幸福戦争

薪槻暁

3、繰り返される事実

 アテナイの学堂という絵画をご存知だろうか。ルネサンス期の傑作とされたこの作品は言うまでもなくキリスト教を信仰するような表れのものでなく、過去のあらゆる学者によって成されているものだ。その中でも中央に堂々と立ち尽くし、論争する二人の男が特に目立つ。


 一方は抽象的な事柄を信じ空を指差し、他方は今日自然科学と呼ばれる類の経験論を重視し地上を指差している。彼らは同じ道を辿り、同じ目標を目指し生きていた。ただその方法が異なっていた、それだけの違いのはずなのに。


 どうして意気投合しなかったのだろうか。










「戻れ」




 わずかな息とともに出した言葉が自分のものではないと前の僕だったらそう信じていたかもしれない。




「どういうことだよっ」




 僕と共に作戦をこなしプライベートでも過ごしてきたただ一人の存在、ジョン・ケリー。彼は叫ぶように、嘆くように僕を引き留める。




「僕は僕の居場所を見つけた、それだけだよ」




 けれど彼のそんな叫びをあしらう僕。




「君が故郷から日本国を母国だと見出したように、僕もここが僕の存在理由、アイデンティティの形成場所なんだと分かっただけのことだよ」


「お前の居場所はその日本国だろ!現実を見ろよっ」


「現実を見ていないのはどっちだよ!」




 思わず声を荒げてしまった僕は思いの居所を固めたその証なのかもしれない。




「もういい俺は戻る。お前のことはお前が決めるべきだからな」




 あっさりと諦めた彼を驚く間もないまま時が過ぎ去る。


 まるでテレビリモコンの取り合いみたいに些細なことで喧嘩する家族風景のように彼と僕の言葉の投げ合いは始まり、終わった。部屋の静寂が冷徹のような僕を引き合わせて結合しそうになる。




「いいの?」




 ふと彼が立ち去ったこの部屋には僕以外に一人いることを思い出させる。


 僕は無言のまま立ち尽くしその場をやり切る。


 それだけで理解してくれたようだった。


















 僕はなぜここにいるのだろうか。そんな問いにやっとのことで気付いた時にはもう遅かった。


 それは相棒を裏切ってしまう、数時間前のことだった。


 リビングルームのテーブルの椅子に独り座る僕。まさに一般的で善良な市民であるような家族風景が眼球に映し出される。温かさと温もり、柔らかな空気と匂い、昔懐かしい元の居場所のような落ち着きが味わえる部屋。けれどそこには僕しかいない、朝には皆で食事を共に過ごし、夕食には食事は勿論、「団欒」という名の心の拠り所がここには創られていない。まるである現象に対して環境を考慮に入れない、外的にしか再現しない科学者のように。そして彼らはいつもこんな言葉を口にする「心は非科学的だ」と。




「その顔からするとお、『懐かしい』って感情かなあ」




 何度も聞き、飽きた口調が僕の後ろ側から反芻する。


 段々と足音が近づき、僕の目の前で立ち尽くした。




「こーーんにちは。同胞くん」




 声の主――小柄な身をスーツに纏い、首からぶら下げる派手なネクタイが印象的の男。その素顔は目の周りを三角形と丸形の図形で包まれたピエロの仮面を被っているために年齢すら分からない。




「ここはどこだ?」




 僕は自分でも虚言をしていると頭が理解しているはずなのに聞いてしまう。それは知っているけれど知らないという矛盾のためだ。




「んーー。まだ記憶が混同しているんだねええ。まあ仕方のないことだよおねえ君はそれだけ胸の奥に仕舞い込んだってわけだねえ」




 窓の外には人工芝が植えられた庭。ダイニングには何度も開けて仕舞うを繰り返した冷蔵庫や電子レンジ。そういえばダイニングに入る時に言われたことがあったっけ。エプロンを着けながらIH器具で調理する人がすぐそこにいる。けど顔だけが分からない。顔だけがモザイクにかかったように消されている。


