けれど、僕は君のいない(いる)世界を望む
B.けれど、僕は君のいない世界を望む
B.この世界を終わらせる。
イルミネーションを見に行った日の夜。先に進んでいた千葉に追い付こうとしたあの時。ビルの合間から突出した時計台が10時を知らせる鐘を鳴らした。周りの人間は音の在処を探るべく、俺と同様に空をあおいでいて、そして視線の行き先を一点に集中させていた。
シャンパンゴールドの淡い光が木々を埋め尽くす中、アナログ時計の短針が指していたのは「10」という数字だった。
千葉はというと、彼女一人だけ、時計台の方へは見向きもせず、俺の方へと振り返ってこちらを見つめていた。俺が来るのを待つように、早く来るようにと急かしているような気もした。
視線を時計台から彼女に戻したとき、それだから、案の定、目があった。
目と目が重なりあって、視線の行き先も自分と被って、どこも触れていないのに千葉がすぐそばにいるような感じで、逆に心許なかった。
ある程度の距離を保っていた方が、安心できるように、あたかもヤマアラシのジレンマのように、近づきすぎると怖かった。
だから俺はあの時、逃げるように腕時計へと視線をずらして時間を再確認したのは決して間違いではなかったのだろう。
時刻は夕刻。辺りは閑散としていて、千葉が無惨にも目の前でおしつぶされ、現実を変えたいと願った場所。
車一台分ほどの横幅で、タイル状の地面を隠すように落ちていた枯葉はもうなかった。
ただ、あの日と違うのはそれだけでなく、俺と千葉を照らすように陽の光が、住宅街の隙間から差し込んでいた。
「俺はもとの世界へと戻る」
前々から決心していたためか、あまり躊躇はなかった。
「これは夢だ。現実とは別の場所。なら俺はその現実へと帰らなくてはならない」
「そうだよね」と不思議と残念がることも、悲嘆な表情を見せるまでもなく千葉は呟くように言った。
「ねえ、トモって『時間の遅れ』って聞いたことある?アインシュタイン博士が相対性理論で見つけた一つの世界の賜物」 
「聞いたことはあるが、そこまで詳しくはないな。何せ俺は文系だからよ」
「そんなのは言い訳になりませんーー。だって私も文系なのに知ってるんだからねー。でね、『時間の遅れ』っていうのはその名前の通り、時間が遅れるってことなんだよ」
「それだと説明になってないんじゃないか?」
「またねぇ、トモったら焦らないの。先に結論を言ったらつまらないでしょ?」
「よくブラックホールに近づくと時間の進みかたが変わるとか、宇宙船で光速で移動したら船内の時計は遅く進むとか、いろんな説があるじゃん。ほら、俗にいうウラシマ効果とかさ」
「まぁ、その類いと似て非なるものというか。私としてもよくわからないんだけどね」
俺は耐えがたくなり、思わず聞いてしまった。
「結局、何が言いたいんだよ」
すると、微笑みながら彼女は言った。
「だから私は『時間の遅れ』の原因なの」
「さっき言ったことの中からだと、宇宙船の話とは違うかな。だからたぶんブラックホールの方が近いような感じだね」
「突然、何変なこと言ってるんだろ、って感じでしょ?もし、そうだったらごめんね。今の話は無しってことにしてちょう・・・」
「無しにはしない。だから、俺は別に千葉が変なことを言っているようにも、天才になったから常人に見えないことを言っているわけじゃないってことは分かってる」
突拍子もないことを言っているのは、語っているのは、たぶん千葉は自分でも分かっているのだろう。一般人が聞いたら呆れてしまう、それだけでなく、尋常じゃない人間だと非難されるかもしれない。
けど、俺はそうは思わない。彼女だから、とか、大切な人だからなんて理想論からじゃない。俺にはそう主張できる根拠がある。その名の通り「時間の遅れ」を示す証拠。
俺は身に着けていた腕時計を千葉に見せるように向けた。
「これだ。現に時間が遅れている」
「俺がイルミネーションへ向かった時、集合時刻を確認した時は、確かに7時30分だった。そして、時計台の鐘が鳴った時、俺の腕時計は相変わらず短針は『7』と『8』の間のまま固まっていた」
「ただの誤作動なんじゃないの?それが理由なら私以外の誰にでも『時間の遅れ』を起こすことが出来る人が多くなっちゃうかもしれないよ?」
