線香花火

銀足車道

お別れ

 喜衛門の目から涙がこぼれた。冷に気づかれぬように、サッと袖で拭った。二人は浜辺を過ぎて、八幡神社の前にいた。
「入るべえ」
ようやく、喜衛門は口を開いた。鳥居をくぐり中へ入ると、白い砂利を踏みながら本殿へと向かった。そしてカランコロン。鐘を鳴らして、厳かに二人はお参りをした。
「あそこに、座るべえ」
二人は、大きな杉の木の前に座った。
「何をお願いしたの?」
 冷は、結婚のことだろうと思った。二人の幸せがずっと続きますようにとか、子宝に恵まれますようにとか、そんなことをお願いしたに違いないと思った。が、実際は違った。神様を前に、喜衛門の頭は真っ白であった。
「ああ。えーっと」
 喜衛門は困った。そんな喜衛門を見て、いつまで照れてるんだこの人は。と、腹が立った。そのとき、井戸が目に入った。
「見て見て。あの井戸。こないだ、頼朝さんが来て水垢離をしたんだよ」
 それを聞いた喜衛門は、立ち上がり井戸の前に行くと水を汲み上げた。そして、ざばあっと頭から水を被った。
「ちょっと、何してんの?」
 驚き駆け寄ってくる冷を遮って、喜衛門は鐘を鳴らし、パンパンっと勢いよく柏手を打った。深々と礼をして叫んだ。
「源氏の再興をお願い申す!」
 喜衛門は水垢離をしたのだった。
「冷、おらあ武士になる!」
「武士って。何馬鹿なこと言ってんの」
「おらあ源頼朝さんに天城で会ったんだ。そんで言われた。武士になれって。これからは、新しい時代になる。あの方なら、それを必ずやってのける。おらあ、力貸してえ。頼朝さんのために。正義のために命懸けてえ」
「そんな。結婚はどうするのよ!私、あんたと結婚するって決めたのに」
「結婚は。結婚は待ってくれ。おらあ、必ずおめえ迎えに行くからよ」
「馬鹿。馬鹿。馬鹿よ。武士だなんて。死んだらどうするのよ」
 そう言って、冷は喜衛門の胸を叩いて泣きじゃくった。喜衛門は、冷を強く抱きしめた。
 このあと、喜衛門は、漁師仲間に武士になることを知らせて詫びた。皆反対だった。特に幼なじみの八兵衛は喜衛門のことを思って猛反対した。が、喜衛門の決意は固かった。運脚は他の漁師が担当することとなった。そして、喜衛門は稲取村を去った。

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