始まりの杖は終焉を導く

黄舞@ある化学者転生3/25発売

始まりの杖は終焉を導く

しとしとと雨が降っていた。空は厚く真っ黒な雲に埋め尽くされ、人々は既に『陽』というものを忘れてしまった。
土は腐り、草木は枯れ、灰色の大地の上に降り続け止むことの無い酸の雨。それに対応した『異形』のみが外での生を許され、人々は『村』と呼ばれる施設の中で細々と暮らしていた。

「坊主。こんな所で何しとる。死ぬぞ?」

そんな死の大地に老人と少年が立っていた。

老人は真っ白になった髪と髭を長く伸ばし、身は小綺麗で上質な外套に包まれていた。不思議なことに雨に打たれているのにも関わらず、その身体はいっさい濡れた様子がない。

一方、少年は短く乱雑に刈り上げた黒髪をしている。薄汚れた服からはところどころ素肌が見え、酸の雨から身を守るものは身につけていない。

「食い扶持減らすために、捨てられたんだ。見りゃあ分かるだろ? 俺はこのまま死ぬか異形になるんだ。ほっといてくれ」

いつからか、そんなことはもうみな忘れてしまった空を覆う雲。そこから降り注ぐ酸の雨は、生きるものに二択を迫った。ひとつは純然たる死。そしてもうひとつは異形となり、生あるものを襲うものに成り果ててしまうかだ。
しかし異形になる確率は誰も知らない。人が異形になったという事実も、これまで観測されたことは無かった。少年を追い出した『村』の者たちは、少年が異形になるなどと思ってもいないだろう。

「そうか。そりゃあすまなかったなぁ。どうか、許しておくれ」
「じいさんはなんでこんな所に居るんだ? もしかして異形なのか!?」

「いや。違う……もっと悪いもんさ。坊主、名はなんという?」
「悪いもん? 異形より悪いもんなんてあんのかよ。こえぇな。まぁいいや。俺はカルラって言うんだ。そんなの聞いてどうすんだよ?」

カルラは老人の意図が分からず困惑した様子だ。しかし、いつの間にか老人と同じように、自分に降り注ぐ酸の雨が、もう身体を濡らしていないことに気付き、驚いた顔を見せる。
それを見た老人はただ辛そうな顔をカルラに向けるだけだった。

「わしにできるのはこのくらいだ。許してくれ。だが、いくら酸の雨から免れたとしても、異形に出逢えばそれっきりだ。食うものも無い。どこか余裕のある『村』を探すしかないな」
「じいさん! すげぇや! 魔法使いかよ!?」

魔法使いというのは、まだ酸の雨が降り始める前に居た、不思議なことを起こすことができる『魔法』を使うことができる者たちの総称だ。
人々の生活を豊かにし、様々な危険から人々を守り、賞賛と羨望を一身に受けていた。しかし何故だか知るものは居ないが、酸の雨が降り始めてから魔法使いは人々の目の前から姿を消してしまった。

「いや。違う。もっと……悪いもんさ」
「なんだよ。じいさんさっきから。そういえば、じいさんはなんて言うんだ?」
「わしか? わしはな、ローレンツ。ローレンツ・ハーミットじゃよ」

それがやがて世界中の雲を退け、再び人々の頭上に『陽の光』をもたらすことになる少年カルラと、自らの罪を償うために旅を続けていた魔法使いローレンツとの出会いだった。



ひたすらに続く灰色の大地を、二人はゆっくりと歩みを進めていた。
降りしきる酸の雨は、地面の至る所に水溜みずだまりを作り、それがまるで蜘蛛の巣のように網目状に細い川で連なっていた。

「じいさん。どこまで行く気だ? こんな風に歩いてたら、異形に出会でくわすんじゃないのか? そうしたらお終いだってじいさん言ってたろ?」
「大丈夫じゃよ。わしにはこれがあるからな」

そういうと、ローレンツは懐から樫の木で出来た短い杖を取り出し、カルラに見せた。それが何なのかを知らないカルラは、不思議そうな顔をローレンツに向ける。

「その棒っきれがなんだってんだ? でも俺知ってるぜ。それ『木』ってやつだろ? すげぇな。初めて見たや!」

酸の雨を逃れるために人々が作った施設『村』。そこでは人が生きるために栽培も行われているが、育つのは芋や葉、あとはせいぜいつるのような植物だけだった。
木は場所の問題や育つために必要な『火の光』が大きいため、育てる者などほとんど居ない。カルラも木という名前とどんなものかは知っていても、実際に目にするのは初めてだった。