そう笑いながら、誤魔化すように答える千葉の姿は、ひどく落ち着きを失っているような気がした。
「それは違う。普通は、付き合っているなら新年は一緒に過ごすものだろ?もし、家族ぐるみの付き合いでどうしても過ごせないというなら電話でも、メールでもいいから、『明けましておめでとう』は言うはずじゃないか?」
「だが、それをしなかった。俺が電話しようとも、メールしようとも、いろんな手段で話しかけても、伝えようとしても返信は、次のデートの内容だけ」
「それは・・・」と何か言いだそうとしても口が噤んでしまう千葉。
「それってつまりさ、俺と過ごしていたら同じ時間をずっと過ごすことになってしまう。終わらない永遠を享受するってことを言いたかったってことだろ?他の人間たちはどんどん時間の影響を受けていく。でも、俺たちはあの時のまま、変わらない。そう考えるとウラシマ効果みたいだな」
「けど、だけど、それだとずーーと終わらないままだよ」
「そう。だから俺は元の、現実に戻る。このまま夢で過ごすのはもう・・止める」
そういうと、千葉は俺の決心を止めることも、考え直そうともしなかった。ただ、俺の固めた決意をそのまま受け入れるように、拒絶の意思すら見せようとはしなかった。
「そう・・・ならそれでいいよ。覚めない夢は夢じゃない。なら夢は覚めなきゃだもんね」
「ただっ、俺は好きだった!!」 
いきなり、突然口から言葉が溢れてしまった。いや、俺が自らそのチャックを開けたのだろう。もう、自分の思っていることに蓋をするのは止めるべきだと。
「イルミネーションを二人で見に行った日も、帰り際に『また会おう』って約束したことも、一緒に『アッティモ』でパンケーキを食べたことも忘れない」
「あんまり着けてこなかったネックレスを首から下げているのも、本当に新鮮で、可愛かった・・・・それでいて嬉しかった」
「こんなにも違う顔を見せるんだって。知れて本当に・・嬉しかったんだ」
今までの思い出を全て吐露してしまう俺に、千葉は「うん」とうなずく。
瞳を潤わせながら「好きだった」なんてみっともない告白だけれど、そうするしか俺には手段がなかった。
「ペットショップで二匹の猫を見たときもそうだった!!」
「そうやって、俺にさりげなく『時間の遅れ』を伝えて、自分だけは全て知っているのに、それを他人には直接言おうとはせず、抱え込もうとして。そんな千葉が・・・彩花が脆くて、痛々しくて」
「でも、それでも俺には彩花の気持ちは100%わからない。そうなんじゃないかって予想するだけ。偽善者のように、良い人間を偽っているだけだ」
「終わらない世界もそれで良いんじゃないかってさえ思ったこともある。このまま彩花と一生をここで過ごすのも悪くないんじゃないかって」
「それだと、『未来』がない」
辛辣に、胸を張り裂けそうにしながら千葉はいう。
「ああ。いつまでも何が起きても『永遠』のまま。他の人間が変わったとしても俺たちは変わらない。別れもなくて、出会いもない。そんな夢事が現実に変わるだけだ」
俺はコートから露わになっているネックレスを指す。アレキサンドライトという宝石は光の種類によって、光の波長の違いで、輝く色が変化する。喫茶店にいた時は、赤く輝いていたそれは、今や深碧色に変色していた。
「もし、意図が違ったのなら、それはただの勘違いだと思ってくれ。俺にとっては勘違いでもなんでもいい」
溢れそうになる涙を俺は必死に留め、流れないようにと上を一度見上げる。
「『変わらない』よりも『変わる』方を願ったのは他でもなくて、もちろん俺でもない。彩花じゃないか」
この世界を拒めば、千葉の、彩花のいない世界に戻ってしまう。それは俺も、彩花も、二人の別れと同じことだけれど。
人生に終わりがないというのは、その人生自体が終わってしまっているのと変わらない。
涙を一筋、頬を伝って溢れ落とす。
「・・・・ぅ。そうだよ」
それは俺の涙ではなかった。
「いつか。こんな時を待ってた。別れるのは辛いけど、でも、今のままじゃいけないんだって。私には荷が重すぎるんだって・・・」
片目からまた一筋と、涙を流す度に頬を濡らす。千葉の口から出る言葉は震えていた。
