俺の彼女は死刑囚
夜辻にくわえば
「ね、ねえ。何で……帰ってくれないのッ!? 手順間違えたの!?」
「いや、違います。こっくりさんは帰ってくれない事もたまにあるんです」
まずい。どうしよう。深春先輩は今にも指を離してしまいそうだ。たとえ効果が無かったとしても煩い音に対して耳を塞ぎたいのが人間の性だ。
「どうするの!? ねえ帰ってくれないとどうなるの!? どうすればいいのッ?」
根気よく戻ってくれと呼びかければいい、なんて言えない。そんな発言は残酷だ。先輩はもう十分耐えている。堪えすぎているくらいだ。人が呼び掛ける事で一時的にでも落ち着けるなんて並大抵の精神力ではない。労働に例えるなら既に過労のラインを超えている。
「深春さん! 大丈夫です、このままやりましょう!」
「やるって何!? こっくりさん続けるのッ? この放送にまだ耐えなきゃ駄目なの!?」
「『カラキリ』さんを終わらせるんです!」
俺は手持無沙汰の手を持ち上げて、小指を差し出した。
「先輩に懸けられた『限』は『指限』なんでしょう? だったらこの状態で終わらせれば良い筈です。『指切り』しましょう」
十円玉から手を離さず、もう片方の手で指切り。何も難しい事はない。両手を不自由なく使えれば誰でも出来る。先輩は息を荒げたまま暫く俺の指を眺めていたが、単純明快な解決策を提示された事で落ち着いたのだろう。同じく小指を差し出して絡ませる。
細い指だ。綺麗とは言い難い。痩せこけて、みすぼらしく、震えている。教室に姿を見せないのも納得だ。女性が容姿を整えるのは多くの場合自分の為だ。自分が可愛く在りたいから、自分が美しくなりたいから。それはナルシストでも何でもない、一般的な感情だ。男だって女性にモテたいから格好良くなるという動機だけではない。自分から見て、自分にとって格好良くなりたいからという人間も居る。美しい物を好むのは大半の人間において自然な感性だ。
正直に言って、今の先輩は醜い。美人だなんて口が裂けても言えないだろう。しかしこれが終われば彼女もそんな自分とはおさらばだ。またいつもの彼女に戻れる。戻らせる。
「……念の為、せーので言いましょうか」
言葉は要らない。大きく息を吸って、俺は陰気な静寂を打ち破る様に大声を出した。
「「カラ切った!」」
相変わらず実感が湧かない。俺は今回渦中に居る振りをした部外者だった。なので実感などあったらそれはそれでおかしい。それを覚えるべきは彼女を置いて他には居ないだろう。
先輩は…………指を絡めたまま、離そうとしなかった。
「………………った」
「はい?」
涙ながらに震えていた瞳が凪いだ。理性的な動きを取り戻した双眸がじっと俺を見据える。
「…………聞こえなく、なった………………って、事は―――」
「『カラキリさん』から逃げ切れたって事です」
「―――ッ!!」
悲しいから泣くのではない。
嬉しいから泣くのではない。
泣きたいから泣く。そう言わんばかりに、深春先輩の目から滂沱の涙が零れていた。
「やった……やったぁ…………! もう、聞こえない……聞こえないよお…………あは。あははははははははははははううへへへへへへへへ!」
「―――良かったですね、先輩」
「へやあはははははあははははははははははははは………………もう、悩まなくていいんだ。誰も……声を…………」
「え、ちょ―――先輩!?」
文字通り頭を悩ませていた声から解放された彼女は、安堵からかその場で気を失ってしまった。発狂の前兆みたいな笑い声の時点で警戒していたお蔭で何とか身体は支えられたものの、このままこっくりさんを穏便に返すのは中々どうして骨が折れる。
仕方ないのだが、まだ緊張の糸を緩めるべきではなかった。こっくりさんは終了していないのだ。遠足理論でいけばこっくりさんを穏便に終わらせて初めてこれは成功と言える。何度も言うが、言うだけなら簡単なので、彼女を責めるつもりは無い。
今までいつどんな時も聞こえる放送に頭を悩ませてきたのだ。最後の詰めが甘かったとして誰が文句を言えるだろう。彼女は物語の主人公でも何でもない。最善など取れなくたって、それが現実というものだ。
「こっくりさん、こっくりさんッ。どうぞ―――お戻りください!」
反応がない。
「こっくりさん! どうぞお戻りください! お戻りください!」
『いいえ』に移動する。
「お戻りくださいこっくりさん! お戻りください!」
『し』
『ね』
「―――何だよこいつマジで!」
こっくりさんが煽り倒してくるなんて聞いた事もない。あまりの鬱陶しさに十円玉から指を離しそうになったが、これは作戦なのかもしれない。丁度悪魔が闇の取引を持ち掛ける様に、わざと禁則事項を踏ませるつもりなのかもしれない。
「お戻りくださいこっくりさん! 戻ってください!」
『か』
『え』
『ら』
『な』
『い』
「帰れ! 帰れよ!」
『いいえ』に移動。段々腹が立ってきた。
「ああもう本当にいい加減に―――!」
「それ以上は駄目」
帰す前に紙を引き裂きそうになった俺を止めたのは、ウェーブのかかった髪を背中まで伸ばした金髪の少女。左目は隠れており、赤色のレインコートを着ている。いつのまにここまで上ってきたのだろう、前述した通り旧校舎は老朽化が凄まじく、普通に歩こうものなら足音は確実に聞こえる様になっている筈だが。
「…………だ、誰?」
少女は俺の質問を当然の如く無視し、十円玉の上に指を置いた。
「こっくりさんこっくりさん。どうぞお戻りください」
性根の腐ったこっくりさんはまたも断るだろうと考えていたが、その思惑は果たして大外れだった。こっくりさんは『はい』と言って、鳥居の位置まで移動する。
「こっくりさんこっくりさん、ありがとうございました。お離れください」
手順はそれで終わりだ。少女が指を離したので恐る恐る指を離すと―――何も起きなかった。
「…………はあ~」
ようやく緊張の糸を緩める事が出来てホッとしている。控えめに言って疲れた。控えめに言わなくても疲れた。こんな廃墟の寝心地などたかが知れているが、今は場所など関係なく泥の様に眠りたい。それくらい疲れた。
「じゃあ、私は行くから」
「えッ」
何事も無かったかの様に帰ろうとする少女の裾を掴むと、彼女は僅かに目を細めて、俺の手を振り払った。
「何か用? もうこっくりさんは終わったんだけど」
「あ、貴方は……誰ですか?」
「知らないんだ。まあ、いいけど」
女性はレインコートのポケットから名刺を取り出すと、俺の首元に差してきた。
「私の事はそれに書いてあるから。それで分からなかったらマリアにでも聞いて。じゃあね」
「あ、マリアの知り合い―――ちょ、ちょっと待って! まだ帰らないでくれ! 何でここだって分かったんだ?」
「…………今は言えないよ。続きが話したいならちゃんと私の所に来て。待ってるから」
それ以上は引き留めても聞き入れてくれなかった。廊下に飛び出した少女は―――物音一つたてる事なく姿を消した。
名刺を確認しようと思ったが、そんな体力は残っていない。俺は疲れてしまった。自力で帰る力くらいはあるが、深春先輩を置き去りにしたくはない。なので、このまま眠る事にした。
寝心地は最悪だが、深春先輩と一緒なら悪い気分ではない。
微睡んだ意識は、たちまち深い眠りの底へと落ちていくのだった。
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