俺の小説家人生がこんなラブコメ展開だと予想できるはずがない。

薪槻暁

086.夏休み真っ只中に起こった一大イベントの幕開け

 一年に一度しか訪れない最長休暇、夏休み、サマーロングバケーション。祭事、家族旅行とありとあらゆる遊戯を愉しむことが出来るのがこの休暇の最大の醍醐味である、というのは俺も解する。


 がしかし、自宅でソファに寝そべりアザラシのような生活をしていくことをまるでせっかくの長期休暇なのに休日を犠牲にしている、なんて言い方をされるのだけは何と言われたところで理解出来ない。


 一週間の内に五日間も高校へと足を運んだ日々の疲れを癒すための休日として利用しているというのに、まったくそれが無価値のようにしか見えない観方をする奴の気が知れないのである。


 てなことを長々と語ったところで現実の人々の考え方はそう簡単に変わるわけがないので、俺は思考を遮ると、あたかも意識が虚ろになっていった。




 本日今朝ーー現在時刻11:00頃。


 セットしていた目覚ましはどうやら知らないうちに解除していたようで、窓から差し込む陽光の眩しさのおかげで起床した。窓の向こうからは鳥のさえずりが聞こえ、日差しによって反射する埃がちらちらと目に映る。


 体を起こさず、目線だけを古臭くなったカレンダーに向けると今日という日に、どうやら赤印が付いている。夏休みであるのに珍しく用事が入っているらしい。


 子泣き爺でも背中に乗せているかのような上半身をようやくのことで起こし、決して軽くはない足取りでリビングへ向かうと冷蔵庫から作り置きしていたアイスコーヒーをコップに注いだ。すると俺以外に誰も存在していないだろうと思っていたリビングの中に。


 ソファに腰を下ろしながらテレビを見つめていた人物がただ一人。妹の曲谷時雨がいた。




「やっと起きたのね、もう昼前よ」




 突っぱねるような話し方から瞬時に今日もツンデレ(本人には言わず)だと内心呟きつも気力の無いような返事をした。




「仕方ないだろ、昨日も徹夜で作業してたんだからよ。そういや今日は学校はどうしたんだ、てっきり委員会とかで忙しいのかと思ったが」


「今日は臨時で休み、生徒会メンバーが集まらないから必要ないってさ」


「そういや高校受験控えてるんじゃないのか?そんな体たらくに過ごしていいのか?夏休みで学力に差がつく、なんて……」




 知らないうちに説教じみてしまったようだ、時雨はまるで煩わしいと言いたげな表情をした。




「ハイハイ、その話は学校で幾度となく聞かされてます、言われてます、嫌になるほど聞かされてます。そんなこと言われるまでもなく知っている話、今日だって6時に起きて10時まで数学と英語、理科と3教科全て網羅済みです~~」




 なるほど現在に至るまで、つまりは俺が寝ている間に事は済ませていたのか。さすが俺とは似ても似つかない妹だ。だが、そこまでリピートしなくてもいいだろう。暗唱の宿題でもあるまいし。


 注いだアイスコーヒーを一気に飲み干すと冷たさが喉から胃まで通過すると同時に、脳内にカフェインが巡り始めた。俺は覚醒しつつある脳をふんだんに働かせるように記憶を呼び起こしつつ、一つ思い出したように口から言葉が出ていた。




「ああ、今日は俺の小説の担当編集者が来るらしいから、もし顔を会わせたら挨拶よろしくな」


「ふん、そんな当たり前のこと、言われなくても分かってる、ところで今日はママが早帰りらしいけど大丈夫なの?」


「早帰りって言っても5時くらいだろ?たぶんそこまで時間はかからないだろうから、平気だ」




 夏祭りの一件から一度も直接会っていない俺の編集者水無月桜、今日まで数日足らずだが編集のやり取りは全て間接的、メールで行ってきた。しかし進歩、進捗がない俺をどう感じているのかは送られてくるメールの文面から読み取れたものだ、そもそも、


『まるで子供の読書感想文』


 と俺の作品は批評されたのだ。長時間をかけてプロットを作成し、それを文字に掘り起こすまでにと試行錯誤した俺の努力はいとも簡単に崩される、そんな繰り返しが今の状況。


 そんな毒舌評論家ならぬ編集者が此度俺の自宅に訪れてくるらしいが……






 玄関のチャイムが鳴らされる音、すなわち誰かが俺か時雨のどちらかを呼んでいることの他ならない。瞬時に俺は気付いたのだ。現在の時刻は昼前、そしてカレンダーに記された赤文字のメモ。最後に今日は俺の担当編集者が来ることになっているということ。


 おそるおそるインターホンに近づき応答すると、氷山の一角を物理的に突き付けるような声の持ち主が立っていた。




『水無月桜です』 




 これはまずい、まずいったらありゃしない。喩えるとするならサバンナの頂上に君臨する猛者ライオンに追跡される白と黒の草食動物になった気分だ。つまり捕まったら即OUT、掛依との一件のように(面倒な揉め事01~)数少なくなりつつある社会的地位がもはやゼロへと移行することになる。だからといって……




「ねえ、来たんじゃないの?その編集者さんって人がさーー」




 と、何も知らない時雨が俺の思考を遮ってくる。しかしどうして、俺がここまで慌てふためいているのか、その真意を語るとするとありきたりな理由だけでは収まらないのである。特に〆切をスルーしたわけでもないし、かといって水無月桜に知られたら都合が悪いとか、場の空気が悪化するということでもない。


