永遠の抱擁が始まる
第三章 最初の抱擁が始まる【五千年の約束2】
「──かのようにし、その二人は園から追い出され、この地に住まうことになったのです」
「それで、裏切りの魔王はどうなったのじゃ?」
「彼もまた、男女と同様にこの地に堕ちました。力の全てを奪われた後に」
「では今もどこかにいるのか、魔王は。興味深いのう。是非とも逢ってみたいものじゃ」
 
そして女王が玉座から立ち上がります。
彼女がその言葉を発するのは初めてのことでした。
 
「そなたの話は面白い。もっと聴かせよ」
 
特に悪い点のない娯楽、または女王にされた指摘を綺麗に切り返せた表現者はそれまでにも何人かいて、そういった賢き者は死に追い込まれることがありませんでした。
しかし、女王から賛美の言葉をかけられた者や他の作品を求められた者はというと、それまで一人たりともおりません。
次の話を所望された青年が幸運かどうかは判りませんが、彼は女王にとってとても珍しく、特別な者であったようです。
 
「承知いたしました。それでは、そうですね。太古にあった戦争の御話などいかがでございましょう? ある王が大剣を振りかざし、たった一人で様々な国を制してゆく物語にございます」
「よし、話せ」
 
青年の語る物語は、女王の興味を非常に駆りたてました。
ある話は新鮮で、ある話は痛快。
またある話は刺激的で、ある話は神秘に満ちています。
青年は次々に物語を繰り広げてゆきました。
 
当初は椅子に深く腰を下ろし、軽く頬杖をついていた女王ですが、いつしか身を乗り出し、その目を大きく見張って青年の話に没頭してゆきます。
 
「つまり彼女が男装を解かれたのも、落下するところを助けられたのも、全ては父親に殺されるこの日のためだったのでございます」
「なるほどのう。では常に女の恰好をさせれられていた弟のほうはどうなったのじゃ?」
「彼はその後、姉に成り代わって男として生きることとなり、終いには父親の財を継ぎました」
「ほう、無情なりにもよく頭の回る親じゃ」
 
あくる日もあくる日も、青年は物語を語ります。
女王は人を悶絶させたい衝動など忘れ、ずっと耳を傾けています。
青年はまるで竪琴を奏でるかの如く、流れるように言葉を紡いでゆきました。
 
「その男は言葉が足りないばかりか人の話さえも解しません。美しき姫は道理に合わぬことを許しませんから、その商人をひっ捕らえ、痛み渦巻く地下の部屋へと連れました。
男はこれから自分の身に降りかかる苦痛を予感し、止めてほしいと哀願します。自分には大切な一人娘がいるのだと。結婚したばかりで子を宿しているのだと。だから無傷で帰りたいのだと申し出ます。その言がまたしても説明になっていなかったので、姫は怒りのあまり笑いました。
『孕んだ娘がいるから無事に帰りたい? 意味が解らんわ! 娘がいようといまいと関係なかろう! そんなに許してほしいならこの十五本の手投げの矢を全てあの的に当てよ』
指差す先には壁があって、そこは色とりどりに塗られています。花畑のようなその壁には丸い印があって、的として盛り上がっておりました。的は大の大人が両の手を結んで作った輪ほどの大きさです。そこにはいやらしく笑う魔人の絵が描かれてありました。
姫が合図をすると楽団が高らかに陽気な曲を奏で、姫は男に『心して遊戯せよ』と命じました。
一投、また一投と商人は小さな矢を投げてゆきます。一本でも外れてしまえば殺されてしまいますから、その様はとても必死でござました。
ところが、途中で投げた矢が的に刺さらずに床へと落ちてしまいます。商人は青ざめて『お許しを』とひれ伏しました。しかし意外にも姫は寛大で『気にするな。一投ぐらい大目に見てやろう。今一度投げよ』と自ら矢を広い、男に手渡してあげるのです。
商人はそれで安堵し、やがて全ての矢を的に当てました。
『見事じゃ!』と姫が手を叩きます。男はそれでさらに安心しました。しかしすぐ、男は大きな声で泣きじゃくることになるのでした。
明るい曲が止まり、兵士たちが彩り豊かな壁をどけると、そこには若い女が柱に括りつけられているのが判ります。
姫が高らかに言います。『娘がいるから無事に帰りたいのか、娘が子を宿しているから無事に帰りたいのか、おぬしの言いたいことがさっぱり解らぬが、両方ともいなければ問題なかろう? おぬしが自ら排除したのじゃ。これでもう、家に帰らずともよいな?』
男が的だと思って矢を突き立てていた物は、落書きを施された一人娘の膨れた腹だったのでございます」
 
その話をとても不思議に思ったので、女王は問いました。
 
「そなた、その話は本当に自分で作った物語か?」
「その問いに答える前に、わたくしに遊戯の提案をさせていただけませぬでしょうか?」
「許そう。なんだ?」
「質問の合戦にございます。女王様の問いに答えたら、今度はわたくしの問いに貴女様がお答になる。これを交互に繰り返すのです」
「ほう、面白い。乗ってやろう」
「ありがたき幸せ。では先の問いの答えを申し上げさせてくださいませ。今させていただいた噺は、わたくしの想像によるものではございません」
「ふむ。では、そなたが問う番じゃ」
「お訊ねします。何故、この噺が私の作ではないと気づかれましたか?」
「心当たりがあるからじゃ。では、わらわの番じゃな? そなたの物語、必ず最後に人が死んだり国が滅ぶのう。何故じゃ?」
「そこにお気づきになるとは、女王様の才にはつくづく思い知らされます」
「世辞も達者よのう」
「わたくしの物語はわたくしが考え出すものではなく、亡骸が教えてくれるのでございます」
「亡骸が? どういうことじゃ?」
「恐れながら申し上げます。女王様、問いは交互とさせていただいております」
「おお、そうだったな。今のはわらわの失言であった。許せ」
 
