小さなヒカリの物語

あがごん

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ちょうちょ結びを終え、ドアに手をかける寸前。
「いけね、忘れてた!」
大事なことを思い出した。履きかけの靴を脱ぎ、朝の日課をこなしに奥の部屋へ向かう。正座して手を合わせ、
「今日も一日何事もなく過ごせますように」
仏様に祈りを捧げる。毎日欠かさずにやってきたことを忘れるなんて、たぶん今日の俺は入学式という言葉に舞い上がっているのかもしれない。母さんは俺の合掌を見届けて、すたすたと玄関までついてきた。これは毎日のことだ。
「ハンカチ持った?」
「持った」
言うと、しゃもじが少し顔から離れる。
「ティッシュも入れた?」
「入れた」
うーんと母さんは悩むようなポーズをとって、
「あ、保険証のコピー忘れてないでしょうね?」
これはどうだとしゃもじが俺の顔近くに接近してくる。けれど、
「それもある」
いくら忘れ物の多い俺でも、プリントに載ってる内容くらいは確認してある。
「あっ、そうそう、今日ね」
母さんはさらに何か言おうとするが、たぶんそれも俺は用意してるはずだ。母さんにいちいち言われるようになってからは自分でも多少ましになったつもりだ。
「あぁもう、いいから! もう分かったからさ。じゃあ行ってきまーす!」
小うるさい話を朝から聞くと気が滅入る。俺を引きとめようとする母さんの声を振り切って、俺は家を飛び出した。
朝の冷たい空気に当たって眠気も覚め、気分は爽快。身体的にはちょっと寒いくらいだ。
家から学校までは約二キロの距離で、坂道が三つあるのを除いて他は平坦な道が続く。
それぞれ坂道には名前があって、最初は日陽坂、次が苦悶坂、最後が地獄坂という。
各坂道には名前の由来があったらしいがそのときは話半分程度だったため、今じゃ深く覚えていない。まぁそんなことよりも、俺の心を占める喜びの理由のほうが遥かに大事だ。
新しい出会いとかも高校に望んでないわけじゃないが、一番の幸福材料は『高校生になったらいちいち口を出さない』という母さんとの約束にある。
今朝はまだ俺は高校生じゃないという母さんの認識により、しゃもじを投げられたが、明日いや今から何時間後にはもうお小言は言われないようになってる。そう思うと本当にうれしい。自分でも頬が緩むのが分かる。少し急な傾斜でも苦にはならない。楽な感じで歩を進める。歩みを助ける下り坂

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