いくつもの学者の本を読み、
いつしか自分でも
似たようなことを考えては
紙に書き残したりしていた。
その中で、彼女が最後に
薄く頼りない字で書いた文章は、
今も後世で語られている。

『貴方が産まれた時には
貴方は泣き喚いていて、
周りの人達は笑っていたでしょう。
そして、貴方が死ぬ時には
貴方は笑っていて、
周りの人達が泣いてくれるように、
悔いのない人生を歩みなさい』

最愛の娘に泣き付かれ、
夫には誰もいない所で泣かれ。
彼女の最後は、
一滴の涙を頬が伝う、
優しい母親の小さな笑みだった。

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