ただの平民に謝罪をするのは初めてのことでしたが、女王は何一つ嫌な気がしません。
そのことが自分でも不思議でした。
 
「お訊ねいたします。女王様は、今まで殺めた者のことを覚えておられますか?」
「忘れることもあれば、思い出すこともある。で、 亡骸がそなたに物語を伝えるとは、どういうことじゃ? 詳しく申せ」
「は。女王様に癒しの力があるように、わたくしにも特別な力がございます」
「ほう」
「人の亡骸を見ると、その者が生前にどのような道を歩んでいたのか、まるで自分の思い出であるかのように知れてしまうのです。例えその亡骸が白い骨になり、果てていたとしても」
「なるほどのう。それで今の噺にも納得がいく。そなた、わらわが処刑し、野ざらしにしておいた男の亡骸を見たというわけか」
 
女王はそれで、責めに責め抜いた商人のことを思い返しました。
ささくれのような細かな返しの棘がたくさん付いた鉄の棒で、何度も何度も尻を犯したときの、あの男の表情といったら。
気を失う寸前に下郎の傷を癒し、再び体内を傷つけ、失神に成功されたら今度はへその穴に木の枝を突き刺して起こす。
そんなことを何度繰り返したことか。
 
女王はかすかに吐息を漏らし、足を組み直しました。
自分が湿っているのが自分でも判ります。
 
「遊戯は止めじゃ」
 
女王はまじまじと青年の唇を眺め回します。
彼は若く、たくましく、眼に力がありました。
 
「そなた、わらわの夜の相手をしてみるか?」
 
一国の長が庶民に体を委ねるなど、今までに例がありません。
しかし女王は続けました。
 
「わらわに面白い噺を聴かせた褒美じゃ」
 
椅子からゆっくりと立ち上がり、留めていた黄金色の髪をほどくと、女王は女の眼で青年の首筋に手を添えます。
 
「誰もが羨むこの身体、抱いてみい」
 
しかし、なんとしたことでしょう。
青年は片手を挙げて女王を制してしまうのでした。
 
「お断り申し上げます」
 
まさか拒絶されるとは思っていなかったので女王はわずかに驚き、また同時に残酷な光を表情に浮かべます。
 
「おぬし、怖気づいたか? それとも自分には勿体ないと判断したか?」
 
答えによっては青年に命はありません。
女王は腰に下げた鎖に手を添えました。
 
青年は、まっすぐに女王の目を見つめます。
 
「わたくしと交われば、貴女様が死んでしまうのです」
「なに?」
 
思いもよらぬ答えでした。
 
「わらわが死ぬとな?」
「はい」
「何故じゃ」
「わたくしの病が移り、女王様の身体を汚してしまうからです」
「ほう。そなた病気か」
 
それならば問題が大きくありません。
女王は鎖の柄から手を離します。
 
「そなたは運が良い。わらわ自らが特別に治してくれようぞ。どこが悪い?」
 
ここかここかと女王は青年の胸を、腰を、背に手をやります。
すると女王はたじろいて、青年の顔を、頭を、手を、足を、指を、隅々に触れてゆきます。
 
「なんじゃこれは! 良いところなど一つもない! そなた、全身を冒されておるではないか!」
 
すると青年は寂しげに微笑みます。
 
「わたくしは血を患っているのでございます」
「血だと!?」
 
女王にとってそれは聞いたことのない症例でした。
 
「治しても治しても、悪い血がすぐに良い血を汚してしまいます。わたくしの命はもう長くはないのです」
「なにを馬鹿な! 試しもせずに何故判る!?」
 
青年の服を脱がせ、女王はその胸板に両手を置いて念を込めます。
治しても治しても良くなったその血は体内を流れてしまい、すぐに悪い血と混ざって汚れてしまいます。
女王は狼狽しました。
 
「わらわの治す早さが足りぬのか……」
「自分の身体にあるこの悪い予感、勘違いではありますまい」
「そなた、死ぬのか」
「はい。近いうちに、必ず」
「死ぬると人はどうなるのじゃ?」
 