「ほう。カルラよ。お前は学があるな。その年で色々と知っているようだ。なのになぜ村を追い出された? もっと年老いたものなど、お前よりも先に減らされそうなやつがいてもよさそうじゃがな」
「しょうがないよ。俺は忌み子なんだって、村の人たちが言ってた」

忌み子とは、様々な理由で村の住民から忌避されている子供のことを言う。カルラが何故忌み子とされたのかは、当の本人も知らないようだ。
唯一の肉親である母親は、カルラが村から出されることが決まった日、泣きながらひたすらに謝り続けたという。

気になったローレンツはカルラに杖を向け何かを念じた。カルラの身体の周りが淡く白い光に包まれる。
その間、何をされているのか、動いていいのかダメなのか分からず、カルラはただじっとローレンツが何か言うのを待った。

「分からんな……特に体のどこかに異常があるわけではないようだ。健康そのもの。しかし、お前は歩くのが遅いの?」
「うっさいなあ。これでも頑張って歩いてるんだよ! 村のみんなにも言われるんだ。『力なしカルラ』ってね。俺の全力はみんなの普通より下なんだ」

ローレンツは一度首を傾げたが、それ以上は何も言わずにカルラの村から西に向かったところにあるという、別の村に向かって歩を進めた。心なしか先ほどよりも歩く速度が落ちたようにも見える。

どこまでも続く雨雲を見上げてカルラはローレンツに声をかけた。

「それにしてもこんな雲。なんでできたんだろうなぁ。村の大人に聞いても誰も知らないっていうんだよ。じいさんは何か知らないか?」
「知っている……と言ったら、聞きたいか? 聞いたらお前が死ぬことになるかもしれんぞ?」

「なんだよそれ。こえぇな。じいさんは良い人なのか、悪い人なのかいまいちわかんないもんな。でも、こうやって俺を助けてくれるんだからきっと俺にとっては良い人だ」

カルラのその言葉に、ローレンツは何か思うところがあったらしく、顔をカルラに向け不器用にほほ笑んだ。細かなしわが刻まれた色白の顔に、数本の深い皺がさらに描かれる。
しかし次の瞬間、ローレンツは険しい顔付きをして目線を自分の身体の前に戻す。その仕草があまりに急だったため、カルラは何事かと驚き、ローレンツが見つめる先へと目を凝らした。

「異形だ。カルラ。動くんじゃないぞ!」
「あ、あれが異形!? なんか、黒くてもやもやしてて、よく分からないよ」

カルラから見た異形は、村に数頭しかいない『羊』と同じような大きさで、背丈も似ていた。しかし、その姿はあいまいで黒いモヤがかかっているように見える。
目を凝らしてもそれがなんであるのか、カルラには理解が出来ないようだ。

「異形を見るのは初めてか? そりゃそうじゃな。普通の人が異形と出会って生き延びることなど奇跡に等しい。異形はな、初めて見る者にその姿をはっきりと示さん。『ソレ』が何なのか分かるためには、一度相手を殺さんといかんのじゃよ」
「こ、殺すってどうやって!? 俺は武器になるようなものは持ってねぇよ? じいさんのさっき見せてくれた棒で戦おうにも短すぎるだろ?」
「まぁ、見とれ」

そういうとローレンツは杖を異形に向け、なにやら唱え始めた。すると不思議なことに杖の先端が赤く輝きだし、やがて杖の先から火の玉が現れ異形に向かって飛んでいく。
異形はすでに二人に気付き、そちらに向け走り出している最中だった。

カルラははっきりとその姿かたちが認識できていない。
それなのになぜか『走っている』ということだけは頭で理解している自分を、心底不思議に感じたのか、はたまたローレンツの使う『魔法』を目の当たりにして驚いているのか。

見開いたままの目で異形と火の玉、その二つの動きを追った。

やがて二人に向かって走っていた異形に火の玉がぶつかる。するとその瞬間爆音が鳴り響き、当たりにまぶしい閃光が走った。
カルラは思わず目をつぶり、光が収まったことを肌で感じた後にゆっくりと瞼を開いた。

