幸福戦争

薪槻暁

3、哲学という学問

「では、始めようかね。そこに座りたまえ」




 面と向かうように彼の目の前の椅子に背を預けた。




「はい、では……」




 僕が来校した本来の目的を口にしようとしたとき、彼は右手で僕を制し止めてみせた。




「いや、待ってくれ。一つ伺ってもよろしいかな?」




 急な質問だったので僕は戸惑いながらも頷くと彼はつづけた。




「君はここに来た時、どう感じたかい?」




 ここ、アカデミーは昔ながらの大学制度を用いている唯一の場。中央にある黒板に書かれることを黙々と自分のノートに模写し、質問するものはいない。ただ書いて覚えるだけ、そんな古式を採っている珍しい場所である。




「僕は正直言わせていただくと、意味が無いのでは、と思いました」




 いそいそと己の筆を動かす彼らは無駄な努力なのでないかと感じたほど。




「そうか」




 彼は何度も見かけた顔に飽き飽きした表情をとったけれど、僕がそうではないと言いかけた瞬間に彼は再度こちらを見て形相が変わった気がした。




「しかし、意味はあるんだと改心させられました」


「建物の配置から案内図。スケールは関係なくここにあるものには隠れて見えるものがあります」


「それは何かな?」


「人間味です」




 彼はひとつ溜息を漏らし窓の外の常緑樹を眺めた。




「うん。良く分かってくれた、それでこそここに来た意味があるものだよ」




 ようやく彼は心の底から歓迎するかのように僕を迎い入れてくれるようだった。過去を嗜めるように彼は回想していたらしい。




「今ではもう衰退した学問のはずが、未だに学ぼうとする若者は絶えん」


「私としては嬉しいことこの上ないが、やはり耐え難くなるのだよ。私の責任なのだとね」


「先生が悪く思うことはないですよ。それは僕たちの責任なのですから」


「君はそう思うがね、君は君だ、私ではない。私は私自身の為にこの現実が現れてしまってるのだからね」


「哲学ですね」


「私が教えている学問、生きている理由を追い求めようとするのは変人なのだろうがね」




 アカデミー、技術機構と連携している研究所を含めると時間が経たずに残されたこの場所を除けば周りには科学技術を先駆する者しかいない。
 それだけ文学や哲学といった人間を象徴するような学びは消滅の危機にあるのだ。




「けれどね、この地の名前『アカデミー』の由来を知っているかい?」




 作戦内容かそれに近い情報しか頭に入れないために僕は答えられなかった。




「すみません……覚えていないです。ラテン語か何かが由来なのでしょうか?」


「まあそれも仕方がないことだよ、覚えることはその右手の小さな器具にさせればいいからね。……けど君の推論は大方正しい」


「いいかい?その昔、とある人物が学問を主として集う場所を創り出したんだ。私たちのようにこの世がどうなっているのか知ろうとね」


「その場所の地名こそがアカデミーの由来、ギリシャ語のアカデメイアから来ているんだ」


「その頃はね、哲学だって数学や天文学と同等の立ち位置だったんだけど。今はそうは行かないみたいだね」




 いわゆる、社会から切り離された学問。必要性が感じられないと一方的に決めつけられたもの。


 彼は絶滅寸前に立たされた防衛隊の一人のようだった。




「この国で影を薄くした概念、それは人間らしさですね。先生」




 僕は幾つもの戦場に駆け巡りながらその国と母国を対比させた答えを出した。認めたくないけど認めざる他ないという運命に僕は一種の悲しみを何度も味わった。


 彼はこれ以上にないほどの苦笑いを浮かべ僕の眼差しを改めて見つめる。




「君もよく分かっているね。ああその通りだとも私たちは失ってはならないものをあえて捨てに行った。目前の安寧のためにね。彼ら、上層部の者は理解していないこともあってか捨てることの問題性さえ検討しなかった。確かに私たちが自らの手で世界を動かさなかった罪とも言えるがね」


「だがこれとそれとの話は別だ。すべての実権を握ることとはイコールではないんだよ。まさに拡大解釈による問題の具現化ということだ」




 政権をアンドロイドに渡したことによって僕たちが持っていたもの、「人間性」を知らないうちに捨てささせたことは到底許されるべきではない。


 しかし、それさえも声に出して発言が出来ないのは己の自己防衛本能がそうさせないから。


 生きるために、子孫を残すために繁殖するのと同じように。




 僕たちは定められた運命から逃れられないと何度も想起させる。




「そう、言いたいけど言えない。自分の立ち位置が危うくなるから何も言えない見て見ぬふりをするだけ。まるで小学生のいざこざと同レベルだ」


「皮肉といえば皮肉だけどね、はっきり言わせてもらうとこれじゃ他の動物と何ら変わらないんだよ」


 生きるために物事を合理的に進めるだけで、そこには感性などという不安定要素は剥ぎ取られている。そんな者は機械と同じだとしか言いようがないと僕も応える。




「そうだね、もはや生物ではないとするか……面白い考え方だ」




 彼は上半身を小刻みに揺らし、さぞ興に入り浸っているかのような笑みを浮かべる。




「そうだ、例えばの話だ」




 思い出したように彼は語り始めた。




「哲学とは君はどんな学問だと思うかい?」




 僕は彼の思惑に静かながら気づくと同時に脳裏に置かれていたある印象を口に出した。




「僕は、人間的だと思います」


「なぜここで生まれて生きているのか、ここにいて当たり前と感じるんじゃないと考える。決して見つからないと断定された問いと分かっていても、あがき続ける。そんな学問だと」


「ふふ……ははははっ」




 突如、笑い声が部屋中に響き渡り、僕は部屋の空気の変化に驚かされてしまった。




「な、なんでしょうか?」


「いやいや、今時若者の口からそんな言葉が吐き出されるとは……長く生きてみるものだね」


「私もね、全く同意見だよ。人間にしか描けない概念を創り出す、生み出していく。それがこの学問の境地に等しいんだよ」


「人が苦悩し、煩悩させてしまう原因とは脳内に位置する。感情とも同時並行して働き、悲しい、嬉しいなどのモーションを生み出しているんだ」


「君が誰かを愛したいという気持ちだってそうさ。この人と生きていきたいという愛情は決して規定された運命から生まれたものではない」


「それは?」




 僕は彼の言葉の真意に理解が及ばなかったので聞き返してしまったのだが、彼は少し間をとり分かりやすく説明してくれた。




「君は異性が目前に迫ったら誰でも愛してしまうのかね?」




 自ら愛する人物を選ぶ選択性、それは生まれる前から決まっているのではないということ。


 僕はひとりでに納得した表情を醸し出していまったので彼はつづけた。




「そういうことだよ。君の周りに身近に存在しているんだよ、哲学というのは」




 僕は彼が言いそうな言葉が頭に現れてきたので先に口にした。




「人間らしさもですね」




 彼は一度僕の眼差しを自ら受け取り、そして頷いた。

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