傷痕~想い出に変わるまで~

櫻井音衣

困惑 3

滑り込みセーフで午後の始業時間に間に合った。
二課のオフィスに入る前に一課のオフィスをチラッと覗いてみたけど、門倉の姿は見当たらなかった。
取引先にでも行ったのかな。
そりゃ来ないわけだ。
門倉が来たって特に何がどうなるってわけじゃないし、一緒にコーヒーを飲むだけなんだけど。


定時のチャイムが鳴る頃には順調に仕事を終えられた。
帰り支度を済ませて門倉にメールを送ると、もう少しで終わるから喫煙室で待っててと返信があった。
自販機でコーヒーを買って喫煙室に足を運び、椅子に座ってタバコに火をつけた。

コーヒーを飲もうとカップに口を付けた瞬間、不意に今朝のことを思い出した。
……いやいや、私の飲みかけのコーヒーを門倉が飲んだからなんだって言うの?
ちょっと私が口を付けたカップに門倉が口を付けたからって、30を過ぎたいい大人が気にするほどのことでもないんだから。
……本当にキスしたわけでもあるまいし。
自分でそう思っておきながら、なぜか無性に恥ずかしくなって慌ててコーヒーを飲み込んだ。

「あちっ!」

喉元を通っていく熱い固まりにのたうち回りそうになる。
慌てて飲むにはまだ熱すぎたらしい。
ああもう……なにやってんだか。

「何やってんだ?」

声の方に視線を向けると、喉元を押さえて苦悶の表情を浮かべる私を門倉が不思議そうに眺めていた。

「いたの……?」
「いたけど」

ドアが開いたの気付かなかった……。

「どうした?」
「コーヒーが熱かっただけ」
「何やってんだよ、大丈夫か?」
「うん……まあ、なんとか」

さっきおかしなこと考えていたせいで、門倉の顔を見るのがなんとなく気恥ずかしい。
それをカップで隠すようにしてコーヒーをすすった。

「篠宮がコーヒー飲み終わるまで、俺もタバコでも吸って待つかな」

門倉は当たり前のように私の隣に座る。
椅子なんか一杯あるんだから隣に座らなくてもいいのに。



それからいつもの居酒屋で食事をしながらビールを飲んで、昨日光に会った時のことを話した。
さっきからずっと門倉の眉間にシワが寄っている。

「それで篠宮はどう思ってるんだ?」
「私に会いたかったのは、あの時のことを謝りたかったからなんだと思ってたのに……まさかあんなこと言われるとは思わなかった、5年も前のことだし」
「そういうことじゃなくて……篠宮はあいつをどう思ってるのかって聞いてんの」

どう思ってるのかと言われても。

「5年前に別れた夫」
「確かにそうだけど……そういうことじゃなくて」

門倉が苛立たしそうにビールを煽り、タバコに火をつけた。
なんか機嫌悪い?
タバコを吸いながら手元をじっと見つめて、オイルライターの蓋を何度も開け閉めしている。

「あいつに好きだって言われたんだろ?おまえはあいつのこと好きかどうかって聞いてんだよ」
「……どうだろう?」
「どうだろう?って……自分のことだろ?」
「そうだけど……」

ずっと想っていた相手ならともかく、光は一度苦い思いをして離婚した相手だ。
簡単に答えが出せるわけがない。
他の人はみんな、誰かに『好きだから付き合ってくれ』とか言われて、簡単に答えが出せるものなのかな?

「門倉だったらどうする?」
「俺?」

門倉が不機嫌そうな声で返事をした。
なんでこんなに機嫌悪いの?

「別れた奥さんとか昔の彼女から、やっぱり好きだからよりを戻して欲しいって言われたら……」
「断る。俺にはもうそんな気持ちはないからな。けど……付き合ってくれって言ったのが好きな相手なら付き合う」

門倉は元嫁と元カノにはもう好きとかそんな感情はないみたいだけど、それとは別に付き合ってもいいと思うような人がいるってこと?
聞いたことないんだけど。

「門倉、好きな人いるの?」

ストレートに尋ねると、門倉は少し目を大きく見開いた後、照れくさそうに目をそらした。

「……いる」
「ふーん……知らなかった」
「だろうな。俺も言ってないし」

そうか……門倉には好きな人がいるんだ。
だから結婚指輪を処分して禊を終わらせたり、私にかまってる暇なんてないから、私にも早く禊を終わらせろって言ったのかも。
私は光と別れてからちっとも前に進めていないのに、門倉は確実に前に向かって進んでる。
なんだか取り残された気分だ。
私もなんとか前に進まなきゃというほんの少しの焦りと、不可思議なモヤッとしたものが心に芽生えた。
ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干して突き出すと、門倉は少し驚いた顔をした。


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