「どうすればいいのか、ずっと悩んでた。このまま一緒にいてもよかったけど、そんなのは現実じゃない。あり得ないことを率先してやったらダメだとも思ってた」
「だから・・・」
「だから俺がこうして気づけた」
俺は千葉の言葉よりも先に言った。耐えられない感謝の重なりで思わず口が動いていた。
「それは彩花がいなかったら、手を貸してくれなかったら。出来なかったことだ」
悲しいけれど、もう一生離れたくないれけど、二人ではいられない。
時には、別れも必要だ。
「ねぇ、最後にひとつだけ、言いたいこといってもいい?」
千葉は崩れそうになる顔を上げて、こちらを見つめる。何も言わず先を促した俺を確認してから千葉はこういった。
「この世界ってさ。忘れられないことと、忘れなきゃならないことの二つがあるの」
「だからね。今回のこれは・・つまりね。そういうこと」
「ありがとね。さとし、くん」
胸が苦しくなるほどに締め付けられる。この体は痛くも痒くもないのに、心だけが、形のないものだけが、押し潰されそうになる。
意識が遠退きそうになってくる。これが現実へ戻るということなのだろうか、予兆が訪れているような感触が、頭の中を伝ってくる。
この世界はもうじき終わりを迎える。それは「永遠」の別れになるのかもしれない。
でも、それでいい。終わらないことはもう望まない。
不意にある思いが俺の脳内に過った。
「なぁ!!俺からも最後にひとつだけ頼みたいことがある!!」
「なに?」と聞かれつつ、俺はすぐに答えた。
「目をつむってくれないか」
一瞬驚き、そして改まったように千葉は少し微笑む。濡らした頬を袖で拭き取り「はい」と言いながら瞼を閉じた。
俺は緩やかに彼女の背に両手を回し、体を密着させ、抱き締める。
「なんだよ。暖かい・・じゃんか・・・」
初めて頬に一筋流した俺は、彼女に聞こえないように囁く。
「俺からも・・ありがとう。彩花」
今度は聞こえるような声量で呟く俺に、彩花は、
「どういたしまして」
と不意に彼女らしい、溢れんばかりの笑顔を見せて。
俺の意識は完全に遠退いたのだった。
イルミネーションを見に行った日の夜。先に進んでいた千葉に追い付こうとしたあの時。ビルの合間から突出した時計台が10時を知らせる鐘を鳴らした。周りの人間は音の在処を探るべく、俺と同様に空をあおいでいて、そして視線の行き先を一点に集中させていた。
シャンパンゴールドの淡い光が木々を埋め尽くす中、アナログ時計の短針が指していたのは「10」という数字だった。
千葉はというと、彼女一人だけ、時計台の方へは見向きもせず、俺の方へと振り返ってこちらを見つめていた。俺が来るのを待つように、早く来るようにと急かしているような気もした。
視線を時計台から彼女に戻したとき、それだから、案の定、目があった。
目と目が重なりあって、視線の行き先も自分と被って、どこも触れていないのに千葉がすぐそばにいるような感じで、逆に心許なかった。
ある程度の距離を保っていた方が、安心できるように、あたかもヤマアラシのジレンマのように、近づきすぎると怖かった。
だから俺はあの時、逃げるように腕時計へと視線をずらして時間を再確認したのは決して間違いではなかったのだろう。
時刻は夕刻。辺りは閑散としていて、千葉が無惨にも目の前でおしつぶされ、現実を変えたいと願った場所。
車一台分ほどの横幅で、タイル状の地面を隠すように落ちていた枯葉はもうなかった。
ただ、あの日と違うのはそれだけでなく、俺と千葉を照らすように陽の光が、住宅街の隙間から差し込んでいた。
「俺はもとの世界へと戻る」
前々から決心していたためか、あまり躊躇はなかった。
「これは夢だ。現実とは別の場所。なら俺はその現実へと帰らなくてはならない」
「そうだよね」と不思議と残念がることも、悲嘆な表情を見せるまでもなく千葉は呟くように言った。
「ねえ、トモって『時間の遅れ』って聞いたことある?アインシュタイン博士が相対性理論で見つけた一つの世界の賜物」 
「聞いたことはあるが、そこまで詳しくはないな。何せ俺は文系だからよ」
「そんなのは言い訳になりませんーー。だって私も文系なのに知ってるんだからねー。でね、『時間の遅れ』っていうのはその名前の通り、時間が遅れるってことなんだよ」