今まで散々人を死に追いやっておきながら、そんな疑問は今の今まで持ったことがありません。
女王は若き男にすがります。
 
「教えよ。人は死んだあと、どこへ行く?」
「生まれ変わって別の者となり、再び生きます」
「ではそなたが死んだらすぐに生まれ変われ。そしてわらわを訪ね、面白い物語をもっと聞かせるのじゃ」
「それは叶いません」
「どうしてじゃ!?」
「次に生まれるときには、今のことを全て忘れてしまうからです」
「そうだ! そなたの血、全て移し替えしてしまおう! この国には腕の良い医者だって大勢おる! 血も屑どもから集めれば事足りよう」
「ありがたいお話ですが、それもできることではございません」
「何故に!?」
「理由が二つございます。どちらも大事なことです」
「申せ」
「はい。一つは、人の血には多くの種類があるのです。闇雲に他者の血をわたくしに入れてしまえば馴染まぬ血はたちまちに我が身の中で暴れだし、わたくしは二度と動けなくなってしまうでしょう」
「もう一つの理由とは?」
「もう一つは、わたくし自身の性質故でございます」
「性質とな?」
「はい。水のない場所で魚が生きられないのと同じく。わたくしは、自分のために誰かが犠牲になることを嫌います。そんなことがあるぐらいなら、わたくしは自らこの命を絶ってしまうことでしょう」
「そうか。では、どうにもならぬのか」
「なりませぬ」
 
それで女王は黙ってしまいました。
夜風がそよそよとバルコニーを流れ、松明の光を揺らせます。
 
「わたくしが死ぬまでの間──」
 
青年が沈黙を破りました。
 
「少しでも多く、女王様のお側に居させてはもらえぬでしょうか?」
「そなたはなにを望んでおるのじゃ?」
「貴女様にもっと多くの物語をお聴かせしたい。それがわたくしの希望にございます」
「何故じゃ? 何故そなたは命を使ってわらわに尽くす?」
「わたくしが物語を語るようになったのは女王様、貴女様にお聴き入れいただきたかったからに他なりません」
「それが解らん。わらわに慕情があるわけでもあるまいに」
「あります」
「ん? 今、なんと?」
「貴女はお美しい」
 
この言に女王はすっかり唖然としてしまい、もはや声を出すことが叶いません。
 
青年がすっと腰を上げ、女王の肩にローブをかけました。
 
「今宵は寒うございます。お身体を壊さぬよう」
 
彼は深々と女王に礼をします。
 
「それではまた明日に。失礼いたします」
 
それはそれはとても綺麗な月夜のことでございました。
 
詩人のように美しい気持ちを持つ青年。
彼の本当の願いが女王への復讐であることを、彼女はまだ知りません。
 
 
夜が深まった頃に男が女の部屋を訪ねる理由はそう多くはないでしょう。
大臣がいそいそと、抑えきれぬ欲情を胸に扉の前に立ちます。
美しく浮き彫りにされた黄金の獅子は輪を咥えており、大臣はそれを手に取ってそっと三度扉を叩きました。
中から女王の声が聞こえます。
 
「誰じゃ」
「わたくしめにございます」
 
普段ならここで「入れ」と命じられ、そのまま情事に励むのですが、この晩は違いました。
 
「わらわは疲れておる。用があるなら明日に聞く」
 
大臣が女王にどんな用事があるのか、いつものことなので彼女は解っているはずです。
今宵は月に一度の女の日でもありません。
にもかかわらずこの言い草。
大臣にかすかな違和感を与えました。
 
鎮められるとばかり思っていた自分自身を慰められないのは大臣にとって思いもよらぬこと。
すぐに戻る気が起きようはずもありません。
 
「女王様、愚民をこらしめるための新たな道具の話でもしませぬか」
 
すると扉の向こうから「くどい」と苛立った声が。
 
「わらわは疲れておると言っているのだ。二度言わせるようならおぬしが考案した道具を全ておぬしに使うぞ。下がれ馬鹿が」
 
こうして大臣が覚えた違和感はさらに膨らみを増すのでした。
 
女王はというと、部屋で多くの書を貪るかのように読み漁っています。
様々な病気を取り扱った本。
薬草について詳しく書かれた本。
血を良くするための食事の作り方が書かれた本。
それら多くの書は女王の寝台の上で山のようになっています。
 
さて。
約束の日になると、いつものように物語の使い手が閲覧の間に現れました。
うやうやしく頭を垂れる彼に、女王が命令をします。
 
「今日は物語を聞かせずともよい。城外の散策をいたす。供をせい」
 
護衛を付けず、人目を忍ぶかのように女王は青年を連れ出すのでした。
 
湖の畔では鳥の鳴く声が遠くでするだけで静かなもの。
切り倒された大木の幹に、二人は腰を下ろしました。
 
「愛の女神とまで称されるわらわに治せない病があっては沽券にかかわるからのう。家臣たちの目に届かぬほうが好都合なのじゃ」
 
女王はそのように切り出します。
彼女は次々と薬草や瓶詰めにされた薬品を取り出しました。
 
「そなた、これらの薬は試したことがあるか?」
「その問いに質問で返す無礼をお許しください。これらは一体……?」
「どれも血に効く物ばかりじゃ。わらわ、普段は自分の力で傷も病も治せるゆえに知識がなくてのう。書物を久しぶりに読んだ」
 
薬草や薬を家臣に取り寄せさせれば「なんでも治せるはずの女王が何故このような物を欲するのだろう」と不思議に思われてしまいます。
そこで彼女は変装をして庶民に成りすまし、自ら町まで買い出しに行っていたのでした。
 