そこにはすでに異形の姿はなく、辺りには無残にも飛び散った異形だったものの欠片が散乱していた。

「すげぇや! じいさん! 本当に魔法使いだったんだね! その魔法って、俺も使えるようになるかな!?」
「止めとけ。魔法使いなんてもんはな……ろくなもんじゃあ、ない」
「なんだよ、それ。ちぇっ。あーあ。俺もじいさんみたいな魔法が使えたらなぁ。こんな雲なんかぶっ飛ばしてやるのに……って、あれ? これって……」

カルラは辺りに散らばっていた欠片に目を向け、驚きの表情を見せる。すでに黒いモヤのようなものは消え失せ、『ソレ』が何だったのか、カルラにも理解できた。

それはカルラの村にも居た『羊』の残骸だった。

「な、なんだよこれ。これが異形ってやつなのか? 俺の知ってる羊のまんまじゃねぇか!」
「そうじゃよ。異形、と言ってもな。このように実際の姿が変わるわけじゃない。元の姿のままじゃ。ただ、先ほどのように初めて見る者には黒いモヤのように見えるじゃろ? それが襲ってくる。元の何倍も強い力でな」

カルラの村では羊は貴重な生き物だった。乳を出し、毛は衣服になり、死ねばご馳走の肉となった。
カルラも一度『村』で羊が振る舞われるのを見たことがある。美味しそうに焼けた羊の肉は、匂いだけでも涎が止まらない程だった。しかし、忌み子と蔑まれたカルラの口にその肉が運ばれることは無かった。

生活を豊かにし、一時は夢にまで見たご馳走となる羊。その羊が異形として襲ってきた事実に、カルラは背筋にうすら寒いものを感じずにはいられない様子だ。

「ほれ。何をしておる。放っておくと酸の雨に汚染され食えんくなるぞ。今のうちにこの袋に詰めるのじゃ」
「ええ!? じいさん、異形なんか食うのかよ? 大丈夫なのか? そんなの食ったら自分も異形になっちまうんじゃないのか!?」

「大丈夫じゃよ。言ったじゃろ? 姿が変わるわけじゃないと。それにな、異形になったものたちは可哀そうな被害者なんじゃ。助けるためには殺すしかない。ならばせめてわしらの血肉になった方が、このまま腐り果てるよりもこのもののためになる」

ローレンツの言っていることが半分くらい理解できなかったが、羊の肉が食えるということにはカルラも嬉々とし、散らばった残骸から大丈夫そうな部分を借りた袋に詰めていった。
ローレンツが事前に魔法をかけていたようで、地面に落ち、酸の雨に打たれていたのにも関わらず、羊の肉は一切濡れていない。辺りには焼けた肉の香ばしい匂いが漂っていた。

自分用なのか、ローレンツも別の袋を手にしている。反対の手に持つ杖を残骸に向けると、ひとりでに残骸が宙に浮き、次々と袋の中に飛び込んでいった。

☆☆

「どれ、ここら辺で腹ごしらえをするとしよう。さっきの肉を焼いて食うぞ」
「やったー! 俺、肉食うなんて生まれて初めてだ! さっきから匂いだけでヨダレがやばかったんだよ」

先ほど異形と出会ってからしばらく歩いたあたりで、ローレンツは食事の提案をした。ちょうど朽ち果てた集落の跡地に差し掛かった時だった。
集落の跡地と言っても、そのほとんどは朽ちて外観すら残っていない。一つだけまだ屋根として意味をなす土作りの家があり、そこに入っていき先ほどの袋から羊の肉をおもむろに取り出す。

その間、カルラは物珍しそうに土壁を手で触っていた。脆くなった土が崩れ落ち、小さな穴ができてしまった。
このまま触り続け倒壊でもしたら、とカルラはそっと壁に添わせていた手を引いた。ふと気付くとえも言われぬいい匂いが漂ってくる。

「何しとる。焼けたぞ。こっちに座りなさい」
「うん! ありがとう」

見るとどこから出したのか、腰掛けになりそうな形のでっぱりの上には綺麗な布が置いてあった。明らかに上等だと分かる品で、今の時代このような布を手に入れること自体難しそうだ。

