傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

決断 1

何事もないまま週が明けた。
あれからずっと考えたけど、今私がどうするべきなのか、私はどうしたいのか答は出ないままだ。
会社で門倉と顔を合わせても、光とのことを考えるとまともに目を見ることもできないから、必要以上の会話もせずにその場を離れる。

今日は自販機の補充に来ていた光を見かけた。
光が来る日を知っているのか、また営業部のあの子が一生懸命光を口説いていた。
『私と付き合って』と言う彼女に対し、光は作業する手を止め少し困った顔をして『すみません、好きな人がいるんです』と答えた。
『でも付き合ってるわけじゃないんでしょ?』と彼女が尋ねると、光は『それでも好きなんです。……僕の命と引き換えにしてもいいくらいに』と言ってまた作業を続けた。
その言葉を聞いた途端、胸がしめつけられるように痛んで涙が溢れそうになり、コーヒーは買わずに踵を返してオフィスに戻った。

やっぱり光のことを突き放すなんて、私にはできない。
離婚した時点で嫌いになれていたら、あれから5年間も苦しまなかった。
好きだったから傷付いたし、嫌いになれないからこれ以上傷付け合わなくて済むように離婚したんだ。
私がもっと光を大事にしていたら、あんな風に別れたりはしなかったはず。

ずっとくっついていることはできないけれど、今なら昔みたいにお互いの気持ちを見失うことはないのかも知れない。
離れていた分だけ変わってしまったことに少し戸惑いはあるけれど、私たちはもうあの頃みたいに子供じゃない。
きっと大人として向き合えるはず。
だったら私は……。


早めに残業を切り上げて会社を出た。
駅のそばまで来た時、背の高い見慣れた後ろ姿を見掛けた。
その隣には見たことのない綺麗な女の人がいて、長い髪を揺らしながら門倉に笑いかけている。
二人は親しげに会話しながら駅前のイタリアンレストランに入って行った。
駅前に新しいイタリアンレストランができたって私が言っても、トマトの嫌いな門倉は興味ないってバッサリ切り捨てたのに。
あの人とは嫌いなトマトも笑って食べられるんだろうか。
門倉にもそんな人がいるんだな。
いつまでも過去を引きずってハッキリしない私より、もっといい人が見つかったのかも。
別に私じゃなくたって、モテる門倉にはいくらでも相手は見つかるだろう。

おかげで決心がついた。
バッグからスマホを取り出し、これから会いたいと光にメールを送ると、どこに行けばいい?とすぐに返信があった。
私の自宅の最寄り駅で待ち合わせてスマホをバッグにしまった。

ずいぶん迷ったけど、これから光に返事をしようと思う。
仕事を辞めることはできないし、学生の頃のように長い時間一緒にはいられないけれど、それでもいいと言ってくれるのなら……。
私は光に、「もう一度光と付き合う」と返事をするつもりだ。


待ち合わせた駅のそばのレストランに入って食事をして、コーヒーを飲みながら話した。
この間の夜の電話のこともあって、光は私に「やっぱり付き合えないから、もう会うのはやめよう」と言われるのではないかと思っていたようだけど、私が思いきって「もう一度光と付き合う」と言うと、心底驚いた様子で息を止めて目を大きく見開いていた。
そして私の手を握り「ありがとう、瑞希……本当に夢みたいだ」と呟いた。
その目は心なしか潤んでいるように見えた。

それから店を出て、駅から自宅までの短い道のりを、光と手を繋いで歩いた。
光の手は少しためらいがちに私の手をそっと握っていた。
強引な門倉とは違うな。
門倉は有無を言わさず私を抱き寄せたり手を握ったりしたけれど。

マンションの前まで来ると、光は立ち止まって名残惜しそうに私の目を見つめた。

「ホントに近いんだね」
「うん。便利でしょ」

光は私の手をギュッと握りしめた。

「もう少し……一緒にいたいな」
「……コーヒーくらいしかないけど、少しだけ上がってく?」

思いきって尋ねると、光は嬉しそうにうなずいた。
部屋に呼ぶってことは、その後何があってもおかしくないし、もっと言えば何があっても文句は言えないってことだ。
子供じゃないんだし、それくらいのことはわかってる。
決心が揺らがないうちに、私のすべてを光でいっぱいにして欲しい。
そうすれば門倉のことはほんの一時の気の迷いだったと思えるはずだから。



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