 だけが水無月桜への恐怖心となる原動力なのだ。本日正午ピッタリに俺の自宅に伺う予定だったことは前日からすでに決まっていた。決まり事は必ず順守する彼女は〆切は勿論のこと時間だって遅刻は許しがたいはず、それを知りながら俺は寝坊し、今こうしてインターホンに恐怖を抱いているのである。


 そう考えると、結局は都合も場の空気も悪くなるのかもしれないが。




「ねえ、聞いてんの?おーーい、耳が遠くなりましたかぁーー、それとも……もしかして寝坊して焦っているとか?」




 重心を腰に移してだらしなくソファに深々と座る時雨に焦点を合わせると、




「あ、ビンゴーー♪でも私のせいじゃないんだから責めないでよね、ふふ……にやけ顔が止まらなくて困ったもんだ、ふふふ……」




 なぜここまで他人の不幸で興に浸ることが出来るのか、些か不思議でならない。これでも表向きは生徒会長だということに内心驚きつつ、微笑を溢しつつ俺は一つだけとある提案をした。




「なあ、一度外に出て編集者と話しに行ってくれないか?」


「どうして私がそんなことしなきゃならないの?私その人と話したことも、会ったことも無いし。いきなりあんたの代わりとして出ても訳が分からないでしょうよ」




 却下、明らかな抵抗とばかりに前歯を俺に向けて「いーーだ」と拒む時雨。なるほど、言葉だけでは飽き足らず、全身を使って歯向かってきやがった。


 だがしかし、ここで諦める俺ではない。お情け頂戴とばかりに両手を擦りながら懇願する。




「そこらへんは俺がなんとかするから、ともかく時間を稼いでくれ。な?それぐらいいいじゃないかよーー。俺とお前の仲だろう?」




 はぁ……と溜息をつきながら肩をすくめて、「そんな仲なんて聞いたことなかったけど」と言いながら時雨は、




「なら最初から、寝坊したんで身支度を済まさせてほしいって編集さんに言えばいいんじゃないの?」




 と呆れんばかりに抵抗してくるが、やはり俺も負けじとだ。オークションの競りのように時雨が拒むのなら俺もそれを拒むと、終わらないスパイラルを構築する。




「それが通用しないから頼んでんだ、早く行ってくれ。俺は今取り込み中で出られない、てな感じで話を付けてきてくれ」


「あのさ、さっきから私が行くこと前提で話しているけどさ、そもそもそれをして私へのメリットとかあるわけ?どうして何の得もない、面倒事を抱えなきゃならないのよ」




 だが、とある一言によって螺旋が即座に崩されてしまった。血が繋がっていないというのに変なところは似ているんだなと思う。そんな中、面倒事は極力避ける、という俺のモットーが妹の時雨も同じであるということに関しては別段嫌ということではない。


 だからといって曲谷時雨、あと一歩のところがまだ年の若さというもの。まだまだ甘い。




「メリットはないがデメリットはあるぞ、お前しか被らないような事案がな」


「それって……」




 頬を赤く染め始めている、なるほど察したのだろうか。




「ああ、俺とお前が初めて同棲して、を見てしまったことを中学の友人に……あばっぶぅ」




 話そうとする俺の口を手元にあったらしいティッシュケースで押し付けてきた、痛いったらありゃしない……


 ケースによって押しつぶされ、変形した顔の表皮を元に戻すようにしつつ、真っ暗になった視界に光を入れるために閉じていた瞼を開く。目の前には鬼のような形相で酷く暗澹に包まれた笑顔をこちらに向ける時雨がそこにいた。


 いた……というよりかは尻もちついた俺を上から見下ろすようにしていたのである。宣戦布告ではなくただの脅し文句を吐き捨てるかの如く、時雨は言った。




「もし、それを他人に告げ口でもしようとするなら、病院送りだということを覚えておくことね。中学のクラスメイトなんかに話したら顎骨をたたき割るわ、噂話が出た時点でも前歯へし折ってやるから覚悟してなさい」


「なんだか、危険か危険か危険のどれかを選べって言われているようでならないんだが……」


「ふん、どれかを選べ、ではなくって。どれかになるのだから楽しみにしてなさいってことよ」


「もしかして……Sなのか?」


「仮にそう見えるのならそれはあんたが私をそうさせている他ないのよ、私が好きでこんなことしているわけじゃないんだから」


「なら……俺の行動次第でMにもなるってことか……?」


「いいから支度を早く済ませろ」




 時雨はなんだか軍の上層部に属する精鋭部隊のリーダーにでもなったように、スリッパに履き替えると早足で玄関へ向かっていった。そこで俺はそのまま走るように着替え、部屋を掃除し水無月桜という編集者でもあり同じクラスメイトである彼女を部屋に迎い入れる準備を整えることにした。




 整えることにした……ということは、整えられたどうかは分からぬままだということでもある。


 そんな数学の問題を解くうえで積分したんだから微分すれば元の式に戻るなんて、もっと簡単に言うならば3×2は2×3だというような言葉のアナロジー的転回、失礼……展開のような言葉を言葉で解き明かすことをしたいわけではないのだが。つまりは整えられなかったのである。


 では一体何が整えられなかったのか。では次はそれに着目して討論してみよう。




 なんて偉い口調ではなく実際に、現実的に、問題しか無かったのである。

コメント

コメントを書く

「コメディー」の人気作品

書籍化作品