「そなた、これら全部持ち帰って試せ」
「恐れ多いお心遣い、痛み入ります」
「そなた独り者であったな? 食はどうしておる?」
「は。自分で作ることもあれば、宿の食堂を利用することもありまする」
「それはいかん。日頃の食にも注意を払え。治療にならずとも、悪化を食い止めることぐらいにはなろう」
「勿体無いご忠告、誠にありがとうございます」
「そうだ。そなた城まで馬で来ていたな? それ以外は歩くのであろう? 血の巡りが早くなっては身体に悪い。これからはわらわがそなたの住まいに出向いてやる。そなたは横になったまま物語を話せ」
 
彼は内心、とても大きく驚いていました。
青年の病気をしっかりと理解していなければ、この薬草もあの忠告も出ようはずがないからです。
女王が陰でどれだけの本を読んだのか、容易に察することができました。
 
だからこそ、女王は知っているはずです。
様々な手を尽くして命を一日伸ばすことはできても、死は確実にやってきてしまうことを。
 
この日は夕刻まで世間話をし、青年は何度も女王に礼を言って帰路についてゆきました。
 
それからというもの、女王は護衛をつけぬまま青年の家に足を運ぶようになります。
歓迎のための茶を用意しようとすることさえ、女王は許しません。
 
「そなたは寝ておれ。茶など飲みたい気分ではない。それより、薬はまだあるか? そろそろなくなる頃かと思ってな、新しいのを持ってきた」
 
薬草を手渡す女王のその指先が傷だらけだったので、青年は疑問の念を抱きました。
 
「女王様、お手に怪我を」
「構うな。それより、今日はどんな物語を聞かせてくれるのじゃ?」
 
青年の寝台の横に椅子を持ってきておいて、彼女は長いようで短い物語を堪能します。
今日の噺も、とても楽しむことができました。
 
「面白かった。褒美じゃ。台所を借りるぞ」
 
女王は立つと、鞄を手に調理台に向かいます。
 
何を始めるのかと好奇心が湧いて青年が密かに覗くと、なんと女王は一生懸命に本を見ながら、料理を作っているではありませんか。
食材を見ると、どれも血に良い物ばかり。
慣れない手つきで山菜を刻み、苦労して火を点け、湯を沸かしています。
青年はそっと場を離れ、寝台で横になって待ちました。
 
「できたぞ」
 
女王がシチューとパンを青年の部屋まで運んできました。
手の傷がさらに増えたのか、指先には薄く包帯を巻いています。
 
「さあ食せ。ただし、わらわの力で人が治せないことが民に知られたらただではおかんからな。薬草のことも食事のことも決して他言するなよ」
「承知いたしました」
「よし、では喰おう」
 
それはお世辞にも美味と呼べるものではありませんでした。
肉は固く、野菜の形は歪で、風味も良くありません。
 
一緒に食べている女王もそう感じ、「身体に悪くないのだが、美味くないな」と悲しげな表情を浮かべます。
 
しかし青年は断ずるのでした。
 
「たいへん美味しゅうございます。このように美味なる料理は今まで口にしたことがございません」
「そうか!」
 
女王が嬉しそうに表情を明るくします。
 
「城の調理場で練習した甲斐があった! 今度はもっと美味くなるようにするゆえ、楽しみにしておれ」
「ありがたき幸せ。いやしくも、全て平らげさせていただきます」
「うむ。遠慮するでないぞ。そなたの病が治ったら葡萄酒を飲もう」
 
青年にとって孤独ではない食事は久しぶりで、それはとても心温まる一時でした。
 
女王はそれからというもの、毎日のように青年の家に通います。
中には物語を所望せず、ただ会話をするだけという日もありました。
 
「のう、そなた将来の夢はあるのか?」
「今は死を待つだけの身ゆえ、夢など持ち合わせてはおりません」
「そう言うな。愛の女神の名にかけて必ずそなたを治す。いつまでもそなたの物語を聴きたいからな。最近はな、わらわ、治す早さを上げようと思ってな、今まで以上に癒しの力を民に振るっておる。いずれそなたの悪い血が巡るよりも早く全て治癒させるゆえ、安心せい」
「恐れ多いお言葉、恐縮せざるを得ません」
「で、そなたの夢はなんじゃ?」
「そうですね。以前はささやかながらでも家族を持ちたいと望んでおりました」
「ほう」
 
人が家族を欲する心も、それを大事に想う気持ちも、女王は知識として理解していました。
民の持つその感情を拷問に利用していたからです。
この青年も人として当たり前の願望を持っていたのでした。
 
「そうか、家族か」
 
女王は拷問以外のことで、初めて家族について考えを巡らせます。
どんなに力を施しても、青年の命を大きく伸ばすことはできないことを女王は既に察していたからです。
 
一方、城内では不穏な空気が漂っていました。
 
「この頃は女王の様子がおかしい」
「護衛もつけず、行き先も告げずにどこかに通っている」
「拷問をしなくなったばかりか、癒しの力を民にまで振舞うようになった」
「あれだけの傲慢、それで許されるわけでもあるまい」
「私は人前で怒鳴られ、辱めを受けたことがある」
「私など目の前で家族を苦しめられ、殺された」
「私など、妻が産んだばかり赤子を丸焼きにされた。それを皆の見守る前で、妻と一緒に喰わされたのだ!」
「いつまた横暴な女に戻ることやら」
「今の女王は油断をしている」
「恨みを晴らすなら今だ」
「殺してしまうなら今だ」
 
