僕のことを愛してください(仮)

みーなつむたり

4話 君の名前を教えて



聞き覚えがあるような、ないような、しかしとても耳心地のいい声が聞こえる。

『もう、終わりでいいんです。』

とても心地がいいのに、その声は絶望を紡ぐ。

心に広がったのは、ただ深い悲しみだけだったが、それを伝えるための声が出ない。

『あんなに泣いてばかりの毎日から解放されるなら、もう、終わりでもいいんです。』

駄目だ。あなたが生きなくては駄目だ。
俺の命なんかより、よっぽど価値のあるあなたの方が生きなくては駄目だ。

『価値なんて、皆にあるようで、やっぱり皆にない。ただの他人の評価でしかないわ。そんなものなら、なくてもいい。』

・・・目映い光に包まれて、体の半分がごっそり持っていかれた感覚に引っ張られるように目を覚ました。

「ここは、どこ?」
口を開いたつもりだが、やはりうまく声が出せない。

視界の定まらない中で、不安そうに覗き込んでいた誰かの、慌てた様子が伝わってくる。その誰かが、自分の目覚めを喜んでいる。それは不思議な感覚で、同時に初めての感覚だった。

「目を覚ましましたよ!ほらほら、」

なぜだろうか。看護師を連れて戻ってきたその男性に見覚えがある。なのに全く名前が脳裏に浮かんでこない。

「下咲さーん、下咲さーん、下咲瑞季さーん、ここがどこかわかりますかー?」

間延びした看護師の声に、ただの反射で力なく頷く。頷くが、ここがどこなのかも、看護師が呼んだ名前が自分の名前なのかも、容易には理解できなかった。

「えっと、俺は、」
「・・・え?」

酸素マスク越しの瑞季の言葉を聞いて、訝しく眉をひそめたのは看護師の方だった。

「『俺?』・・・下咲さん、あなたは、」

戸惑う看護師を制止するように肩を叩く男があった。先ほど目覚めた時に傍にいたあの人物だと、何となくわかる。

その若い男は、看護師と何かしらを話している。すると看護師は瑞季のベッドを離れ、代わるように若い男が瑞季を覗き込んできた。

「あんたは、石田くんか?石田連太郎くんなんだな?」
「そうです、俺は、・・・俺は、」

若い男の問いに頷くのに、もう問われた名前が思い出せない。

「あれ?俺は、・・・俺の、名前は、」

「おい!新堂!もうそのくらいにしておけよ!患者に意識混濁が見受けられる。これ以上は面会不可だ!」

新堂と呼ばれた若い男の背後に、ドタドタと足音を立てて手術衣を着た背の高い中年男が現れた。新堂がその中年男に向かい、身振り手振りで何かを懸命に話している。

自分ももっと色々話を聞きたいのに、頭に靄がかかったようで、はっきりしない。重たい目蓋を開けていることも敵わず、若い男の背中を見ながら、瑞季はそっと意識を手放した。


「新堂。彼女は下咲瑞季だ。もう二度と、彼女の前で『石田連太郎』の名前は出すな。ただでさえ犯罪紛いの心臓移植をしているんだ。これ以上、問題を大きくするなら、それなりの手段を講じるぞ」
「わー、それは困りますね。出すぎた真似をしました!すみません!以後気を付けます!」

高圧的な中年医師の言葉に、新堂は上辺だけ真摯に謝り、逃げるように病室を後にした。


病院を出ると、ちょうど救急搬送を終えて基地へ戻ろうとする救急車に遭遇した。
新堂は大袈裟に手を振って運転席の内田に近づく。内田は運転席の窓を開けた。

「なんだ新堂、また来てたのか」
「ええ、まあ。・・・それより内田さん、乗せて帰ってくださいよ!」
「お前はアホか。非番の救急隊員を乗せたことがバレたら俺が始末書だろ。歩いて帰れ」
新堂は唇を尖らせるが、内田は素知らぬ顔で運転席の窓を閉めて、救急車は走り去っていった。


新堂は救急車が通りすぎた後の、アスファルトに染み付いた赤黒いシミのそばに立ち、それを見下ろし溜め息をつく。

新堂は、未だに脳裏に焼き付いたあの時の光景を、一時たりとも忘れることができないでいた。

・・・

「そいつは!そいつは心臓を提供する意思を示したんだ!だから!」

新堂は酷く取り乱し、内田に羽交い締めにされながら、首を切った石田の救命に駆けつけた医師たちに訴え続けた。

「こいつは心臓提供の意思表示をしたんだ!」
「いいから落ち着け!新堂!」
「内田さんも言ってくださいよ!こいつは、こいつの心臓はさっきの患者さんに!さっきの、」

異常な行動だと、客観的に見ればわかることだ。あの時自分は憑依されていたのではないかとさえ、今は思う・・・

新堂は、昨日よりは幾分軽い足取りで、病院を後にし、帰路についた。





          

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