「それだと説明になってないんじゃないか?」
「またねぇ、トモったら焦らないの。先に結論を言ったらつまらないでしょ?」
「よくブラックホールに近づくと時間の進みかたが変わるとか、宇宙船で光速で移動したら船内の時計は遅く進むとか、いろんな説があるじゃん。ほら、俗にいうウラシマ効果とかさ」
「まぁ、その類いと似て非なるものというか。私としてもよくわからないんだけどね」
俺は耐えがたくなり、思わず聞いてしまった。
「結局、何が言いたいんだよ」
すると、微笑みながら彼女は言った。
「だから私は『時間の遅れ』の原因なの」
「さっき言ったことの中からだと、宇宙船の話とは違うかな。だからたぶんブラックホールの方が近いような感じだね」
「突然、何変なこと言ってるんだろ、って感じでしょ?もし、そうだったらごめんね。今の話は無しってことにしてちょう・・・」
「無しにはしない。だから、俺は別に千葉が変なことを言っているようにも、天才になったから常人に見えないことを言っているわけじゃないってことは分かってる」
突拍子もないことを言っているのは、語っているのは、たぶん千葉は自分でも分かっているのだろう。一般人が聞いたら呆れてしまう、それだけでなく、尋常じゃない人間だと非難されるかもしれない。
けど、俺はそうは思わない。彼女だから、とか、大切な人だからなんて理想論からじゃない。俺にはそう主張できる根拠がある。その名の通り「時間の遅れ」を示す証拠。
俺は身に着けていた腕時計を千葉に見せるように向けた。
「これだ。現に時間が遅れている」
「俺がイルミネーションへ向かった時、集合時刻を確認した時は、確かに7時30分だった。そして、時計台の鐘が鳴った時、俺の腕時計は相変わらず短針は『7』と『8』の間のまま固まっていた」
「ただの誤作動なんじゃないの?それが理由なら私以外の誰にでも『時間の遅れ』を起こすことが出来る人が多くなっちゃうかもしれないよ?」
そう笑いながら、誤魔化すように答える千葉の姿は、ひどく落ち着きを失っているような気がした。
「それは違う。普通は、付き合っているなら新年は一緒に過ごすものだろ?もし、家族ぐるみの付き合いでどうしても過ごせないというなら電話でも、メールでもいいから、『明けましておめでとう』は言うはずじゃないか?」
「だが、それをしなかった。俺が電話しようとも、メールしようとも、いろんな手段で話しかけても、伝えようとしても返信は、次のデートの内容だけ」
「それは・・・」と何か言いだそうとしても口が噤んでしまう千葉。
「それってつまりさ、俺と過ごしていたら同じ時間をずっと過ごすことになってしまう。終わらない永遠を享受するってことを言いたかったってことだろ?他の人間たちはどんどん時間の影響を受けていく。でも、俺たちはあの時のまま、変わらない。そう考えるとウラシマ効果みたいだな」
「けど、だけど、それだとずーーと終わらないままだよ」
「そう。だから俺は元の、現実に戻る。このまま夢で過ごすのはもう・・止める」
そういうと、千葉は俺の決心を止めることも、考え直そうともしなかった。ただ、俺の固めた決意をそのまま受け入れるように、拒絶の意思すら見せようとはしなかった。
「そう・・・ならそれでいいよ。覚めない夢は夢じゃない。なら夢は覚めなきゃだもんね」
「ただっ、俺は好きだった!!」 
いきなり、突然口から言葉が溢れてしまった。いや、俺が自らそのチャックを開けたのだろう。もう、自分の思っていることに蓋をするのは止めるべきだと。
「イルミネーションを二人で見に行った日も、帰り際に『また会おう』って約束したことも、一緒に『アッティモ』でパンケーキを食べたことも忘れない」
「あんまり着けてこなかったネックレスを首から下げているのも、本当に新鮮で、可愛かった・・・・それでいて嬉しかった」
「こんなにも違う顔を見せるんだって。知れて本当に・・嬉しかったんだ」
今までの思い出を全て吐露してしまう俺に、千葉は「うん」とうなずく。
瞳を潤わせながら「好きだった」なんてみっともない告白だけれど、そうするしか俺には手段がなかった。