進んで指揮を振るったのは、大臣でした。
 
そんな相談がされているとは露とも知らず、女王は今日も青年の家まで足を伸ばします。
この日の彼女は特に胸を弾ませておりました。
「それで、裏切りの魔王はどうなったのじゃ?」
「彼もまた、男女と同様にこの地に堕ちました。力の全てを奪われた後に」
「では今もどこかにいるのか、魔王は。興味深いのう。是非とも逢ってみたいものじゃ」
 
そして女王が玉座から立ち上がります。
彼女がその言葉を発するのは初めてのことでした。
 
「そなたの話は面白い。もっと聴かせよ」
 
特に悪い点のない娯楽、または女王にされた指摘を綺麗に切り返せた表現者はそれまでにも何人かいて、そういった賢き者は死に追い込まれることがありませんでした。
しかし、女王から賛美の言葉をかけられた者や他の作品を求められた者はというと、それまで一人たりともおりません。
次の話を所望された青年が幸運かどうかは判りませんが、彼は女王にとってとても珍しく、特別な者であったようです。
 
「承知いたしました。それでは、そうですね。太古にあった戦争の御話などいかがでございましょう? ある王が大剣を振りかざし、たった一人で様々な国を制してゆく物語にございます」
「よし、話せ」
 
青年の語る物語は、女王の興味を非常に駆りたてました。
ある話は新鮮で、ある話は痛快。
またある話は刺激的で、ある話は神秘に満ちています。
青年は次々に物語を繰り広げてゆきました。
 
当初は椅子に深く腰を下ろし、軽く頬杖をついていた女王ですが、いつしか身を乗り出し、その目を大きく見張って青年の話に没頭してゆきます。
 
「つまり彼女が男装を解かれたのも、落下するところを助けられたのも、全ては父親に殺されるこの日のためだったのでございます」
「なるほどのう。では常に女の恰好をさせれられていた弟のほうはどうなったのじゃ?」
「彼はその後、姉に成り代わって男として生きることとなり、終いには父親の財を継ぎました」
「ほう、無情なりにもよく頭の回る親じゃ」
 
あくる日もあくる日も、青年は物語を語ります。
女王は人を悶絶させたい衝動など忘れ、ずっと耳を傾けています。
青年はまるで竪琴を奏でるかの如く、流れるように言葉を紡いでゆきました。
 
「その男は言葉が足りないばかりか人の話さえも解しません。美しき姫は道理に合わぬことを許しませんから、その商人をひっ捕らえ、痛み渦巻く地下の部屋へと連れました。
男はこれから自分の身に降りかかる苦痛を予感し、止めてほしいと哀願します。自分には大切な一人娘がいるのだと。結婚したばかりで子を宿しているのだと。だから無傷で帰りたいのだと申し出ます。その言がまたしても説明になっていなかったので、姫は怒りのあまり笑いました。
『孕んだ娘がいるから無事に帰りたい? 意味が解らんわ! 娘がいようといまいと関係なかろう! そんなに許してほしいならこの十五本の手投げの矢を全てあの的に当てよ』
指差す先には壁があって、そこは色とりどりに塗られています。花畑のようなその壁には丸い印があって、的として盛り上がっておりました。的は大の大人が両の手を結んで作った輪ほどの大きさです。そこにはいやらしく笑う魔人の絵が描かれてありました。
姫が合図をすると楽団が高らかに陽気な曲を奏で、姫は男に『心して遊戯せよ』と命じました。
一投、また一投と商人は小さな矢を投げてゆきます。一本でも外れてしまえば殺されてしまいますから、その様はとても必死でござました。
ところが、途中で投げた矢が的に刺さらずに床へと落ちてしまいます。商人は青ざめて『お許しを』とひれ伏しました。しかし意外にも姫は寛大で『気にするな。一投ぐらい大目に見てやろう。今一度投げよ』と自ら矢を広い、男に手渡してあげるのです。
商人はそれで安堵し、やがて全ての矢を的に当てました。
『見事じゃ!』と姫が手を叩きます。男はそれでさらに安心しました。しかしすぐ、男は大きな声で泣きじゃくることになるのでした。
明るい曲が止まり、兵士たちが彩り豊かな壁をどけると、そこには若い女が柱に括りつけられているのが判ります。
姫が高らかに言います。『娘がいるから無事に帰りたいのか、娘が子を宿しているから無事に帰りたいのか、おぬしの言いたいことがさっぱり解らぬが、両方ともいなければ問題なかろう? おぬしが自ら排除したのじゃ。これでもう、家に帰らずともよいな?』
男が的だと思って矢を突き立てていた物は、落書きを施された一人娘の膨れた腹だったのでございます」
 
その話をとても不思議に思ったので、女王は問いました。
 
「そなた、その話は本当に自分で作った物語か?」
「その問いに答える前に、わたくしに遊戯の提案をさせていただけませぬでしょうか?」
「許そう。なんだ?」
「質問の合戦にございます。女王様の問いに答えたら、今度はわたくしの問いに貴女様がお答になる。これを交互に繰り返すのです」
「ほう、面白い。乗ってやろう」
「ありがたき幸せ。では先の問いの答えを申し上げさせてくださいませ。今させていただいた噺は、わたくしの想像によるものではございません」
「ふむ。では、そなたが問う番じゃ」
「お訊ねします。何故、この噺が私の作ではないと気づかれましたか?」
「心当たりがあるからじゃ。では、わらわの番じゃな? そなたの物語、必ず最後に人が死んだり国が滅ぶのう。何故じゃ?」
「そこにお気づきになるとは、女王様の才にはつくづく思い知らされます」
「世辞も達者よのう」
「わたくしの物語はわたくしが考え出すものではなく、亡骸が教えてくれるのでございます」
「亡骸が? どういうことじゃ?」
「恐れながら申し上げます。女王様、問いは交互とさせていただいております」
「おお、そうだったな。今のはわらわの失言であった。許せ」
 