「これ……この上に座っていいのかい?」
「うん? もちろんじゃ。いいから。わしは腹ぺこじゃ」

カルラは恐る恐る布の上に腰掛ける。出来るだけ体重をかけないように重心を変な位置にかけているようだ。
おそらく自分の着ている服の汚れを、綺麗な布に移さないように、と頑張っているのだろう。その様子にローレンツが気付く。

「さっきから何やっとるんじゃ。気にせんでいいぞ。まぁ、分かるがな。その布は汚れんし破れることも無い。魔法の布じゃよ。気にせずしっかり座りなさい。そんなのでは疲れてしまうじゃろ」
「う、うん。それじゃあ……」

ローレンツの言葉にカルラはようやくしっかりと体重をかけた。不思議なことに下は決して滑らかとは言えない腰掛けなのに、肌に当たる感触はまるで柔らかいものに腰を下ろしたような座り心地だったようで、カルラは驚きのあまり一度立ち上がってしまった。

「はっはっは。言っただろう。魔法の布じゃと。特別な魔法が幾重にもかかっておってな? わしの自慢の作品の一つじゃよ」
「じいさんが作ったの!? やっぱり魔法使いはすげぇや!!」

「いや。わしが特別じゃったんじゃ。多くの魔法の品を作り上げた。中でも……いや。気にせんでくれ。馬鹿な話じゃ」
「なんだよ。気になるな。あ、これ、本当に食べていいの!?」

カルラにとっては不思議な魔法の話よりも目の前の香ばしく焼けた、美味しそうな羊の肉に興味が勝ったようだ。唾を飲み込み、今すぐにでもかぶりつきそうなほどじっと見つめている。
それを見たローレンツは楽しそうな表情で、二つの容器に肉を取り分け、片方をカルラの目の前に置いた。

ローレンツの合図を待たずにカルラはその肉を口に運ぶ。羊の肉特有の匂いと甘い脂の味、そして初めて口にする肉の食感に、カルラは幸せそうな顔をする。
その表情に満足しながら、ローレンツも肉をどこからか事前に取り出していた金属製の食器を使い、綺麗に切り分けながら食べ始めた。

明らかにカルラに取り分けられた肉の量の方が多いはずなのに、ローレンツがまだ半分と言ったところでカルラの容器は空になる。空になった容器についた脂やカスをカルラは文字通り舐めとっていた。

「はっはっは。そんなに気に入ったか。幸い肉はまだある。出来れば他のものも食いたいところじゃがな。まぁ、そのうち手に入るかもしれん」
「本当か!? こんな美味いもん食えるなら、俺、ずっとじいさんと一緒でもいいな!!」

カルラは喜色ばった顔でそんなことを言ったが、それを聞いたローレンツはどこか浮かない顔をしていた。まるで、『一緒に居る』ということに絶望でも抱えているかのように。

「さて。そろそろ行くかの。ここもじきに危ない」
「行くって、西の村にやっぱり向かうのかい?」

カルラの問いかけにローレンツは一度だけ頷く。二人はその場を後にした。
食事に使った容器や食器、そして先ほどの魔法の布は、カルラが目を離した間に気付くと消えてしまっていた。

「ふむ。危なかったようじゃな。すぐに動いて良かった」
「え?」

ローレンツが来た道を振り返りそう呟いたので、カルラも不思議そうに後ろを振り返る。
途端に地響きと轟音が鳴り響き先ほど居た土づくりの建物は、崩れ去ってしまった。

(もしかしたら、さっき開けてしまった穴が原因だろうか……)

カルラは自分の行為がもたらした結果かもしれないと思い、自分の軽はずみな行動を恥じた。そんなことなど知らないローレンツは、しばらくの間後ろを振り返って動かないカルラを、不思議そうに見つめていた。

☆☆☆

とめどなく続く酸の雨。そして地面を這う細い川たち。他に目につくものもなくカルラはぼんやりとそれを見つめながら、ひたすらに西を目指していた。
目指していたと言っても、実際はカルラを酸の雨から救ってくれた老人ローレンツの隣を、はぐれぬように必死について行くだけだった。

そんなカルラが、『ソレ』に興味を持ったのは仕方の無いことだった。
変化の乏しい風景の中で、『ソレ』は明らかに異質だったのだから。

(なんだろあれ)