「ペットショップで二匹の猫を見たときもそうだった!!」
「そうやって、俺にさりげなく『時間の遅れ』を伝えて、自分だけは全て知っているのに、それを他人には直接言おうとはせず、抱え込もうとして。そんな千葉が・・・彩花が脆くて、痛々しくて」
「でも、それでも俺には彩花の気持ちは100%わからない。そうなんじゃないかって予想するだけ。偽善者のように、良い人間を偽っているだけだ」
「終わらない世界もそれで良いんじゃないかってさえ思ったこともある。このまま彩花と一生をここで過ごすのも悪くないんじゃないかって」
「それだと、『未来』がない」
辛辣に、胸を張り裂けそうにしながら千葉はいう。
「ああ。いつまでも何が起きても『永遠』のまま。他の人間が変わったとしても俺たちは変わらない。別れもなくて、出会いもない。そんな夢事が現実に変わるだけだ」
俺はコートから露わになっているネックレスを指す。アレキサンドライトという宝石は光の種類によって、光の波長の違いで、輝く色が変化する。喫茶店にいた時は、赤く輝いていたそれは、今や深碧色に変色していた。
「もし、意図が違ったのなら、それはただの勘違いだと思ってくれ。俺にとっては勘違いでもなんでもいい」
溢れそうになる涙を俺は必死に留め、流れないようにと上を一度見上げる。
「『変わらない』よりも『変わる』方を願ったのは他でもなくて、もちろん俺でもない。彩花じゃないか」
この世界を拒めば、千葉の、彩花のいない世界に戻ってしまう。それは俺も、彩花も、二人の別れと同じことだけれど。
人生に終わりがないというのは、その人生自体が終わってしまっているのと変わらない。
涙を一筋、頬を伝って溢れ落とす。
「・・・・ぅ。そうだよ」
それは俺の涙ではなかった。
「いつか。こんな時を待ってた。別れるのは辛いけど、でも、今のままじゃいけないんだって。私には荷が重すぎるんだって・・・」
片目からまた一筋と、涙を流す度に頬を濡らす。千葉の口から出る言葉は震えていた。
「どうすればいいのか、ずっと悩んでた。このまま一緒にいてもよかったけど、そんなのは現実じゃない。あり得ないことを率先してやったらダメだとも思ってた」
「だから・・・」
「だから俺がこうして気づけた」
俺は千葉の言葉よりも先に言った。耐えられない感謝の重なりで思わず口が動いていた。
「それは彩花がいなかったら、手を貸してくれなかったら。出来なかったことだ」
悲しいけれど、もう一生離れたくないれけど、二人ではいられない。
時には、別れも必要だ。
「ねぇ、最後にひとつだけ、言いたいこといってもいい?」
千葉は崩れそうになる顔を上げて、こちらを見つめる。何も言わず先を促した俺を確認してから千葉はこういった。
「この世界ってさ。忘れられないことと、忘れなきゃならないことの二つがあるの」
「だからね。今回のこれは・・つまりね。そういうこと」
「ありがとね。さとし、くん」
胸が苦しくなるほどに締め付けられる。この体は痛くも痒くもないのに、心だけが、形のないものだけが、押し潰されそうになる。
意識が遠退きそうになってくる。これが現実へ戻るということなのだろうか、予兆が訪れているような感触が、頭の中を伝ってくる。
この世界はもうじき終わりを迎える。それは「永遠」の別れになるのかもしれない。
でも、それでいい。終わらないことはもう望まない。
不意にある思いが俺の脳内に過った。
「なぁ!!俺からも最後にひとつだけ頼みたいことがある!!」
「なに?」と聞かれつつ、俺はすぐに答えた。
「目をつむってくれないか」
一瞬驚き、そして改まったように千葉は少し微笑む。濡らした頬を袖で拭き取り「はい」と言いながら瞼を閉じた。
俺は緩やかに彼女の背に両手を回し、体を密着させ、抱き締める。
「なんだよ。暖かい・・じゃんか・・・」
初めて頬に一筋流した俺は、彼女に聞こえないように囁く。
「俺からも・・ありがとう。彩花」
今度は聞こえるような声量で呟く俺に、彩花は、
「どういたしまして」
と不意に彼女らしい、溢れんばかりの笑顔を見せて。
俺の意識は完全に遠退いたのだった。
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