ただの平民に謝罪をするのは初めてのことでしたが、女王は何一つ嫌な気がしません。
そのことが自分でも不思議でした。
 
「お訊ねいたします。女王様は、今まで殺めた者のことを覚えておられますか?」
「忘れることもあれば、思い出すこともある。で、 亡骸がそなたに物語を伝えるとは、どういうことじゃ? 詳しく申せ」
「は。女王様に癒しの力があるように、わたくしにも特別な力がございます」
「ほう」
「人の亡骸を見ると、その者が生前にどのような道を歩んでいたのか、まるで自分の思い出であるかのように知れてしまうのです。例えその亡骸が白い骨になり、果てていたとしても」
「なるほどのう。それで今の噺にも納得がいく。そなた、わらわが処刑し、野ざらしにしておいた男の亡骸を見たというわけか」
 
女王はそれで、責めに責め抜いた商人のことを思い返しました。
ささくれのような細かな返しの棘がたくさん付いた鉄の棒で、何度も何度も尻を犯したときの、あの男の表情といったら。
気を失う寸前に下郎の傷を癒し、再び体内を傷つけ、失神に成功されたら今度はへその穴に木の枝を突き刺して起こす。
そんなことを何度繰り返したことか。
 
女王はかすかに吐息を漏らし、足を組み直しました。
自分が湿っているのが自分でも判ります。
 
「遊戯は止めじゃ」
 
女王はまじまじと青年の唇を眺め回します。
彼は若く、たくましく、眼に力がありました。
 
「そなた、わらわの夜の相手をしてみるか?」
 
一国の長が庶民に体を委ねるなど、今までに例がありません。
しかし女王は続けました。
 
「わらわに面白い噺を聴かせた褒美じゃ」
 
椅子からゆっくりと立ち上がり、留めていた黄金色の髪をほどくと、女王は女の眼で青年の首筋に手を添えます。
 
「誰もが羨むこの身体、抱いてみい」
 
しかし、なんとしたことでしょう。
青年は片手を挙げて女王を制してしまうのでした。
 
「お断り申し上げます」
 
まさか拒絶されるとは思っていなかったので女王はわずかに驚き、また同時に残酷な光を表情に浮かべます。
 
「おぬし、怖気づいたか? それとも自分には勿体ないと判断したか?」
 
答えによっては青年に命はありません。
女王は腰に下げた鎖に手を添えました。
 
青年は、まっすぐに女王の目を見つめます。
 
「わたくしと交われば、貴女様が死んでしまうのです」
「なに?」
 
思いもよらぬ答えでした。
 
「わらわが死ぬとな?」
「はい」
「何故じゃ」
「わたくしの病が移り、女王様の身体を汚してしまうからです」
「ほう。そなた病気か」
 
それならば問題が大きくありません。
女王は鎖の柄から手を離します。
 
「そなたは運が良い。わらわ自らが特別に治してくれようぞ。どこが悪い?」
 
ここかここかと女王は青年の胸を、腰を、背に手をやります。
すると女王はたじろいて、青年の顔を、頭を、手を、足を、指を、隅々に触れてゆきます。
 
「なんじゃこれは! 良いところなど一つもない! そなた、全身を冒されておるではないか!」
 
すると青年は寂しげに微笑みます。
 
「わたくしは血を患っているのでございます」
「血だと!?」
 
女王にとってそれは聞いたことのない症例でした。
 
「治しても治しても、悪い血がすぐに良い血を汚してしまいます。わたくしの命はもう長くはないのです」
「なにを馬鹿な! 試しもせずに何故判る!?」
 
青年の服を脱がせ、女王はその胸板に両手を置いて念を込めます。
治しても治しても良くなったその血は体内を流れてしまい、すぐに悪い血と混ざって汚れてしまいます。
女王は狼狽しました。
 
「わらわの治す早さが足りぬのか……」
「自分の身体にあるこの悪い予感、勘違いではありますまい」
「そなた、死ぬのか」
「はい。近いうちに、必ず」
「死ぬると人はどうなるのじゃ?」
 
今まで散々人を死に追いやっておきながら、そんな疑問は今の今まで持ったことがありません。
女王は若き男にすがります。
 
「教えよ。人は死んだあと、どこへ行く?」
「生まれ変わって別の者となり、再び生きます」
「ではそなたが死んだらすぐに生まれ変われ。そしてわらわを訪ね、面白い物語をもっと聞かせるのじゃ」
「それは叶いません」
「どうしてじゃ!?」
「次に生まれるときには、今のことを全て忘れてしまうからです」
「そうだ! そなたの血、全て移し替えしてしまおう! この国には腕の良い医者だって大勢おる! 血も屑どもから集めれば事足りよう」
「ありがたいお話ですが、それもできることではございません」
「何故に!?」
「理由が二つございます。どちらも大事なことです」
「申せ」
「はい。一つは、人の血には多くの種類があるのです。闇雲に他者の血をわたくしに入れてしまえば馴染まぬ血はたちまちに我が身の中で暴れだし、わたくしは二度と動けなくなってしまうでしょう」
「もう一つの理由とは?」
「もう一つは、わたくし自身の性質故でございます」
「性質とな?」
「はい。水のない場所で魚が生きられないのと同じく。わたくしは、自分のために誰かが犠牲になることを嫌います。そんなことがあるぐらいなら、わたくしは自らこの命を絶ってしまうことでしょう」
「そうか。では、どうにもならぬのか」
「なりませぬ」
 