そう思い、ローレンツの方を見た。
しかしローレンツは何も見えていないかのように、まったく気にしない様子で目的の方角に目を向け規則的に手足を動かしている。

「ねぇ。じいさん。あれはなんだい?」
「うん? あれとはなんのことじゃ?」

「なんだよ。じいさんは目が悪いなぁ。ちょっと見てきていいかな」
「あ、これ!」

カルラたちから少し離れた位置にあった『ソレ』に向かって、カルラは走り出す。
酸の雨でできた川が流れ集まった中心に、一つの小さな枝のようなものが刺さっていた。

大きさは子供の腕くらいで、地面から生えたようにも見える。
不思議なことは、川の水がそこに向かって集まっているのにも関わらず、いっさい水溜まりができていないことだった。

「なんだろこれ。まるで水を吸い込んでるみたいだ」

枝に近付きカルラは特に何も考えずに、右手でその枝に触れようとした。

「それに触れてはならん!!」

初めて大声を張り上げ、慌てた様子のローレンツにカルラは目をやる。
どうやらローレンツもカルラを追って枝の方に向かってきていたようだ。

しかしローレンツの声が届く頃には、カルラは既にその枝を強く握りしめていた。
それを見たローレンツが悲しみとも後悔とも見えるような、今にも泣き出してしまいそうな表情をした。

「なんだよ。じいさん。びっくりするなぁ。この変なのがなんだって言うんだよ。なんともないぞ?」
「な、なんじゃと!? その枝に触れても本当になんともないのか?」

カルラはその場で伸びをしたり、飛んでみせたりして自身の無事を示す。
それを見たローレンツの顔は、驚きの表情で固められていた。

「ま、まさか……いや。しかし現にこうして……」

ローレンツは一人呟きながら思考の海へと沈んでいるようだ。
カルラは訳が分からず、ローレンツの言葉を待った。

「すまんがカルラよ。もう一度、その枝に触れてもらえぬか?」
「え? いいけど。こうか?」

カルラは先ほどと同じように枝を握りしめる。
その様子をローレンツは、垂れ下がった瞼に覆われた瞳を見開きじっと見つめていた。

しばらく経ち、カルラが飽きてしまい始めたころ、ローレンツの瞳から突然止めどなく涙が溢れ出した。
自分の何倍もの月日を生きてきたであろう老人が突然泣き出したことに、カルラはどうすればいいのか分からずオロオロとするだけだった。

「な、なんだよ。じいさん。俺、なんか悪いことしたか?」
「違う。違うんじゃよ。これは喜び。気が遠くなるほど探し求めた宝物をやっと見つけた、喜びの涙じゃ」

カルラは枝から手を離し、少し離れた位置に立っていたローレンツへと歩み寄る。

「宝物? この枝がじいさんのずっと探してたものなのか?」
「違う。違うんじゃよ。わしが探し続けた宝物。それはな。カルラ。お前なんじゃ」

振り続ける酸の雨の中で、雨にも身を濡らすことの無い不思議な魔法を使う老人が、自らの涙に顔を濡らし、カルラを強く抱き締めていた。

☆☆☆☆

「これはな【始まりの杖】と呼ばれるものの末端じゃよ」

心を落ち着かせたローレンツは呟くように、ぽつりぽつりと枝の説明をした。
その説明はカルラに取って、いや、事情を知らぬ全ての者に取って驚愕的な話だった。

【始まりの杖】。これが酸の雨を降らせ、陽の光を全ての生きとし生けるものから奪った元凶だと言うのだ。
そして、この杖は、生き物からある物を奪うのだとか。

杖が奪う物。それは『魔力』と呼ばれる、ほとんどの生き物に流れる力の源だった。
魔力を吸い取られ尽くしたものは、死に絶える。

一方で、魔力を全く持たずに生まれるものも、ごく僅かではあるがこの世に生を受けることがある。
その多くは知性の低い動物のようなものに多く見られたが、極々稀に人間にもそのような存在が居た。

大抵は魔力による無意識での身体能力の向上が無いため、一般的な人たちよりも全てにおいて劣る。
しかしある時、不幸なことにある人物の元に魔力を持たない女の子が生まれた。

普通であれば少女は無能と蔑まれ生きるしかない運命だったが、父親はそれを許そうとしなかった。
不幸は重なる。父親はそれを許さないほどの権力と地位を持っていた。

結果として、魔力を外部から吸収しそれを所持する者に分け与えるという杖が生まれた。
その少女に福音をもたらすと期待された【始まりの杖】と呼ばれたその杖は、栄華を極めた人の世に終焉をもたらした。