 頭の中の記憶が暴れだす。記憶という名の図書館が誰かに荒らされるように整頓されていた本達は地に落ちていく。次々と映写される風景、ある時は少年がドアを出入りして外へと遊んでいるのだろうか、またある時は微笑ましく会話を楽しんでいる、家族なのだろうか。でもそこにはやはりこの部屋が映されている。そして今度は映像に音声が付き始めた。食事の際にかける声掛け、洗濯を勧める誰かの声、外出していたのか帰宅して早々テレビの電源ボタンに手を触れて怒られる誰か。


 温かさに満ち満ちた声はいつの間にか頭の中をいたずらにかき乱す。片耳には大人の声、少年、少女の声が混じる。誰がどの人なのか、未だにモザイクがかかる人物たちが動き回るだけでそれが誰なのか、どの人の声なのかすら分からない。痛みに変化するその波長は僕をさらに苦しませた。


 まるで世界、この世に偽りが無いと言わんばかりの表情の少年がそこにいる。少年は独り座る僕に笑顔を振りまいてきた。




「幸せかい?」




 僕は大人げなくこんな小さな子供に対して逆恨みするように口ぶりで訊いた。


 少年はそんな僕の思惑を考えもせずに、




『しあわせだよっ』




 前歯が見えるほどの満面の笑み。思わず殴りたくなってしまうこの憤慨のベクトルを僕自身に向ける。ヒト特有の自傷行為というやつだ。僕は人間らしく痛みに感動を覚え、固執する。生きているだけで生きる理由も希望もない、僕は途方に暮れる孤児みたいなものだ。


 こんな日常が続けばと非現実な夢を想い続ける。それは愚かなのか、僕の心の奥に塞いだことは適当だったのか。それが最善の策だったのか。




『お兄ちゃんはしあわせじゃないの?』




 無実潔白な少年には素朴のようでちっぽけな事柄のはずなのに、図体だけが大きくなった僕にはそうは見えない。僕の生き方が悪かったのか、人生の選択で判断を怠ってしまったのか。そんなの人間である以上、僕である以上分かろうとしても、理解しようとしても無理な話だ。




「何が正解なんだよ……」




 僕は一人でテーブルに顔を摺合せているうちに再び現実の世界から呼び起こされた。




「君は自分の過去を思い出したことはあるかあい?」




 僕の過去を嘲笑うかのように語尾だけを伸ばす口調は変わらない。いつまで経っても変化を起こさないそれは今の僕にとってはもうどうでもよくなっていた。




「一度もなかった。人生の半分が僕の頭から消えているんだ」


「ふーーん。じゃあ、ここに来て何か思い出したこととかはないのかあい?」




 日本国では見られない古典的な家内風景。それは物心付く前には既に消去された文化だ。消去された?誰に?いつ?僕の記憶を目まぐるしく駆け巡る僕。かつて居た、居たはずの場所は確かにこんな場所だった。けど誰がそこにいたのか、どうやって過ごしたのかが思い出せない。あと一つ、そのピースがはまれば全貌が見えてくる。




「もう、いいよ」




 そんな僕に情けをかけるように頭から包み込んでいく。




 悲嘆しているように、宥めるように、慰めるように。僕の耳の傍らで彼は囁いた。


 生きていても生きる希望が見つからない。でも死ぬ理由にはいささか説得力が足りない。そんな支離滅裂な感情に一つの光が灯されたような気がした。


 僕が顔を上げた先には彼、スーツ姿の男ではなかった。




「おかえり」


「その声は……」




 聞き覚えがあって当たり前の人物。前の僕と少なくとも時の殆どを過ごした唯一の存在。


 あの日、あの場所で生まれ、別れた、




「トレア……」




 漸く靄が消え去り晴天を取り戻したようだった。



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