それで女王は黙ってしまいました。
夜風がそよそよとバルコニーを流れ、松明の光を揺らせます。
 
「わたくしが死ぬまでの間──」
 
青年が沈黙を破りました。
 
「少しでも多く、女王様のお側に居させてはもらえぬでしょうか?」
「そなたはなにを望んでおるのじゃ?」
「貴女様にもっと多くの物語をお聴かせしたい。それがわたくしの希望にございます」
「何故じゃ? 何故そなたは命を使ってわらわに尽くす?」
「わたくしが物語を語るようになったのは女王様、貴女様にお聴き入れいただきたかったからに他なりません」
「それが解らん。わらわに慕情があるわけでもあるまいに」
「あります」
「ん? 今、なんと?」
「貴女はお美しい」
 
この言に女王はすっかり唖然としてしまい、もはや声を出すことが叶いません。
 
青年がすっと腰を上げ、女王の肩にローブをかけました。
 
「今宵は寒うございます。お身体を壊さぬよう」
 
彼は深々と女王に礼をします。
 
「それではまた明日に。失礼いたします」
 
それはそれはとても綺麗な月夜のことでございました。
 
詩人のように美しい気持ちを持つ青年。
彼の本当の願いが女王への復讐であることを、彼女はまだ知りません。
 
 
夜が深まった頃に男が女の部屋を訪ねる理由はそう多くはないでしょう。
大臣がいそいそと、抑えきれぬ欲情を胸に扉の前に立ちます。
美しく浮き彫りにされた黄金の獅子は輪を咥えており、大臣はそれを手に取ってそっと三度扉を叩きました。
中から女王の声が聞こえます。
 
「誰じゃ」
「わたくしめにございます」
 
普段ならここで「入れ」と命じられ、そのまま情事に励むのですが、この晩は違いました。
 
「わらわは疲れておる。用があるなら明日に聞く」
 
大臣が女王にどんな用事があるのか、いつものことなので彼女は解っているはずです。
今宵は月に一度の女の日でもありません。
にもかかわらずこの言い草。
大臣にかすかな違和感を与えました。
 
鎮められるとばかり思っていた自分自身を慰められないのは大臣にとって思いもよらぬこと。
すぐに戻る気が起きようはずもありません。
 
「女王様、愚民をこらしめるための新たな道具の話でもしませぬか」
 
すると扉の向こうから「くどい」と苛立った声が。
 
「わらわは疲れておると言っているのだ。二度言わせるようならおぬしが考案した道具を全ておぬしに使うぞ。下がれ馬鹿が」
 
こうして大臣が覚えた違和感はさらに膨らみを増すのでした。
 
女王はというと、部屋で多くの書を貪るかのように読み漁っています。
様々な病気を取り扱った本。
薬草について詳しく書かれた本。
血を良くするための食事の作り方が書かれた本。
それら多くの書は女王の寝台の上で山のようになっています。
 
さて。
約束の日になると、いつものように物語の使い手が閲覧の間に現れました。
うやうやしく頭を垂れる彼に、女王が命令をします。
 
「今日は物語を聞かせずともよい。城外の散策をいたす。供をせい」
 
護衛を付けず、人目を忍ぶかのように女王は青年を連れ出すのでした。
 
湖の畔では鳥の鳴く声が遠くでするだけで静かなもの。
切り倒された大木の幹に、二人は腰を下ろしました。
 
「愛の女神とまで称されるわらわに治せない病があっては沽券にかかわるからのう。家臣たちの目に届かぬほうが好都合なのじゃ」
 
女王はそのように切り出します。
彼女は次々と薬草や瓶詰めにされた薬品を取り出しました。
 
「そなた、これらの薬は試したことがあるか?」
「その問いに質問で返す無礼をお許しください。これらは一体……?」
「どれも血に効く物ばかりじゃ。わらわ、普段は自分の力で傷も病も治せるゆえに知識がなくてのう。書物を久しぶりに読んだ」
 
薬草や薬を家臣に取り寄せさせれば「なんでも治せるはずの女王が何故このような物を欲するのだろう」と不思議に思われてしまいます。
そこで彼女は変装をして庶民に成りすまし、自ら町まで買い出しに行っていたのでした。
 
「そなた、これら全部持ち帰って試せ」
「恐れ多いお心遣い、痛み入ります」
「そなた独り者であったな? 食はどうしておる?」
「は。自分で作ることもあれば、宿の食堂を利用することもありまする」
「それはいかん。日頃の食にも注意を払え。治療にならずとも、悪化を食い止めることぐらいにはなろう」
「勿体無いご忠告、誠にありがとうございます」
「そうだ。そなた城まで馬で来ていたな? それ以外は歩くのであろう? 血の巡りが早くなっては身体に悪い。これからはわらわがそなたの住まいに出向いてやる。そなたは横になったまま物語を話せ」
 