初めに犠牲になったのは多くの動植物だった。
杖を作り出すためには莫大な魔力が必要となる。

それを補うために魔力の元々少ない動物や植物が大量に犠牲になった。
そのおかげで、杖は完成しついに少女の元に献上されることなる。

次に犠牲になったのは少女自身だ。
杖の有り余る魔力を一身に受け、杖の主になるはずが杖に支配されてしまった。

少女を核として、杖は無数の根を生やし世界中にその力を広げた。
目的は外部から魔力を吸収することのように見えた。

その結果、さらに犠牲者となったのは、大勢の魔法使いたちだった。
魔力が高い魔法使いたちは襲われるように、杖から生えた根に捕らえられ、やがてそれぞれが枝に姿を変えた。

更にその枝や杖からは止めどない量の雨雲が発生し、陽の光を消し、地上に酸の雨を降らし始める。
雨に打たれた生き物は、魔力を徐々に奪われ、やがて死んでいく。

雨に溶けた魔力は、世界中に散らばる枝に集まり、その地中に広がる根に吸収されていった。
これが【始まりの杖】の話だとローレンツは苦しそうな顔で話しきった。

「そんな話があったなんて……でもじいさん。なんでそんなこと知ってんだよ?」
「何故じゃと? ……それはな。わしがこの杖を作り上げた元凶。張本人だからじゃよ」

ローレンツの突然の、とんでもない事実の告白に、カルラはなんと言っていいのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
酸の雨が奏でる音だけが、二人の間の静寂を包み込んでいた。

☆☆☆☆☆

静寂を破ったのはローレンツだった。
ローレンツはカルラにすがるように話しかけた。

「カルラ。何度も申し訳ないんじゃが、やって欲しいことがあるのじゃ。聞いてはくれないか?」
「な、なんだよ。やって欲しいことって。難しいことなら、俺、出来ないぞ!」

カルラは内心、焦りのような居心地の悪さを感じているようだ。
目の焦点は、目の前に居るローレンツと、視界の端にある枝を行き来している。

「なに。お主になら簡単なことじゃよ。その枝をな。根元から折って欲しいんじゃ」
「え!? やだよ! これってさっきの話が本当なら、元々人間だったんだろ?」

「元じゃ。もう元に戻す方法はない。こいつの生前の名前はな。ナディア。わしの妻じゃよ」
「え!? じいさんの奥さん!?」

あまりの話に、何度驚けばいいのか、カルラは軽く目眩を覚えた。
先ほど握った枝が、元々ローレンツの妻などと言われても信じることなどできない話だ。

それほどまでにローレンツの話は奇想天外で、奇妙だった。
しかし、何故かカルラはこの老人、ローレンツが嘘をついていないと確信していた。

一度大きく唾を飲み込むと、恐る恐る枝に近付き、先端に両手を当てた。
その後強く握ると勢いよく手元に引き寄せる。

頑丈でしなやかそうに見えた枝は、まるでその時が来るのを心待ちにしていたかのように、抵抗もなく根元から綺麗に折れる。
勢いをつけていたカルラは、自らの勢いを殺しきれずに後ろに数度たたらを踏んだ。

「じいさん。これでいいの……か?」

しっかりと握りしめた枝をローレンツに見せようと高く掲げた瞬間、カルラの頭の中に女性の声が響いた。

『ありがとう……これでようやく私も……夫を、ローレンツをどうか頼みます。可哀想なあの人……』

まるで囁くように、諭すように、柔らかな心地のその声は、はっきりとカルラの頭の中で意味をなし、そして消えた。
カルラは不思議に思いながらローレンツに今起きたことを伝える。

「じいさん! なんか女の人の声が聴こえたぞ! じいさんをよろしくって!」
「おぉ……おぉぉ……」

ローレンツは、先ほど乾いたばかりの顔を、先ほどよりも強く濡らし嗚咽を漏らす。
カルラはふと、辺りの様子が変わったことに気が付き天を仰いだ。

カルラが生まれる遥か前から、一度も止むことの無かった酸の雨が、二人の頭上だけピタリと止んでいた。

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