彼は内心、とても大きく驚いていました。
青年の病気をしっかりと理解していなければ、この薬草もあの忠告も出ようはずがないからです。
女王が陰でどれだけの本を読んだのか、容易に察することができました。
 
だからこそ、女王は知っているはずです。
様々な手を尽くして命を一日伸ばすことはできても、死は確実にやってきてしまうことを。
 
この日は夕刻まで世間話をし、青年は何度も女王に礼を言って帰路についてゆきました。
 
それからというもの、女王は護衛をつけぬまま青年の家に足を運ぶようになります。
歓迎のための茶を用意しようとすることさえ、女王は許しません。
 
「そなたは寝ておれ。茶など飲みたい気分ではない。それより、薬はまだあるか? そろそろなくなる頃かと思ってな、新しいのを持ってきた」
 
薬草を手渡す女王のその指先が傷だらけだったので、青年は疑問の念を抱きました。
 
「女王様、お手に怪我を」
「構うな。それより、今日はどんな物語を聞かせてくれるのじゃ?」
 
青年の寝台の横に椅子を持ってきておいて、彼女は長いようで短い物語を堪能します。
今日の噺も、とても楽しむことができました。
 
「面白かった。褒美じゃ。台所を借りるぞ」
 
女王は立つと、鞄を手に調理台に向かいます。
 
何を始めるのかと好奇心が湧いて青年が密かに覗くと、なんと女王は一生懸命に本を見ながら、料理を作っているではありませんか。
食材を見ると、どれも血に良い物ばかり。
慣れない手つきで山菜を刻み、苦労して火を点け、湯を沸かしています。
青年はそっと場を離れ、寝台で横になって待ちました。
 
「できたぞ」
 
女王がシチューとパンを青年の部屋まで運んできました。
手の傷がさらに増えたのか、指先には薄く包帯を巻いています。
 
「さあ食せ。ただし、わらわの力で人が治せないことが民に知られたらただではおかんからな。薬草のことも食事のことも決して他言するなよ」
「承知いたしました」
「よし、では喰おう」
 
それはお世辞にも美味と呼べるものではありませんでした。
肉は固く、野菜の形は歪で、風味も良くありません。
 
一緒に食べている女王もそう感じ、「身体に悪くないのだが、美味くないな」と悲しげな表情を浮かべます。
 
しかし青年は断ずるのでした。
 
「たいへん美味しゅうございます。このように美味なる料理は今まで口にしたことがございません」
「そうか!」
 
女王が嬉しそうに表情を明るくします。
 
「城の調理場で練習した甲斐があった! 今度はもっと美味くなるようにするゆえ、楽しみにしておれ」
「ありがたき幸せ。いやしくも、全て平らげさせていただきます」
「うむ。遠慮するでないぞ。そなたの病が治ったら葡萄酒を飲もう」
 
青年にとって孤独ではない食事は久しぶりで、それはとても心温まる一時でした。
 
女王はそれからというもの、毎日のように青年の家に通います。
中には物語を所望せず、ただ会話をするだけという日もありました。
 
「のう、そなた将来の夢はあるのか?」
「今は死を待つだけの身ゆえ、夢など持ち合わせてはおりません」
「そう言うな。愛の女神の名にかけて必ずそなたを治す。いつまでもそなたの物語を聴きたいからな。最近はな、わらわ、治す早さを上げようと思ってな、今まで以上に癒しの力を民に振るっておる。いずれそなたの悪い血が巡るよりも早く全て治癒させるゆえ、安心せい」
「恐れ多いお言葉、恐縮せざるを得ません」
「で、そなたの夢はなんじゃ?」
「そうですね。以前はささやかながらでも家族を持ちたいと望んでおりました」
「ほう」
 
人が家族を欲する心も、それを大事に想う気持ちも、女王は知識として理解していました。
民の持つその感情を拷問に利用していたからです。
この青年も人として当たり前の願望を持っていたのでした。
 
「そうか、家族か」
 
女王は拷問以外のことで、初めて家族について考えを巡らせます。
どんなに力を施しても、青年の命を大きく伸ばすことはできないことを女王は既に察していたからです。
 
一方、城内では不穏な空気が漂っていました。
 
「この頃は女王の様子がおかしい」
「護衛もつけず、行き先も告げずにどこかに通っている」
「拷問をしなくなったばかりか、癒しの力を民にまで振舞うようになった」
「あれだけの傲慢、それで許されるわけでもあるまい」
「私は人前で怒鳴られ、辱めを受けたことがある」
「私など目の前で家族を苦しめられ、殺された」
「私など、妻が産んだばかり赤子を丸焼きにされた。それを皆の見守る前で、妻と一緒に喰わされたのだ!」
「いつまた横暴な女に戻ることやら」
「今の女王は油断をしている」
「恨みを晴らすなら今だ」
「殺してしまうなら今だ」
 
進んで指揮を振るったのは、大臣でした。
 
そんな相談がされているとは露とも知らず、女王は今日も青年の家まで足を伸ばします。
この日の彼女は特に胸を弾ませておりました。
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